Chrysanthemum.

2004年11月21日 長編断片
 ひどく飢えている。だが、生きている。
ならばあの女はつみびとなのだ。

 母の命日には、父とそれから当時から近所に住む、兄と慕った青年とともに花を供えに行く。それが毎年のことだった。今年は少しちがう。花を供えるのは自分と青年の二人きりで、供えられる方は二人に増えた――父だ。
 やさしい両親だった。この人たちがそれはしてはならないと言うのなら、狂おしいほどの飢餓感にも耐えてみせようと思うほどに。そうして実際、耐えた。両親と暮らしてから十数年というもの、彼女は肉を喰らっていない。
 無論、飢えていた。初めの数年は何度家族を喰い殺そうとその背後に忍び寄り、ためらい、その挙げ句に与えられた部屋で悶え苦しんだかわからない。だが、今彼女は生きている。別段体の具合がおかしいわけでもない。むしろ感覚は鋭く冴えている。
 人というものを喰らう必要などないのだと体現した自分だからこそ、こんな人間じみたことを思うのかもしれない。あの女は、喰ってはならないものを食った女は、つみびとなのだと。だから、
 ――殺してやる。
 あの女の大切なものを。かつて自分が自分の大切なものを喰われたように、そのためならば長年の禁忌をも犯してやろう。ひそかに固めた決意に、胃がぞろりと動いたような気がした。
「――どうした? 具合でも悪いのかい」
「…いえ、なんでもないです」
 気遣わしげに声をかけてきた青年に、彼女はそっと微笑んだ。
 守らねばなるまい。人を喰らってでも、残された唯一の家族を。そうして、復讐せねばなるまい。人を喰らってでも、逝ってしまった家族たちのために。
 瞬間、彼女はかつてのひどい飢餓感を思い出したような気がした。

鈍痛。

2004年11月13日 長編断片
 鈍い痛みを、抱えている。

 薄暗がりがそこかしこにわだかまる一室で、女はベッドに膝を抱え、うずくまっている。
 耐えられる。いろんなことに耐えられる。だがだからと言って、耐えなければならないのか。そう自問して、女はうめいた。耐えなければならないのなら、彼女自身の弱さは一体どこへ行けばいいのだ。
 否、どこへも行くべきではないからこそ、ここにあるのか。この弱さを、鈍痛を力強く抱いて溶かしてくれる腕を、これは自分のものではないからと押し退けて笑ったことを、女は忘れてはいない。己の予定調和な行動に、いまさらながら吐き気がした。
 抱えた足にぎちりと爪を立て、皮膚が破れる感触を戒めのように刻み込む。背筋に走る怖気が、逆に妙に心地よかった。物理的な鈍痛が、精神的な鈍痛を凌駕してゆくような気がした。もしそうならば、うれしいのだけれど。
 しわがれた声で男の名を呼んだ。手の届く場所で呼べば、今も男は振り返ってはくれるだろう。昔からそうだった。だから自惚れていた。この男の隣に立ち、視線を合わせることができるのは自分だけなのだと。なんと愚かなのか、とかつての己に歯がみした。男がそのようなことを、一度でも言ってくれたか? 否だ。ならば期待すべきではなかったのに。
 再び、男の名を呼んだ。
 耐えられる。いろんなことに耐えられる。だから耐えなければならないのだろう。彼女自身の弱さも含めて。

意気地無し。

2004年10月30日 その他
 なんの気まぐれだか知らないが、男が指輪をくれた。ていねいになにか花の模様が刻まれた、銀色の指輪だった。小さな輪は、奇妙なことに指にぴたりと収まった。
 別れようと思った。

 この距離を保ったまま『愛情』というベクトルから『友情』というベクトルに関係がくるりと回ってくれれば話は別だったのだが、そうするにはともに過ごした三年間という時間――こと欲望という点において、バケモノと殺人鬼のペアで過ごす時間というのはなんと充実していたことだろう!――は意外と重たいようだった。少なくとも、心に絡みついて『好き』という単純明快な感情を形成する程度には。
 男がくれた指輪は、その三年分の自分たちの想いなのだろう。もはや例えば平面図形の解答のように、抱える感情のみを回転させるような未来はないのだと男は言いたかったのかもしれない。
 いや、あるいは。
「前より、血生臭くなったよね。こわいし」
「お前の言ってることは昔から、俺にはわけがわからん」
 言う割に、男はくつりといかにも楽しげに笑う。
「前より好きになったってこと」
「それはどーも。つまりこれからもっと好きになるってことで?」
 うん、とうなずいて笑うと、男はやさしく頭をなでてくれた。
 ――あるいは、もう元にはもどれないと暗に示しているのか。そうなのかもしれない。男はすでに罪を犯しているのだから、同胞の血肉をバケモノに分け与えるような。
 それでも男はまだいい。このまま進んでゆくだけの気概がある。
 都合のいい関係に回転したまま続けられる未来がそこになく、もはや各々元の場所へともどることも不可能で、そのまま突き進んでしまうには彼女に勇気が足りない。男から指輪を受け取るだけの勇気が。
 だから、別れようと思った。

 バケモノに持ち歩くべきものはない。ちょっとそこまで出かけるような格好で、彼女は今は部屋にいない男にさよなら、とつぶやいた。
 薬指から抜き取ってそのまま空中で手を放した指輪が、フローリングの床でかつんと小さな音を立てた。
 自分をもっと愛してあげて。私はその余り物でかまわないから。

