The night before thousands of nights.
2005年12月2日 長編断片 それさえもあなたが生きていてくれた証。
明かりを消して、というその声が、恥ずかしがっているとかそういうことでは説明が付けられないほどに切羽詰っていて、むしろ滑稽にさえ聞こえた。今夜この瞬間を迎えることは明確にではないにせよ、お互い視線とほんのわずかな表情の動きで合意を取っていたはずだ。いまさら、などと酷いことを思ったりはしないが、と彼は眉を寄せた。
粗末だが清潔な白いシーツの上でか弱く身を縮めている彼女は、こんなにも華奢ではなかったと記憶していた。だが実際そうなってみれば、彼が驚くほどに彼女は――女性だった。そうしてその小さなひとは、すがるように彼を見つめて明かりを消してほしい、ともう一度言った。
「そうでなければ、私のことは忘れてくれてかまわないから。お願いだ……」
「――どうして?」
責めているのではないのだと、ただそんなことを懇願する理由が知りたいのだとできる限りやさしい声で問うと、彼女は唇をきゅ、と噛み締めて、するりとドレスの袖から腕を抜いた。ほとんど鉄壁の防御とも思えていた高い襟を止めるボタンやらコルセットの紐やらは、つい先ほど、彼がその手をもって攻略したばかりだった。
そうしてまろく、なめらかで少し明るみを帯びた象牙色の首が、肩があらわになり、彼は息を飲んだ。絹のドレスはさらさらと胸元を滑り落ち、ベッドに尻をぺたりと付けて座り込んでいた彼女の、すんなりとした腹の辺りでわだかまった。どんな著名な芸術品も、これほどにうつくしい生き物の姿を克明に写し取ることはできないだろうと彼は思った。だが、
「……傷痕、ですか…それは」
胸元から臍の下まで、彼女を二つに引き裂いた傷痕に目を留めると、彼は別の意味で息を飲んだ。
それは醜い傷痕だった。どんな状況で、一体誰に負わされたものなのか、引き攣れ、土を含んだまま癒えてしまったらしく、そこだけ肌が変色してさえいた。
「この傷を負ったことをね、後悔はしていないんだ。でもそれでも、」
あなたにこんなものを見せるのは、辛くて。そう薄暗く顔を伏せ、傷痕を覆うようにおずおずとドレスを持ち上げる彼女の手を、彼はそっとさえぎった。恥じる必要も、後ろめたく思う必要もないと思った。後悔はしていないと言うのなら、いつも彼女がそうしているように誇り高く顔を上げて彼をまっすぐに見つめてほしかった。
「あなたは、きれいだ。俺にはもったいないくらいに、いつだって」
日々の仕事で荒れ、がさついた、それでもなお細く奇跡のように整った指についばむように口付けると、ひく、とうろたえたように喉を鳴らす音がして、それからためらいがちにありがとう、と彼女は言った。彼女は泣いていたが、笑っていた。
明かりを消して、というその声が、恥ずかしがっているとかそういうことでは説明が付けられないほどに切羽詰っていて、むしろ滑稽にさえ聞こえた。今夜この瞬間を迎えることは明確にではないにせよ、お互い視線とほんのわずかな表情の動きで合意を取っていたはずだ。いまさら、などと酷いことを思ったりはしないが、と彼は眉を寄せた。
粗末だが清潔な白いシーツの上でか弱く身を縮めている彼女は、こんなにも華奢ではなかったと記憶していた。だが実際そうなってみれば、彼が驚くほどに彼女は――女性だった。そうしてその小さなひとは、すがるように彼を見つめて明かりを消してほしい、ともう一度言った。
「そうでなければ、私のことは忘れてくれてかまわないから。お願いだ……」
「――どうして?」
責めているのではないのだと、ただそんなことを懇願する理由が知りたいのだとできる限りやさしい声で問うと、彼女は唇をきゅ、と噛み締めて、するりとドレスの袖から腕を抜いた。ほとんど鉄壁の防御とも思えていた高い襟を止めるボタンやらコルセットの紐やらは、つい先ほど、彼がその手をもって攻略したばかりだった。
そうしてまろく、なめらかで少し明るみを帯びた象牙色の首が、肩があらわになり、彼は息を飲んだ。絹のドレスはさらさらと胸元を滑り落ち、ベッドに尻をぺたりと付けて座り込んでいた彼女の、すんなりとした腹の辺りでわだかまった。どんな著名な芸術品も、これほどにうつくしい生き物の姿を克明に写し取ることはできないだろうと彼は思った。だが、
「……傷痕、ですか…それは」
胸元から臍の下まで、彼女を二つに引き裂いた傷痕に目を留めると、彼は別の意味で息を飲んだ。
それは醜い傷痕だった。どんな状況で、一体誰に負わされたものなのか、引き攣れ、土を含んだまま癒えてしまったらしく、そこだけ肌が変色してさえいた。
「この傷を負ったことをね、後悔はしていないんだ。でもそれでも、」
あなたにこんなものを見せるのは、辛くて。そう薄暗く顔を伏せ、傷痕を覆うようにおずおずとドレスを持ち上げる彼女の手を、彼はそっとさえぎった。恥じる必要も、後ろめたく思う必要もないと思った。後悔はしていないと言うのなら、いつも彼女がそうしているように誇り高く顔を上げて彼をまっすぐに見つめてほしかった。
「あなたは、きれいだ。俺にはもったいないくらいに、いつだって」
日々の仕事で荒れ、がさついた、それでもなお細く奇跡のように整った指についばむように口付けると、ひく、とうろたえたように喉を鳴らす音がして、それからためらいがちにありがとう、と彼女は言った。彼女は泣いていたが、笑っていた。
Happy Helloween!
2005年11月1日 交点ゼロ未満 家に帰ると、ひと抱えほどもありそうな巨大なカボチャがごろりとリビングのテーブルの上に転がっていた。派手派手しいオレンジ色のカボチャには、道化じみたけれどもどこか虚ろで怪しげな雰囲気のただよう目と口がきれいにくりぬかれている。その周囲に、ばらまかれた、というよりはしきつめられた、といった方が正しいほどに散らばったおびただしい量のチョコレートやらキャンディやらは彼にとっては正直見ただけでうんざりだったが、甘い物好きの同居人ならば納得の行く飾りではある。
帰りがけにヘルガからもらったキャンディをポケットの中で探りながら、懐かしいなとかすかな笑みをこぼす。ダニエルも、エレメンタリー時代は友達と一緒にこのカボチャのお化けを作ったり、仮装に知恵をしぼったものだ。
ともあれ、おそらくこのジャック・オ・ランタンの製作者はカタリナだろう。十五歳にもなって、彼女はこうした子どもじみた行事が大好きだった――そんなところを、好ましく思ってはいるけれど。
その時ふとキッチンから片手にパンプキンパイの載った皿を持ったカタリナが現れて、お帰りなさいと言うよりも早く、空いた片手を突き出してにっこりと笑った。
「Trick or treat?」
ダニエルは笑って、ポケットから取り出したキャンディをカタリナの手のひらに落としてやった。
帰りがけにヘルガからもらったキャンディをポケットの中で探りながら、懐かしいなとかすかな笑みをこぼす。ダニエルも、エレメンタリー時代は友達と一緒にこのカボチャのお化けを作ったり、仮装に知恵をしぼったものだ。
ともあれ、おそらくこのジャック・オ・ランタンの製作者はカタリナだろう。十五歳にもなって、彼女はこうした子どもじみた行事が大好きだった――そんなところを、好ましく思ってはいるけれど。
その時ふとキッチンから片手にパンプキンパイの載った皿を持ったカタリナが現れて、お帰りなさいと言うよりも早く、空いた片手を突き出してにっこりと笑った。
「Trick or treat?」
ダニエルは笑って、ポケットから取り出したキャンディをカタリナの手のひらに落としてやった。
A special day in a week.
