水瀬の祈り。
2003年9月13日 彼について、一番近い言葉で表すとすれば、それは『憐れみ』というものになるのかもしれない。
生まれつき、何の疑問も持たずに有り余るほどの力を備えていた自分にしてみれば、彼の願いはあまりにもちっぽけで切なくて、そして切実だった。
一族に『水』を供給する家の出で、だから水溜まりのひとつもあれば、彼は最強だった。
水の魔法に関してだけを言えば、間違いなく自分よりも強かった。それなのに水がなければ彼は子どもよりも弱く、彼自身、それがコンプレックスのようだった。
強くなりたい。
夕日の落ちかけた川岸で、冷たい流れの中に身を浸した彼は、ぽつりとそう独りごちた。
「オヤジが、そろそろ川を操れなくなってる。雨期なんかはほとんど俺が代わってるんだ…」
それはつまり、世代交代が押し寄せているということで。彼は一家を背負って立たなければならないということで。
彼がそれほど強くはなく、むしろ弱いことを、自分は知っていた。
「強くなりたい……せめて、オヤジと母さんと、氷呼を守れるくらいに」
己よりも遙かに力の勝る友人の前、彼は一瞬顔をゆがませて、水の中へと姿を消した。
月が中天に差し掛かるまで、彼は戻っては来なかった。
生まれつき、何の疑問も持たずに有り余るほどの力を備えていた自分にしてみれば、彼の願いはあまりにもちっぽけで切なくて、そして切実だった。
一族に『水』を供給する家の出で、だから水溜まりのひとつもあれば、彼は最強だった。
水の魔法に関してだけを言えば、間違いなく自分よりも強かった。それなのに水がなければ彼は子どもよりも弱く、彼自身、それがコンプレックスのようだった。
強くなりたい。
夕日の落ちかけた川岸で、冷たい流れの中に身を浸した彼は、ぽつりとそう独りごちた。
「オヤジが、そろそろ川を操れなくなってる。雨期なんかはほとんど俺が代わってるんだ…」
それはつまり、世代交代が押し寄せているということで。彼は一家を背負って立たなければならないということで。
彼がそれほど強くはなく、むしろ弱いことを、自分は知っていた。
「強くなりたい……せめて、オヤジと母さんと、氷呼を守れるくらいに」
己よりも遙かに力の勝る友人の前、彼は一瞬顔をゆがませて、水の中へと姿を消した。
月が中天に差し掛かるまで、彼は戻っては来なかった。
吾が妻。
2003年9月7日 片想いするということのせつなさを、一体どれだけ自分は知っていたのだろうと、西山は女の注ぐ酒を見つめながら考えた。透明な大吟醸が、月の光にくるくると螺旋を描いて御猪口に落ちる。
花魁道中を見かけて、一目惚れした。稲葉楼の昼三と知れば、通いたくなった。通えば、毎日でも会いたくなった。
実際問題として、金が続かない。故郷から仕送りを受けるしがない書生の身としては、そうそう無駄遣いをするわけにも行かなかった。
それでも、二年前から通って、今日が八度目の登楼になる。季節に一度の逢瀬は、西山の心をひどく掻きむしるのだが。
「吾妻、コオロギが鳴いている」
「あれは鈴虫でありんしょう。今年はずいぶんと早くに鳴きます…」
吾が妻、とはよく言ったもので、吾妻が源氏名の女はまるで女房のように焼き魚の骨を取りながら、小さな声を立てて笑った。西山の無知を笑っているようだが、嘲りではなかった。
西山は己も笑いながら、そっと吾妻の髪に触れた。水だけで見事に結い上げられた髪は、少ししっとりとしていて細かった。
髪に触れる。そこまでが、西山と吾妻の逢瀬に決められた、お互いの、暗黙のルールだった。
「吾妻、今度は雪を一緒に見よう」
吾妻は応えず、困ったように酒を御猪口に注いだ。
花魁道中を見かけて、一目惚れした。稲葉楼の昼三と知れば、通いたくなった。通えば、毎日でも会いたくなった。
実際問題として、金が続かない。故郷から仕送りを受けるしがない書生の身としては、そうそう無駄遣いをするわけにも行かなかった。
それでも、二年前から通って、今日が八度目の登楼になる。季節に一度の逢瀬は、西山の心をひどく掻きむしるのだが。
「吾妻、コオロギが鳴いている」
「あれは鈴虫でありんしょう。今年はずいぶんと早くに鳴きます…」
吾が妻、とはよく言ったもので、吾妻が源氏名の女はまるで女房のように焼き魚の骨を取りながら、小さな声を立てて笑った。西山の無知を笑っているようだが、嘲りではなかった。
西山は己も笑いながら、そっと吾妻の髪に触れた。水だけで見事に結い上げられた髪は、少ししっとりとしていて細かった。
髪に触れる。そこまでが、西山と吾妻の逢瀬に決められた、お互いの、暗黙のルールだった。
「吾妻、今度は雪を一緒に見よう」
吾妻は応えず、困ったように酒を御猪口に注いだ。
シュレイバー、若しくはマクスウェル(後編)
2003年9月4日 「ミス・ヒュープナーに、一体自分の大叔父と、どんな関係があるのでしょうか」
堪えきれずに、青年は問うた。
ヒュープナーのファミリー・ネームを持つ魔女は、少なくとも青年にとっては特別と言える女性だった。恋人というわけではない。けれども命令されたからではなく、己自身の意志で、彼女を護りたいと思った初めての女性だった。
親戚とは言え顔も見たことのない男が、魔女の知り合いであるということが不愉快だったのかもしれない。ギルバートに嫉妬していた。彼がどんな男で、魔女とどんな関係があったのか、知りたかった。
ルイスは、これは私の父から聞いた話だが、と前置いて、口を開いた。
「ミス・ヒュープナーは当時西軍政府の肝入りでね、終戦間近にプリスナデイから移民したんだよ」