 男が彼の体にひどく無頓着であることは知っていた。もう休めと半ば強制的に言い渡されでもしない限り、いつまでもどこまでもその肉体と脳を酷使する。その様はまるで休息を求めることは罪悪なのだとでも言いたげで、そのくせどこか苦しげでもある。
 男がそんなふうだから彼女には明白なレーゾン・デートルがあるのだけれど、疲れきってずたぼろになった男が彼女の元へともどってくる度に、考えるのだ――いっそ自分など童話の人魚姫のように泡となって消えてしまってもかまわない、それで男が『休息』だとか『安らぎ』という言葉を知るのなら。
 わずかばかり愛情不足の環境で成長してしまったのだと、男の母親が嘆いたことがある。もっときちんと、例え仕方のない事情があったのだとしても、息子たる男を愛してやるべきだったのだと。普通の親子と言うには少し濃密すぎる母親の愛情表現は、贖罪なのだと知れば自然なことのようにも思えた。
 だから、なのだろうか。我が身を省みずに走り続けなくては人の注目を、愛情を集められないとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それはなんと哀しいことなのだろう。
 ここにいる、と手を差し伸べてあげたいと思う。それが不可能ならば、せめてそう叫びたい。――ここにいる。あなたを好きな人が。なんらかの方法でこの感情が伝えられたなら、男は立ち止まってくれるのだろうか。
 元より返されることなど望んではいない感情だ。けれどうつろな容れ物は注いでも注いでもいっぱいにはならず、むしろそれこそが辛い。内側から修復してくれない限り、男の繊細な容れ物はいつまでもヒビの入ったままだ。想いは泉のように無尽蔵ではないから、きっといつかこんな関係に疲弊して、彼女は壊れてしまうにちがいない。
 だからそうなる前に、と願う。

 自分をもっと愛してあげて。私はその余り物でかまわないから。
――いっそ与えられなくとも、泣いたりはしないから。

人ニ非ズ。

2004年10月20日 長編断片
 あとどのくらい、君の傍にいられるんだろう。否、――どのくらい、傍に置いていてくれるんだろう。

 物事に執着するのはごく久しぶりのことで、なるほど当初は一体何十年か、ひょっとしたら何百年かぶりの感覚にとまどったものだが、一度手に入れてしまえば彼は手放しがたい存在だった、二つの意味で。
 一つ目の意味はごく簡単でわかりやすい。つまり彼女と彼は共生関係にある。バケモノの彼女に血肉を提供する殺人鬼と、殺人鬼の犯罪的証拠を残らず咀嚼するバケモノの二人組は、正直なところ相性のいい組み合わせではあった――その考えがうぬぼれではない、と思える程度には。
 ことがそれきりだったなら、自分たちはもっと簡単だったのだろうと彼女は思う。
 問題は彼が手放しがたい存在となってしまった理由の二つ目で、しかも比率的にはこちらの方が重視されがちであることだ。
 ――愛している、と考えるようになったのは、さていつのことだったか。三年前に出会った当初から、現代社会ではなかなかお目にかかれない、ざらついて乾いた砂のような雰囲気が好きだった。
 私が食べるから、殺していいよ。そう言った時の彼の、なんとうれしそうだったことか。余人には理解のできない渇きを、ようやく彼は満たすことができたのだ、彼女というパートナーを得て。
 少なくとも二ヶ月にひとり、多ければ一ヶ月にふたり。共生を始めてからの彼は、日に日に彼女好みの男に変化してゆくようだった。かつての彼が冴えない様子であったのがその渇きのせいなのだとすれば、人間というものは実にもったいないことをする。この男は、こんなにも魅力的なのに。
 彼に傾倒してしまった今、その身体を喰ってしまうことはたやすいが、そうするには愛情が深すぎる。だから、彼の腕に抱かれながら、彼の隣でその寝息を聞きながら、二人で街中を歩きながら、あるいは彼の殺した人間を喰らいながら、考えている。
 あとどのくらい、君の傍にいられるだろう。あとどのくらい、君は生きているんだろう。それよりもむしろ、……どのくらい、傍に置いていてくれるんだろう。君はたしかによりこちら側に近い。けれどそれでも君と同じではないバケモノを、いつまで?
「大好き、真司」
 自分は、うまく笑えているんだろうか。
 君をもっと愛せれば良かった、と彼は言った。抑揚のない声に、不意に欲情した。

 普段と変わらない朝が始まった日にこそ、悪いことは起こるものなのだと知っていた。例えば両親が事故で死んだ日だとか、世界のすべてが覆された九月の日だとか、――そうして今度はこれだ。信じないと決めているのに信じてしまうもののひとつに、それらは数えられていた。
 ニュージャージーからホランド・トンネルを抜け、対岸のブルックリンまで行く途中のマンハッタン島、キャナル・ストリートからは、今はすでにないWTCの幻が見えるような気もする。こんなよく晴れた夜に、何気なしに空を見上げていると、なおさら。
 路上駐車したセダンの横を、やかましくロックをかけた一台が通り抜けてゆく。彼女はふと視線を車内にもどし、運転席でじっと前を見つめる男の横顔を見つめた。助手席と運転席、二人のちょうど真ん中で、遠慮がちに重ねられた手が熱かった。
 キスをしてもいいかと男が問うた。彼女はうなずき、それで彼は重ねた手から彼女の腕をたぐり寄せ、壊れ物をあつかうようにそっと抱きしめて唇を重ねてきた。まるで初恋のようにぎこちなく、熱く、それでいながらこれが初恋ではないことを示して、二人はたがいにこのくちづけが最後なのだということを知っていた。
 それは貪るようなものではなかったが、だからといって触れるようなものでもなく、丹念に相手を辿るようなそれだった。この女を、この男を、たがいにいつまでも覚えておきたかった――今後も友人として付き合う気でいながら、なお。
 一度目のくちづけの後、男は泣き笑いのような歪んだ笑顔で、彼女の頬にかすめるように唇で触れ、そうして再びセダンを走らせ始めた。ウィンドウから外をながめてみたが、もうWTCの幻は見えなかった。繁栄の象徴は、すでに崩れ去って久しい。
「――君を、」
 不意に男がつぶやいた。
「君をもっと愛せれば良かった」
 その声には抑揚がひとかけらもなく、彼女からうかがえる横顔には表情と呼べるものがなにひとつとして浮いていなかった。
 ――ああ。
 彼女は心中でうめき、男からは見えない角度で、ぽたりと一粒涙をこぼした。
「……そう、ね」
 愛している、この男を愛している。こんななんでもないしぐさにさえ、どうしようもなく血を巡らせてしまう自分がその事実を証明している。ならば彼と別れた今夜から、自分はどうすればいいと言うのだろう。
 どれほど問いを投げかけても、百万ドルの夜景はひとりぼっちの女には冷たく、答えてくれそうにはなかったのだけれど。
 天国よりも野蛮なのに、時々世界はうつくしい。

