中学に上がってから意気投合した少年は名を下山俊介と言って、余り自分のことを話したがらない類の男だったが、実家は中野の米問屋であるらしい。羽振りも良く、頭も回るとあって、付き合い始めてから健一が彼に助けられた回数は片手の指では足りない程だ。
 更に言えば、これが大層な美少年である。同性でも一寸目を惹かれる位の整った顔立ちで、卸し立ての制服をきりりと着、窓際で物憂げに本なぞ読んでいる姿を見ては、上級生達が「麗しの君」と半ば冗談、半ば本気で呼んだりもする。
 ところが親しく話す様になって健一が知った俊介という少年は、全く夢を見ている先輩方に申し訳ないと、彼自身は何らの関係もないにも関わらず平謝りしたくなる様な男であった。
 まず、人をからかうことにかける情熱は並々ならぬ物がある。入学三日目にして地理のうらなり教師に教卓の下で蛙を踏み殺させてキャッと悲鳴を上げさせたのは、実はこの少年だったし(うらなりは散々犯人は名乗り出るようにと憤慨していたが、級の全員が素知らぬ顔だった)、何かと威張り散らす教練の退役将校にひまし油入りの饅頭を食わせて翌日の教練を自習に追い込んだのも彼だった(当然、誰もがこの英雄を称えた)。
 また誰の血を引いた物か、齢十三にしてとんでもない好色である。制服姿の女学生、それも明らかに年上のがこっそりと彼に手紙を渡しているのを見ただとか、果ては中野の方で着物姿の粋な女性と立ち話をしているのを見ただとか、色めいた噂には事欠かない。
 挙句、口が悪い。そもそも健一が俊介と知り合った切欠と言うのが、彼がそのよく回る口でもって散々に健一の訛りをこき下ろしたと言う、傍から見ればどうしてそれで友人等になれたのだかさっぱり掴めない物だった。

 「なア君、そう、そこの君だ、大島君だろう。どこの出だい、先の音読は馬鹿に訛りが酷かったぜ――あれじゃア今後困るンじゃないのか」
 失礼極まりないその発言を、健一は努めて無視して一心に鞄に教科書だのノートだのを詰め続けたが、それでもかっと頬に上った血ばかりは誤魔化しようがなかった。これだから嫌なのだ、国語の時間等と言う物は――殊に音読は。
 まして、相手が下山俊介である。入学早々学年一、否、学校一の有名人として燦然(さんぜん)たる輝きを放つこの少年は、無論頭も回る方だったから健一とて多少の憧れを持っていた。それが初めて話しかけられたと思えば、訛りが酷いの今後困るのと、大した言い様である。幻滅もいい所だった。
 オイ大島君、と更にかけられた声を遮る様にがたりと勢いよく席から立ち上がり、殊更に冷静を装って健一は言った。
「ご忠告痛み入るよ、下山君。それじゃア、また明日」
 こんな時ばかり影を潜めた自身の訛りに内心悪態を吐きながら、健一は教室を後にした。だがしつこく俊介は健一の名を呼んで、あまつさえ廊下まで追いかけて来る。それでも健一は無視するがいいのだ、それが一番だと、ずんずんと歩を進めた。
 健一は生来気の長い方である。実家で下の妹が三日と空けず近在の餓鬼大将と大喧嘩をしでかしても、下の弟が毎晩同じ布団の中で寝小便をしても一度たりとて怒りに任せて怒鳴り付けたことはなかったが、上級生の教室前で俊介に腕を掴まれた瞬間、健一の頭の中で何かが切れる音がした。
「――てめエなんかい言われねェでもわアってるっつッてンだろォがよオ、ほっぽっとけ!」
 そのまま腕を振り払い、何事かと向けられる数え切れない程の視線には気付かなかった振りをし、走って下駄箱へと向かった。からかいの相手がようやく馬脚を現したことに満足したと見えて、案の定、俊介は追っては来なかった。