「初耳です……彼女はそんなことは、一言も」
あまり自分のことを喋らない人だからねと、ルイスは苦笑いを浮かべた。
あまりにも長く生きてしまった魔女は、己の人生を通り過ぎた些末な出来事など覚えていないのかもしれなかったし、どうでもいいことなのかもしれなかった。どのみち、語るべきことではないと思っているのだろう。彼女はあらゆる国に、深く入り込みすぎていた。
「移民の目的は……西軍の主張に賛同したから、ということだった」
当然それは表向きに過ぎないのだと、青年はきちんと理解していた。魔女に与えられた任務は、おそらくどうにも収拾のつかなくなった戦争の、鎮火役。今回と似たようなものだ。
「ともかく彼女はレグナデイに渡った。西軍の最前線とともに、何日も行軍を続けたらしい。そしてギルバートに出会った」
青年は、頭がちくちくと痛み出すのを感じていた。我慢できない痛みではなかったが、それは陰険に、そしてしつこく彼の頭蓋を痛め付けた。
これ以上話を聞いていたくはなかったが、言葉を絞り出すこともできなかった。青ざめて立ち尽くし、ルイスの声を聞いていた。
結末など予想が付いている。
戦場で出会った男と女。どうせ二人は運命的な恋をして、男は女にプロポーズをするのだ。戦争が終わったら結婚してくれ、と。
そんな三流ラブロマンスのような展開はうんざりだった。けれどもそれは魔女のことなのだと聞かされれば、嫉妬に顔をゆがめざるを得なかった。何故嫉妬するのかも、青年にはわかっていなかったが。
「彼は彼女にプロポーズしたらしい。だが彼女はそれを断った」
そこで一瞬、ルイスの言葉が途切れた。
青年は途切れ途切れに息を継ぎながら、何故魔女はプロポーズを断ったのかと不思議に思っていた。ひょっとしたら彼女はギルバートのことを、それほど好いてはいなかったのかもしれないとも考えた。
だが間を置いて後に続けられたルイスの解答に、その甘い考えは砕かれた。
「…彼女は、自分はギルバートとともに生きることができないと、知っていたからね」
ではともに生きることができたなら、同じ速度で年老いて、同じ時で死ぬことができたなら、魔女はギルバートのプロポーズを受け入れたのだろうか。彼女はギルバートに恋をしていたと。
不意に、青年は魔女の呟きを思い出していた。わたしにもね、好きだった人がいたんだよ。中尉殿、あなたは彼に似ている。
あれは真実青年に向けられたものだったのだろうか。ひょっとしてそれは、もう死んでしまったギルバートに向けられたものではなかったか。
ちらりと胸をよぎった考えは、こぼれたインクの染みのように青年の胸に広がり、打ち消そうとしても消えることがなかった。
堪えきれずに、青年は問うた。
ヒュープナーのファミリー・ネームを持つ魔女は、少なくとも青年にとっては特別と言える女性だった。恋人というわけではない。けれども命令されたからではなく、己自身の意志で、彼女を護りたいと思った初めての女性だった。
親戚とは言え顔も見たことのない男が、魔女の知り合いであるということが不愉快だったのかもしれない。ギルバートに嫉妬していた。彼がどんな男で、魔女とどんな関係があったのか、知りたかった。
ルイスは、これは私の父から聞いた話だが、と前置いて、口を開いた。
「ミス・ヒュープナーは当時西軍政府の肝入りでね、終戦間近にプリスナデイから移民したんだよ」
「初耳です……彼女はそんなことは、一言も」
あまり自分のことを喋らない人だからねと、ルイスは苦笑いを浮かべた。
あまりにも長く生きてしまった魔女は、己の人生を通り過ぎた些末な出来事など覚えていないのかもしれなかったし、どうでもいいことなのかもしれなかった。どのみち、語るべきことではないと思っているのだろう。彼女はあらゆる国に、深く入り込みすぎていた。
「移民の目的は……西軍の主張に賛同したから、ということだった」
当然それは表向きに過ぎないのだと、青年はきちんと理解していた。魔女に与えられた任務は、おそらくどうにも収拾のつかなくなった戦争の、鎮火役。今回と似たようなものだ。
「ともかく彼女はレグナデイに渡った。西軍の最前線とともに、何日も行軍を続けたらしい。そしてギルバートに出会った」
青年は、頭がちくちくと痛み出すのを感じていた。我慢できない痛みではなかったが、それは陰険に、そしてしつこく彼の頭蓋を痛め付けた。
これ以上話を聞いていたくはなかったが、言葉を絞り出すこともできなかった。青ざめて立ち尽くし、ルイスの声を聞いていた。
結末など予想が付いている。
戦場で出会った男と女。どうせ二人は運命的な恋をして、男は女にプロポーズをするのだ。戦争が終わったら結婚してくれ、と。
そんな三流ラブロマンスのような展開はうんざりだった。けれどもそれは魔女のことなのだと聞かされれば、嫉妬に顔をゆがめざるを得なかった。何故嫉妬するのかも、青年にはわかっていなかったが。
「彼は彼女にプロポーズしたらしい。だが彼女はそれを断った」
そこで一瞬、ルイスの言葉が途切れた。
青年は途切れ途切れに息を継ぎながら、何故魔女はプロポーズを断ったのかと不思議に思っていた。ひょっとしたら彼女はギルバートのことを、それほど好いてはいなかったのかもしれないとも考えた。
だが間を置いて後に続けられたルイスの解答に、その甘い考えは砕かれた。
「…彼女は、自分はギルバートとともに生きることができないと、知っていたからね」
ではともに生きることができたなら、同じ速度で年老いて、同じ時で死ぬことができたなら、魔女はギルバートのプロポーズを受け入れたのだろうか。彼女はギルバートに恋をしていたと。