2005年9月26日 交点ゼロ未満 日曜日は特別な日。
その前の夜に、亡くなった母さんがホットケーキを作ってくれる夢を見たから、休日のくせにめずらしく早く起きてきたダニエルにホットケーキが食べたいなとねだってみた。日ごろあまりあれがほしいだのこれがほしいだのと言わないカタリナがほとんど初めてねだったからだろう、少しだけ困ったように笑って、じゃあ作るかとダニエルは冷蔵庫を開けた。
元々几帳面で手先の器用な人だからきっと料理はうまいだろうと思っていたけれど、慣れないながら材料や道具を出してきて時々これでいいのかとうかがうようにこちらを見てくる妙に子どもじみたしぐさには、カタリナも思わず吹き出した。何かひとつ間違えたくらいでは、料理なんてそれほど壊滅的なことにはならないものなのに。それでもどこで買い込んできたのか、ギャルソン風の黒いエプロンをぴしりと身につけた姿は、なかなか彼に似合っていた。
分量をきちんと量って分け、大きな銀色のボウルに雪のようにきれいな小麦粉をふるって落とし、片手で器用に二個の卵を割り入れる。それに小さめのコップ一杯のミルクをさらに加えて、泡だて器で卵の黄身と白身を丁寧につぶしながら手早く種を混ぜてゆく。高さの合わないシンクからボウルを抱え上げるところなど、なんだかひどく堂に入っていた。
熱したフライパンにバターが溶ける音と、その香りが食欲を刺激する。とろりとしたわずかに甘い匂いのする白い種がフライパンに流し込まれると、きれいなまるい形はゆるゆると広がってぷつりと気泡が弾けた。焼けるまでの間にとコーヒーを入れ始めたダニエルの黒いエプロンは小麦粉で白くまだらがついていて、彼自身がさっぱりそれに気づいていないのがなんとなく可愛らしかった。
少しずつ大きさと焦げ方の違うホットケーキが四枚焼き上がり、まるく、きれいに焼けた二枚が載っていた皿がこちらに押しやられると、カタリナは少しとまどった。見上げた視線を笑って受け止めたダニエルは、お前が食べたかったんだからとてこでも動かないふうだった。
まだあつあつのホットケーキにバターを載せるとそれはとろりととろけ出し、メープルシロップをくるくるとかけまわすと金色の糸はホットケーキの上で複雑な線画を描いた。それだけで思わず口元がゆるんできて、向かいに座ったダニエルはお前顔崩れすぎとまた笑った。
今ならきっと昔絵本で読んだ天井まで届くホットケーキだって食べられるなんて思うのは、きっと今日が日曜日だからなのだろう。
その前の夜に、亡くなった母さんがホットケーキを作ってくれる夢を見たから、休日のくせにめずらしく早く起きてきたダニエルにホットケーキが食べたいなとねだってみた。日ごろあまりあれがほしいだのこれがほしいだのと言わないカタリナがほとんど初めてねだったからだろう、少しだけ困ったように笑って、じゃあ作るかとダニエルは冷蔵庫を開けた。
元々几帳面で手先の器用な人だからきっと料理はうまいだろうと思っていたけれど、慣れないながら材料や道具を出してきて時々これでいいのかとうかがうようにこちらを見てくる妙に子どもじみたしぐさには、カタリナも思わず吹き出した。何かひとつ間違えたくらいでは、料理なんてそれほど壊滅的なことにはならないものなのに。それでもどこで買い込んできたのか、ギャルソン風の黒いエプロンをぴしりと身につけた姿は、なかなか彼に似合っていた。
分量をきちんと量って分け、大きな銀色のボウルに雪のようにきれいな小麦粉をふるって落とし、片手で器用に二個の卵を割り入れる。それに小さめのコップ一杯のミルクをさらに加えて、泡だて器で卵の黄身と白身を丁寧につぶしながら手早く種を混ぜてゆく。高さの合わないシンクからボウルを抱え上げるところなど、なんだかひどく堂に入っていた。
熱したフライパンにバターが溶ける音と、その香りが食欲を刺激する。とろりとしたわずかに甘い匂いのする白い種がフライパンに流し込まれると、きれいなまるい形はゆるゆると広がってぷつりと気泡が弾けた。焼けるまでの間にとコーヒーを入れ始めたダニエルの黒いエプロンは小麦粉で白くまだらがついていて、彼自身がさっぱりそれに気づいていないのがなんとなく可愛らしかった。
少しずつ大きさと焦げ方の違うホットケーキが四枚焼き上がり、まるく、きれいに焼けた二枚が載っていた皿がこちらに押しやられると、カタリナは少しとまどった。見上げた視線を笑って受け止めたダニエルは、お前が食べたかったんだからとてこでも動かないふうだった。
まだあつあつのホットケーキにバターを載せるとそれはとろりととろけ出し、メープルシロップをくるくるとかけまわすと金色の糸はホットケーキの上で複雑な線画を描いた。それだけで思わず口元がゆるんできて、向かいに座ったダニエルはお前顔崩れすぎとまた笑った。
今ならきっと昔絵本で読んだ天井まで届くホットケーキだって食べられるなんて思うのは、きっと今日が日曜日だからなのだろう。
お前のことは『光を与える』と呼ぼうか、と六歳で彼女がついた師匠は言った。それはただ便宜上のことであって、彼女は師匠がそうであり、父や母や祖父母がそうだったようにあくまでもカーヒンに過ぎなかったが、それでも何かその呼び名を天啓のように感じたことだけは覚えている。
師匠の下ですべての術をおさめたカーヒンは、王族か、それに近い高位の貴族や聖職者の護衛として、たったひとりの主に仕える。
仕えるべき主はジンが教えてくれるものだよ、と師匠は言ったが、『光を与える』と呼ばれていたカーヒンには、何人の王族、貴族、聖職者に会おうとも、みずからの主には出会えなかった。それは不思議な、理性はもうこの方でいいではないかと思うのに、本能が頭を垂れることを拒否するような、そんな感覚だった。
「師匠、私の主はどこにいるのだろう」
「もうすぐだよ、ゆっくりお待ち」
長年せっかちな彼女をそう諭し続けてくれた師匠が亡くなったのは、高貴な方の護衛を選ぶから、と王宮に呼ばれる前日のことだった。葬儀どころか、哀しむだけの間すらもなかった。師匠の家は王宮から遠く、正装を身にまとい、習い覚えた妖術を使って首都へと移動するのが精一杯だった。
そのひとが現れた瞬間――広間はぴんとした静寂につつまれた。その場に集ったすべてのカーヒンたちが、異国の王女をとまどうように見つめていたように思う。
彼女とて、とまどわなかったと言えば嘘になる。だがそれよりも強く、ただ理解していた。この異国の王女こそ、彼女が仕えるべき主なのだと。
「――生涯を貴女に仕え、御身お守りすることを誓います」
深々と下げた頭をすぅっと上げ、たった今誓約を済ませたばかりの主を見やると、その尊いひとは盲いた目をそれでもまっすぐに彼女に向け、うっすらと笑んでいた。ただ王女に目を向けてもらったというそれだけで、打ち震えるほどの快感であり、幸福であるように彼女には思えた。
「ありがとう。良く仕えてくれることを願います」
軽く伏せられたうつくしい青い目がものの姿かたちをとらえないのだなどとは、どうしても思えなかった。
『光を与える』と師匠は彼女を呼んだ。それはこの盲いた王女に仕えるようにというジンからの天啓だったのだろうと、年若いカーヒンは思った。
師匠の下ですべての術をおさめたカーヒンは、王族か、それに近い高位の貴族や聖職者の護衛として、たったひとりの主に仕える。
仕えるべき主はジンが教えてくれるものだよ、と師匠は言ったが、『光を与える』と呼ばれていたカーヒンには、何人の王族、貴族、聖職者に会おうとも、みずからの主には出会えなかった。それは不思議な、理性はもうこの方でいいではないかと思うのに、本能が頭を垂れることを拒否するような、そんな感覚だった。
「師匠、私の主はどこにいるのだろう」
「もうすぐだよ、ゆっくりお待ち」
長年せっかちな彼女をそう諭し続けてくれた師匠が亡くなったのは、高貴な方の護衛を選ぶから、と王宮に呼ばれる前日のことだった。葬儀どころか、哀しむだけの間すらもなかった。師匠の家は王宮から遠く、正装を身にまとい、習い覚えた妖術を使って首都へと移動するのが精一杯だった。
そのひとが現れた瞬間――広間はぴんとした静寂につつまれた。その場に集ったすべてのカーヒンたちが、異国の王女をとまどうように見つめていたように思う。
彼女とて、とまどわなかったと言えば嘘になる。だがそれよりも強く、ただ理解していた。この異国の王女こそ、彼女が仕えるべき主なのだと。
「――生涯を貴女に仕え、御身お守りすることを誓います」
深々と下げた頭をすぅっと上げ、たった今誓約を済ませたばかりの主を見やると、その尊いひとは盲いた目をそれでもまっすぐに彼女に向け、うっすらと笑んでいた。ただ王女に目を向けてもらったというそれだけで、打ち震えるほどの快感であり、幸福であるように彼女には思えた。
「ありがとう。良く仕えてくれることを願います」
軽く伏せられたうつくしい青い目がものの姿かたちをとらえないのだなどとは、どうしても思えなかった。
『光を与える』と師匠は彼女を呼んだ。それはこの盲いた王女に仕えるようにというジンからの天啓だったのだろうと、年若いカーヒンは思った。
気がつくといつもオーブンの前でケーキだのクッキーだのパイだのを焼いている同居人が、とうとうその調理器具を放棄したのは八月に入って間もなくだった。汗だくになって菓子作りをしている様子はなんだか哀れでもあったから、仮に彼女の作る――甘味を抑えたごく彼好みの――美味い焼き菓子をあきらめることになっても、しかたがないと我慢することにした。
ところがこの少女、こと食べ物に関してはいつもにも増して頭が回るようで、その晩のデザートとして出されたのはアイスキャンデーだった。真っ白い細いかたまりが棒の先にちょこんとくっついていて、暑さにてろりと雫をこぼしているところをあわてて舐めると、ひどく濃厚なミルクの味がした。歯を立てると沁みるほどの冷たさで、きゅっと新雪を踏みしめたような音がこめかみの辺りで聞こえた。
せっかくだからと庭につながる大窓を全開にしてそのふちに腰を下ろし、芝生に裸足で足を下ろしてぶらぶらと爪先で草をいじりながらアイスキャンデーを舐めた。夜だというのに隣の家のローレルの木では蝉がじーぅじーぅと鳴いていて、変なの、と同居人は笑った。すぐ傍らに腰かける彼女は、アイスキャンデーを作るのにいじったせいか、甘ったるいミルクの香りがぷんぷんしていた。
ハーゲンダッツとかハーシーズとか、アイスクリームなんていくらでも買えるけれど、攪拌が足りないせいで少しゆるくてすぐに溶けてしまうミルク味のアイスキャンデーが馬鹿に美味いと思ったのは、きっとこんなにも暑いせいなのだろうと考えた。
ところがこの少女、こと食べ物に関してはいつもにも増して頭が回るようで、その晩のデザートとして出されたのはアイスキャンデーだった。真っ白い細いかたまりが棒の先にちょこんとくっついていて、暑さにてろりと雫をこぼしているところをあわてて舐めると、ひどく濃厚なミルクの味がした。歯を立てると沁みるほどの冷たさで、きゅっと新雪を踏みしめたような音がこめかみの辺りで聞こえた。
せっかくだからと庭につながる大窓を全開にしてそのふちに腰を下ろし、芝生に裸足で足を下ろしてぶらぶらと爪先で草をいじりながらアイスキャンデーを舐めた。夜だというのに隣の家のローレルの木では蝉がじーぅじーぅと鳴いていて、変なの、と同居人は笑った。すぐ傍らに腰かける彼女は、アイスキャンデーを作るのにいじったせいか、甘ったるいミルクの香りがぷんぷんしていた。
ハーゲンダッツとかハーシーズとか、アイスクリームなんていくらでも買えるけれど、攪拌が足りないせいで少しゆるくてすぐに溶けてしまうミルク味のアイスキャンデーが馬鹿に美味いと思ったのは、きっとこんなにも暑いせいなのだろうと考えた。
同棲中のバケモノが最近、とみにお気に入りなのが、昔懐かしのチューペットだ。けばけばしいオレンジやピンク、グリーンの凍らせた棒を、真ん中でぱきんと折ってその口からちゅうちゅうと甘い汁と氷のかけらを吸う。
そのしぐさが妙に赤ん坊じみていて、けれどエロくさいと言ったらじゃあ真司はロリコンなんだーなどと甘ったるい声で返されたから、なんとなく悔しくてごまかすようにキスをした。普段とは違う砂糖菓子のような味のする唇は、氷で冷やされ、少しひんやりとしていて気持ちが良かった。そのまま万年布団にその可愛らしいバケモノを押し倒すことになったのは、まあ当然の話だった。
暑いからもう一本食べる、とのそのそ布団から這い出して行った白い尻は、ばたんばたんとやかましく冷凍庫を開け閉めして、もどってくると薄いブルーのチューペットを一本咥えた少女に化けていた。折って、とねだるこのバケモノは、どうもこちらが眠たがっているというのをちっとも理解していないようだが、だからといって無視をすると後で散々な目に遭うことはわかりきっていたので、はいはいと受け取って膝頭に中心を打ち下ろす。
「よっ、と」
ぱきり、と景気のいい音が部屋に響いて、二本に割れたチューペットの片方をすかさず奪い取ったバケモノは、折り口からわずかにあふれてこぼれかけた甘い汁をちろりと赤い舌で舐めた。手の中に残されたもう一本は、きっと食えという意味なのだろう。同じくこぼれかけた汁をすすると、寝ぼけたような、だけれど懐かしいソーダの味がした。子どものころ、夏休みに冷蔵庫に入っていた三ツ矢サイダーはこんな味だったような気がする。
夏祭りだとか、川遊びだとか、花火だとか、そうして三ツ矢サイダーの味のチューペットだとか。このバケモノといると、どうしてこんなにあたたかなものばかり思い出すのだろうと少し不思議に思ったけれど、あつーいと時間もわきまえずわめいた我が侭なそれが布団を蹴っ飛ばして古ぼけた扇風機を足でつけたので、とりあえず考え事は忘れて汗にしっとりと濡れた小さな頭を叩くことにした。
そのしぐさが妙に赤ん坊じみていて、けれどエロくさいと言ったらじゃあ真司はロリコンなんだーなどと甘ったるい声で返されたから、なんとなく悔しくてごまかすようにキスをした。普段とは違う砂糖菓子のような味のする唇は、氷で冷やされ、少しひんやりとしていて気持ちが良かった。そのまま万年布団にその可愛らしいバケモノを押し倒すことになったのは、まあ当然の話だった。
暑いからもう一本食べる、とのそのそ布団から這い出して行った白い尻は、ばたんばたんとやかましく冷凍庫を開け閉めして、もどってくると薄いブルーのチューペットを一本咥えた少女に化けていた。折って、とねだるこのバケモノは、どうもこちらが眠たがっているというのをちっとも理解していないようだが、だからといって無視をすると後で散々な目に遭うことはわかりきっていたので、はいはいと受け取って膝頭に中心を打ち下ろす。
「よっ、と」
ぱきり、と景気のいい音が部屋に響いて、二本に割れたチューペットの片方をすかさず奪い取ったバケモノは、折り口からわずかにあふれてこぼれかけた甘い汁をちろりと赤い舌で舐めた。手の中に残されたもう一本は、きっと食えという意味なのだろう。同じくこぼれかけた汁をすすると、寝ぼけたような、だけれど懐かしいソーダの味がした。子どものころ、夏休みに冷蔵庫に入っていた三ツ矢サイダーはこんな味だったような気がする。
夏祭りだとか、川遊びだとか、花火だとか、そうして三ツ矢サイダーの味のチューペットだとか。このバケモノといると、どうしてこんなにあたたかなものばかり思い出すのだろうと少し不思議に思ったけれど、あつーいと時間もわきまえずわめいた我が侭なそれが布団を蹴っ飛ばして古ぼけた扇風機を足でつけたので、とりあえず考え事は忘れて汗にしっとりと濡れた小さな頭を叩くことにした。
Sunny Sunday Morning.