 あんな口の悪い、ついでに性格も悪い奴のどこが「麗しの君」だと帰る道々、地獄の鬼も裸足で逃げ出さんばかりの形相で息巻いた健一が、件の貴公子といかにして友人となったかは、また別の話。
 一途と言えば聞こえは良いが、一つのことに集中してしまうと没頭のあまり周囲がまるで見えなくなる、要は不器用なだけなのだ、と俊介はその様に親友を理解している。蛇足だが、この白皙の君に親友と呼ばれる名誉を与えられているのは唯一、八王子の水呑み百姓が出の大島健一のみである。
 さて、ここ一、二ヶ月と言うもの健一が執着している物が何なのかは世慣れた俊介からすれば一目瞭然で、勉強にさえ身が入らぬ、一寸どうかしているンじゃないのかと眉をひそめたくもなるのが、つまり小峰千恵子嬢との付き合いだ。三日と空けずに手紙を書いて、月に一度はランデブーをして、仲の良いのは結構なのだが、それはしばらくは一所に落ち着くつもりのない俺への当て付けかと喚き出したくなる。否、健一がそんな真似を考え付きもしない男だと言うのはよくわかっているのだが。
 しかし幾ら不器用と言ってもこれは酷い、と俊介は高畠華宵だか何だか、女学生の好みそうな美しい図柄の便箋を放り投げて盛大に溜息をついた。
 貴方をお慕いしています云々の手紙を貰ったことは、それは伊達で色男を気取っている訳ではないから両の指では足りない程度に経験があるが、他人宛の手紙を貰ったのはさすがに初めてのことだった――手紙の冒頭には、「大島健一様へ」とある。
 健一から「相変わらずお安くない男だな、君は」としかめ面なのか苦笑なのか判別付けかねる顔でこれを渡されたのは、今朝の話だった。
「……お安くないのは君だろう、大島」
 俊介が頭を抱えて机に突っ伏したのも、無理からぬことではあった。

 健一と俊介のどちらもが一人きりになっている時間と言うのは、実は驚く程少ない。俊介の方は同級生だの上級生だのからやれ蜜柑をやるのあの本を貸してくれだのと始終呼び出されまとわりつかれているし、健一は健一で独自にこなしている問題を教官に聞きに行ったり、上手くもない小説を同人誌にすると気勢を上げる一団に一筆提供していたりする。
 だから健一がドイツ語の辞書とノートを広げて図書館で背を丸めている所へ、ようやく級友を振り切った俊介が一寸いいかい、と話しかけたのは勿論偶然ではなかった。振り返った健一はなんだ下山か、と言う顔をして、外へ出ようと顎をしゃくった。成る程、図書館は勉学の場であって、雑談の場ではない。
 手早く片付けを終えて表に出ると、健一はちらとこちらに目配せをしてそのまま裏手の池へと向かった。鬱蒼と周囲に木々の茂るこの池は、帝大の三四郎池に対抗してか誰からともなく万葉池等と呼ばれ始めて今に至るが、これが密談を交わすに誂えた様な場所で、仮にここで今夜あの同級生にこんな悪ふざけをしてやろうと言う声が聞こえたとしても素知らぬ振りをするが礼儀とされている。
 手近な欅にもたれてふう、と息をつくと、健一は全体何の用だい、と首を傾げてみせた。もっとも、風呂敷に包んだ辞書の端が随分と薄汚れ、ぼろぼろに折れ曲がっているのを見咎めた俊介は、健一に応えるよりも先に顔をしかめて邪魔したな、と確認の様に問うたのだが。
「いや、丁度眠くて集中出来なかったんだ、良かったよ。それで未だ俺に用事を言う気にはなれないッてのかい」
 からかい気味ににやりと笑ってみせる健一はいかにも裏で何事かを画策していそうで、シャポーを脱がざるを得ない。こんなのに小作になられちゃア名主も商売上がったりだったろう、と親友の方向転換を複雑な思いと共に考えながら、俊介は懐から件の手紙を取り出した。
「昨日のこれだが、一体君はこれをどこで、どんな風に、どんなメッチェン(女の子)に貰ったんだ? 本当に俺宛だッてのを確かめたんだろうな」