不意に、青年は魔女の呟きを思い出していた。わたしにもね、好きだった人がいたんだよ。中尉殿、あなたは彼に似ている。
あれは真実青年に向けられたものだったのだろうか。ひょっとしてそれは、もう死んでしまったギルバートに向けられたものではなかったか。
ちらりと胸をよぎった考えは、こぼれたインクの染みのように青年の胸に広がり、打ち消そうとしても消えることがなかった。
シュレイバー、若しくはマクスウェル(前編)
2003年8月27日 いやそれにしても、とルイス陸軍少将は椅子に身を沈めた。デスクの向こう側で「休め」の姿勢のまま沈黙を保つ青年を、彼は感慨深げに見つめていた。
青年は眉を跳ね上げたものの、自らその言葉の意味を問うことはなかった。何故ならばそれは不作法なことであり、ルイスよりも階級が下である彼には、そんな真似は考え付きもしなかったからだ。
それでも気にかかるといえばそうであり、一体何が、と問いたい気持ちもあった。
幸いルイスは、すぐに答えを与えてくれた。
「君は本当にシュレイバーに似ているね」
それが誰のことを指しているのかはわからなかったが、少なくとも青年にはひとつだけ、その名に覚えがあった。彼の祖母の旧姓が、確かシュレイバーと言ったはずだった。
青年はかすかに首を傾げた。
彼の母親は祖母似で、彼は母親似である。だから自分が祖母に似ているというのもなんとなくは理解できたが、普通、大の男に向かって、いくらすでに年老いたとは言え、女に似ていると言うものだろうか。少しばかり不愉快だった。
ルイスは訝しげな青年に苦笑いを噛み殺し、キャロル、つまり君の祖母のことではないよと釘を差した。
「私の言うシュレイバーは、君の大叔父に当たる人だ。…あいにくと、先の戦争で亡くなられたが」
意見を求められるように見つめられて、青年は少しためらった後に、大叔父がいたとは初耳でしたと、それだけを控えめに述べた。実際、祖母はそんな話はしてくれていなかった。
そもそも、兄の存在を覚えていなかったのかもしれない、今は老婆の、小さな少女は。何しろ「先の戦争」は、彼女がまだ十歳になるかならないか、そのころに起こった話だったので。
「大叔父が……自分に似ている、と?」
「そっくりだよ。シュレイバー……ギルバート・シュレイバーと言ったがね、血筋なのかねぇ、彼もやはり金髪に碧の目をしていた」
溜息。
青年は、名も知らなかった大叔父を、なんとか頭の中で想像してみようと務めた。
金髪、碧眼。それは彼の血筋によく現れる色だったので、想像に難くはなかった。しかし顔がどうしても思い付かず、気付けば鏡の中に映る自分の顔が、そのままギルバート・シュレイバーとして焼き付いてしまっていた。
しかしその想像も、存外間違ってはいないのかもしれない。ギルバートの顔を知るルイスが、青年を彼にそっくりだと言うのだし、若くして戦争で死んだのなら、おそらく今の青年と大して変わりのない年であるはずだった。
物思いに耽っていると、再びルイスがぽつりと呟いた。
「しかし、そうか、それでミス・ヒュープナーが腰を上げる気になったのか……」
「え?」
唐突に見知った名前を聞いて、青年は思わず声を上げた。
青年は眉を跳ね上げたものの、自らその言葉の意味を問うことはなかった。何故ならばそれは不作法なことであり、ルイスよりも階級が下である彼には、そんな真似は考え付きもしなかったからだ。
それでも気にかかるといえばそうであり、一体何が、と問いたい気持ちもあった。
幸いルイスは、すぐに答えを与えてくれた。
「君は本当にシュレイバーに似ているね」
それが誰のことを指しているのかはわからなかったが、少なくとも青年にはひとつだけ、その名に覚えがあった。彼の祖母の旧姓が、確かシュレイバーと言ったはずだった。
青年はかすかに首を傾げた。
彼の母親は祖母似で、彼は母親似である。だから自分が祖母に似ているというのもなんとなくは理解できたが、普通、大の男に向かって、いくらすでに年老いたとは言え、女に似ていると言うものだろうか。少しばかり不愉快だった。
ルイスは訝しげな青年に苦笑いを噛み殺し、キャロル、つまり君の祖母のことではないよと釘を差した。
「私の言うシュレイバーは、君の大叔父に当たる人だ。…あいにくと、先の戦争で亡くなられたが」
意見を求められるように見つめられて、青年は少しためらった後に、大叔父がいたとは初耳でしたと、それだけを控えめに述べた。実際、祖母はそんな話はしてくれていなかった。
そもそも、兄の存在を覚えていなかったのかもしれない、今は老婆の、小さな少女は。何しろ「先の戦争」は、彼女がまだ十歳になるかならないか、そのころに起こった話だったので。
「大叔父が……自分に似ている、と?」
「そっくりだよ。シュレイバー……ギルバート・シュレイバーと言ったがね、血筋なのかねぇ、彼もやはり金髪に碧の目をしていた」
溜息。
青年は、名も知らなかった大叔父を、なんとか頭の中で想像してみようと務めた。
金髪、碧眼。それは彼の血筋によく現れる色だったので、想像に難くはなかった。しかし顔がどうしても思い付かず、気付けば鏡の中に映る自分の顔が、そのままギルバート・シュレイバーとして焼き付いてしまっていた。
しかしその想像も、存外間違ってはいないのかもしれない。ギルバートの顔を知るルイスが、青年を彼にそっくりだと言うのだし、若くして戦争で死んだのなら、おそらく今の青年と大して変わりのない年であるはずだった。
物思いに耽っていると、再びルイスがぽつりと呟いた。