 薄く瞼を伏せて狂ったように一途に快楽を追う男を、いつでも可愛らしいと思う。彼に限らず、男などという生き物は、それほど多くと付き合ったわけではないが大抵がそんなものだろう。男の方は、女にそう思われていることに気づこうともしないが。
 くふんとかすかに喉を鳴らして笑うと、彼はうかがうようにこちらを見上げ――身体そのものは自分の上に彼がいるのだから、本当は見下ろしてというのが正しいのだろうが、どことなくその視線は母親をうかがう子どものようだった――、ついばむようなキスをよこした。お礼とばかりにぎゅうと首に腕を回してやれば、名前を呼んでくれもする。決して低いとは言えない、むしろ同じテノールでも高めの彼の声が、好きだ。
 別に声に限った話ではなく、東洋人ゆえの細身の身体や、あるいはこれは彼個人の資質なのかもしれないが、ふとした瞬間に垣間見えるこまやかさにこそ、異性を感じた。引く手は数多、とは言わないまでも選り好みできる程度にはいた。だがそれでもなお――彼が良かったのだ。いささか神経質な、おそらくはそれゆえにひどく切れる男が。
 だから今が幸せだ。例え世界のどこかで今も戦争が起こっていて、自分たちもその当事者でないとは言い切れず、飢えや病気や災害やその他のもっとひどいことで死ぬ子どもがいて、身近で大切な人の死や苦しみに泣き叫ぶ人々がいることを知っていたとしても、……幸せだ。少なくとも世界の片隅の暗い一部屋には、絶望など転がってはいない。
 なんと傲慢で、目の前の明るい欺瞞だけを見つめていることだろう。だけでなく、正義という名の目隠しはすでにほころびて久しく、明日はもはや信じられるものではない。こんなことが幸せだというのなら、相当に病んでいる。
 だが、
「俺は、君を愛してる」
 あなたがこうしてここにいるのなら、
「ええ。……私も愛してる」
 世界はそれだけでうつくしい。

 うつくしいすべては恐ろしさの前兆だと、誰かが言った。

つぐない。

2004年9月29日 長編断片
 愛しているからと愚かな理由であなたにすがりつくことを、正しいとは思わない。

 一日経るごとに自身を消耗してゆく男に、胸が痛んで痛んでならなかった。彼自身は気づいていないのだろう、あるいは気づいてはいるが彼女を不安がらせないようにと、無意識の内に疲労を押し隠しているのだろうか。
 どのみち彼はひどく嘘の下手な人で、そうして不器用な人だった。魔女などと、本来彼の傍にいるべきではないものを愛しているのだという素直な感情を、隠そうともしないほどに。子どものようにあどけないその感情の奔流が私を傷つけるのだと告げたなら、彼はどんな顔をするのだろう。
 実際、あまりにも男は純粋で、もっと他の誰かよい人、せめて普通の女をその伴侶に選びとったなら、まったく異なった未来をつかんでいたにちがいない。そうしてその未来は、彼にとって彼女とともに在るよりももっとずっとよいものだったはずで。だから彼女は、彼を失うよりもひどい、けれどもゆるやかな痛みを、胸にずっと抱いている。
 ただ、そう理解はしていても、いまさら男のぬくもりを手放すことは耐え難かった。一度手に入れたものを失ってしまえば、立っていることさえできないことが明らかだったから、彼の想いをいいことにその心臓を魔女はわしづかみにした。
「愛してるよ。……愛してるよ、とても」
 こんな、崖っぷちに引っかけた指先だけで全霊を伝えるような愛情など、彼が求めていないことは知っているのに――離れなければならない、別れなければならない、傍にいてはならない。そういうことを自覚しているから、こんなにも醜い愛し方しかできない。
「離れないで、傍にいて。別れるなんて許さない」
 あざとく笑って、それでいながら泣き出しそうに唇の端をふるわせてそう告げれば、男は伸ばした指先を拒みはしない。魔女から離れてどこかへ飛んで行ってくれることを願っているのに――なんと不器用な人だろう。
 ――あなたはやさしい。そうして純粋だ、子どものように。別れることでこの想いをつぐなうことさえ、許さないほど。