「おい、俺が一体何度君への恋文を配達させられたと思ってるンだ? 一昨日の夕方頃かな、店番してたら何も言わずにさっと渡されたのさ。君が店にいる時に何度か来てた様だから、その時に思い染めたんだろうな。そりゃア緊張はしてたみたいだが、自分の書いた恋文が好いた相手に渡るのを考えたら、当たり前だろう」
 因みに、と唇を尖らせた不満そうな表情で健一は付け足した。
「所謂トテシャン(超美人)って奴だったよ。どうでもいいが、君、余り女性を哀しませる様なことはしてくれるなよ」
 それでもう話は終いだとでも言いたげな口振りに、俊介は内心、聞くに堪えない罵声を健一に浴びせた。
 手紙の少女が緊張していたことも、美人だったことも理解している癖に、彼女の想い人が己自身だと何故考え付かないのか。余りにも不器用過ぎる。しかもその手紙を俊介宛と勘違いして開封すらせずに寄越して来るに至っては、最早不器用を通り越して絶望的だった。
 ぐるぐると腹の底から吹き上げる激情に堪え切れずに、俊介は怒鳴った。
「大島、阿呆か君は! いや、阿呆だな、知ってたが阿呆だ!」
「なん――おい、人を阿呆阿呆言うな、失敬だな!」
「失敬結構、ああもう、付き合いきれんよ!」
 ばさっと手紙を健一の顔面に叩き付けるとどかどかと足音荒く俊介は万葉池を後にしたが、またも何事か喚きかけた健一の怒号が途中で途絶え、が、だかぐ、だか蛙の踏み潰された様な悲痛な呻きが耳に届いたのは全く爽快なことだった。

 その後一月ばかり、一年の大島と下山が万葉池で別れるの別れないのと痴話喧嘩をしていた、と言ういかにも眉唾、怪しげで学生らしい噂が校内を飛び交ったが、それはまた別の話。
 小金井に桜を見に行きませんか、と健一が三日と空けずに送ってくれる手紙の中で言ったのはまだ梅も咲かない頃だったが、それが届いた翌日に参ります、との返事を書き上げてしばらく経つ。気付けば空気は温み、立川より幾分春の遅い八王子でも、蕾が桃色を帯びる様になっていた。千恵子がそれに微笑んだ翌日に健一からは改めて手紙が届き、そうして週末の今日、二人は武蔵小金井の駅に降り立ったのである。

 駅から玉川上水までの道すがらは、二人の様に桜見物の人々で一杯だった。花の見頃は短く、天気も良いとなれば見物客が集中するのは無理からぬことだったが、千恵子にとっては少々煩わしかった――健一と二人きり、のんびりと花見を楽しめると思ったのに。
 それでも人の気も知らずに「皆、楽しそうですね」等と笑う健一が余りに伸びやかで、浅ましい己の方が恥ずかしくなってしまう程だったから千恵子もそうですね、と気分を変えることにした。愚痴を零す等勿体無い、折角ここに二人でこうしていられるのだから、そのことを楽しまなければ、と思う。
 そう思い直してしまえば浮かれる人々の足取りさえも愉快で、遠目に見え始めた仄かな薄紅がより心を浮き立たせる。その心情のままに隣を行く青年の手を取りたいと千恵子は心底願ったが、生憎と彼女はそうまで世間の目を気にせずにいられる方ではなかった。
 せめて、とやや痩せぎすで頬骨の目立つ横顔をじっと見つめると、さながら思いが通じたかの様に健一はつとこちらを振り向いて、困った様に苦笑いして見せた。どきり、と千恵子の心臓が不安に音を立てる。彼を困らせる程に、私の目は不躾だったのかしら。
 けれども予想外にも健一はすいと腰を屈めて千恵子の耳元に口を寄せ、驚く様なことを囁いた。「もう少し静かな所に行きたい――そう思いませんか」。彼にしては大胆な台詞だ。自身もそう思ったか、目元に僅かに朱が滲んでいるのを千恵子は見逃さなかった。
「――先輩に、英学塾(現津田塾大学)に進んだ方がいらして」