「しかし、そうか、それでミス・ヒュープナーが腰を上げる気になったのか……」
「え?」
唐突に見知った名前を聞いて、青年は思わず声を上げた。
呪詛と愛情。
2003年8月26日 「呪われろ!」
魔女は一声鋭く叫び、ぎらぎらと不気味に光る琥珀のまなざしで、上空を飛び去りゆく飛行機を見据えた。
「呪われろ、彼を脅かすすべてのものに、災い有れ!」
途端、目を開けていられないほどの突風が吹きすさび、辺りの雑草や木々の葉をもぎとった。魔女の髪と質素な黒いスカートが、あおられてばたばたとやかましい音を立てる。
巻き上げられた小石がそのやわらかな皮膚を叩かないことはないだろうに、魔女は平然と風と土埃の中に立ち尽くしていた。痛みを覚えていないのだろうか、それとも自然現象すら彼女を避けているのだろうか。その事実は何よりも、彼女が魔女である証のように思えた。夜叉のように怒り狂う彼女は、美しかった。
一瞬魔女に目を奪われて、それでも青年はすぐに我を取り戻した。
彼女を止めなくてはならなかった。不要な騒ぎを、国外で起こすわけにはいかない。ましてやこちらはただの旅行者ではなく、見つかれば危ない立場にある者たちなのだ。
吹き荒れる風に自らの叱責が流されてしまわないよう、彼は絶叫した。
「ミス、彼は死んでない――やめるんだ、国外に出られなくなる!」
それでも魔女は、悪風の中、懸命に跳び続ける飛行機から目を離さなかった。ぞくりと背筋を震わせるほどの、執念だった。
「モーガンッ!」
青年が叫ぶとほぼ同時、魔女の姿がわずかにブレてその背の高い、けれども華奢な身体から、何か灰色のノイズのようなものがあふれ出した。ノイズは瞬く間にもうひとつのぼやけた魔女の姿を作り上げ、
「永久に、天上でも地の底でも、私の業火に呪われるがいい!」
その絶叫に乗せられて、よろめく飛行機目指して一直線に飛んだ。背筋を伸ばし、矢のように。
それからの出来事は、何か悪夢を見ているかのようだった。
呆然と空を見上げる青年の眼前で、灰色のノイズがくるりと飛行機の周囲を巡った。パイロットをからかうかのように、凶悪な薄笑いを浮かべた魔女が操縦桿に手を伸ばし、乱暴に機体を振り回す。翻弄された哀れなパイロットは、自分の思うとおりにならない機体に焦りを覚えているようだった。
次いで魔女は、エンジンにも悪戯を仕掛けたようだった。目に見えてその飛行機は失速し、高度を下げ、落ちると青年が確信した途端、黒煙を上げ始めた。
さすがにパイロットも、これ以上はかまけていられないと判断したのか、パラシュート脱出を決行した。悪くない、むしろ賢明とさえ言える判断だったが、彼をも魔女は許さなかった。
ノイズの魔女は己を一陣の風と成し、パラシュートを思いっきりあおった。二度、三度と。その風に吹き上げられ、出来の悪い操り人形のように、パイロットは今まで彼が乗っていた飛行機の尾翼に激突した。
その激突は一度きりだったが、彼を死に至らしめるには十分だった――人影は動かなくなり、おだやかになった風にゆらゆらと揺れながら、地面へと墜ちていった。ノイズの魔女は満足したように笑い、かき消えた。
上空の悲劇を見届けると、地上の魔女はゆらりと振り返り、嘆いた。先ほどの青年の叱責を、きちんと聞き届けていた証に。
「例え中尉殿が生きていたとして、彼を傷付けた報いは受けるべきだよ。…そうは思わない、曹長?」
魔女は一声鋭く叫び、ぎらぎらと不気味に光る琥珀のまなざしで、上空を飛び去りゆく飛行機を見据えた。
「呪われろ、彼を脅かすすべてのものに、災い有れ!」
途端、目を開けていられないほどの突風が吹きすさび、辺りの雑草や木々の葉をもぎとった。魔女の髪と質素な黒いスカートが、あおられてばたばたとやかましい音を立てる。
巻き上げられた小石がそのやわらかな皮膚を叩かないことはないだろうに、魔女は平然と風と土埃の中に立ち尽くしていた。痛みを覚えていないのだろうか、それとも自然現象すら彼女を避けているのだろうか。その事実は何よりも、彼女が魔女である証のように思えた。夜叉のように怒り狂う彼女は、美しかった。
一瞬魔女に目を奪われて、それでも青年はすぐに我を取り戻した。
彼女を止めなくてはならなかった。不要な騒ぎを、国外で起こすわけにはいかない。ましてやこちらはただの旅行者ではなく、見つかれば危ない立場にある者たちなのだ。
吹き荒れる風に自らの叱責が流されてしまわないよう、彼は絶叫した。
「ミス、彼は死んでない――やめるんだ、国外に出られなくなる!」
それでも魔女は、悪風の中、懸命に跳び続ける飛行機から目を離さなかった。ぞくりと背筋を震わせるほどの、執念だった。
「モーガンッ!」
青年が叫ぶとほぼ同時、魔女の姿がわずかにブレてその背の高い、けれども華奢な身体から、何か灰色のノイズのようなものがあふれ出した。ノイズは瞬く間にもうひとつのぼやけた魔女の姿を作り上げ、
「永久に、天上でも地の底でも、私の業火に呪われるがいい!」
その絶叫に乗せられて、よろめく飛行機目指して一直線に飛んだ。背筋を伸ばし、矢のように。
それからの出来事は、何か悪夢を見ているかのようだった。
呆然と空を見上げる青年の眼前で、灰色のノイズがくるりと飛行機の周囲を巡った。パイロットをからかうかのように、凶悪な薄笑いを浮かべた魔女が操縦桿に手を伸ばし、乱暴に機体を振り回す。翻弄された哀れなパイロットは、自分の思うとおりにならない機体に焦りを覚えているようだった。
次いで魔女は、エンジンにも悪戯を仕掛けたようだった。目に見えてその飛行機は失速し、高度を下げ、落ちると青年が確信した途端、黒煙を上げ始めた。
