はらわたとキスの味。
2004年2月9日 長編断片 喉が、乾いている。からからに――砂漠の砂のように。
それは水を飲んでも食事をしても収まらない。もちろん頭を使っても、身体を動かしても。
だから俺は今日も外に出る。人気のない公園で、酔って千鳥足になったオヤジをひとりか二人つかまえることなど、若い俺にとってはさしたる苦労じゃない。たまに相手がOLだったりしても、それは同じことだ。
人殺しは、嫌いじゃない。
一日何時間も勉強して脳味噌をフル回転させたり、あるいはマジメに部活に打ち込んで汗を流しても得られない満足感を、人殺しは一瞬で満たしてくれる。スリリングな一瞬が脳のアドレナリンを活性化させて、俺を燃え立たせるのだ。
そしてその瞬間だけ、俺の喉の渇きは癒される。普通の人間が手を伸ばしても与えられないような満足感に、俺は酔いしれる。
だから、人殺しは嫌いじゃない。
俺にはバケモノの知り合いがいる。何故かと聞くな。気付いたら知り合いになってた。
食人鬼の彼女は、ちょうど俺と同じくらいのサイクルで人の血が恋しくなる。喉が渇いてしかたがなくなる。俺たちの利害は一致している――喉をひりつかせた、殺人鬼と食人鬼。
俺はオヤジなりOLなりを殺して喉の渇きを収める。彼女はその死体を喰って喉の渇きを収める。世の中、俺と彼女みたいな連中ばっかりだったらもう少し過ごしやすかったと思うんだが。
ある夜中、俺はいかにも今年大学を卒業しましたというようなOLを殺した後で、ぼんやりタバコを吸いながら月を見ていた。三日月のきれいな晩だった――その下で、OLの腹に開いた傷口から、血を啜ってる彼女という倒錯的な光景さえ、なにかの儀式に見えるほど。
「ねぇ」
ていねいにはらわたを地面に取りのけて、顔面の血をぬぐいながら彼女が言う。
「興奮してきたんだけど。抱いてよ」
「ヤだよ。俺、外でヤんのは嫌いだかんな」
「ちぇ。じゃあキスして」
彼女の我が侭に付き合うのも、『利害』のひとつである。
俺はおとなしくタバコを地面に捨てて、なんだかものすごい形相になっている彼女を見つめた。血まみれの唇がてらてらと脂で光っていて、まるで高級なリップグロスを塗りたくったようだった。
舌先でその唇を舐め、彼女の好きな深い深いキスをくれてやる。俺の中に忍び込んできた彼女の舌は、生き物のように俺の口内をまさぐって八重歯をなぞった。
不意に彼女の牙が唇に当たって、ぷつりとやわらかな音を立てて皮が破れた。
それは水を飲んでも食事をしても収まらない。もちろん頭を使っても、身体を動かしても。
だから俺は今日も外に出る。人気のない公園で、酔って千鳥足になったオヤジをひとりか二人つかまえることなど、若い俺にとってはさしたる苦労じゃない。たまに相手がOLだったりしても、それは同じことだ。
人殺しは、嫌いじゃない。
一日何時間も勉強して脳味噌をフル回転させたり、あるいはマジメに部活に打ち込んで汗を流しても得られない満足感を、人殺しは一瞬で満たしてくれる。スリリングな一瞬が脳のアドレナリンを活性化させて、俺を燃え立たせるのだ。
そしてその瞬間だけ、俺の喉の渇きは癒される。普通の人間が手を伸ばしても与えられないような満足感に、俺は酔いしれる。
だから、人殺しは嫌いじゃない。
俺にはバケモノの知り合いがいる。何故かと聞くな。気付いたら知り合いになってた。
食人鬼の彼女は、ちょうど俺と同じくらいのサイクルで人の血が恋しくなる。喉が渇いてしかたがなくなる。俺たちの利害は一致している――喉をひりつかせた、殺人鬼と食人鬼。
俺はオヤジなりOLなりを殺して喉の渇きを収める。彼女はその死体を喰って喉の渇きを収める。世の中、俺と彼女みたいな連中ばっかりだったらもう少し過ごしやすかったと思うんだが。
ある夜中、俺はいかにも今年大学を卒業しましたというようなOLを殺した後で、ぼんやりタバコを吸いながら月を見ていた。三日月のきれいな晩だった――その下で、OLの腹に開いた傷口から、血を啜ってる彼女という倒錯的な光景さえ、なにかの儀式に見えるほど。
「ねぇ」
ていねいにはらわたを地面に取りのけて、顔面の血をぬぐいながら彼女が言う。
「興奮してきたんだけど。抱いてよ」
「ヤだよ。俺、外でヤんのは嫌いだかんな」
「ちぇ。じゃあキスして」
彼女の我が侭に付き合うのも、『利害』のひとつである。
俺はおとなしくタバコを地面に捨てて、なんだかものすごい形相になっている彼女を見つめた。血まみれの唇がてらてらと脂で光っていて、まるで高級なリップグロスを塗りたくったようだった。
舌先でその唇を舐め、彼女の好きな深い深いキスをくれてやる。俺の中に忍び込んできた彼女の舌は、生き物のように俺の口内をまさぐって八重歯をなぞった。
不意に彼女の牙が唇に当たって、ぷつりとやわらかな音を立てて皮が破れた。
I wish I were God.