2005年6月23日 アクア=エリアス(?) 梅雨の合間に顔を出した太陽はここぞとばかりに張り切って、昨日の午後からずっとよく晴れた、暑い陽気が続いている。グレイ・トーンの雨模様では蛍光塗料でも混ぜているのかと見まがうばかりに色鮮やかな紫陽花は、青空の下ではいまひとつ目を引かず、しおたれて見えた。
水をやらないとかわいそうだろう、と言ったのは伯父だっただろうか。自分の家と伯父の家の周りに、まるで垣根のように植えられたたくさんの紫陽花に、二人で水やりをしたことを思い出す。
井戸から大きなバケツに水を汲んでくるのは、自分の役割だった。他の大人たちはいつもそういう時に魔法を使ってみなさい、できないわけがないでしょうと言ったけれど、両親と伯父夫婦だけはそういう意地悪なことを言わなかったから、いつでも安心していられた――ことに伯父は、自分のやることをなんでも少し笑いながら褒めてくれた。
そうして顔を真っ赤にして運んだ水を、伯父が魔法で紫陽花に分け与えてやる。伯父がにっこり笑って指先をちょっと動かすと、たぷん、とバケツの中から大きな水球が飛び出してくる。それはきらきらと太陽の光を乱反射させながら頭の高さよりも少し上までするすると上がって行って、伯父がもう一度指をくいっと動かすと、ぱちんと音を立てて弾けるのだ――シャワーのような大粒の霧のような水は、そんなふうにやさしく紫陽花に降り注いだ。
時々元気の良い雫たちが髪や服を濡らしたけれど、伯父は自分が濡れてしまっても、けらけらと笑うばかりで悪戯好きな精霊たちをとがめようとはしなかった。むしろ自らすすんで全身に水を受けるような、子どもっぽい真似をする人だった。
水まきのお礼にもらうよと紫陽花に断って、彼の分と自分の分、一枝ずつきれいな赤紫と水色の花を折り取ってくれたのも伯父だったし、土の性質によってその花の色が変わるのだということを教えてくれたのも伯父だった。自分と同じようにうまく魔法を使えない伯父が、強い父や兄よりもずっと礼儀正しくて博識だったことに驚いたことを覚えている。
思えばそれは出来損ないの哀れな子どもが、一族の前で恥をかかないようにと考えてのことだったのだろう。己が強くあるがゆえに、父や兄はそうしたことには無頓着な人びとだったから――せめて同じ重荷を背負う自分が、と。
「なぁに笑ってんだよ、お前は」
頭にぽんとつばの大きな麦藁帽子をのせられて、そのままわしわしと帽子ごと頭をかき回される。きゃー、とそれほど嫌そうにも聞こえない悲鳴を上げてバケツの水を背後にぶちまけると、うわぁっとこちらは本当に嫌そうな悲鳴が聞こえた。
「うわー、ルグ君水も滴るいい男っ☆」
「待て、こら蒼呼ッ!」
お返しとばかりに赤毛の青年は手近にあったバケツ――それにはなみなみと水を汲んであった――を引っつかみ、きゃらきゃらと笑い転げる少女に向けて、遠慮なく中身をぶちまけた。ざぱん、と大きな音を立てて、目を丸く見開いた濡れ狐が一匹出来上がる。青年はその様子に、してやったりと声を上げて笑った。
大騒ぎを繰り広げる二人の隣で水をたっぷりともらった紫陽花は、初夏の暑さにも負けじと咲き誇っていた。
水をやらないとかわいそうだろう、と言ったのは伯父だっただろうか。自分の家と伯父の家の周りに、まるで垣根のように植えられたたくさんの紫陽花に、二人で水やりをしたことを思い出す。
井戸から大きなバケツに水を汲んでくるのは、自分の役割だった。他の大人たちはいつもそういう時に魔法を使ってみなさい、できないわけがないでしょうと言ったけれど、両親と伯父夫婦だけはそういう意地悪なことを言わなかったから、いつでも安心していられた――ことに伯父は、自分のやることをなんでも少し笑いながら褒めてくれた。
そうして顔を真っ赤にして運んだ水を、伯父が魔法で紫陽花に分け与えてやる。伯父がにっこり笑って指先をちょっと動かすと、たぷん、とバケツの中から大きな水球が飛び出してくる。それはきらきらと太陽の光を乱反射させながら頭の高さよりも少し上までするすると上がって行って、伯父がもう一度指をくいっと動かすと、ぱちんと音を立てて弾けるのだ――シャワーのような大粒の霧のような水は、そんなふうにやさしく紫陽花に降り注いだ。
時々元気の良い雫たちが髪や服を濡らしたけれど、伯父は自分が濡れてしまっても、けらけらと笑うばかりで悪戯好きな精霊たちをとがめようとはしなかった。むしろ自らすすんで全身に水を受けるような、子どもっぽい真似をする人だった。
水まきのお礼にもらうよと紫陽花に断って、彼の分と自分の分、一枝ずつきれいな赤紫と水色の花を折り取ってくれたのも伯父だったし、土の性質によってその花の色が変わるのだということを教えてくれたのも伯父だった。自分と同じようにうまく魔法を使えない伯父が、強い父や兄よりもずっと礼儀正しくて博識だったことに驚いたことを覚えている。
思えばそれは出来損ないの哀れな子どもが、一族の前で恥をかかないようにと考えてのことだったのだろう。己が強くあるがゆえに、父や兄はそうしたことには無頓着な人びとだったから――せめて同じ重荷を背負う自分が、と。
「なぁに笑ってんだよ、お前は」
頭にぽんとつばの大きな麦藁帽子をのせられて、そのままわしわしと帽子ごと頭をかき回される。きゃー、とそれほど嫌そうにも聞こえない悲鳴を上げてバケツの水を背後にぶちまけると、うわぁっとこちらは本当に嫌そうな悲鳴が聞こえた。
「うわー、ルグ君水も滴るいい男っ☆」
「待て、こら蒼呼ッ!」
お返しとばかりに赤毛の青年は手近にあったバケツ――それにはなみなみと水を汲んであった――を引っつかみ、きゃらきゃらと笑い転げる少女に向けて、遠慮なく中身をぶちまけた。ざぱん、と大きな音を立てて、目を丸く見開いた濡れ狐が一匹出来上がる。青年はその様子に、してやったりと声を上げて笑った。
大騒ぎを繰り広げる二人の隣で水をたっぷりともらった紫陽花は、初夏の暑さにも負けじと咲き誇っていた。
それを夢だと知っていた。
がくんと大きく揺れて、車両は路肩に止まった。イラク政府高官と、通訳のために同乗した時だったように思う。とっさに高官を伏せさせて、彼は外を覗いた。護衛の軍用車から兵士たちが発砲していた。運転手が、デモ隊から銃撃を受けました、と叫んだ。
攻撃は数分もしなかった。兵士たちはばらばらと死体と武器の確認に向かっていた。失礼、と高官に言い置いて、彼も外に出た――その行為が職務を逸脱することは知っていたけれども。
兵士たちの中に足を踏み入れると、彼らは怯えたような、とまどうような顔をしていた。分隊長にどうしたんだ、と聞くと、その男はひどくためらってから、言った。
「彼らは武器を持っていません」
それはとても重い沈黙だったように思う。愕然とすることすらできずに、彼は息が詰まるのを感じた。だって、もしもこのイラク人たちが無実だというのなら、銃撃を受けたと言ったのは誰だったのだろう。
別の兵士が泣き出しそうな顔で言った。
「この事態をどう説明するんですか、少尉」
どうもこうもないことを知っていた。これは罪だと、誰もが理解していたのだろう。それとも改めて自覚したいのか、――自分たちは罪を犯したのだと。
彼は笑って答えた。
「俺たちには応戦する必要があった。間違いは誰にだってある――この戦いは、相対的には正当なものだ。そうだろう?」
足元で、ほとんど死にかけた少女が「ウンム」と泣いているのを聞いていた。遠く母国にいる養い子と、同じくらいの年ごろだった。
だけれどそれでも、こんな世界を見るために生まれてきたわけではなかった。
がくんと大きく揺れて、車両は路肩に止まった。イラク政府高官と、通訳のために同乗した時だったように思う。とっさに高官を伏せさせて、彼は外を覗いた。護衛の軍用車から兵士たちが発砲していた。運転手が、デモ隊から銃撃を受けました、と叫んだ。
攻撃は数分もしなかった。兵士たちはばらばらと死体と武器の確認に向かっていた。失礼、と高官に言い置いて、彼も外に出た――その行為が職務を逸脱することは知っていたけれども。
兵士たちの中に足を踏み入れると、彼らは怯えたような、とまどうような顔をしていた。分隊長にどうしたんだ、と聞くと、その男はひどくためらってから、言った。
「彼らは武器を持っていません」
それはとても重い沈黙だったように思う。愕然とすることすらできずに、彼は息が詰まるのを感じた。だって、もしもこのイラク人たちが無実だというのなら、銃撃を受けたと言ったのは誰だったのだろう。
別の兵士が泣き出しそうな顔で言った。
「この事態をどう説明するんですか、少尉」
どうもこうもないことを知っていた。これは罪だと、誰もが理解していたのだろう。それとも改めて自覚したいのか、――自分たちは罪を犯したのだと。
彼は笑って答えた。
「俺たちには応戦する必要があった。間違いは誰にだってある――この戦いは、相対的には正当なものだ。そうだろう?」
足元で、ほとんど死にかけた少女が「ウンム」と泣いているのを聞いていた。遠く母国にいる養い子と、同じくらいの年ごろだった。
だけれどそれでも、こんな世界を見るために生まれてきたわけではなかった。
The Secret Garden.