さすがにパイロットも、これ以上はかまけていられないと判断したのか、パラシュート脱出を決行した。悪くない、むしろ賢明とさえ言える判断だったが、彼をも魔女は許さなかった。
ノイズの魔女は己を一陣の風と成し、パラシュートを思いっきりあおった。二度、三度と。その風に吹き上げられ、出来の悪い操り人形のように、パイロットは今まで彼が乗っていた飛行機の尾翼に激突した。
その激突は一度きりだったが、彼を死に至らしめるには十分だった――人影は動かなくなり、おだやかになった風にゆらゆらと揺れながら、地面へと墜ちていった。ノイズの魔女は満足したように笑い、かき消えた。
上空の悲劇を見届けると、地上の魔女はゆらりと振り返り、嘆いた。先ほどの青年の叱責を、きちんと聞き届けていた証に。
「例え中尉殿が生きていたとして、彼を傷付けた報いは受けるべきだよ。…そうは思わない、曹長?」
白日夢の戦争。
2003年8月25日 夢に見るのは、かつて愛した、今でもなお愛おしい男の笑顔だった。
きれいな金髪と碧の目が、初めて自分に向けられた日のことを、今でも魔女は思い出すことができる。百年前に戦場で出会ったその青年は、彼女の記憶に鮮やかに刻みつけられていた。
「モーガン、戦争が終わったら、俺と一緒に暮らそう」
遠く、草木の豊かな土地に両親と妹が待っているのだという青年は、臆面もなく魔女にプロポーズした。
戦争が終わったら。その言葉がもうすぐ真実になることを、魔女は知っていた。そのように裏工作を仕掛けたのは、他ならぬ彼女自身だったので。
けれども青年と一緒に暮らすことは、どう考えてみても真実になりそうにはなかった。何故なら青年はごく普通の人間で、魔女はどうあがいても魔女でしかなかったからだ。
それなのに魔女は、青年の言葉に突き動かされそうになっていた。彼の背後に広がる、広大な小麦畑を、白日夢に見ていた。
晩春、おだやかな風にそよぐ小麦と、その中に立つ青年と自分。幸せな、男と女の姿。
はるか昔、まだただの少女だったころに見た景色を振り払い、顔を背けると、諦めきった声音で魔女は応えた。
「わたしは魔女なんだ、独りで暮らすのが好きなんだよ」
嘘だ、と青年は呟いた。魔女は弾かれたように視線を上げて、己を睨み付けるかのように見つめている青年に、何故そう思うのだと問うた。その声はかすかに震え、とまどいを隠しきれないでいた。
「独りでいるのが好きなら、どうして一番最初に、ポーカーに参加した? あれがなければ、俺は君を好きにはならなかった」
嘘を吐き続けることが難しかった。とても。魔女は震える手で拳を握りしめ、うつむいた。
虚勢を張り続け、青年を欺くことが、魔女に許された唯一の、人と関わる術だった。そうしてはいけないことも、そうしたくはないこともわかっていた。わかっていてなお、――彼女はそうした。
皮肉な薄笑いを浮かべ、魔女はゆるゆると顔を上げた。唇の端を持ち上げただけの笑顔は、とてつもなく冷たく映るのだろうと、押し込めた心がぽつりと嘆いた。
大きな風がざぁっと戦場に吹き渡り、魔女の髪を嬲る。長い黒髪はうねって、彼女の瞳を押し隠した。
「たまにはね、……遊ぶのも良いかと思った。それだけだよ」
見る見るうちに青年の顔がゆがむのを、魔女はどこか遠くから眺めていた。嫌われたなと即座に悟った彼女は、ふふっと小さく、自嘲の笑いを漏らした。
ところが青年は、それでもまだ魔女の純心を掘り返そうとあがいた。
大股で、半ば駆け寄り、不作法なほどの至近距離で彼は彼女の肩を掴み、琥珀色の目を見つめた。彼の目は、考え事をすべて見透かしてしまいそうな碧。風に揺れる小麦畑、もしくは砂漠にぽつりと育った、ちっぽけだけれど力強いグリーン。
見つめられたくなくて、魔女はそっと視線を外した。
「嘘だろう、モーガン」
「…わたしは、嘘など」
「それこそ嘘だ」
「いい加減にしてくれ、あなたと一緒に暮らすことなんてできない!」
絶叫し、青年のあたたかな手を振り解いた。そうした途端、己の手の甲に散らばった冷たい雫を、魔女は何か他人事のように理解した。
涙。それをこぼしたのは、一体何年ぶりのことだっただろう。
ぼろぼろと、押し込めきれない高ぶりのままに泣きながら、魔女は後ずさって青年から距離を取った。ただひたすらに、この場から逃げ出したかった。
「あなたが年老いて死んでしまってもわたしはこのままなのに、そんな残酷なことを言うの、ギルバート…?」
砲声が遠くで響いていた。どこかの分隊長が怒声を張り上げて、何か失態をやらかしたらしい兵士を叱っていた。荒野を渡る風は熱く乾いていて、緑はひとかけらも見当たらなかった。
その年の晩春、戦争は終わりを告げた。魔女は勲章を辞退し、代わりに小麦畑の真ん中に小さな家を与えられ、隠遁した。金髪と碧の目の青年は、戦死していた。
魔女は今でも夢に見る。白日夢のような戦争にかき消えた、己を愛した男の姿を。
きれいな金髪と碧の目が、初めて自分に向けられた日のことを、今でも魔女は思い出すことができる。百年前に戦場で出会ったその青年は、彼女の記憶に鮮やかに刻みつけられていた。
「モーガン、戦争が終わったら、俺と一緒に暮らそう」
遠く、草木の豊かな土地に両親と妹が待っているのだという青年は、臆面もなく魔女にプロポーズした。
戦争が終わったら。その言葉がもうすぐ真実になることを、魔女は知っていた。そのように裏工作を仕掛けたのは、他ならぬ彼女自身だったので。