 愛しているからと愚かな理由であなたにすがりつくことを、正しいとは思わない。
だが正しくはないからと言って、いつでもその道を拒めるほどに賢くはない。

執着。

2004年9月27日 長編断片
 時折、人にささやかれることがある。何故あんな女を愛したのかと。
 ――あなたを愛したことを、間違いだとは思っていない。

 政府の高官のみがその存在を知る魔女と結婚したことは、実のところ彼にとってプラスに働いたわけではなかった。むしろそんな男を高位につけることは危険だと判断されたのか、権力や地位からは遠ざけられ、現場仕事ばかりが与えられた――もっとも、そちらの方が性には合っていたが。
 それはなるほど己が気に病むことではあるかもしれないが、すくなくとも彼女が気にすることではない。魔女という存在を痛いほどに理解していながら、それでも己の短い一生を彼女とともに在ろうと決めたのは、間違いなく彼自身だったからだ。
 それでも女は、泣く。目覚めた朝に、あるいは彼のもどることのできない夜更けに、――私が私でなければ良かったと言って。
 あんな女を愛したのは何故かと問われることもあることが事実であるだけに、彼女の負い目は深い。いっそ別れようと言い出さないことこそが、そんなことを言われた日にはこちらが哀しくて死んでしまうかもしれないが、彼にとっては不思議でならなかった。
「別れるなんて許さない。あなたは私のものだ。……そうでしょう?」
 だけれどある日問うてみれば、彼女は泣き出しそうな顔で笑って、そうすがりついた。不器用に指先だけを肌に伸ばしてくるその手の、なんと頼りなげで儚いことか――いっそ彼女が魔女であるだけに。
「あなたが言ったんだ、私と結婚してくれって。だから別れない。あなたが後悔しててもかまわない、私があなたを愛してるから」
 自分がかけた愛情と同じだけの愛情を自分に求めてはくれない彼女が、少しだけ寂しくそしてどうしようもなく愛おしかった。
 ――誰が後悔するというのだろう。自分に与えられたマイナスばかりを他人に指摘されて、それでもなお今以上にあなたを求めているというのに。

 あなたを愛したことを、間違いだとは思わない。
だから、ずっと傍にいる。いつかそう遠くはない日に、この身が屍になったとしても。

Op41-3.

2004年9月23日 長編断片
 あなたを想う いつもあなただけを

 愛していると男は一度もささやかなかった。ただひそやかに、暗闇の中で回された腕はおどろくほどに力強く、熱かった。名前だけを呼ばれていたように思う。いつもは呼ばれないその名前こそが、愛しているとささやくことのせめてもの代わりだったのだろうか。
 どう言葉にしても伝わらない想いがあることを、自分も男も知っていた。まして言葉少なであるようにとふるまう自分たちに、伝えられるはずもない。だから愛しているなどとは言わなかった。ただ、呼べない名前を、まるで言葉を覚えたての子どものように繰り返し繰り返し呼んだ。――それさえできるのなら、なにも、せめて今一時だけは恐れるものなどないのだとでも言いたげに。
 夜の暗闇は重苦しく、雲は月をさえぎって春の嵐がお互いの声をかき消した。月明かりさえもないのならば、見なければいい。その方が罪悪感は少なくて済む。それでも互いに、腕の中にいる相手が確かに求めたひとりであることを愚かにも確かめたくて、だから嵐をかいくぐるように近くで呼んだ。身を寄せ合う獣のように。
 恋ではないことを知っていた。ならばそれは愛でしかないはずだったが、愛しているとのたまうことは欺瞞でしかない。何故なら不器用に身体を重ねて名前を呼ぶことしか知らなかった。
 ――ただ、呼ばれた名前に、
 もう二度と届くことのない、そも届けることを目的とされたのかどうかも曖昧な想いがあったことだけは、確かなのだと彼女は知っている。

 あなたを愛す いつまでも変わることなく
 生まれ変われません あなたがいないから この世はひとり

 「双子……みたいなものだな、うん」
 自らも二つに分かたれたもののひとつであった父は、そう言って香月にとってのいとこを、また彼自身にとっての幼馴染みを表した。
 どちらか片方では生きてゆけない。どちらが依存しているのでもない。そう思えるほどのひとつが、感情論ではなくただ事実としてあるのだと言う。だがだとすれば、二つで一対を成す自分たちは、どちらか片方が欠けても生きてゆける双子などより、よほど強い結びつきを持っているのではあるまいか。香月はそう思う。
 母が――つまり父にとっての妻が――いなくても、生きてゆける。でも幼馴染みが死んでしまったら、きっと自分は空っぽになる。父は同じ片割れを持つ香月にそんな教えなくとも良いことを教えて、いつか訪れるかもしれないその日に対しての恐れを、娘に抱かせた。
 時間も、神も、愛しい人も、なにひとつとしてその空白を埋められるものではない。先と後とで分かたれて死んでしまったのなら、輪廻転生に組み込まれる手前で立ち尽くして待つしかない。お互いが、そういう存在だった。

 なぜなのだろう、先に逝ったはずのいとこはけれどまだ来てはいなくて、銀色にきらめく草原で、香月はずっと彼を待っている。
 いつだっただろう、ごく最近だったかもしれないし、もうずっと前だったような気もするが、叔父がひとりきりでとぼとぼとやってきたことがある。父は、と問うと、まだ、とだけ答えて、叔父はそのままそこにすわりこんでしまった。なるほど、『空白』というのはこういうことなのだろうと、香月はなんとなく理解した。
 父がやってきたのはそれからずいぶんと経ってからのことで、ただ思いの強さでのみこの草原へと足を踏み入れた父は、叔父を見つけるや否や草を揺らす風よりも早くこちらへと駆け寄ってきた。
 ――時間も、神も、愛しい人も、なにひとつとしてその空白を埋められるものではない。父にとってのその空白を埋めるものの元へ、ただ一直線に。
 そうして二人は揃って、神の回す輪廻へと旅立った。次の人生でも彼らはふたつに分かたれるのか、それともひとりの独立した人になるのか、……どちらかといえば、二つになるものたちの運命は、もうずっと決まり切って二つになるような気がしたけれど。
 叔父と同じようにその場にすわりこんで、此岸――いや、今や自分のいる方が此岸なのだから、あちらは彼岸になるのだろうか――をぼんやりとながめる。いまだいとこの影すら見えぬあちら側の陽炎に、香月はほぅとためいきをついた。
 あなたを愛してはいるけど、たったひとつのものじゃないの。そう告げると、夫は笑って僕も同罪だからね、と言った。