 健一は突然の話題にぱたぱたとあどけない疑問の瞬きを寄越したが、それでもはあ、と頷いた。
「商科大学(現一橋大学)の方と歩くと言う道があるンだそうです。ラバァズレーンって言うそうですけど――行って、みません?」
 その甘やかで秘めやかな言葉に健一が頷かぬはずはなく、二人はそっと人の流れを外れ、五日市街道を商大橋で向こうに渡って女子英学塾の方へと歩いた。
 「恋人達の小怪」と言う尤もらしい名前を与えられたそこは目的の桜こそ姿もまばらだったが、同時に人影も殆ど見当たらず、千恵子は少しほっとした。木漏れ日を吹き抜ける風もどことはなしに先程よりも爽やかで、人混みに当てられていたのかもしれないと思い当たる。健一が気遣う様に少し休みますかと問うたが、歩きましょうと首を振った。
「八王子はまだ咲いていなくて。来週頃になるでしょうか」
「ああ、そうですね、僕の実家の辺りなんかはまだそれよりもう少しかかりますよ。……立川に出て来るまで、花見なんぞはしたことがなかった」
 桑の世話したりお蚕様の支度したりで、気付いたら散ってるンです。健一は懐かしそうに笑ってから途端にはっと真面目な顔になって、すみません、と頭を下げた。
「こんな話、つまらんでしょう。街の人に聞かせる話じゃアなかった」
「あら、いいえ、もっと聞きたいです。新鮮だし……大島さんのお家のことなンですから」
「そうですか? じゃアもう少し――」
 せがむと、健一は訥々と小さな農家の春一番の仕事を語ってくれた。土筆や芹やのびるを弟妹達と摘みに行ったこと、一番下の弟を背負って桑を刈りに奥の畑まで行ったこと。それはこの穏やかで本を愛する青年とはまるで別人の少年時代である様にも思えたが、そうしたものの積み重ねが今の健一を形成しているのだと千恵子は知っていた。
 けれどそれでも優しさと言う名の目隠しで覆われた向こうに透けて見える彼の苦しみを思って、千恵子は堪らずに健一の手を取った。その手は骨張って指先が荒れ、ちくちくと柔肌を引っかくささくれが彼女を切なくさせた。
 きゅ、と握り締めると、健一はうろたえて小峰さん、と弱々しく千恵子を咎めた。振り払いこそしないものの遠慮がちに引き抜かれようとする手を、彼女は逃さないとばかりに両手で取った。
「――誰もいませんから」
 だから、と微かな声で囁くと、健一は迷う様に視線を彷徨わせ、……そうしてようやく肩の力を抜いて、千恵子の華奢な手をそっと握った。彼の手のひらは大きく、彼女の手をすっぽりと包んで優しかった。
 千恵子は不意に、もっとずっと昔、従兄とこうして手を繋いで街を歩いたことを思い出した。あの時と似ている。だがあの時よりも心臓が痛くて頬が熱い。つまりはそれそのものが彼と、健一と歩いていると言うことなのだろう。
 その後は一言の会話もなかった。ただ二人は互いの呼吸さえも逃すまいと耳をそばだて、一つの身じろぎをも捉えようと全身を心地良い甘い緊張に浸した。絡めた右手と左手に、この世の全てがあった。

 立川の駅に着いたのはまだ明るい頃合だったから、千恵子は送りますと言う健一を丁寧に断って代わりにこう言った。
「また、あの道にご一緒しましょう、ね?」
 健一が顔を赤らめてけれども勢い良く頷いたのは、言うまでもないことだった。
 少し休憩にしますか、と止まりがちになった鉛筆に苦笑しながら健一が言い、ほんの数ページしか読み進めることの出来なかった英文に、千恵子は赤面した。独りで勉強した方が余程効率が良いなんて、馬鹿げているにもほどがある。忙しい日々を縫う様にして勉強の面倒を見てあげようと申し出てくれた健一にも、その彼の穏やかで高潔な人柄を褒めて頷いてくれた両親にも、申し訳が立たないではないか。