けれども青年と一緒に暮らすことは、どう考えてみても真実になりそうにはなかった。何故なら青年はごく普通の人間で、魔女はどうあがいても魔女でしかなかったからだ。
それなのに魔女は、青年の言葉に突き動かされそうになっていた。彼の背後に広がる、広大な小麦畑を、白日夢に見ていた。
晩春、おだやかな風にそよぐ小麦と、その中に立つ青年と自分。幸せな、男と女の姿。
はるか昔、まだただの少女だったころに見た景色を振り払い、顔を背けると、諦めきった声音で魔女は応えた。
「わたしは魔女なんだ、独りで暮らすのが好きなんだよ」
嘘だ、と青年は呟いた。魔女は弾かれたように視線を上げて、己を睨み付けるかのように見つめている青年に、何故そう思うのだと問うた。その声はかすかに震え、とまどいを隠しきれないでいた。
「独りでいるのが好きなら、どうして一番最初に、ポーカーに参加した? あれがなければ、俺は君を好きにはならなかった」
嘘を吐き続けることが難しかった。とても。魔女は震える手で拳を握りしめ、うつむいた。
虚勢を張り続け、青年を欺くことが、魔女に許された唯一の、人と関わる術だった。そうしてはいけないことも、そうしたくはないこともわかっていた。わかっていてなお、――彼女はそうした。
皮肉な薄笑いを浮かべ、魔女はゆるゆると顔を上げた。唇の端を持ち上げただけの笑顔は、とてつもなく冷たく映るのだろうと、押し込めた心がぽつりと嘆いた。
大きな風がざぁっと戦場に吹き渡り、魔女の髪を嬲る。長い黒髪はうねって、彼女の瞳を押し隠した。
「たまにはね、……遊ぶのも良いかと思った。それだけだよ」
見る見るうちに青年の顔がゆがむのを、魔女はどこか遠くから眺めていた。嫌われたなと即座に悟った彼女は、ふふっと小さく、自嘲の笑いを漏らした。
ところが青年は、それでもまだ魔女の純心を掘り返そうとあがいた。
大股で、半ば駆け寄り、不作法なほどの至近距離で彼は彼女の肩を掴み、琥珀色の目を見つめた。彼の目は、考え事をすべて見透かしてしまいそうな碧。風に揺れる小麦畑、もしくは砂漠にぽつりと育った、ちっぽけだけれど力強いグリーン。
見つめられたくなくて、魔女はそっと視線を外した。
「嘘だろう、モーガン」
「…わたしは、嘘など」
「それこそ嘘だ」
「いい加減にしてくれ、あなたと一緒に暮らすことなんてできない!」
絶叫し、青年のあたたかな手を振り解いた。そうした途端、己の手の甲に散らばった冷たい雫を、魔女は何か他人事のように理解した。
涙。それをこぼしたのは、一体何年ぶりのことだっただろう。
ぼろぼろと、押し込めきれない高ぶりのままに泣きながら、魔女は後ずさって青年から距離を取った。ただひたすらに、この場から逃げ出したかった。
「あなたが年老いて死んでしまってもわたしはこのままなのに、そんな残酷なことを言うの、ギルバート…?」
砲声が遠くで響いていた。どこかの分隊長が怒声を張り上げて、何か失態をやらかしたらしい兵士を叱っていた。荒野を渡る風は熱く乾いていて、緑はひとかけらも見当たらなかった。
その年の晩春、戦争は終わりを告げた。魔女は勲章を辞退し、代わりに小麦畑の真ん中に小さな家を与えられ、隠遁した。金髪と碧の目の青年は、戦死していた。
魔女は今でも夢に見る。白日夢のような戦争にかき消えた、己を愛した男の姿を。
雑草の君。
2003年8月20日 そのひとは、言い方は悪いけれども、踏まれても踏まれても力強く伸び続ける草花のようで、それ故に彼女は気高いのだと、俺は最近知った。
光を失い片足の自由を奪われ家族を殺されてなお彼女は笑い、
当たり前のように
俺は君に恋を。
光を失い片足の自由を奪われ家族を殺されてなお彼女は笑い、
当たり前のように
俺は君に恋を。
隔たり。
2003年7月14日 彼女は有り余るほどの活力を持っている人だった。
弟のためだったのか、あるいは自らそうありたいと願っていたのか、いつでも笑顔を絶やさなかった。
同じように妹を思いながらも、つい鬱気味になったり悩んだりして体調を崩す自分とは違い、本当に快活で、それが魅力的な幼馴染みだったのだ。
覚えていることはいくらでもある。
しかし、語れることは少ない。
――ことに、彼女の折れそうな腕しか覚えていない、彼女の遺児には。
いつだったか、彼女は健康的な人だったと言ったことがある。病気など滅多にしなかったと。
そう言うと、幼子は不思議そうに首を傾げた。
覚えていないのだ。幼かったその記憶にあるものと言えば、きっと一緒に走り回った母の姿ではなく、ベッドに横たわる母なのだろう。
記憶のズレは、交わらぬままに時を重ねている。
子どもが健康だった彼女を思い出すのは、一体いつのことなのかと、氷河はいつでも思う。
弟のためだったのか、あるいは自らそうありたいと願っていたのか、いつでも笑顔を絶やさなかった。
同じように妹を思いながらも、つい鬱気味になったり悩んだりして体調を崩す自分とは違い、本当に快活で、それが魅力的な幼馴染みだったのだ。
覚えていることはいくらでもある。
しかし、語れることは少ない。
――ことに、彼女の折れそうな腕しか覚えていない、彼女の遺児には。
いつだったか、彼女は健康的な人だったと言ったことがある。病気など滅多にしなかったと。
そう言うと、幼子は不思議そうに首を傾げた。
覚えていないのだ。幼かったその記憶にあるものと言えば、きっと一緒に走り回った母の姿ではなく、ベッドに横たわる母なのだろう。
記憶のズレは、交わらぬままに時を重ねている。
子どもが健康だった彼女を思い出すのは、一体いつのことなのかと、氷河はいつでも思う。
The last letter.