2004年2月8日 その他 もう少し、もう少しでいいんだけれど。
そう呟いて、私は身体を引きずるように、彼に近付いた。心臓が痛い。どくどく、どくどく、いつもと同じように痛いのに、いつもよりも大きく鳴っているような気がした。
もういいよ、止まれ。
彼の動かない瞳孔がそう言っているように思えたけれど、私はいつでもこうしてきた。今度だけこの歩みを止めることなど、しはしない。
そう、いつだって私は動かない彼に、死にそうになりながら歩み寄った。
生肉のマネキン。よくできたアンドロイドって、そういうものだと私は思う。実際私が見送ってきた彼は、いつだって『生肉のマネキン』だった。
オリジナルの体細胞の一片からDNA情報を採集、二七年という短い時間で螺旋を描くことを止めてしまった彼の、その記憶を全部拾い集める。別の体細胞を育ててできた生肉に、マネキンとなるべく記憶を入れれば、完成。愛しい男の出来上がり。
やってみれば大したことではなかったし、彼を愛していた。痛む心臓という、生殖的な致命的欠陥ごと私を愛してくれるような男は、他にこの世には見当たりそうになかった。
ああ、だが――
神様はやはり公平だ。ひとりだけ死人を取り戻そうとした愚かな女に、きちんと罰を与える。
私はようやく彼の元に辿り着き、見開かれた目をそっと閉ざした。お願いだから目を覚ましてなどと、もう馬鹿みたいに喚く必要性も感じなかった。一度神の領域に足を踏み入れたのなら、抜け出すことなど考えつきもしないように。
二一人目の『彼』の弔いを済ませると、私は二二回目の培養を始めた――
そう呟いて、私は身体を引きずるように、彼に近付いた。心臓が痛い。どくどく、どくどく、いつもと同じように痛いのに、いつもよりも大きく鳴っているような気がした。
もういいよ、止まれ。
彼の動かない瞳孔がそう言っているように思えたけれど、私はいつでもこうしてきた。今度だけこの歩みを止めることなど、しはしない。
そう、いつだって私は動かない彼に、死にそうになりながら歩み寄った。
生肉のマネキン。よくできたアンドロイドって、そういうものだと私は思う。実際私が見送ってきた彼は、いつだって『生肉のマネキン』だった。
オリジナルの体細胞の一片からDNA情報を採集、二七年という短い時間で螺旋を描くことを止めてしまった彼の、その記憶を全部拾い集める。別の体細胞を育ててできた生肉に、マネキンとなるべく記憶を入れれば、完成。愛しい男の出来上がり。
やってみれば大したことではなかったし、彼を愛していた。痛む心臓という、生殖的な致命的欠陥ごと私を愛してくれるような男は、他にこの世には見当たりそうになかった。
ああ、だが――
神様はやはり公平だ。ひとりだけ死人を取り戻そうとした愚かな女に、きちんと罰を与える。
私はようやく彼の元に辿り着き、見開かれた目をそっと閉ざした。お願いだから目を覚ましてなどと、もう馬鹿みたいに喚く必要性も感じなかった。一度神の領域に足を踏み入れたのなら、抜け出すことなど考えつきもしないように。
二一人目の『彼』の弔いを済ませると、私は二二回目の培養を始めた――
Who is in your eyes?