2005年4月16日 アクア=エリアス(?) 大体において人間贔屓で、夜な夜な街に下りて酒場だのなんだので遊び回る親友が、生涯で一度だけ人を殺したことがある。それはいつものことではあるが、自分と彼だけの秘密だった。
蒼河がどこにいるのかを探し当てるのはいつも自分の役割で、それは他の誰かが彼を探しに出かけてもさっぱり――それはもう確信犯的に――姿を見せないからだが、今度ばかりは羽水も二の足を踏んだ。蒼河の行き先がわからなかったからではない。ただ、彼を探し当ててしまうことが怖かったからだ。
だが――そう、血の匂いがする。半ば確信に近い予想を、その匂いが後押しした。
一族の優美な銀の毛皮を狙う狩人は、めずらしくもない。だが今回は運が悪かった。
子どもが攫われた。蒼河はそれを追って外の森に出た。幼馴染みの親友は、周囲から思われているほど気長でも平和主義者でもない。むしろ血が濃い分、あれの本質はケダモノに近い。羽水はひそかに、哀れな狩人の無事を祈った。
森には何箇所か、ぽっかりと広場のような空間ができている。血の匂いを辿り、勘とともに急く足を進めると、羽水はそのひとつに出た――禊ぎの泉が湧く場所だ。水際にはくったりと気を失った子どもが倒れ、その子の顔にこびりついた血を、これまた血で汚れた指先で蒼河が拭っていた。
「――どこに放ってあるんだ」
「そこの藪抜けたところ。もう死んでるよ、魔法使うほどもなかった」
そういうことを言いたいんじゃない、と怒鳴りたかったが、よくよく見れば手も着ていた服もべっとりと血で汚した蒼河は、その匂いに滾るでもなくむしろ呆けた顔をしていた。子どもに飛んだ血を拭っているかと見えた行為も、どうやら手慰みでしかなかったらしい。それで羽水は、すぐそこまで出しかけた罵声をどうにか胃の奥に押し込んだ。
「手、洗え。そんな手で拭いたんじゃ余計汚れる」
言いながら乱暴に手首をつかむと、初めて子どもに触れていたことに気づいたとばかり、蒼河は目を瞬かせた。ああ、うん、そうだね、とぼやきながら、ぱしゃんと泉に手を突っ込む。羽水は羽水で袖を少しだけ濡らして、子どもの顔を拭ってやった。
「――ねえ羽水。思い出したんだけどさ、僕、人を殺したのは初めてなんだ」
多分これが最後だとも思うんだけど、と普段饒舌な親友がめずらしく回りくどい。蒼河の言いたいことなど元からわかりすぎるほどにわかっていたから、羽水は口の端をゆがめて笑った。
「俺とお前の秘密なんだろ?」
瞬間、実にあどけなく笑った蒼河の手は、水の中でまだ赤い色をしていた。
死体は森の、村から離れたところに二人で穴を掘って埋めた。血で汚れた服は羽水が燃やした。子どもの記憶は蒼河が消した。
そうしてその日の出来事は、かつてとこれからのいくつかと同じ、二人だけの秘密になった。
蒼河がどこにいるのかを探し当てるのはいつも自分の役割で、それは他の誰かが彼を探しに出かけてもさっぱり――それはもう確信犯的に――姿を見せないからだが、今度ばかりは羽水も二の足を踏んだ。蒼河の行き先がわからなかったからではない。ただ、彼を探し当ててしまうことが怖かったからだ。
だが――そう、血の匂いがする。半ば確信に近い予想を、その匂いが後押しした。
一族の優美な銀の毛皮を狙う狩人は、めずらしくもない。だが今回は運が悪かった。
子どもが攫われた。蒼河はそれを追って外の森に出た。幼馴染みの親友は、周囲から思われているほど気長でも平和主義者でもない。むしろ血が濃い分、あれの本質はケダモノに近い。羽水はひそかに、哀れな狩人の無事を祈った。
森には何箇所か、ぽっかりと広場のような空間ができている。血の匂いを辿り、勘とともに急く足を進めると、羽水はそのひとつに出た――禊ぎの泉が湧く場所だ。水際にはくったりと気を失った子どもが倒れ、その子の顔にこびりついた血を、これまた血で汚れた指先で蒼河が拭っていた。
「――どこに放ってあるんだ」
「そこの藪抜けたところ。もう死んでるよ、魔法使うほどもなかった」
そういうことを言いたいんじゃない、と怒鳴りたかったが、よくよく見れば手も着ていた服もべっとりと血で汚した蒼河は、その匂いに滾るでもなくむしろ呆けた顔をしていた。子どもに飛んだ血を拭っているかと見えた行為も、どうやら手慰みでしかなかったらしい。それで羽水は、すぐそこまで出しかけた罵声をどうにか胃の奥に押し込んだ。
「手、洗え。そんな手で拭いたんじゃ余計汚れる」
言いながら乱暴に手首をつかむと、初めて子どもに触れていたことに気づいたとばかり、蒼河は目を瞬かせた。ああ、うん、そうだね、とぼやきながら、ぱしゃんと泉に手を突っ込む。羽水は羽水で袖を少しだけ濡らして、子どもの顔を拭ってやった。
「――ねえ羽水。思い出したんだけどさ、僕、人を殺したのは初めてなんだ」
多分これが最後だとも思うんだけど、と普段饒舌な親友がめずらしく回りくどい。蒼河の言いたいことなど元からわかりすぎるほどにわかっていたから、羽水は口の端をゆがめて笑った。
「俺とお前の秘密なんだろ?」
瞬間、実にあどけなく笑った蒼河の手は、水の中でまだ赤い色をしていた。
死体は森の、村から離れたところに二人で穴を掘って埋めた。血で汚れた服は羽水が燃やした。子どもの記憶は蒼河が消した。
そうしてその日の出来事は、かつてとこれからのいくつかと同じ、二人だけの秘密になった。
時に命を懸けることにさえためらいを捨てなくてはならないこの仕事を選んだ時から、いつかできるかもしれない孫の顔を見る、などという安穏とした生活は忘れることに決めた。代わりに選んだものは恋人という呼び名からは遠く離れた、互いの能力を見据えた上で付かず離れずを保ったパートナーだったが、思えばそれこそを恋人と呼んでしかるべきだったのだろうと男は薄く笑った。
馬鹿だなお前と、愛した女のからかいを思い出した途端、記憶は吹き荒れた雪に流された。
それほど大きくはない戦闘だったから、病室は比較的空いていた。それでもベッドはすべて埋まっていたし、床に寝かされている者もいた――彼らのほとんどは、夜明けを待たずに死ぬだろうとは軍医の言だ。だがそうしたカテゴリに含まれていたにも関わらず、女はベッドをひとつ与えられていた。それは彼女の襟元に輝く星が三連だったせいもあるだろうし、その類稀な強さを周囲が認めていたせいもあるだろう。
彼がのろのろ近づくと、モルヒネの浅い眠りからちょうど目覚めた女はふわりと笑った。女のこんなにもおだやかな顔は、かつて見たことがない。それで彼は、もうすぐ女が死ぬのだということを唐突に理解した。女の唇がはくりと動く。
「喋るな。傷に障る」
だいじょうぶ、と女はかすかに首を振った。傷に障るだとか、そういう状況をもはや自分が超えてしまっていることを、彼女は理解しているのだろう。日ごろ好み、また信頼しているその聡明さを、彼は今ばかりは憎いと感じた――だがその聡明さがなかったなら、こうして女を見取ろうとはしなかった。
起こしてくれと女がかすかに腕を伸ばしたから、彼はそっと彼女の背に手を入れて、なるべくていねいにその身体を起こした。自分ではその体勢を支えられない女の、知っているよりも華奢に思える肩をゆるく抱く。手と袖がべっとりと血で濡れた。傷ついたのは肝臓か、胃か、あるいは胆のう辺りか。
その出血量にうろたえたのは、女よりもむしろ彼自身だったらしい。何も言えずにいる間に、女はまた笑って、だいじょうぶ、と繰り返した。もつれがちな舌が懸命につむぐ言葉はどこかあどけなく聞こえた。辛辣な言葉を吐くのが常だった女が不意にやさしさを見せた理由を、彼は考えてぞっとした。
何十人かの友人と、何百人かの知り合いと、それよりももっと多い顔見知りをすでに失った。だがこのたったひとりの女を失うことは、かつて起きたそれらよりもずっと重く彼にのしかかった。自分よりもずっとゆたかな才能と、強さと、自分にはないやさしさを兼ね備えたこの女は、どこか遠くへ行ってしまうのだ。それを苦痛だと感じたことに、彼はぞっとした。
抱えた肩にわずかな力を込める。青ざめた女を突き飛ばし、病室から飛び出してしまいたい衝動に駆られた。彼女を見取ってしまったら、立ち直れないような気がした。
また眠りに落ちかけていた女はふと目を開き、行ってくれてかまわない、と途切れ途切れにつぶやいた。――いや、やはりこのままここにいるべきだと、彼は頭を振った。目の前で女を失くすことよりも、自分の感知しない場所で、ひとりきり、眠るように死ぬのだろう女を後から思うことの方が堪えるだろうと思った。
それから夜明けまでの間、女は幾度か眠り、目覚め、だいじょうぶと繰り返し、また眠った。最後に女が目覚めたのは日が昇って数時間後で、彼は軍医が言うよりもずっと長くこちら側に留まった彼女を、やはり強いと思った。彼の名を、女は慣れた様子で呼んだ。
「先に、行く」
先に行くと彼女は言ったが、どこへ行ったのか、今なお彼にはわからない。彼女も彼も、天国の存在を信じるほどに理想主義者ではなかったし、地獄へ行くほどには罪深くもない。そういえば、生前彼女は彼の故郷に行きたいと言っていた。海を見たことがないからと。ならば彼女はそこにいるのかもしれない。
魚を釣って暮らすのも悪くはないかと、彼はくつりと笑った。それに故郷は気候がいいから、寒がりのくせに極寒地で死んだ彼女を連れて行くにはちょうどいい。
最北の、雪吹き荒れる地に、彼は二度と来なかった。
馬鹿だなお前と、愛した女のからかいを思い出した途端、記憶は吹き荒れた雪に流された。
それほど大きくはない戦闘だったから、病室は比較的空いていた。それでもベッドはすべて埋まっていたし、床に寝かされている者もいた――彼らのほとんどは、夜明けを待たずに死ぬだろうとは軍医の言だ。だがそうしたカテゴリに含まれていたにも関わらず、女はベッドをひとつ与えられていた。それは彼女の襟元に輝く星が三連だったせいもあるだろうし、その類稀な強さを周囲が認めていたせいもあるだろう。
彼がのろのろ近づくと、モルヒネの浅い眠りからちょうど目覚めた女はふわりと笑った。女のこんなにもおだやかな顔は、かつて見たことがない。それで彼は、もうすぐ女が死ぬのだということを唐突に理解した。女の唇がはくりと動く。
「喋るな。傷に障る」
だいじょうぶ、と女はかすかに首を振った。傷に障るだとか、そういう状況をもはや自分が超えてしまっていることを、彼女は理解しているのだろう。日ごろ好み、また信頼しているその聡明さを、彼は今ばかりは憎いと感じた――だがその聡明さがなかったなら、こうして女を見取ろうとはしなかった。
起こしてくれと女がかすかに腕を伸ばしたから、彼はそっと彼女の背に手を入れて、なるべくていねいにその身体を起こした。自分ではその体勢を支えられない女の、知っているよりも華奢に思える肩をゆるく抱く。手と袖がべっとりと血で濡れた。傷ついたのは肝臓か、胃か、あるいは胆のう辺りか。
その出血量にうろたえたのは、女よりもむしろ彼自身だったらしい。何も言えずにいる間に、女はまた笑って、だいじょうぶ、と繰り返した。もつれがちな舌が懸命につむぐ言葉はどこかあどけなく聞こえた。辛辣な言葉を吐くのが常だった女が不意にやさしさを見せた理由を、彼は考えてぞっとした。
何十人かの友人と、何百人かの知り合いと、それよりももっと多い顔見知りをすでに失った。だがこのたったひとりの女を失うことは、かつて起きたそれらよりもずっと重く彼にのしかかった。自分よりもずっとゆたかな才能と、強さと、自分にはないやさしさを兼ね備えたこの女は、どこか遠くへ行ってしまうのだ。それを苦痛だと感じたことに、彼はぞっとした。
抱えた肩にわずかな力を込める。青ざめた女を突き飛ばし、病室から飛び出してしまいたい衝動に駆られた。彼女を見取ってしまったら、立ち直れないような気がした。
また眠りに落ちかけていた女はふと目を開き、行ってくれてかまわない、と途切れ途切れにつぶやいた。――いや、やはりこのままここにいるべきだと、彼は頭を振った。目の前で女を失くすことよりも、自分の感知しない場所で、ひとりきり、眠るように死ぬのだろう女を後から思うことの方が堪えるだろうと思った。
それから夜明けまでの間、女は幾度か眠り、目覚め、だいじょうぶと繰り返し、また眠った。最後に女が目覚めたのは日が昇って数時間後で、彼は軍医が言うよりもずっと長くこちら側に留まった彼女を、やはり強いと思った。彼の名を、女は慣れた様子で呼んだ。
「先に、行く」
先に行くと彼女は言ったが、どこへ行ったのか、今なお彼にはわからない。彼女も彼も、天国の存在を信じるほどに理想主義者ではなかったし、地獄へ行くほどには罪深くもない。そういえば、生前彼女は彼の故郷に行きたいと言っていた。海を見たことがないからと。ならば彼女はそこにいるのかもしれない。
魚を釣って暮らすのも悪くはないかと、彼はくつりと笑った。それに故郷は気候がいいから、寒がりのくせに極寒地で死んだ彼女を連れて行くにはちょうどいい。
最北の、雪吹き荒れる地に、彼は二度と来なかった。
ああ、ああ。どうしてこんなに世界が愛しいんだろう?