2003年6月20日Do you remember when I told my love to you?
I remember it.
I was really a honest man at that time.
However I have always told lies to you.
I can’t explain why I told lies and I don’t want to.
I have a distance very much. I can’t return.
I don’t care that you forget me. Because it’s my fault.
But if you some care about me,
please remember whether one had loved you.
Well, er, it can’t be helped now...
I hope your hapiness with my heart.
Good-bye now.
I remember it.
I was really a honest man at that time.
However I have always told lies to you.
I can’t explain why I told lies and I don’t want to.
I have a distance very much. I can’t return.
I don’t care that you forget me. Because it’s my fault.
But if you some care about me,
please remember whether one had loved you.
Well, er, it can’t be helped now...
I hope your hapiness with my heart.
Good-bye now.
ADDICTION.
2003年6月10日Do you mind my saying of love?
You may say ’yes, I mind.’
However, I just wanna say to you.
Any how, all that jazz to you, but it’s not joke to me.
Listen to me, listen to me, listen to me...please.
Close your eyes and watch my saying,please.
I have never loved someone, this turn is first time to me.
If you too, I’m very happy.
So, if you murder me with this happiness, I’ll become more happy.
In other words, I addicted to you!
You may say ’yes, I mind.’
However, I just wanna say to you.
Any how, all that jazz to you, but it’s not joke to me.
Listen to me, listen to me, listen to me...please.
Close your eyes and watch my saying,please.
I have never loved someone, this turn is first time to me.
If you too, I’m very happy.
So, if you murder me with this happiness, I’ll become more happy.
In other words, I addicted to you!
大嫌いな人。
2003年6月8日 大嫌いの定義を語るためには、大好きの定義を知る必要があると思う。
故に、私の大好きを挙げ連ねてみようと思う。
ひとつ。
私に誠実である人。
嘘を吐かず、自分をさらけだしてくれる人。
ふたつ。
私を守ってくれる人。
力尽きてもいい、最期の瞬間まで、私のために戦う人。
みっつ。
私の周りにあるものに優しい人。
トモダチとか家族とか、そしてもちろん私に優しい人。
そうして私は気付いた。
大嫌いの定義が、大好きの定義とさして変わりないことに。
故に、私の大好きを挙げ連ねてみようと思う。
ひとつ。
私に誠実である人。
嘘を吐かず、自分をさらけだしてくれる人。
ふたつ。
私を守ってくれる人。
力尽きてもいい、最期の瞬間まで、私のために戦う人。
みっつ。
私の周りにあるものに優しい人。
トモダチとか家族とか、そしてもちろん私に優しい人。
そうして私は気付いた。
大嫌いの定義が、大好きの定義とさして変わりないことに。
王女。
2003年5月26日 最初からすれ違っていたことは知っていた。
そしてどうしようもなく彼に心惹かれてしまったことにも気付いていた。
彼女は銀色にぴかぴか光るじょうろを手に、
呆然と立ち尽くして見えない目で男を見つめていた。
「トマトの収穫を――手伝ってくれると、言ったじゃない」
嘘だったのかと問えるほどに勇気がなかった。
男は軽く頭を振り、彼女の言葉から逃げるように視線を背けた。
「俺にはあなたの護衛以外にも仕事がある!」
その叫びに、彼女はしばらく黙ったままでいた。
彼女はよく喋ったので、男は沈黙に慣れていなかった。
いっそ罵倒してくれた方が、やり方があるというものだった。
やがて頼りなく息を吐き出した彼女は、
ごめんなさいと呟いてじょうろを地面に落とした。
半分ほど溜まっていた水が、どくどくと大地に吸い込まれてゆく。
「ずっといてくれるものだと思い込んでいたわ――だってそうでしょう?
苗を植えるのも雑草を取るのも、あなたが手伝ってくれたから」
それは断罪のように、男の耳に響いた。
そしてどうしようもなく彼に心惹かれてしまったことにも気付いていた。
彼女は銀色にぴかぴか光るじょうろを手に、
呆然と立ち尽くして見えない目で男を見つめていた。
「トマトの収穫を――手伝ってくれると、言ったじゃない」
嘘だったのかと問えるほどに勇気がなかった。
男は軽く頭を振り、彼女の言葉から逃げるように視線を背けた。
「俺にはあなたの護衛以外にも仕事がある!」
その叫びに、彼女はしばらく黙ったままでいた。
彼女はよく喋ったので、男は沈黙に慣れていなかった。
いっそ罵倒してくれた方が、やり方があるというものだった。
やがて頼りなく息を吐き出した彼女は、
ごめんなさいと呟いてじょうろを地面に落とした。
半分ほど溜まっていた水が、どくどくと大地に吸い込まれてゆく。
「ずっといてくれるものだと思い込んでいたわ――だってそうでしょう?
苗を植えるのも雑草を取るのも、あなたが手伝ってくれたから」
それは断罪のように、男の耳に響いた。
夕方の情景。
2003年5月7日 夕飯を作って 時計を見て
あのひとの帰りを待っていよう
少し疲れた顔でただいまと言うあのひとに
精一杯の笑顔でおかえりと言ってあげよう
それから今日あったことを
ひとつ残らず教えてあげるの
大好きなあのひとに
あのひとの帰りを待っていよう
少し疲れた顔でただいまと言うあのひとに
精一杯の笑顔でおかえりと言ってあげよう
それから今日あったことを
ひとつ残らず教えてあげるの
大好きなあのひとに
交点マイナスポイント。
2003年4月14日すれ違ったふたつの心は 二度と交差することはなく
からから からからと
いつまでも 互いを見つめているだけで
その痛みに どちらが先に耐えきれなくなるのかも
僕らには わからないままなのです
からから からからと
いつまでも 互いを見つめているだけで
その痛みに どちらが先に耐えきれなくなるのかも
僕らには わからないままなのです
Do not die.