2004年2月3日 交点ゼロ未満 四年前から噛み合っていなかった歯車を、今更はめこもうとしても無駄なのだと、理解できている。だがそれでも愚かな修理工の真似をしてしまうのは、きっと彼に振り返ってほしいからなのだろう。
月がきれいだったので庭に出て、芝生の上にごろりと転がっていたら、足下から声が聞こえた。聞き慣れた男の声は、近ごろとみに落ちつきを増してきたように思える。
「ニーニャ、風邪引くぞ」
英語の聞き取りももうほとんど支障なくできるというのに、彼はいまだによくスペイン語で話しかけてくる。それは気遣いなのだろうが、なんとはなしに年齢を認められていないような気がして、嫌だった。
もう、十八になるのに。
ためいきをついて、彼女は起き上がった。彼のスペイン語に応えて、つっかえがちな英語を口にしている自分も、たいがい馬鹿だと想いながら。
「引かない。ダニエルの方が、寒い」
それでも養父の言いつけには素直に従って、彼女はさっさと家の中に入った。テレビの前で、小さな扇風機がくるくると回っていた。
彼は、と振り返ってみると、まさしく庭から上がってくるところだった。片手にはビールのビンを持って、してみるとシャワーから上がったばかりなのだろう。
「暑いな、クソッ」
ぶつぶつとぼやきながらすれ違った彼の目に自分が映っていなかったことを、彼女は知っていた。
月がきれいだったので庭に出て、芝生の上にごろりと転がっていたら、足下から声が聞こえた。聞き慣れた男の声は、近ごろとみに落ちつきを増してきたように思える。
「ニーニャ、風邪引くぞ」
英語の聞き取りももうほとんど支障なくできるというのに、彼はいまだによくスペイン語で話しかけてくる。それは気遣いなのだろうが、なんとはなしに年齢を認められていないような気がして、嫌だった。
もう、十八になるのに。
ためいきをついて、彼女は起き上がった。彼のスペイン語に応えて、つっかえがちな英語を口にしている自分も、たいがい馬鹿だと想いながら。
「引かない。ダニエルの方が、寒い」
それでも養父の言いつけには素直に従って、彼女はさっさと家の中に入った。テレビの前で、小さな扇風機がくるくると回っていた。
彼は、と振り返ってみると、まさしく庭から上がってくるところだった。片手にはビールのビンを持って、してみるとシャワーから上がったばかりなのだろう。
「暑いな、クソッ」
ぶつぶつとぼやきながらすれ違った彼の目に自分が映っていなかったことを、彼女は知っていた。
ぎし、と世界が軋んで音を立て、終いにどろどろに溶解した黒いコールタールに変わった。まとわりつく重たいそれが、いっそ視界をふさいでくれたならまだしも救いはあったのに。
下ろしたばかりのデビュタントドレスはもう、なんの魅力もなかった。部屋のドアを乱暴に閉めて、真っ白なドレスを引き裂かんばかりの勢いで脱ぎ、丸めてベッドに放り投げる。きれいに結い上げられた髪のピンをむしり取ると、不意に静けさが耳についた。
ぼんやりと立ち竦んで、鏡をみつめる。
――ここに映っている、痩せこけた下着姿の少女は誰だ?
三年前からちっとも成長していないように思える。あの日から自分は身長も伸びていないし、腕や足は骨張っていてみっともない。子どものままだ。
到底かなわないのだ、あのきれいでやさしい女性には。彼女は三年前から大人で、彼の隣に立っていて、姉とか母親みたいなものだった。今日のドレスを見つくろって、髪を結ってくれたのも彼女だ。
わかっている。そんなことはわかっている。
でも、夢くらい見せてくれてもいいと思う。それがだめならば、せめて悪夢を回避する権利くらいは与えてほしかった。
唇を震える手でそっと押さえて、ぽたりと涙をこぼした。
下ろしたばかりのデビュタントドレスはもう、なんの魅力もなかった。部屋のドアを乱暴に閉めて、真っ白なドレスを引き裂かんばかりの勢いで脱ぎ、丸めてベッドに放り投げる。きれいに結い上げられた髪のピンをむしり取ると、不意に静けさが耳についた。
ぼんやりと立ち竦んで、鏡をみつめる。
――ここに映っている、痩せこけた下着姿の少女は誰だ?