 夫にとっての、自分の兄。息子にとっての、姪。あるいはその逆も然りで、彼らに彼らの唯一のものを尋ねたら、互いの名前が返ってくる。そんなことは知っていた。
 そもそも夫の『唯一』が妻たる自分ではないという時点でなにか間違っている気もするのだが、では自分の『唯一』はなんなのだろうと考えてみると、これが周囲にはいまひとつ思い当たらない。
 夫は強い人だし時折甘えたがりではあるけれど、甘やかすのは兄の役割だから、愛おしくは思ってもそれだけだ。息子はこれが夫の血を引いたらしく、どうも親から若くして自立しているし、娘は息子――彼女にとっての兄――に依存して、両親を顧みようともしない。
 ただ、実の兄については、いまだに少しばかり拘泥していないでもない。それはおそらく、彼が水に愛されているからなのだろう。

 昔、村外れの川辺に住んでいた自分たち一家にとって、同じ一族とはいえ月を唯一絶対神と崇める人々はどこか異質だった。異質たるものの頂点に交わった今ならば、わかる。あのころ、異質だったのは彼らではなく、水を盟友とする他ならぬ自分たちだった。
 盟友、イコール水守の家系の純血――それはたしかに力無い血ではあったが、一族の頂点の血筋と同じぐらい濃く練り込まれていた――を受け継いだ両親たちは、お互いを『唯一』とは見ていなかった。彼らの思いの丈を注ぐべき対象は水だった。彼らの子どもである自分たちもまた水に愛されたのは、だから当然のことだったのだ。
 愛されれば、愛さざるを得ない。
 ことに他に想いを寄せるべき相手がいなかった自分の中で、水は確固たる地位を築いて行った――けれども、兄。彼は自分よりもなお水に愛されていながら、彼らを唯一の友とはしなかった。兄を奪い取って放さない男がいた。それが、夫だ。
 夫となった男は考えてみれば哀れな人で、兄以外に縋る相手が誰一人としていなかった。だから自然と彼の『唯一』は兄になったのだろう。そうして兄もまた、男を自らの『唯一』と定めたのだ。
 愛している、だから愛されたいのだと嘆く水に、囁いたのはまだ少女のころだった。――私にとって、他に大切なものはなにもない。
 歪な相互関係は、こうして始まったのだった。

 愛している、けれどたったひとつには成り得ない。それは、兄が水たちに告げたと同じ、残酷な言葉だった。
 遠慮がちに指先を伸ばしたのは、おそらく自分の方が先だった。

 「ダニエルは、ヘルガが好き?」
 意味合いがちがっていると知りながらわざとlikeという動詞を使ったのは、そちらの方が彼が答えやすいだろうと思ったからだ。英語という言語にうとい少女の他愛もない問いかけなど、たやすくごまかせると彼は思っているのだろうが、そうはいかない。男の浅知恵など、十を越えれば女にはすぐわかるものだ。
 できる限りのあどけなさを装って小首をかしげると、彼は笑ってああ、とうなずいた。
「好きだよ。お前も好きだろ?」
「うん――」
 ほとんどいつもと変わらない笑みの中に、かすかな引きつりと赤く染まった耳朶を見たのは、たぶん気のせいではなかっただろう。
 なにか唐突にいたたまれなくなって、きゅ、と唇をかみしめながら視線を落とした。持ち上げたコーヒーカップの縁をせわしなくなぞる彼の指先は、力仕事には向いておらず細いが、やはり男なのだ、どことなくごつごつしていて骨張り、節がちだった。
 ――ああ、あの指先に触れたら。
 きっと自分の胸はどうしようもなく高鳴って、いっそ痛いほどになるのだろう。壊れてしまえば楽なのにとさえ、考えるほど。
 そう思ったらなぜか息苦しくなって手がふるえた。泣きたいのかもしれない、とふと思う。現に目の下の辺りが熱い。
 あわててもう寝るね、と言って部屋に駆け込み、ドアを乱暴に閉めて鍵をかけた。案の定だ、ぱたぱたと床に水の雫がこぼれている。ドアを背もたれに力無く寄り掛かって、天井を見上げる。涙がこぼれないように。
 なんて遠いんだろう、と思った。あの男と自分は、あまりにも遠い場所にいる――その距離は指先を伸ばしても届かないほどで、だから手に入れることはできなかった。けれども涙が出るのはだからではない。
 腕を伸ばしさえすれば、届いた。
 事実そうして彼を手に入れた人がいる。遠すぎる、と信じ込んで自分が伸ばすことをあきらめた腕を、ためらいなく差し伸べた人がいた。自分が指先をためらいがちに伸ばすきりで満足してしまったことが、悔しかった。だから泣くのだ。
 あぁ、と小さな喘ぎがこぼれた。この世界はなんて苦しいんだろう。こまねいた指先を胸の中にもどすこともできずに、ただこの手に触れてと願うばかりのこの世界は。
 ありがたいことに、ドアの外の世界にいる彼は、なにひとつとして気づいてはいなかった。
 遠い国にいる男からの手紙を、彼女はとっさに視線から外した。
 帰りたい。それは、許されないことだ。