2003年4月1日手紙をください。硝煙の匂いがする紙に、あなたの血で綴ってください。
手紙を出します。花の香りがする紙に、わたしの涙で綴ります。
呼んでください。怒号に嗄れた声で、会いたいと叫んでください。
呼びましょう。子どもに囁くように、会いたいと呟きましょう。
くちづけてください。ひび割れた唇で、貪るように奪ってください。
くちづけましょう。紅を引いた唇で、一夜の夢を見失わぬよう。
抱きしめてください。鉛の弾丸を放った腕で、二度と放さないように。
抱きしめましょう。幼子を眠らせた腕で、あなたの傷を癒せるよう。
歌ってください。高らかな軍靴に合わせ、勇ましい突撃のマーチを。
歌いましょう。笑う子どもの声に合わせ、その子が歌い継ぐマザーグースを。
教えてあげてください。使命に燃える少年に、いかに容易く命が奪えるかを。
教えてあげましょう。いずれ母になる娘に、子を育てることの難しさを。
ただひとつ、伝えるべきこと。
君死にたまふことなかれ。
手紙を出します。花の香りがする紙に、わたしの涙で綴ります。
呼んでください。怒号に嗄れた声で、会いたいと叫んでください。
呼びましょう。子どもに囁くように、会いたいと呟きましょう。
くちづけてください。ひび割れた唇で、貪るように奪ってください。
くちづけましょう。紅を引いた唇で、一夜の夢を見失わぬよう。
抱きしめてください。鉛の弾丸を放った腕で、二度と放さないように。
抱きしめましょう。幼子を眠らせた腕で、あなたの傷を癒せるよう。
歌ってください。高らかな軍靴に合わせ、勇ましい突撃のマーチを。
歌いましょう。笑う子どもの声に合わせ、その子が歌い継ぐマザーグースを。
教えてあげてください。使命に燃える少年に、いかに容易く命が奪えるかを。
教えてあげましょう。いずれ母になる娘に、子を育てることの難しさを。
ただひとつ、伝えるべきこと。
君死にたまふことなかれ。
追憶の冷笑。
2003年3月21日あなたは冷たく微笑んでわたしを突き放し、
別れようと言ったあなたは笑っていました。
春先なのにひどく薄寒い日でした。
わたしは指先の感覚もなく、あなたを抱き寄せることすらできずにいました。
わたしは驚いた顔をしていたのでしょうか。
あなたは、そんなに変な顔をしないで、と言いました。
そしてわたしの贈ったピアスをもぎ取り地面に叩き付けました。
梅の花が咲いていました。
血の匂いと花の匂いが混じって鼻孔に届きました。
どうして、とわたしは言いました。
するとあなたは結婚するのと答えました。
わたしはその理由が理解できずにただ、君を愛していたのにと言いました。
あなたはうなずきました。
知っていたわ、と言い、そしてわたしもあなたを愛していたと言いました。
そして泣きました。
わたしはあのころ、ただの学生でした。
別れようと言ったあなたは笑っていました。
春先なのにひどく薄寒い日でした。
わたしは指先の感覚もなく、あなたを抱き寄せることすらできずにいました。
わたしは驚いた顔をしていたのでしょうか。
あなたは、そんなに変な顔をしないで、と言いました。
そしてわたしの贈ったピアスをもぎ取り地面に叩き付けました。
梅の花が咲いていました。
血の匂いと花の匂いが混じって鼻孔に届きました。
どうして、とわたしは言いました。
するとあなたは結婚するのと答えました。
わたしはその理由が理解できずにただ、君を愛していたのにと言いました。
あなたはうなずきました。
知っていたわ、と言い、そしてわたしもあなたを愛していたと言いました。
そして泣きました。
わたしはあのころ、ただの学生でした。
桜の花の咲く頃に。
2003年3月16日卒業式でも会えなくて、結局何も言わずに僕ら別々の道を選んだ。
その理由なんて無かったことは覚えてる。
いや、たったひとつあったのかもしれない。
もしあるのだとしたらそれは僕の勇気不足なんだろう。
あんまり自分が格好良くなくて
あんまり自分が頭良くなくて
誇れることなんて足が速いことだけだから
結局君と同じ大学なんて受けられず
それで僕は君に伝えなかった、一番大事なこと。
「君が好きだ!」
たった一言そう言えば良かったなんてもう遅いか。
四月から君はどこか遠くへ行ってしまって
もう二度と僕とは会えないのかもしれない。
携帯番号も聞けなかった僕を友達は笑った。
でも僕は君とメールしたいわけじゃないんだ。
ただ君が僕の「何か」であってくれればいいと思ってた。
そのために伝えたかったんだ
「君が好きだ!」
もう遅すぎる想いを。
その理由なんて無かったことは覚えてる。
いや、たったひとつあったのかもしれない。
もしあるのだとしたらそれは僕の勇気不足なんだろう。
あんまり自分が格好良くなくて
あんまり自分が頭良くなくて
誇れることなんて足が速いことだけだから
結局君と同じ大学なんて受けられず
それで僕は君に伝えなかった、一番大事なこと。
「君が好きだ!」
たった一言そう言えば良かったなんてもう遅いか。
四月から君はどこか遠くへ行ってしまって
もう二度と僕とは会えないのかもしれない。
携帯番号も聞けなかった僕を友達は笑った。
でも僕は君とメールしたいわけじゃないんだ。
ただ君が僕の「何か」であってくれればいいと思ってた。
そのために伝えたかったんだ
「君が好きだ!」
もう遅すぎる想いを。