三年前からちっとも成長していないように思える。あの日から自分は身長も伸びていないし、腕や足は骨張っていてみっともない。子どものままだ。
到底かなわないのだ、あのきれいでやさしい女性には。彼女は三年前から大人で、彼の隣に立っていて、姉とか母親みたいなものだった。今日のドレスを見つくろって、髪を結ってくれたのも彼女だ。
わかっている。そんなことはわかっている。
でも、夢くらい見せてくれてもいいと思う。それがだめならば、せめて悪夢を回避する権利くらいは与えてほしかった。
唇を震える手でそっと押さえて、ぽたりと涙をこぼした。
たったひとりの聴いてほしい人。
2003年12月21日 期待することを愚かだと言うのなら、どうか期待させないでください。
やさしくしないで、気遣わないで。
愚かにも眠れなくなってしまうから。
やさしくしないで、気遣わないで。
愚かにも眠れなくなってしまうから。
英雄と魔女。
2003年12月8日 たったひとつのためだけに、魔女は人殺しをするのだと、彼女は少し笑って言った。その微笑みが、ひどく安らかだったことを覚えている。
「一番たいせつなもののために、魔女は人を殺せるんだよ」
でも、だれだってそうじゃない?と小首をかしげてみせるしぐさがひどくあどけなく、だから彼女はとうてい魔女などには見えなかった。そんな、まがまがしいもののようには。
否定の意味をこめて目を閉じると、吐息をつく音が聞こえた。ためいき、だろうか。
「それじゃあどうして戦争をするの? 人間は愚かだね」
戦争と人殺しは違うと、彼は思った。
戦争はだれかを守るためではなくて、なにかを手に入れるためになされるものだ。たとえば土地、市場、資源。
どれもこれもが欲得ずくで、目の前の彼女のようにあどけないものではありえない。
「そう、人間は愚かだ。欲望だけで何十万人を殺せる。
大義名分があれば、君はそれで幸せか」
無垢な魔女はまばたきをひとつして、ずいぶんと長い沈黙のあと、小さく首を横にふった。
わからないと、その唇だけがつぶやいたような気がした。
「一番たいせつなもののために、魔女は人を殺せるんだよ」
でも、だれだってそうじゃない?と小首をかしげてみせるしぐさがひどくあどけなく、だから彼女はとうてい魔女などには見えなかった。そんな、まがまがしいもののようには。
否定の意味をこめて目を閉じると、吐息をつく音が聞こえた。ためいき、だろうか。
「それじゃあどうして戦争をするの? 人間は愚かだね」
戦争と人殺しは違うと、彼は思った。
戦争はだれかを守るためではなくて、なにかを手に入れるためになされるものだ。たとえば土地、市場、資源。
どれもこれもが欲得ずくで、目の前の彼女のようにあどけないものではありえない。
「そう、人間は愚かだ。欲望だけで何十万人を殺せる。
大義名分があれば、君はそれで幸せか」
無垢な魔女はまばたきをひとつして、ずいぶんと長い沈黙のあと、小さく首を横にふった。
わからないと、その唇だけがつぶやいたような気がした。
いとけないひとへ(弐)
2003年12月1日 あなたが悪いわけではないのと吐息のようにこぼして、私は目を伏せた。どこをも見ていない彼女を視界に入れることが、できなかった。
「別にね、あなたが悪いわけではないの。
でもね、どうしても……そう、ダメなの」
愛してると伝えられない私の愛情はどこかゆがんで、いつも彼女を傷付けてばかりいるような気がする。彼女は優しいから、何も言わずにただ目を逸らしてしまうだけだけど。
嫌悪と嫉妬と、そしてどうしようもないほどのいつくしみ。
私が彼女に抱く感情というのは、そんなものだ。
「なんでかな、あなたはいい人だと思うんだけどね。そういうところが嫌いなわけでも、ないんだけど」
目を伏せたまま、私は決定的な一打を放った。
「時々、くびり殺したくなる」
それが愛情なのだと、言えないままに。
「別にね、あなたが悪いわけではないの。
でもね、どうしても……そう、ダメなの」
愛してると伝えられない私の愛情はどこかゆがんで、いつも彼女を傷付けてばかりいるような気がする。彼女は優しいから、何も言わずにただ目を逸らしてしまうだけだけど。
嫌悪と嫉妬と、そしてどうしようもないほどのいつくしみ。
私が彼女に抱く感情というのは、そんなものだ。
「なんでかな、あなたはいい人だと思うんだけどね。そういうところが嫌いなわけでも、ないんだけど」