 たくさんのダイレクトメールにまぎれて、その日彼女の家のポストには、一通の封書が入っていた。表書きにはたしかに彼女の住所と名前、そしてAir-Mailの文字が見える。そこまで来れば彼女には、もはや裏側を見なくとも差出人の予想がついた。今は仕事で遠い国に行っている、同僚の男からの手紙だ。
 いつもは手軽にEメールで済ませるくせに、めずらしいこともあるものだと妙に感心して、彼女はその手紙をバッグにつっこんだ。この場で開封している暇はない。今朝は少しばかり、忙しいのだ。
 シボレーのエンジンを吹かし、マンハッタン島に渡ってオフィスにすべりこみ、早朝のミーティングを終えてようやくデスクにつく。そのころには少し時間もできていて、彼女はようやくバッグの中の手紙を思い出した。周囲を見回し、今日はそれほど忙しくもなさそうだということを確認してから、ペーパーナイフでていねいに封を切る。
 てっきり数枚にわたる文章を予測していた彼女は、しかし推測を裏切られることとなった。封筒の中には小さな紙切れが、一枚ひらりと入っていたきりだった。なにか嫌な予感がする。彼女は眉をひそめて、その紙切れをつまみあげた。
 ――帰りたい。
 署名もなく、他に伝えるべきことなどなにひとつとして持ち合わせていないかのように、ただ紙にはそれきりが書かれていた。帰りたい、おそらく唯一の願いが。
 不意にめまいを感じ、彼女は額を押さえた。帰りたい、そんなことは国から離れれば、誰でも願うことだ。だがこと男に関して言えば、今までそんな泣き言を一度も聞いたことがなかった。
 なにかがあったというのだろうか。だけれども、
「どうにもならないわよ……」
 自分にはなにひとつとしてできることがない。男を呼び戻すことも、帰りたい、ここは辛いと嘆く心を抱きしめてやることも。
 ただ、たったひとつこの国から男にしてやれることと言えば。
 きゅ、と唇をかみしめて、彼女はペン立てから万年筆を取り上げ、デスクの引き出しから封筒と上質な便せんを出した。署名もなにもなく、男のように、ただ伝えたい言葉だけをひとつ、そこに記す。
 ――泣かないで、待ってるから。

 無力な自分が、ひどく歯痒かった。
 僕が月なら羽水は星だ、なんて馬鹿げたことを言うから、いい年した男が馬鹿らしい、と怒ってやった。

 月がなくては生きてはいけない種族だから、住まう惑星よりも小さい、時によって金や銀や赤に色を変える衛星の必要性は認めている。というよりもむしろ、科学的な価値以上のものを、そこに置いている。だが、その他の星となると、もうなんのためにそこにあるのだかわからない。
 自分の存在というのは要するにそういう、実に役に立たないものなのだと、羽水はしばしば思う。実際、家柄も良く力もある親友の傍にいると、いつでも自分は添え物扱いだ――それを恨んだことは、滅多にないが。
 少年期にありがちな憂鬱と言ってしまえばそれまでだが、羽水の場合は根が深い。なにしろ大して長くもない人生のほとんど、というよりすべてに、親友の存在があったのだから。
 その、嫌味なくらいに欠点のない親友は、机を並べて星々の勉強をしている時に、それじゃあ僕は月かなぁ、とぼんやりつぶやいた。あながち外れてもいないから逆に腹が立つ。ああそうだな、と投げやりな返事をしただけで、羽水は彼から視線を外した。彼を見ていると、ひどいことを怒鳴りつけてしまいそうだったので。
「……なんか怒ってない、羽水?」
 ところがしばらくして、親友はまるで恐る恐ると言ったふうにこちらを見上げてきた。羽水はひく、と喉が震えるのを――図星だったが故に――感じたが、視線を手元に落としたまま首を横にふった。
「怒ってない」
「嘘だ、声が怒ってる」
「怒ってない」
「羽水ー、機嫌直そうよ、ほら」
 ぷつ、となにかの切れる音を、羽水はどこかで聞いたような気がした。
「機嫌直せって言うならお前が黙れ、蒼河!」
 言ってしまってから、しまったこんな口を利くものではないと思ったが、遅かった。結局引っ込みがつかずに羽水は曖昧に視線をうろつかせ、再び手元の星座図に見入る。月のない星空は、なんだかひどく空虚に見えた。
「……別に、自慢しようとか思ったんじゃないんだけどさ」
 目もくれない羽水を伺い、遠慮するようにぽつぽつと親友が言う。
「僕はさぁ、月よりも星の方がすごいと思うんだよ。星はあんなに遠くにあるのに、ここからだって見える。でも月は――近いから見えるだけで」
 羽水はあいかわらず黙っていたが、わずかに肩を揺らして先をうながした。どうしてなのだろう、強い親友は、何故かいつでも羽水に疎まれることこそを恐れているようだった。今も、そうだ。
「羽水はすごいよ。僕は羽水みたいにはなれない。僕は、僕が霧生蒼河でちょっと力が強いから、月みたいに見えるだけなんだ」
 だから、とひどく弱々しい声で親友が喘ぐ。羽水が心配になって顔を上げると、正面で彼は笑っていた。
「僕が月なら、羽水は星だ」

 ――馬鹿らしい、星はいつでも月に憧れていると言うのに、月はそれに気づきもしない。

殺人贖宥状。

2004年8月31日 その他
 痛みと快楽の境目が曖昧で、しかもその方面に貪欲な性質なのだと知ったのは、ごく幼いころだった。
 痛みというのはこの場合物理的な――つまり肉体の――痛みではなく、精神的な痛みである。昔から感情を繕うことはひどく上手かったが、外堀を越えて入り込んできたもの、あるいは人々に対しては、ひどく従順でしかも寛大だった。大抵のことがらは笑って許してやったし、そうでない場合でも、いまさら堀の外側に追い出すことはできなかった。
 つまるところ、内側は想像もできないほどに脆い。虚勢を張って、他人のように縮こまることもしないから、一度受け入れたものに手ひどく裏切られ、傷つけられることもしばしばだった。
 薄皮を剥ぐように心が一枚ずつ削られてゆくその痛みが、どうしてだろう、どことなく心地よい。例えて言うのならそれは指先のささくれを弄り回すような甘靡な痛みで、どんな異性と付き合うよりも『ささくれ』は彼を痺れさせた。
 だからそれを味わうためにわざと自分を傷つけるようになった時、自覚した。ああ、俺はいつかこの性癖で、身を滅ぼすにちがいない。