 はい、と静かに鉛筆を置くと、千恵子はするりと立ち上がって部屋の襖に手をかけた。小峰さん、と物問いたげな背後からの声に、肩越しに振り返って微かに笑ってみせる。
「お茶を入れて来ます。それと、最前お隣から一寸良い最中を頂いたと母が申してましたから、それも」
「やあ、それは美味そうですね」
 膝を崩して胡坐をかき、朗らかに笑った健一を眩しく目をすがめてもう一度見つめると、少し待っててくださいね、と言い残して襖を閉めた。

 熱い茶を入れた湯飲みを二つ、中に求肥の入った上等の最中を二つ――勿論母は快くまだ家族の誰も手を付けていないこの菓子を彼に出すことを承知してくれた――、盆に載せてしずしずと運んでゆくと、健一は千恵子が読みさしで机の隅に置いていた本をぱらぱらとめくっていた。大島さん、と控えめに声をかけると、はっと顔を上げた青年は慌てた様にすみません、と本を元あった位置に戻した――勝手に読んだことを咎めるとでも思ったのだろうか、と少しおかしみを覚える。彼に見てもらって恥ずかしいものなどこの部屋には、こと今日は一つもないはずなのに。
 いいンです、と畳の上に盆を置いて、千恵子は本をそっと健一に差し出した。古びて日に焼けたそれは小川未明の童話集で、千恵子が以前中里書店で手に入れたものだった。
「未明、お好きなンですの?」
「――童話なんて女子供の読み物と馬鹿にする者もいます」
 躊躇いがちに本を受け取って、健一は自嘲する様に呟いた。けれども彼が実際にはそう考えているわけではないことは明らかで、だから千恵子は彼の欲しがっている答えを唇に載せてやった。
「言いたい方には言わせておけば良いンです。そう言う人達がどう言ったッて、素敵なものは素敵なンですから」
 そうでしょう、と真摯な声音で語りかけると、健一は一寸呆気に取られた様に目を見開いて、それからははっと軽く声を上げて笑った。清水良雄の描いた、薔薇の只中でうなだれる年老いた兵士の表紙を愛しげに指先で撫で、健一は貴女は、と千恵子を何か神々しいものでも讃えるかの様に見つめていた。
「何時でも、僕には解けない問いを解くンですね」
 それから健一は勧められた湯飲みを手にしてぐいっと茶を一口飲み、照れ隠しの様に最中に噛り付いてうん、美味いと独り言を言った。

 写本のためにとその日本を借りて行った健一が次に千恵子を訪ねた時、ふと気付いた彼の鞄の中に潜んでいた何枚もの原稿用紙――それは勿論未明の童話を写したものだったが――の中、ひっそりと忍ばせられた見覚えのない一編のそれを健一が書いたのだと千恵子が知ったのはもっとずっと後の話。
 従兄の様に強い訳ではないかもしれないけれど、この人はとても優しくて、素敵な人。

 父方の伯母のことは、あまり好きではない。出世もしないと言っては父を嘲り、家事もできないと言っては母をなじる。三日と空けずにわざわざ家へ来てそんなことを愚痴って帰るものだから、千恵子は余程そんなんじゃア貴女の方が家事ができていないンじゃないですか、と言ってやりたいのだけれど、そう言えば余計に父や母が困ることを知っているからしおらしい顔をして頷いておく。そんな自分が、千恵子は余り好きでない。
 それにつけても理解に苦しむのは、あんな伯母から従兄の様な立派な人が生まれたことだ。彼は聡明で強く、その上いつでも優しかった。ちえちゃん、と彼が自分を呼ぶ時の少しのんびりとした甘い低い声を、千恵子はまだきちんと覚えている。
 ちえちゃんは賢い子だから、もっともっと勉強するが良いよ。そんな人なら誰だって放っておかない、一番好きな人を選びなさい。兄さま、と呼んでいた彼は、とても進んだ考えの持ち主だったのだと思う。