目を伏せたまま、私は決定的な一打を放った。
「時々、くびり殺したくなる」
それが愛情なのだと、言えないままに。
いとけないひとへ。
2003年11月30日 神様。
あの女が嫌いです。どうしようもないほどに大嫌いです。
私のプライドと尽くした努力にかけて、あの女を許すことができません。
神様。
あの女が好きです。どうしようもないほどに大好きです。
私の胸の一番深い場所が、あの女を憎みきれないのです。
あの女が嫌いです。どうしようもないほどに大嫌いです。
私のプライドと尽くした努力にかけて、あの女を許すことができません。
神様。
あの女が好きです。どうしようもないほどに大好きです。
私の胸の一番深い場所が、あの女を憎みきれないのです。
凶悪な衝動。
2003年11月10日 ふとしたアクシデントで出会って、ふとしたアクシデントで再会し、そしてなんとはなしにずるずると、街に遊びに来る彼女に付き合っている。エスコートの騎士役は悪くはない気分だったが、少しばかりもやもやとしたものが、ずっと胸の中にあった。
村に戻れば彼女は、誰かの婚約者として振る舞うのだろう。
その、懸念が離れない。
待ち合わせはいつも週末の夜半過ぎ、意外にもロマンチックなことが好きな彼女は、噴水前の広場をよく選んだ。
知らせはなんらかの魔法で届くことが多い。明日とか、時には今夜とか、突然耳元で声が響いたり知らない内にポケットに手紙がねじ込まれていたりと、存外心臓に悪い。それでも彼女を迎えに行ってしまう自分は、情けないような気もしたが嫌いではなかった。
その夜一仕事を済ませ、まぁなんというか、タチの悪い仕事だっただけに気分の高揚したまま、彼女との待ち合わせ場所に向かった。もちろん、噴水前の広場だ。
目立つ銀の長い髪と真紅の瞳を持つ彼女は、遠目にもすぐに彼女だと理解できる。今日もそうだった。
きらきらと街の灯りを跳ね返す銀髪に、少し遠くから声をかけようとしたが、やめた。上げかけた手を下ろす。
彼女が、同族の青年と、仲睦まじげに話をしていた。
何故だかひどくむかっ腹が来て、思わず相手の男を背後から突き刺してやりたいという誘惑に駆られた。もっとも、さすがに人前ではそんなことはできなかったが。
なにより苛ついたことに、人狐族の青年は、己は彼女と親しいのだという雰囲気をあからさまにしていた。そんな濃密であたたかな空気を、見せつけないでほしかった。
「香月」
低く声をかけると、彼女よりも先に男が視線を向けた。彼女と同じ、銀の長い髪に真紅の目、獣の耳。こちらを見定め、値段を付けるかのような不躾な視線は、力と自信に満ちていた。
嫌な野郎だ。そう、思った。
村に戻れば彼女は、誰かの婚約者として振る舞うのだろう。
その、懸念が離れない。
待ち合わせはいつも週末の夜半過ぎ、意外にもロマンチックなことが好きな彼女は、噴水前の広場をよく選んだ。
知らせはなんらかの魔法で届くことが多い。明日とか、時には今夜とか、突然耳元で声が響いたり知らない内にポケットに手紙がねじ込まれていたりと、存外心臓に悪い。それでも彼女を迎えに行ってしまう自分は、情けないような気もしたが嫌いではなかった。
その夜一仕事を済ませ、まぁなんというか、タチの悪い仕事だっただけに気分の高揚したまま、彼女との待ち合わせ場所に向かった。もちろん、噴水前の広場だ。
目立つ銀の長い髪と真紅の瞳を持つ彼女は、遠目にもすぐに彼女だと理解できる。今日もそうだった。
きらきらと街の灯りを跳ね返す銀髪に、少し遠くから声をかけようとしたが、やめた。上げかけた手を下ろす。
彼女が、同族の青年と、仲睦まじげに話をしていた。
何故だかひどくむかっ腹が来て、思わず相手の男を背後から突き刺してやりたいという誘惑に駆られた。もっとも、さすがに人前ではそんなことはできなかったが。
なにより苛ついたことに、人狐族の青年は、己は彼女と親しいのだという雰囲気をあからさまにしていた。そんな濃密であたたかな空気を、見せつけないでほしかった。
「香月」
低く声をかけると、彼女よりも先に男が視線を向けた。彼女と同じ、銀の長い髪に真紅の目、獣の耳。こちらを見定め、値段を付けるかのような不躾な視線は、力と自信に満ちていた。
嫌な野郎だ。そう、思った。
He loves water better than the moon.