 それでも世渡りは比較的上手い方で、やっかいな性癖を抱えながらも彼は比較的真っ当に成長した。若いが三十路も見える年となり、そのまま時が過ぎ去ることになんの疑いも抱かなかった――その、青年に出会わなければ。あるいは出会ったとしても、決定的な出来事さえなければ。
 正直なところ、彼は青年が好きだった――無論、likeの意味でではあったけれど。尊敬していたし、いつかは自分も彼のようになりたいと願っていた。一見おとなしやかに見えて強靱で、その脆さはしなやかさで、……空の高い場所を飛ぶ鳥のような人だった。
 だが、逆にだからこそだったのかもしれない。手の中の凶器をその人に突きつけた時、つまり傷口を自らの爪でこじった時、間違いなく自分の脳は快楽物質を吐き出していた。震える手で一枚薄皮を剥ぐことに、叫び出したいほどの悦びを感じていた。
 ――ああ、俺は。
 自分がそうなのだということを自覚できることこそが、なによりもおぞましく、……同時に快感でもあった。
 ――俺は、止められない。
 何故ならここにあるものが疑いようもなく痛みで、痛みは快楽だから。それが快楽ならば、求めてしまうから。
 青ざめ、だから誰か俺を止めてくれと必死で祈りながら、彼は痛みという名の快楽が赴くままに引き金にかけた指先に力をこめた。
 愛しているなんて陳腐な言葉では、いっそ彼女への冒涜になる。正しい言葉が見つからない。だからいつも、伝えるべきたったひとつの想いは、胸の中にだけ落ちる。

 石畳の上をもぞもぞと、名前も知らない虫が這っている。なんの気まぐれか腕さえ突き出せないような鉄格子の隙間から入り込んで、その虫はもう軽く一日はここにいる。それがわかるのは、虫が彼の視界内から出ていこうとしないからだ。
 もっとも彼は確かに虫を目に留めてはいたが、それが思考になんらかの影響を与えているかと言えば、まったくそうではなかった。彼はもっと別のことを考えていた――美しく聡明で、高貴なひと。
 遠いひとだった。どうしたらこの気持ちを伝えられるのだろう、いや伝えるべきではないのかもしれないと、何度も思った。それならば黙ってあのひとの傍にいること、あのひとの剣となり盾となること以上に、なにをすればいいのだろう。
 ――ちがう男を傍に従えて、誇り高く、いっそ傲然と微笑む彼女を見た。
 どうすれば自分はあんなふうにあのひとの背後に立てるだろうか。そのためならなんでもしようと思うが、方法がちっともわからない。
 ――俺が、俺だから。
 だから無理なのだろう。自分のなにが悪いのではない、ただ自分という存在それ故に、この願いはきっと一生叶うことがない。そう定められている。
 気づき、それでもかまわないと思った。それでもかまわない。傍にいること、剣となり盾となること叶わぬなら、せめて遠くで貴女を見守り、影にひそんで貴女に徒なすものを食い殺す獣になろう。だから、そんな俺でもいい、どんな形であれ、『俺が』必要だと言ってくれ。
 そう、願っていた。

 虫が、一体何十時間ぶりだろう、飛び立って出ていった。彼はひとり残され、ごとりと石畳の上に横になった。ベッドに入る気にはなれなかった。冷ややかな無機質の感触を肌に感じ、薄く笑う。
 おそらくは多少なりともこちらを想っていてくれたのだろう、あらゆる命の危険から、その一度うばわれ、取りもどした力でもって自分を遠ざけてくれていた、あのひとは。この身が抱える罪が露見してからは、視線のひとつ、命令のひとつもくれはしなかったけれど。
 耐えられたのに――むしろ耐えるなどという言葉でなく、それ以上に高尚な言葉にすら換えられるほど、貴女が望むのならこの身を差し出したのに。
 だが、あのひとには伝わらなかった。自分は伝えることなどできなかった。声をかけることなど、おこがましかったから。だから使い道のないこの身体は、せめてものつぐないにかつての主の命をうばって、今貴女に自分の首もろとも差し出そうとしている。
 いまさらなにかを伝えておきたいとは思わない。そもそも言葉などではこの気持ちを伝えられない。だから黙って死んでゆく――今まで黙って生きてきたように。
 目を閉じて、はるかなひとの、遠目に垣間見た美しい横顔を思った。
 ――首をしめようと手を伸ばし、そうしてそこで背後から呼びかけられて、だからというわけでもないのだが振り返って笑った。そこにいた人が、とても――ひょっとしたら妹よりも――大切な人だったからだ。
「やぁ……おはよ」
 軽く手を上げて言うと、彼女はきゅっと眉をひそめたようだった。

 「結局、なにがしたいの?」
 わざわざ妹の前から引きずってきて、だれも近付かない、けれども自分たちにとってはほとんど庭同然の森の中、香月はそう氷河を問い質した。きつく釣り上がった目尻と言い、弾劾するようなその口調と言い、まるで彼女は正義の女神のようだ――そんなことを、ぼんやりと考える。
 そんなことをしていたから、とっさに質問に答えることができなかった。あぁ、とかうん、とか胡乱な返事をして、それであわてて「――なんだって?」と問い返すと、香月はますます眉をひそめた。というより、今や顔をしかめている。それでも、彼女は気のいい、親切な女だった。
「だから、なにがしたいの? ひょっとして寝ぼけてる?」
「いや、寝ぼけてはないけど、」
 のろのろと視線を地面や木々のあちこちに這わせながら、ぽつぽつと答える。
 すると香月は、これは腰を落ち着けて聞き出さなければ無理だと思ったのだろうか、あっさりとその場に腰を下ろして、それから氷河を手招きしてみせた。どうやら隣に来いと言いたいらしい。彼は割合素直に、彼女のごく近くにぺたりと座った。
 しばらく二人とも、なにも言わなかった。氷河はあいかわらずぼんやりして草の上の小さな虫だの時々ひるがえる小鳥の姿だとかをながめていたし、その様子がパフォーマンスにすぎないと知っている香月はあえてなにも言おうとはしなかったからだ。だが、とうとう氷河がこぼした。
「手がさ」
「手? 氷河の?」
「うん、僕の。――きれいすぎるなぁと思って」
 ちらりと香月が覗いた青年の手は、たしかに爪の先まで清潔そうに見えたが、もちろん彼が物理的なことを言っているわけではないことは百も承知の上だった。ただ、習慣というやつだ。
「汚した方がいいっていうんじゃなくて、なんていうかな、汚してみたい…って言うかさ。ほら、そうすれば僕も――」
 相槌をもとめない独白はしばらく続き、ようやく氷河の口が止まった時には、すでに香月は彼の話をまともには聞いていなかった。この馬鹿な男には一言くれてやるだけでいい。それをきちんと知っていた。
「氷河はじゅうぶん汚いから、安心していいと思うけど?」
 そんなことを考える時点で腹黒い、と笑うと、彼は目をわずかに見開いて、それからとてもうれしそうに笑った。