カーラジオからは音楽が流れていた。静かな音楽だ。誰もその曲名を知らなかったが、彼らは素直にその音楽を、うつくしいと感じた。それから、ひとりが、最期の日に音楽なんて洒落てる、と少しだけ笑った。
それからしばらく、車内は静かだった。規則正しい彼らの呼吸の音だけが、音楽に溶け込んで聞こえていた。
やがてラジオの音楽がとぎれ、ニュースが始まった。アナウンサーは、国連が、本日をもって世界中の紛争が終結したと発表した、と告げた。誰かが、世界平和は実現するんだね、と言った。別の誰かが、もっと早くこうなれば良かった、と言った。また違う誰かが、宇宙人の襲来みたいなものだな、と笑った。
ニュースは多くを告げず、その日世界中で死んだ人々の数を国別に放送すると、再び音楽を流した。彼らは世界の人口が、一世紀前の三分の一にまで減ったことを知った。みんな死んでいくね、と誰かが言った。世界平和は実現したよ、と違う誰かが言い、しばらくして、先ほどと同じ誰かが怖い、とだけつぶやいた。怖くないよとそれをなだめた誰かが、ずっと抱きしめててあげる、と腕を伸ばした。
カーラジオの音楽は終わりを知ることがないかのように、ずっと同じ曲だけを流している。放送局で、ディスクをエンドレスにしてあるのかもしれない。音楽に溶ける呼吸音の中に、ひとつ嗚咽が混じった。ごめんね、ごめんね、と誰かが泣いた。それが何に対しての謝罪なのか、彼らはみんな知っていた。だから、大好きだったよ、ずっとここにいたかった、と誰かが言った。戦争なんて終わらなければ良かったね、と泣き声を抱きしめた誰かが、泣きながら言った。
やがて泣き声は消え、車内から音がなくなった。カーラジオの音楽は流れ続けていたが、もはや混じり合う呼吸音はひとつもない。
世界中のあらゆる場所で、屍の上に静かに音楽が流れていた。
カーラジオからは音楽が流れていた。静かな音楽だ。誰もその曲名を知らなかったが、彼らは素直にその音楽を、うつくしいと感じた。それから、ひとりが、最期の日に音楽なんて洒落てる、と少しだけ笑った。
それからしばらく、車内は静かだった。規則正しい彼らの呼吸の音だけが、音楽に溶け込んで聞こえていた。
やがてラジオの音楽がとぎれ、ニュースが始まった。アナウンサーは、国連が、本日をもって世界中の紛争が終結したと発表した、と告げた。誰かが、世界平和は実現するんだね、と言った。別の誰かが、もっと早くこうなれば良かった、と言った。また違う誰かが、宇宙人の襲来みたいなものだな、と笑った。
ニュースは多くを告げず、その日世界中で死んだ人々の数を国別に放送すると、再び音楽を流した。彼らは世界の人口が、一世紀前の三分の一にまで減ったことを知った。みんな死んでいくね、と誰かが言った。世界平和は実現したよ、と違う誰かが言い、しばらくして、先ほどと同じ誰かが怖い、とだけつぶやいた。怖くないよとそれをなだめた誰かが、ずっと抱きしめててあげる、と腕を伸ばした。
カーラジオの音楽は終わりを知ることがないかのように、ずっと同じ曲だけを流している。放送局で、ディスクをエンドレスにしてあるのかもしれない。音楽に溶ける呼吸音の中に、ひとつ嗚咽が混じった。ごめんね、ごめんね、と誰かが泣いた。それが何に対しての謝罪なのか、彼らはみんな知っていた。だから、大好きだったよ、ずっとここにいたかった、と誰かが言った。戦争なんて終わらなければ良かったね、と泣き声を抱きしめた誰かが、泣きながら言った。
やがて泣き声は消え、車内から音がなくなった。カーラジオの音楽は流れ続けていたが、もはや混じり合う呼吸音はひとつもない。
世界中のあらゆる場所で、屍の上に静かに音楽が流れていた。
長期出張の間通うことに決めた、大使館からほど近いところにあるカフェのウェイトレスとはすぐに親しくなった。毎朝窓辺の席で新聞を広げているとコーヒーを持ってきてくれて、サリューと魅力的な笑顔をくれる彼女は、リズというらしい。
日中暇をもてあまして行った先のルーブル美術館は広くて広くてとても一日では見きれず数日通う羽目になったが、古代オリエント美術の区画を毎日うろうろしている青年は芸術家志望らしかった。それにしても古代オリエントに興味を持つとは、自国の文化に固執するヨーロッパ人にしてはめずらしい。
夕食に誘ってくれた同郷人の外交官はハワードと言い、食にうるさいこの国のしかも首都の人々が舌鼓を打つと有名なビストロに連れて行ってくれたが、長年こちらで暮らす内にフレンチナイズドされてしまったのか、食事のペースが妙にゆっくりしていた。おかげでやろうとしていた仕事の一部は明日に持ち越しになったが、美味いワインが飲めたのは悪くない。
世話になっている大使館でひとり黙々と本国に送る書類を片付けていたら、現地で雇われているスタッフがどうしてかこんな真夜中まで居残っていて、つかれているだろうとハーブティーと小さな焼き菓子を差し入れてくれた。正直ハーブティーよりもコーヒーの方がありがたかったし甘いものは苦手だったが、礼を言って名前を聞くと、ルクールだと笑った。
そんなようなことをしたためて封筒の口を閉めると、ダニエルはカップの底にわずかに残ったカフェオレを飲み干して、代金をテーブルに置いた。店内の観葉植物に水をやっていたリズに軽く手を上げてあいさつをすると、外に出る。今日はいい天気だ。昼食をハワードに呼ばれているが、まだ時間があるからルーブルに行ってあの芸術家志望の青年と少しオリエント文化について話でもしてみようか。手紙の投函は、ルクールに頼むとしよう。
ああ、カタリナも連れて来てやりたかったな。ストリートを足取り軽く行きながら、ダニエルはふとそんなことを思った。
日中暇をもてあまして行った先のルーブル美術館は広くて広くてとても一日では見きれず数日通う羽目になったが、古代オリエント美術の区画を毎日うろうろしている青年は芸術家志望らしかった。それにしても古代オリエントに興味を持つとは、自国の文化に固執するヨーロッパ人にしてはめずらしい。
夕食に誘ってくれた同郷人の外交官はハワードと言い、食にうるさいこの国のしかも首都の人々が舌鼓を打つと有名なビストロに連れて行ってくれたが、長年こちらで暮らす内にフレンチナイズドされてしまったのか、食事のペースが妙にゆっくりしていた。おかげでやろうとしていた仕事の一部は明日に持ち越しになったが、美味いワインが飲めたのは悪くない。
世話になっている大使館でひとり黙々と本国に送る書類を片付けていたら、現地で雇われているスタッフがどうしてかこんな真夜中まで居残っていて、つかれているだろうとハーブティーと小さな焼き菓子を差し入れてくれた。正直ハーブティーよりもコーヒーの方がありがたかったし甘いものは苦手だったが、礼を言って名前を聞くと、ルクールだと笑った。
そんなようなことをしたためて封筒の口を閉めると、ダニエルはカップの底にわずかに残ったカフェオレを飲み干して、代金をテーブルに置いた。店内の観葉植物に水をやっていたリズに軽く手を上げてあいさつをすると、外に出る。今日はいい天気だ。昼食をハワードに呼ばれているが、まだ時間があるからルーブルに行ってあの芸術家志望の青年と少しオリエント文化について話でもしてみようか。手紙の投函は、ルクールに頼むとしよう。
ああ、カタリナも連れて来てやりたかったな。ストリートを足取り軽く行きながら、ダニエルはふとそんなことを思った。
とても風の強い夜は、――正直なところその音が少しだけ怖くて――あまりよく眠れない。両親の葬式を思い出すせいかもしれない。
だからそんな夜は、かつて母が教えてくれた一番効果的な「オクスリ」を飲む。知りうる限りもっとも幸せな家族の記憶を、胸の中であたためながら。
春の嵐がごうごうと、ニューヨークの夜空をゆらしては走ってゆく。ベッドに入ってから四時間、いくら我慢強い方とは言え、目を閉じてみたり開いてみたり、仰向け横向きしまいにはうつぶせまで試した挙げ句に眠れずうめいては布団の中にもぐり込んで息苦しくなる、などという事態には飽きた。要は眠れないことにつかれてしまって、これはあの「オクスリ」に頼るしかないと少女は妙な決意をかため、むくりと起き上がった。暗闇の中でベッドの下のスリッパをさぐり、もう慣れた部屋をすり足でそっと歩く。
きぃ、とドアを開けてリビングをのぞいたが、明かりはすでに落ちていた。いつも宵っ張りの同居人も、今夜は――比較的――早く眠りについたらしい。ほっと息をついて、小さい方の電灯のスイッチをつけた。ぼんやりとして頼りない、わずかに足下を照らすきりのオレンジの光の中、いそいそとキッチンに向かって冷蔵庫を開ける。
お気に入りのカップは黒猫の絵のついた、少し大きめのマグ。戸棚の中からそれを出してミルクをたっぷりと注ぎ、意外にもアルコール好きの同居人とは別に料理用にと買ったラムを、ほんのキャップに一杯落とす。あとは電子レンジにカップを入れて、一分少し。
春先の、夜ともなればまだひんやりと冷たい空気にほんのりと白い湯気が立ち上り、少女はそれにみとれながらリビングにもどった。テレビの正面に置かれた、ゆうに大人ひとりが寝そべれそうなカウチに腰を下ろそうとして、
「さっきからなにやってんだ」
そのカウチから出てきた声に、思わずびくっとカップを取り落としそうになった。さっき見た時はいないように思えたのに――それとも寝そべっていたから見えなかっただけなのか、この同居人は。
薄明かりの中で起き上がった青年がひくりと鼻をうごめかし、ホットミルクかとぼんやりした口調でつぶやいた。察するに、どうも同居人も眠れないでいるらしい――もっとも、彼の方は眠たいのに眠れないのだろう。働きすぎるからそう言う目に遭うのだ。
うんそう、とどこかひそめたような声で返事をして、同居人が起き上がった分だけできたスペースにぽすりと座る。ちらりと横目で見やった彼は、なんとなく物欲しそうな顔をしていた。
「……飲む?」
「……もらう」