2003年11月7日 祭りのための禊ぎは、いつも村の外にある小さな泉で行う。そこは清水がこんこんと湧き出ていて、木々に半ば以上を遮られたかすかな光線が忍び入り、碧にこけむした古木が存外深い水底に沈み、銀色に背びれを光らせる魚が見え隠れするという、なんとも神秘的な場所だった。
というよりも、実際に神聖な場所だと信じられている。その泉には、ある程度以上の力を持つ者しか、立ち入りを許されていないのだ。
当然、蒼河は立ち入りを許されている。
彼は今、その普段は束ねている長い長い銀髪を下ろし、肩まで冷えた清水に浸かっていた。今夜は望月の祭りだった。
「羽水、寒いから早く出たい」
「我慢しろよ。今日の水温はまだ高い方だぞ」
「早く出たい」
「……この、猫かぶりめ」
近しい者にはわがままばかりを言う、ひどく強大な力を持つ親友に、羽水は舌打ちをした。しかしそのくせどこかで、彼が甘えてくることをまんざらでもなく思っている自分がいる。幼いころからのコンプレックスは、どうにも根深い。
寒い寒いと文句を垂れる親友、蒼河のために、羽水は傍らに置いてあった杖を手にした。さくりと下草を踏んで泉の縁に近付くと、そのまま水面に足を下ろす。
水音は、上がらなかった。
羽水は平然とした顔で、杖を振り上げることもなく、どころか一言としてなにかを呟くこともなく、魔法の力によって泉の上に立っていた。
蒼河が感嘆の溜息を漏らした。
「相変わらず、すごいな」
羽水は困ったように眉を寄せると、その表情のまま肩をすくめた。
「お前ほどじゃないよ。始めるぞ、静かにしてろよ」
そのまま優雅なしぐさで杖を水平に持ち直し、羽水はそっと瞼を下ろした――半分だけ。
凪いだ力の流れと彼の雰囲気に、蒼河もまた自然と目を閉じた。闇に閉ざされた視界に、かすかに映る羽水の姿、彼の力そのもの。
羽水は『静謐』なのだと思う。彼は水だ。
時に荒れ狂い、激高することもある。だがその本質は静けさだ。こうして泉の一部になってしまったかのような彼を見ていると、そう思う。
水面に散らばっていた銀髪を、羽水が起こしたさざ波が濯ぐ。髪の一本一本、肌の毛穴まで、ひんやりと冷たい水が忍び込み、浄める。
それはひどく居心地のよい時間だった。まるで羊水の中で眠っているかのような。半ば大人になってしまった今では忘れてしまっている、母親の腕に抱かれる心地よさだった。
意識がバターのようにとろけ、水に混じって沈んだ。
どのくらい眠っていたのだろう。目覚めると、すでに月が空に昇っていた。
ぼんやりとした頭で、辺りを見回す。蒼河は泉の岸辺で、身体の上に服をかけられて眠っていたようだった。もっとも、意識を失ったのは泉の中だったような気がするのだが。
小さな水音がして目をそちらに向けると、今しも羽水が禊ぎをしている最中だった。彼は禊ぎに、誰の手も借りないようだった。
一族に共通の銀髪が、まるで生き物のように水面に広がる。水の精霊たちが愛おしげに、その髪にくちづけを繰り返していた。羽水は彼らに、誰よりも愛されている男だった。
そしてまた、彼自身も、精霊たちを愛しているのだろう。彼は月には見向きもしなかった。あれほど自分たち一族が愛し、崇める満月には、まるで気付きもしない。羽水はただただ、水と戯れていた。
「羽水」
ごく小さく呼んでみると、それでも彼は気付いて振り向いた。
「水と月だったら、どっちを愛してる?」
「決まってる」
考えることもなく、羽水は即答した。やすらかな微笑みとともに。
「水だ」
弱いが、頼りなくはない男だった。だから親友にしたわけではない。だが、だから親友でいられたのかもしれない。
己に与えられたものを精一杯に守り、愛そうとあがく羽水が、蒼河はとても好きだった。
というよりも、実際に神聖な場所だと信じられている。その泉には、ある程度以上の力を持つ者しか、立ち入りを許されていないのだ。
当然、蒼河は立ち入りを許されている。
彼は今、その普段は束ねている長い長い銀髪を下ろし、肩まで冷えた清水に浸かっていた。今夜は望月の祭りだった。
「羽水、寒いから早く出たい」
「我慢しろよ。今日の水温はまだ高い方だぞ」
「早く出たい」
「……この、猫かぶりめ」
近しい者にはわがままばかりを言う、ひどく強大な力を持つ親友に、羽水は舌打ちをした。しかしそのくせどこかで、彼が甘えてくることをまんざらでもなく思っている自分がいる。幼いころからのコンプレックスは、どうにも根深い。