「女に学問なんかいらないでしょう、貴女の父さんは甘いのねえ。女学校なんてあんな所に行って役にも立たないことをやっているから、貴女の母さんは家事もちゃんとできないんですよ。それより伯母さんの家にいらっしゃいな、家事の他にお花もお茶も教えてあげられるし、申し分のない旦那様も見つけてあげますよ」
 だから父を貶されたことよりも母を馬鹿にされたことよりも、従兄の言葉を全くの初めから覆した、その事実その物が千恵子には許せなかった。
 それは伯母への当て付けではなく、従兄の遺言を後生大事に抱えていたせいでもなく、ただ彼を亡くした数年間で自然と千恵子の心に芽生えた幼くも熱い感情だった。伯母の様にはならぬ、私は私の足で歩いて、一番好きな人を選ぶのだ。
 女学校へ行きます、と何者の干渉も認めない娘の言葉に、物静かな父は一つ頷き、「好きにしなさい」と言った。

 少し離れた、けれど温もりを感じる距離を歩く青年を盗み見るように見つめながら思う。
 ――この人が、私の一番好きな人。
 おめぇの見送りなんかい行けねぇよ、と父は言い、母は黙って戸口の所で握り飯の弁当を持たせてくれた。一番上の弟でさえ尋常の四年生、一番下は矢張り弟で、未だやっと手を引いてやって歩ける様になったばかり。そんな二人を入れて合計四人の弟妹達は、朝から桑を刈りに行けと、鎌と籠を持たされて何処かへやられていた。彼らは皆長兄に懐いていて、これからあにさんは遠い所へ行って暮らすのだ等と聞かせたら揃って泣き喚くに違いなかったから、それはきっと両親の思いやりだったのだろう。
 君は賢い子だ、もっと勉強しなさい、と言って学費の負担を申し出てくれた未だ若い教師の、ペン胼胝の出来た手を握ってただ街の駅への長い長い道程を歩く。これは俺んとこのでぇじな上のおとこしだ、来年からは畑の仕事をさせる、と顔を真っ赤にして怒鳴る父に、どうか中学に行かしてやって下さいと土間に土下座をしさえしたあの強情な面影は今はなく、ちらりと隣を行く彼を見上げても、村の他の大人達とは一線を画した、静かに理知的な痩せた顔があるばかりだった。
 せんせえよぅ、と風呂敷包みの握り飯を妙に意識しながら声をかけると、うん、と教師はこちらを向いた。彼は、少し微笑んでいるようにも見えたが、もしもそうなのだとすればそれは苦しそうな笑顔だった。
「俺んち、ど貧乏です。せんせえに借りた金も、いつ返せるか、返せないかもわかんねぇ」
 相槌を打つでもなしに、ただ教師は黙って耳を傾けていた。
「――それでいいんかな? 俺、せんせえに金借りて、弟と妹と働かして中学行って、でもきっと高校は行けねぇ」
 学費が幾らなのかも教師の月給が幾らなのかも知らなかった。だけれどそれでもようやく一人前になりかけた男手が百姓家から一人減ることが家族にとって酷い負担になることは間違いなく、去年街から嫁を貰った教師の生活が切迫することもどうやら子どもの浅慮ではないように思えた。
 賢いと褒められることは嬉しかった。もっと勉強したいと思ったのも事実だった。だが降って沸いた学費負担の申し出に狂喜した後に見えた生活と言う名の現実は、尋常を出たばかりの少年の目にまざまざと映し出されて希望を苛んでいた。
 彼の一歩後ろで、下げた風呂敷包みを手が白くなる程に握り締めた子どもを、教師はあの苦しげな微笑みと共に見つめた。あたかも、そうした生真面目な性格がもたらす葛藤は予想していたとでも言いたげに。
「――僕の家は、日野で梨を育てていてね」
 師範学校時代に矯正でもしたのだろうか、教師の喋る言葉はいつも村では聞き慣れない、山の手の言葉だった。ただ、僅かばかりそこに残る泥臭いアクセントを、子ども達は殊の外笑い、それでいながら好いていたけれども。