こくりと子どもじみた動作でうなずく青年に思わず笑いそうになって、あわてて表情を引き締めてからカップを手渡す。わずかに触れた同居人の手は、おどろくほど冷たかった。
――あら、また寝れないの? こまったわね、……嘘はダメよ、本当に寝れない時にしか「オクスリ」は作ってあげないんだから。
そう笑って抱きしめてくれた母は、ホットミルクと同じかおりがした。あたたかくて甘い液体と、不眠のカタマリを溶かしてしまうかすかなアルコールの入り交じったかおり。
美味いな、とつぶやく声にはっと我に帰ると、もう一口か二口をひかえめにすすってカップをこちらによこそうとしている同居人の姿。いいよ、とその手を押し退けて、カウチから立ち上がった。
「あげる。新しいの、作ってくる」
そう言うと、同居人は少し笑ってありがとう、と言った。
風の強い夜は同居人も眠れないようだから、昔母に与えられた他愛のない「オクスリ」を、今度は自分が彼に与える。新しい家族にそうできる喜びを、かみしめながら。
だからそんな夜は、かつて母が教えてくれた一番効果的な「オクスリ」を飲む。知りうる限りもっとも幸せな家族の記憶を、胸の中であたためながら。
春の嵐がごうごうと、ニューヨークの夜空をゆらしては走ってゆく。ベッドに入ってから四時間、いくら我慢強い方とは言え、目を閉じてみたり開いてみたり、仰向け横向きしまいにはうつぶせまで試した挙げ句に眠れずうめいては布団の中にもぐり込んで息苦しくなる、などという事態には飽きた。要は眠れないことにつかれてしまって、これはあの「オクスリ」に頼るしかないと少女は妙な決意をかため、むくりと起き上がった。暗闇の中でベッドの下のスリッパをさぐり、もう慣れた部屋をすり足でそっと歩く。
きぃ、とドアを開けてリビングをのぞいたが、明かりはすでに落ちていた。いつも宵っ張りの同居人も、今夜は――比較的――早く眠りについたらしい。ほっと息をついて、小さい方の電灯のスイッチをつけた。ぼんやりとして頼りない、わずかに足下を照らすきりのオレンジの光の中、いそいそとキッチンに向かって冷蔵庫を開ける。
お気に入りのカップは黒猫の絵のついた、少し大きめのマグ。戸棚の中からそれを出してミルクをたっぷりと注ぎ、意外にもアルコール好きの同居人とは別に料理用にと買ったラムを、ほんのキャップに一杯落とす。あとは電子レンジにカップを入れて、一分少し。
春先の、夜ともなればまだひんやりと冷たい空気にほんのりと白い湯気が立ち上り、少女はそれにみとれながらリビングにもどった。テレビの正面に置かれた、ゆうに大人ひとりが寝そべれそうなカウチに腰を下ろそうとして、
「さっきからなにやってんだ」
そのカウチから出てきた声に、思わずびくっとカップを取り落としそうになった。さっき見た時はいないように思えたのに――それとも寝そべっていたから見えなかっただけなのか、この同居人は。
薄明かりの中で起き上がった青年がひくりと鼻をうごめかし、ホットミルクかとぼんやりした口調でつぶやいた。察するに、どうも同居人も眠れないでいるらしい――もっとも、彼の方は眠たいのに眠れないのだろう。働きすぎるからそう言う目に遭うのだ。
うんそう、とどこかひそめたような声で返事をして、同居人が起き上がった分だけできたスペースにぽすりと座る。ちらりと横目で見やった彼は、なんとなく物欲しそうな顔をしていた。
「……飲む?」
「……もらう」
こくりと子どもじみた動作でうなずく青年に思わず笑いそうになって、あわてて表情を引き締めてからカップを手渡す。わずかに触れた同居人の手は、おどろくほど冷たかった。
――あら、また寝れないの? こまったわね、……嘘はダメよ、本当に寝れない時にしか「オクスリ」は作ってあげないんだから。
そう笑って抱きしめてくれた母は、ホットミルクと同じかおりがした。あたたかくて甘い液体と、不眠のカタマリを溶かしてしまうかすかなアルコールの入り交じったかおり。
美味いな、とつぶやく声にはっと我に帰ると、もう一口か二口をひかえめにすすってカップをこちらによこそうとしている同居人の姿。いいよ、とその手を押し退けて、カウチから立ち上がった。
「あげる。新しいの、作ってくる」
そう言うと、同居人は少し笑ってありがとう、と言った。
風の強い夜は同居人も眠れないようだから、昔母に与えられた他愛のない「オクスリ」を、今度は自分が彼に与える。新しい家族にそうできる喜びを、かみしめながら。
Once upon a time...
2005年1月22日 その他 涙がこぼれて止まらない。愛しているよ、愛しているよ、愛しているよ。何度叫んでも届かない場所に、君がいる。
腐臭のし始めた遺体を埋葬する気にどうしてもなれない。いっそこのまま肉が腐り落ち、されこうべになった男を抱きしめることが想いの深さの証であるような気がしてならず、彼女はふふふと小さく笑った。死んでさえいなければ、もげた腕や足の代わりとして自らのそれなどいくらでもさしだしたのだけれど――もはや男は息をしていないから、彼女にはそんなことさえできない。もらったものをなにひとつとして返すことが、できない。
どうして、なんて、役立たずな。明確な自己否定を繰り返し繰り返し、胸の中でつぶやいた。涙はもうこぼれることさえ許してくれない。だから胸の中の哀しみと絶望は自浄もされずにぐるぐるとここに留まっている。
そのくせまだ思い出すのだ。何度でも、やさしい声のささやきを――愛しているよ、というそれを。
彼女は悲鳴のような声で笑いながら、腐汁にまみれて不気味な色にぬめる手を宙へとさしのべた。こんな死体は早く腐り落ちてしまえばいい。抱きしめることに苦痛はないけれど、されこうべの方があなたの傍にいることが簡単になるから。
ふふ、と笑うと、なくなった涙がひとつぶだけぽろりとこぼれた。
届かない。そう知っていたから、彼女は叫ぶことをやめた。まだうっすらとあたたかな死体を抱きしめて、代わりに笑った。
腐臭のし始めた遺体を埋葬する気にどうしてもなれない。いっそこのまま肉が腐り落ち、されこうべになった男を抱きしめることが想いの深さの証であるような気がしてならず、彼女はふふふと小さく笑った。死んでさえいなければ、もげた腕や足の代わりとして自らのそれなどいくらでもさしだしたのだけれど――もはや男は息をしていないから、彼女にはそんなことさえできない。もらったものをなにひとつとして返すことが、できない。
どうして、なんて、役立たずな。明確な自己否定を繰り返し繰り返し、胸の中でつぶやいた。涙はもうこぼれることさえ許してくれない。だから胸の中の哀しみと絶望は自浄もされずにぐるぐるとここに留まっている。
そのくせまだ思い出すのだ。何度でも、やさしい声のささやきを――愛しているよ、というそれを。
彼女は悲鳴のような声で笑いながら、腐汁にまみれて不気味な色にぬめる手を宙へとさしのべた。こんな死体は早く腐り落ちてしまえばいい。抱きしめることに苦痛はないけれど、されこうべの方があなたの傍にいることが簡単になるから。
ふふ、と笑うと、なくなった涙がひとつぶだけぽろりとこぼれた。
届かない。そう知っていたから、彼女は叫ぶことをやめた。まだうっすらとあたたかな死体を抱きしめて、代わりに笑った。
もぎとられた右腕と潰された左目を、暗闇に身をひそめながら思う。あの女は同族の身体を食った。ならば殺さねばなるまい――だがその前に、食っておきたい。食って体力をつけなくては勝てない。ああ、でも、それよりももっと切実に思うことがある。
――真司、君に会いたい。
貧血で青ざめて、それでも彼女はくつりと笑った。
食う気はなかった。だからひとりで出ていった。さようならと、それきり書いたメモを残して。だが少女の傍らでこちらを睨む青年を見て思い出した。自分たちには、もうひとつの方法もあったのだと。
けれどもその選択は、あるいは二つ並べた内のより残酷な方で、だから彼女は無意識にそちらを選びとる道を自ら閉ざしたのだろう。いや、彼女自身はわずかな痛みに耐えるきりだからかまわない。だが彼が失うものはずっとずっと大きな、彼女になど払えそうにないほどのものだった。愛した者にそうした喪失を強いることは、彼女の本意ではなかった。
――すでにこの少女は狂っている、と感じた。自分たちの倫理は、愛した者をバケモノにすることを許しはしないはずなのだから。
愚かなことだ、と笑う。食わずにはいられない、そういうものだ、生き物というのは。「生きる」という行為そのものに対しての原始的な欲求は、少女を育てた人間とてやめようとはしなかっただろうに。それでもなお飢えから目を背け、辿り着いた結果が死よりもまだ悪い気狂いなど、哀れで――愚かなことだ。
彼女はくつくつと笑った。こんなに愉快な気分になるのは、十数年か、ひょっとすれば数十年ぶりでさえあるかもしれない。狂った同族に復讐を唱えられることなど、彼女の長い一生でさえ、一度でもあることではなかった。
少女と青年が飛びかかってくる寸前に、彼女は甘くささやいた。愛してる、だからひとりで来たんだよ。
おあつらえ向きなことに雨まで降ってくるという事態は、いかにこの身体が人間よりは多少頑丈なバケモノであってもうれしいことではない。それでも彼女はくふんと寂しげに笑ったきり、その場を動こうとはしなかった。
腹が減っている。血が足りない。右腕と左目が燃えるようだ。だがそれよりも、たったひとりの人間に、男に会いたい。
水溜まりを踏む足音が、彼女の耳に聞こえた。
――真司、君に会いたい。
貧血で青ざめて、それでも彼女はくつりと笑った。
食う気はなかった。だからひとりで出ていった。さようならと、それきり書いたメモを残して。だが少女の傍らでこちらを睨む青年を見て思い出した。自分たちには、もうひとつの方法もあったのだと。
けれどもその選択は、あるいは二つ並べた内のより残酷な方で、だから彼女は無意識にそちらを選びとる道を自ら閉ざしたのだろう。いや、彼女自身はわずかな痛みに耐えるきりだからかまわない。だが彼が失うものはずっとずっと大きな、彼女になど払えそうにないほどのものだった。愛した者にそうした喪失を強いることは、彼女の本意ではなかった。