寒い寒いと文句を垂れる親友、蒼河のために、羽水は傍らに置いてあった杖を手にした。さくりと下草を踏んで泉の縁に近付くと、そのまま水面に足を下ろす。
水音は、上がらなかった。
羽水は平然とした顔で、杖を振り上げることもなく、どころか一言としてなにかを呟くこともなく、魔法の力によって泉の上に立っていた。
蒼河が感嘆の溜息を漏らした。
「相変わらず、すごいな」
羽水は困ったように眉を寄せると、その表情のまま肩をすくめた。
「お前ほどじゃないよ。始めるぞ、静かにしてろよ」
そのまま優雅なしぐさで杖を水平に持ち直し、羽水はそっと瞼を下ろした――半分だけ。
凪いだ力の流れと彼の雰囲気に、蒼河もまた自然と目を閉じた。闇に閉ざされた視界に、かすかに映る羽水の姿、彼の力そのもの。
羽水は『静謐』なのだと思う。彼は水だ。
時に荒れ狂い、激高することもある。だがその本質は静けさだ。こうして泉の一部になってしまったかのような彼を見ていると、そう思う。
水面に散らばっていた銀髪を、羽水が起こしたさざ波が濯ぐ。髪の一本一本、肌の毛穴まで、ひんやりと冷たい水が忍び込み、浄める。
それはひどく居心地のよい時間だった。まるで羊水の中で眠っているかのような。半ば大人になってしまった今では忘れてしまっている、母親の腕に抱かれる心地よさだった。
意識がバターのようにとろけ、水に混じって沈んだ。
どのくらい眠っていたのだろう。目覚めると、すでに月が空に昇っていた。
ぼんやりとした頭で、辺りを見回す。蒼河は泉の岸辺で、身体の上に服をかけられて眠っていたようだった。もっとも、意識を失ったのは泉の中だったような気がするのだが。
小さな水音がして目をそちらに向けると、今しも羽水が禊ぎをしている最中だった。彼は禊ぎに、誰の手も借りないようだった。
一族に共通の銀髪が、まるで生き物のように水面に広がる。水の精霊たちが愛おしげに、その髪にくちづけを繰り返していた。羽水は彼らに、誰よりも愛されている男だった。
そしてまた、彼自身も、精霊たちを愛しているのだろう。彼は月には見向きもしなかった。あれほど自分たち一族が愛し、崇める満月には、まるで気付きもしない。羽水はただただ、水と戯れていた。
「羽水」
ごく小さく呼んでみると、それでも彼は気付いて振り向いた。
「水と月だったら、どっちを愛してる?」
「決まってる」
考えることもなく、羽水は即答した。やすらかな微笑みとともに。
「水だ」
弱いが、頼りなくはない男だった。だから親友にしたわけではない。だが、だから親友でいられたのかもしれない。
己に与えられたものを精一杯に守り、愛そうとあがく羽水が、蒼河はとても好きだった。
千夜一夜物語。
2003年10月13日 もしも愛のカタチというものが見えるなら、ワタシのそれは歪んでいるに違いない。
全裸で窓辺に立って空を眺めていたら、背後から抱きすくめられた。寒くないのかと耳元で囁かれて、人間じゃないものと返した。
夜明け前、まだ月が消えていなくてキレイだった。細い細い三日月。爪の先のような。
あの月に、今日はクエストの日なのだと出かけた男は、何を想って何を願うのだろう。少し、知りたい気がした。
ベッドに引き戻され、応えて手足を絡ませると、昨夜自分を抱いた男は少しとまどったようだった。
「相手が、いるんじゃないのか」
「今日は留守だもの、ワタシ暇だったのよ」
大体、そんなことを問うくらいなら、何故昨夜誘いに乗ったのだろう。酔っていたのかもしれない、そういえば引っかけた時、彼の前でボトルが何本か空いていたような気がする。
それに男がやめろと言ったところで、騒ぐ血が収まるわけでもない。男を喰うことは、自分の魂に刻みつけられた定めのようなものだ。
まだ何かを言い募ろうとする男にキスをして、無理矢理口を閉じさせた。
長い、長いキス。呼吸さえ封じ込めるように、濃密な。
「……君の男の話が聞きたい」
誘ったのは君だ、正当な代価だろう。
そう言われれば、そんな気もする。男を買ったつもりはないが、睦言代わりの惚気で代金が支払えるのなら、安いものだ。
いいわよと微笑みながらそう言って、さてどこから話そうかと考えた。月を愛する男が、生きていたころからか? それともその後のことか?