「僕の中学の学費は、矢っ張り家では出なかったから、親戚が出してくれた。両親も君の父上の様に嫌がった」
 でも、と教師は不意に微笑みを顔から消した。
「そうやって学校に行ったから、今僕は君を中学にやってあげることも出来るし、両親に仕送りも出来る」
 僕が言えるのはそれぎりだよ、と教師は言い、またあの苦しそうな微笑みを顔に呼び戻して、昼餉にしようかと道の脇の大きな石に腰を下ろした。並んで石の上に腰掛け、風呂敷と竹の皮に包まれた大きくて不細工で塩の味しかしない握り飯を喉の奥に押し込む――ゆっくり咀嚼すること等出来そうになかった。そうしてしまえば泣いてしまいそうだった。おとこしは泣くもんじゃねえ、と父は言ったのだ。
 せんせえよぅ、と正月にしか見たことのなかった白米だけの握り飯を哀しく思いながら言った。
「俺、高師に行く。そいで、せんせえになって皆んなに仕送りしてやりてぇ」
 ぼろりとどうしようもなく零れた涙と一緒に最後の飯粒を飲み込んだ健一に、教師はうん、とだけ言いながら、水筒の水を差し出した。
 クリスマスと言う行事が欧羅巴の国々ではあるのだ、と教えてくれたのは、十以上も年上の従兄だった。

 「樅の木にガラスや銀で作った天使やくす玉の様な飾りを吊るしてね、鶏の丸ごと焼いたのや焼いた洋菓子なんかの大層な御馳走を食べる」
 火鉢の上では薬缶がしゅんしゅんと沸いているが、小峰の家は今日は千恵子と従兄ぎり残っていて、家人は出払っている。そのせいで、師走の忙しい時期だと言うのに、家は不気味な程しんと静まり返っていた。千恵子は耳が痛い程の静寂を怖がる厄介な性質の子どもで、兄様お話して、広い肩幅と大きな手を持つ優しい従兄に甘えるのは、別にこれが始めてと言う訳ではなかった。
 それでお土産に持って来た金平糖の小さなビンを、おかっぱ頭も愛らしい少女のために開けてやり、洋菓子の代わりとばかりに桃色の金平糖を千恵子の口に入れてやりながら、従兄は話を続けた。
「二十四日の夜には、ちえちゃんの様な子どもは皆んな布団の所に靴下を下げておく。そうすると夜中にサンタクロウスと言う仙人の様なお爺さんが来て、贈り物をくれるんだよ。ちえちゃんも良い子にしていたら、明日の朝には贈り物を貰えるかもしれない」
 それは確か十二月の大晦日も近い頃で、従兄はその時何かとても素敵な贈り物を千恵子にくれたのだったが、あれは何だったろうか。欲しがっていた赤い靴だった様な気もするし、もっと全然違う物だった様な気もする。ただ、そうして従兄は彼の分の贈り物をくれたのに、次の日の朝起きてみると布団の横には綺麗な千代紙と真っ赤なリボンで飾られた大きな包みが置いてあって、中には金色の巻き毛と空色の目の大層可愛らしい仏蘭西人形が入っていた。
 きっと兄様の言っていた、サンタクロウスと言う仙人が来たんだわ、と千恵子は喜び勇んでその夜は家に泊まったはずの従兄に見せに行こうとしたのだけれど、軍から急な呼び出しがあったとかで彼はもう家にはいなかった。また今度いらした時に見て頂きなさいな、と母は言ったけれど、結局従兄に会えたのはその後一度きり、どこか遠い北の国に、「アカ」と言う悪者を退治し、良い外国の兵隊達を助けに行くと言うその朝だけだった。

 駐在武官の一人として独逸か仏蘭西か、どこか女学生になって初めて知った様な名前の国へも訪れた従兄はもういない。シベリアに出兵した彼は二十五歳で時を止めてしまって、二度と千恵子に金平糖や赤い靴をくれることも、クリスマスの話をしてくれることもないのだ。
 だから千恵子は、未だにあの仏蘭西人形のお礼を従兄に言えないままでいる。幼く無知であったことは、幸せだったけれど残酷だと、十七を迎えた今、ようやく知った。