――すでにこの少女は狂っている、と感じた。自分たちの倫理は、愛した者をバケモノにすることを許しはしないはずなのだから。
愚かなことだ、と笑う。食わずにはいられない、そういうものだ、生き物というのは。「生きる」という行為そのものに対しての原始的な欲求は、少女を育てた人間とてやめようとはしなかっただろうに。それでもなお飢えから目を背け、辿り着いた結果が死よりもまだ悪い気狂いなど、哀れで――愚かなことだ。
彼女はくつくつと笑った。こんなに愉快な気分になるのは、十数年か、ひょっとすれば数十年ぶりでさえあるかもしれない。狂った同族に復讐を唱えられることなど、彼女の長い一生でさえ、一度でもあることではなかった。
少女と青年が飛びかかってくる寸前に、彼女は甘くささやいた。愛してる、だからひとりで来たんだよ。
おあつらえ向きなことに雨まで降ってくるという事態は、いかにこの身体が人間よりは多少頑丈なバケモノであってもうれしいことではない。それでも彼女はくふんと寂しげに笑ったきり、その場を動こうとはしなかった。
腹が減っている。血が足りない。右腕と左目が燃えるようだ。だがそれよりも、たったひとりの人間に、男に会いたい。
水溜まりを踏む足音が、彼女の耳に聞こえた。
ラ・ダム・ブランシュ。
2005年1月14日 せっかく彼女に直してもらった手足はもう動かない。腹には勝手にふさがるわけでもない傷がばっくりと開き、中の詰め物をみにくく晒している。与えてもらった声は、少し前にしぼり出すことが困難になった。
このままいつか道ばたに転がっていた時のような、無力な人形にもどるのだろう。
新たな主人は自分を好いてはくれなかった――愛玩動物ほどにも。幼い少女は言った。ヒト型の人形なんて、キモチガワルイ、と。だから彼女がかけてくれた魔法は解けて、自分はほどなく動くことも喋ることもない、普通の人形にもどってしまう。
そのこと自体に恨みはない。彼女が行ってくれと頼んだ。自分はそれを了承した。約束はただそれだけのもので、その後の生活まで彼女は関与しないことを、初めから知っていた。
ただ、と彼は物置の片隅に埃まみれで転がりながら、おぼろに考える。ただ、彼女にもう一度だけでかまわない、会いたい。やさしい手を持つ魔女、彼の創造主に。
会ってなにをしたいわけでもない。それでも最期に笑ってもらえたなら、あるいは目を覚ましたあの日のように頭をなでてもらえたら、きっとそれだけで自分の魂は天へと上ることができるだろう。そもそも人形に魂があるのかどうかはわからないが。
主人を持ってなおそんなことを思う自分を、少し笑った。いや、もう笑うこともできなかったから、笑いたい気分なのだろう。
他の人形も、こんなことを考えたのだろうか。魔法が解けて、なにもわからなくなってしまう寸前に、もう一度彼女に会いたいなどと? もしもそうならばこれは人形に仕込まれた本能と言えるが、それよりも、自分が彼女を想いすぎるあまりの特別な現象なのだと信じたかった。自分は特別なひとつなのだと。
たとえ君にとって俺が単なる人形のひとつだったとしても、ブランシュ、君は俺にとってたったひとりの――
どこか遠い街のある家で、魔女は人形の壊れる音を聞いた。
このままいつか道ばたに転がっていた時のような、無力な人形にもどるのだろう。
新たな主人は自分を好いてはくれなかった――愛玩動物ほどにも。幼い少女は言った。ヒト型の人形なんて、キモチガワルイ、と。だから彼女がかけてくれた魔法は解けて、自分はほどなく動くことも喋ることもない、普通の人形にもどってしまう。
そのこと自体に恨みはない。彼女が行ってくれと頼んだ。自分はそれを了承した。約束はただそれだけのもので、その後の生活まで彼女は関与しないことを、初めから知っていた。
ただ、と彼は物置の片隅に埃まみれで転がりながら、おぼろに考える。ただ、彼女にもう一度だけでかまわない、会いたい。やさしい手を持つ魔女、彼の創造主に。
会ってなにをしたいわけでもない。それでも最期に笑ってもらえたなら、あるいは目を覚ましたあの日のように頭をなでてもらえたら、きっとそれだけで自分の魂は天へと上ることができるだろう。そもそも人形に魂があるのかどうかはわからないが。
主人を持ってなおそんなことを思う自分を、少し笑った。いや、もう笑うこともできなかったから、笑いたい気分なのだろう。
他の人形も、こんなことを考えたのだろうか。魔法が解けて、なにもわからなくなってしまう寸前に、もう一度彼女に会いたいなどと? もしもそうならばこれは人形に仕込まれた本能と言えるが、それよりも、自分が彼女を想いすぎるあまりの特別な現象なのだと信じたかった。自分は特別なひとつなのだと。
たとえ君にとって俺が単なる人形のひとつだったとしても、ブランシュ、君は俺にとってたったひとりの――
どこか遠い街のある家で、魔女は人形の壊れる音を聞いた。
The housekeeper.
2005年1月12日 交点ゼロ未満 洗濯は二日に一度。本当は毎日やりたいところだが、家事嫌いの同居人が元々持っていた洗濯機はむやみやたらと巨大で、そうそう頻繁に動かしていては電気代の無駄になってしまう。
朝食の後に同居人を送り出し、洗濯機のスイッチを入れる。終了のブザーが鳴るまでの一時間あまりを勉強にあてた後は、さっさと裏庭に干してしまわなければならない。彼女には他にもやらなければならないことがたくさんある。
夕方に、干しておいた衣服を取り込む。夕食を終えてテレビを同居人と一緒に見た後は、いよいよ大仕事だ。同居人はいくつかの仕事を手伝ってくれるが、こればかりは彼女も彼に任せたことはない。この家に二人で暮らしはじめたころからの、それは不文律だった。
シャツにアイロンをかける方法を、そんなのは簡単なのよと笑って教えてくれた母に感謝している。なぜなら同居人は襟と袖以外の場所にアイロンをかけることがひどく下手で、この仕事はいつでも彼女のものだからだ。
しゅ、とかすかな蒸気を立てながら、カーキ色のシャツからはきれいにしわが消えてゆく。たまにこの光景を見かけると同居人は感心してため息をこぼすが、そんな彼を、笑いを噛み殺しながらながめるのがとても好きだ。
奇妙な優越感にすぎないのだろう。同居人よりも勝っている部分があることで、彼を支配する唯一の手綱を手に入れた気分になっている。わかってはいても、他人が容易に踏み込むことのできない場所に自分がいるのだと実感できることは、彼女にとっては大きな喜びだった。
ぴしりと型のついたシャツを、そのまま店頭に並べても違和感がないほどの几帳面さでたたみ、同居人に手渡す。ありがとう、と屈託のない、純粋な尊敬のまなざしとともに返される言葉は、彼女の誇りだった。
きちんとアイロンがけされたシャツは、彼女が彼の家族であることの明確な証なのだった。
朝食の後に同居人を送り出し、洗濯機のスイッチを入れる。終了のブザーが鳴るまでの一時間あまりを勉強にあてた後は、さっさと裏庭に干してしまわなければならない。彼女には他にもやらなければならないことがたくさんある。
夕方に、干しておいた衣服を取り込む。夕食を終えてテレビを同居人と一緒に見た後は、いよいよ大仕事だ。同居人はいくつかの仕事を手伝ってくれるが、こればかりは彼女も彼に任せたことはない。この家に二人で暮らしはじめたころからの、それは不文律だった。
シャツにアイロンをかける方法を、そんなのは簡単なのよと笑って教えてくれた母に感謝している。なぜなら同居人は襟と袖以外の場所にアイロンをかけることがひどく下手で、この仕事はいつでも彼女のものだからだ。
しゅ、とかすかな蒸気を立てながら、カーキ色のシャツからはきれいにしわが消えてゆく。たまにこの光景を見かけると同居人は感心してため息をこぼすが、そんな彼を、笑いを噛み殺しながらながめるのがとても好きだ。
奇妙な優越感にすぎないのだろう。同居人よりも勝っている部分があることで、彼を支配する唯一の手綱を手に入れた気分になっている。わかってはいても、他人が容易に踏み込むことのできない場所に自分がいるのだと実感できることは、彼女にとっては大きな喜びだった。
ぴしりと型のついたシャツを、そのまま店頭に並べても違和感がないほどの几帳面さでたたみ、同居人に手渡す。ありがとう、と屈託のない、純粋な尊敬のまなざしとともに返される言葉は、彼女の誇りだった。
きちんとアイロンがけされたシャツは、彼女が彼の家族であることの明確な証なのだった。
ある原風景がある。そこへ帰るつもりは、ひとつもない。
あるひとがいる。そのひとの元へ、いつでも帰りたい。
思春期を抜けるよりも早く使わなくなってしまった言葉を、二十歳を前にしてなお忘れていないというのは、ある種の僥倖なのだろう。それとも養父の教育のたまものだろうか。そういえば、日ごろ使わないものも多いだろうに、彼は一度習得した言語を二度と忘れはしなかった。
ただ、彼女にかぎって言えば、いっそ忘れてしまいたいと思ったことは何度もあった。生まれた国の言葉を忘れることで育った国の青年に寄り添えるのならば、支払うべき代価は安価とすら思えた。
だけれど養父は言うのだ。故国の言葉を忘れてはならないと。それは保険であり、武器なのだからと。
「それを忘れないかぎり、お前には帰る場所があるんだ」
――帰るつもりなどないと言えば、ずっと、いつか本当の家族になるそのもっと先の日までも、ここに住まわせてくれるのか。ここを『帰る場所』にさせてくれるのか。故国を忘れさせてくれるのか。
ああ、認めよう。たしかに彼女は愛していた。遠く海をはさんだ向こうの国、両親が眠るあの場所を。初めて青年と出会った場所を。今でもそこにある風景をありありと思い出せるのが、その証拠だ。
だがだからといって、『愛している』は『帰りたい』とイコールではない。なぜなら帰りたい場所を見つけてしまった。あなたの傍に。