 きれいな枠にはめられて身動きの取れない親友を、彼女だけがきちんと見ていてくれたことを、初めから知っていた。
 かつて亡くなった母がその病床で、頼み事をしたことがある。いや、それが頼み事だったのかどうかはよくわからないが、なんとなく葉月は母の言葉を履行しなくてはならないような気がして、……だからひょっとしたらあれは頼み事というよりも、むしろ遺言なのかもしれない。

 世界を見せてあげる、と言われてその気になったことは事実だった。けれどもそれは所詮事実の半分でしかなく、もう半分がずっと欠けているから、いつまで経ってもこの生活は歪だ。養い親との生活が幕を開けて、もうゆうに三年は経つのだけれど。
 欠けたもう半分の理由は、遺言の履行である。つきつめて言ってしまえばつまり義務感というやつで、葉月などはしばしば、一体このもう半分の理由が養い親――葉月を純粋に憐れみ、慈しんでくれる亡霊――に知れたらどうなるのだろうと、不謹慎にもちょっとドキドキしている。いや、養い親はあれでずいぶんと甘やかしなところがあるから、きっと少し寂しそうに笑って、全部許してくれるのだろうが。
 歪んだ生活もほぼ五年を数えるころ、葉月はもうずいぶんと成長していたが、そのせいだったのだろう、いつになく養い親が落ち込んでいることがあった。
 亡霊のくせに人間以上に人間くさいこの――見た目だけ――青年は、落ち込み方も並みではない。落ち込むというより、ほとんど死体同然になる。どうせ食事などしなくても元から死んでいるし、もっと言ってしまえば眠らなくても存在し続けることは可能なわけだから、放っておくと何日でもぼんやり月をながめて過ごしている。喋りもしないし身動きもしない様子がまるで死体だと、葉月はたまに考える。もっとも、とうに死んでしまっている男なのだから、彼に対する形容詞はそれが一番ふさわしいのかもしれないが。
 その日もちょうど養い親は『死体』になっていて、それでもわずかな気づかいか、葉月の目につかない屋根の上にだらりと寝そべり、月を見上げているようだった。いつもならば放っておく彼をわざわざ覗きに行ったのは、どう贔屓目に見ても酔狂としか言いようがない。あるいは悪趣味だろうか。ただ、視線をよこしもしない養い親に、いつになく嗜虐的な気分になったのは確かだった。
「――母さんがね、言ってたよ。氷河は傍にいてやらないとダメだって」
 聡い養い親は、きっと自分が何を言いたいのか気づくだろうと葉月は思った。そう、僕は言ってやりたかった。いたいから傍にいるんじゃない、いてやれと母さんが言ったから、ここにいるんだ。
 養い親はのろのろと顔だけをこちらに向けて、そうしてどこか寝ぼけたような、愚鈍な薄笑いを唇だけで浮かべてみせた。
「それでもいいんだ」
 君は彼女の子どもだから。
 ――葉月はなんだか、背筋に寒気を感じた。
 母がより可愛がったのは、妹だった。父がより気にかけたのは、妹だった。叔母がより叱ったのは、妹だった。叔父がより笑いかけたのは、妹だった。
 真実僕のためにいてくれたのは、従妹だけだった。

 「時々ね、……絞め殺したくなる」
 なんの力もない妹のこと、その辺りを漂う精霊たちに一言告げれば、それだけで彼女は跡形もなく消えてしまうにちがいない。それこそ自分が手を汚す必要もない。
 けれどもあえて、この手を汚してみたいとも思う。品行方正に、優秀に生きることを義務づけられたこの手が妹を縊り殺す場面をシミュレーションすることは、ひどく自分をおだやかにさせる。あるいは、腹を割いて幼い臓器を全部掻き出してやっても素晴らしいと思う。祝詞を紡ぐこの口が、本来供えた獣の牙を行使する空想も、やはり自分を微笑ませる類のものだ。
 明かしてしまえば気狂いだと、あるいは鬼子だと忌まれるだろう。けれども自分は知っている。本当のところ、けだものと人の入り交じった自分たちなのだから、そういった狂気を併せ持たないはずはないのだと。
 背後からぽつりと、いっそ笑いさえ含んだ兄の声に、妹は不思議そうに振り返る。そのしぐさの、なんとあどけなく無防備なことか。けだものはお前のすぐ近くにいるんだよ。例えば、そう、この兄さえもけだものだ。
 お兄ちゃん、と舌足らずに呼びかけて来るものだから、どうにもふぅっと魔が差してくる。それはおそらくは一秒の何百分の一とか何千分の一とかの時間にすぎなかったのだろうけれど、衝動が妹の首を絞めるには十分な時間ではあった。微笑う。首に手をかけて、ぎゅっと。
 僕は妹の、

1 2 3 4 5 6 7 8 9 >