かつて話していた言葉を忘れれば、あの原風景も消え去るのだろうか。それとも原風景を消してしまえば、言葉も忘れられるのだろうか。どちらが先ともとれない疑問は、結局答えを見つけることができない。だから彼女は、忘れさせてと願いながら、今日も思う。
帰るつもりはひとつもない。あなたの元へ帰りたいから。
忘れたい、忘れさせてと拘泥することこそを、人は望郷と呼ぶのかもしれないけれど。
あるひとがいる。そのひとの元へ、いつでも帰りたい。
思春期を抜けるよりも早く使わなくなってしまった言葉を、二十歳を前にしてなお忘れていないというのは、ある種の僥倖なのだろう。それとも養父の教育のたまものだろうか。そういえば、日ごろ使わないものも多いだろうに、彼は一度習得した言語を二度と忘れはしなかった。
ただ、彼女にかぎって言えば、いっそ忘れてしまいたいと思ったことは何度もあった。生まれた国の言葉を忘れることで育った国の青年に寄り添えるのならば、支払うべき代価は安価とすら思えた。
だけれど養父は言うのだ。故国の言葉を忘れてはならないと。それは保険であり、武器なのだからと。
「それを忘れないかぎり、お前には帰る場所があるんだ」
――帰るつもりなどないと言えば、ずっと、いつか本当の家族になるそのもっと先の日までも、ここに住まわせてくれるのか。ここを『帰る場所』にさせてくれるのか。故国を忘れさせてくれるのか。
ああ、認めよう。たしかに彼女は愛していた。遠く海をはさんだ向こうの国、両親が眠るあの場所を。初めて青年と出会った場所を。今でもそこにある風景をありありと思い出せるのが、その証拠だ。
だがだからといって、『愛している』は『帰りたい』とイコールではない。なぜなら帰りたい場所を見つけてしまった。あなたの傍に。
かつて話していた言葉を忘れれば、あの原風景も消え去るのだろうか。それとも原風景を消してしまえば、言葉も忘れられるのだろうか。どちらが先ともとれない疑問は、結局答えを見つけることができない。だから彼女は、忘れさせてと願いながら、今日も思う。
帰るつもりはひとつもない。あなたの元へ帰りたいから。
忘れたい、忘れさせてと拘泥することこそを、人は望郷と呼ぶのかもしれないけれど。
海を見たことがないと、女は言う。
「どのくらい大きいのかな……水が塩辛いなんてのもちょっと想像できない」
くくくと機嫌がよさそうに小さな笑いをこぼしながら、彼女は腕をゆるりと空中へのばす。そこに海があるのだとでも言いたげなしぐさだった。彼は静かにタバコをふかしながら――情事後の一服というのはおどろくほど美味い――、ちらりと女の緩慢な動きを見やった。
酸いも甘いも噛み分けた年ごろでしかも慣れた仲だから、女はいまさら自分に、した後にキスをしろだのタバコはやめろだのということは言わない。そもそも一仕事終えた後の男という生き物に、そういうことをしろとねだる方が間違っている。この女はそれを知っている。だからいい。だからせめて、女がだらだらと続ける他愛のない話に、乗ってやる気にもなる。
「見たことあるか、海って」
「生まれは、海の傍だった。気候のいい場所だ。魚がよく釣れた」
淡々と告げると、女は初耳だ、と身をすり寄せてきた。もっと聞かせろ、と言いたいのだろう。そういえば、長年の付き合いだが故郷の話など一度もしたことがなかった。
「港がある。船が二日か三日に一隻は入ってきた……国内貿易用の商船だ」
短くなってきていたタバコを灰皿に押しつけて消し、話し続けながら彼は明かりを落とすと、毛布とキルトをめくって身体を入れた。ベッドは、女の体温であたためられていた。すかさず女の腕がのびてきて、彼の腕をからめとる。不思議なことに、と彼は言った。いつになくしゃべりすぎていると感じた。
「船は『彼女』と呼ばれていた。……出てゆく方が女だ」
「それで待ってる方の港は男か? できすぎてないかなぁ」
できすぎだが正解だ。彼は暗闇につぶやいた。
すべての女がそうだとは言わない。また、すべての男がそうだとも言わない。ただ、彼と彼女に関して言えば、かつて彼女は彼の知らないどこかへと行ってしまい、彼は待っているという自覚もないままに彼女を待った。三年間。出航した『彼女』の中にはもう二度と『彼』の元を訪れないものもあったから、この女がもどってきたことはまずまず思いがけない幸運なのだろう。
くつり、とのどを鳴らして笑うと、女はどうした、ととろとろした声音で問うてきた。もう眠いのだろう。思いの外長く考え込んでいたようだ。彼はもう寝ろ、と彼女の肩を叩いた。
港はいつでも、船を迎え入れるためにだけそこにある。
「どのくらい大きいのかな……水が塩辛いなんてのもちょっと想像できない」
くくくと機嫌がよさそうに小さな笑いをこぼしながら、彼女は腕をゆるりと空中へのばす。そこに海があるのだとでも言いたげなしぐさだった。彼は静かにタバコをふかしながら――情事後の一服というのはおどろくほど美味い――、ちらりと女の緩慢な動きを見やった。
酸いも甘いも噛み分けた年ごろでしかも慣れた仲だから、女はいまさら自分に、した後にキスをしろだのタバコはやめろだのということは言わない。そもそも一仕事終えた後の男という生き物に、そういうことをしろとねだる方が間違っている。この女はそれを知っている。だからいい。だからせめて、女がだらだらと続ける他愛のない話に、乗ってやる気にもなる。
「見たことあるか、海って」
「生まれは、海の傍だった。気候のいい場所だ。魚がよく釣れた」
淡々と告げると、女は初耳だ、と身をすり寄せてきた。もっと聞かせろ、と言いたいのだろう。そういえば、長年の付き合いだが故郷の話など一度もしたことがなかった。
「港がある。船が二日か三日に一隻は入ってきた……国内貿易用の商船だ」
短くなってきていたタバコを灰皿に押しつけて消し、話し続けながら彼は明かりを落とすと、毛布とキルトをめくって身体を入れた。ベッドは、女の体温であたためられていた。すかさず女の腕がのびてきて、彼の腕をからめとる。不思議なことに、と彼は言った。いつになくしゃべりすぎていると感じた。
「船は『彼女』と呼ばれていた。……出てゆく方が女だ」
「それで待ってる方の港は男か? できすぎてないかなぁ」
できすぎだが正解だ。彼は暗闇につぶやいた。
すべての女がそうだとは言わない。また、すべての男がそうだとも言わない。ただ、彼と彼女に関して言えば、かつて彼女は彼の知らないどこかへと行ってしまい、彼は待っているという自覚もないままに彼女を待った。三年間。出航した『彼女』の中にはもう二度と『彼』の元を訪れないものもあったから、この女がもどってきたことはまずまず思いがけない幸運なのだろう。
くつり、とのどを鳴らして笑うと、女はどうした、ととろとろした声音で問うてきた。もう眠いのだろう。思いの外長く考え込んでいたようだ。彼はもう寝ろ、と彼女の肩を叩いた。
港はいつでも、船を迎え入れるためにだけそこにある。
ひとりきり、暗い海で溺れかけている子どもがいる。
夜、あがくように男の腕が空を切ることを知っている。朝、誰でもない誰かを見つめる黒い目を知っている。昼夜を分かたず、いつくしむ少女の名を呼ぶその声が、自分の名を呼んでくれる時を待っている。
そんなにも好きなら取捨選択をしてしまえばいいのだ、と常々考える。そうして少女を、彼女を、みずからをも、傷つけてしまえばいい。ずたずたに引き裂かれた男に手を差し伸べてやるいつかを想像することで、彼女の芯の部分は熱いため息をこぼしている。
傷つくのは彼だけじゃないんだよ、と数少ない友人たちは口をそろえて忠告してくれる。そも、どうしてあの男に拘泥するのだという根本的な問いかけを、彼女自身が忘れる寸前にくれたりもする。
どうしてと言われてもわからないし、彼女も傷つく羽目になることはもちろんわかっているけれど、それでも欲しいものは欲しい。それはひょっとすると、支配欲じみたものなのかもしれない。まるで男のようではないか、と少し笑う。
――あるいは、男が昔こぼしたセリフが、頭に残っているのかもしれない。
「家族は、自分の弱い場所を見せてもいいひとだと思ってる、俺は」
「恋人は?」
「他に誰もいなくなったら。最後の手段」
「最低」
そう、笑った。
ならばうばってやろうと思う。縋るべき相手をすべてうばい、薄暗い部屋の片隅にうずくまった男を掬い上げてやろう。いや、むしろ引きずり込むのか、彼女の中に巣くう暗い海へと。
これは愛情なのだよと、耳元で誰かが笑った。
――引きずり込まれたのは、どこの幼子だったのだろう。
夜、あがくように男の腕が空を切ることを知っている。朝、誰でもない誰かを見つめる黒い目を知っている。昼夜を分かたず、いつくしむ少女の名を呼ぶその声が、自分の名を呼んでくれる時を待っている。
そんなにも好きなら取捨選択をしてしまえばいいのだ、と常々考える。そうして少女を、彼女を、みずからをも、傷つけてしまえばいい。ずたずたに引き裂かれた男に手を差し伸べてやるいつかを想像することで、彼女の芯の部分は熱いため息をこぼしている。
傷つくのは彼だけじゃないんだよ、と数少ない友人たちは口をそろえて忠告してくれる。そも、どうしてあの男に拘泥するのだという根本的な問いかけを、彼女自身が忘れる寸前にくれたりもする。
どうしてと言われてもわからないし、彼女も傷つく羽目になることはもちろんわかっているけれど、それでも欲しいものは欲しい。それはひょっとすると、支配欲じみたものなのかもしれない。まるで男のようではないか、と少し笑う。
――あるいは、男が昔こぼしたセリフが、頭に残っているのかもしれない。
「家族は、自分の弱い場所を見せてもいいひとだと思ってる、俺は」
「恋人は?」
「他に誰もいなくなったら。最後の手段」
「最低」
そう、笑った。
ならばうばってやろうと思う。縋るべき相手をすべてうばい、薄暗い部屋の片隅にうずくまった男を掬い上げてやろう。いや、むしろ引きずり込むのか、彼女の中に巣くう暗い海へと。
これは愛情なのだよと、耳元で誰かが笑った。
――引きずり込まれたのは、どこの幼子だったのだろう。