結局時間をどこかに区切って話すことを、諦めた。時間なんてものは、自分の長い一生の内ではあまり意味がない。死んでしまった彼にとっても。
「人間じゃないの、とてもキレイな生き物でね……銀色の尻尾が、九本もあるの」
それに惚れたのだと、うっとりとしながら囁く。
そう、あの力のカタマリのような尾に惹かれ、冴え渡る月のように世界を見据える真紅の目に惹かれた。そして遠い昔に失った、何かを一心に祈る姿を引き裂きたいと思った。あの青年が自分だけのために祈るようになったなら、それはなんと素敵なことだろうと。
けれども虜にさせてなお、彼は彼の愛おしいものたちから心を離そうとはしない。それが、少し悔しい。
「でもね、そんなトコロが好きなの。もし彼がワタシだけしか見なくなったら、ツマラナイと思うわ」
狂おしいほどに引き寄せられた心と、いまだ祈ることをやめられない魂の相反性を、何より気に入っている。堕天使の翼に自ら飛び込んだくせに、まだ月に鳴く獣の愚かさが、心底愛おしい。
あと少しでも青年の心が自分に向いてしまうことがあれば、きっと自分は彼を捨てるのだろうと、確信していた。
「愛してるのか」
「とても」
男は溜息を吐いて、組み敷いた女の豊かな胸元に顔を埋めた。熱のない身体だ、どれほど攻めても、高まるということを知らない。
夜明けの気配が近付く中、貪るように女を抱き、精を注ぎ込んだ。それとも貪られたのは己の方だったか。
何にせよ、別れる前に一言言っておきたかった。
「ずいぶん歪んでるんだな」
街に戻ってくる恋人を今から迎えに行くという女は、フフと笑って答えた。
「でも、愛してるのよ」
全裸で窓辺に立って空を眺めていたら、背後から抱きすくめられた。寒くないのかと耳元で囁かれて、人間じゃないものと返した。
夜明け前、まだ月が消えていなくてキレイだった。細い細い三日月。爪の先のような。
あの月に、今日はクエストの日なのだと出かけた男は、何を想って何を願うのだろう。少し、知りたい気がした。
ベッドに引き戻され、応えて手足を絡ませると、昨夜自分を抱いた男は少しとまどったようだった。
「相手が、いるんじゃないのか」
「今日は留守だもの、ワタシ暇だったのよ」
大体、そんなことを問うくらいなら、何故昨夜誘いに乗ったのだろう。酔っていたのかもしれない、そういえば引っかけた時、彼の前でボトルが何本か空いていたような気がする。
それに男がやめろと言ったところで、騒ぐ血が収まるわけでもない。男を喰うことは、自分の魂に刻みつけられた定めのようなものだ。
まだ何かを言い募ろうとする男にキスをして、無理矢理口を閉じさせた。
長い、長いキス。呼吸さえ封じ込めるように、濃密な。
「……君の男の話が聞きたい」
誘ったのは君だ、正当な代価だろう。
そう言われれば、そんな気もする。男を買ったつもりはないが、睦言代わりの惚気で代金が支払えるのなら、安いものだ。
いいわよと微笑みながらそう言って、さてどこから話そうかと考えた。月を愛する男が、生きていたころからか? それともその後のことか?
結局時間をどこかに区切って話すことを、諦めた。時間なんてものは、自分の長い一生の内ではあまり意味がない。死んでしまった彼にとっても。
「人間じゃないの、とてもキレイな生き物でね……銀色の尻尾が、九本もあるの」
それに惚れたのだと、うっとりとしながら囁く。
そう、あの力のカタマリのような尾に惹かれ、冴え渡る月のように世界を見据える真紅の目に惹かれた。そして遠い昔に失った、何かを一心に祈る姿を引き裂きたいと思った。あの青年が自分だけのために祈るようになったなら、それはなんと素敵なことだろうと。
けれども虜にさせてなお、彼は彼の愛おしいものたちから心を離そうとはしない。それが、少し悔しい。
「でもね、そんなトコロが好きなの。もし彼がワタシだけしか見なくなったら、ツマラナイと思うわ」
狂おしいほどに引き寄せられた心と、いまだ祈ることをやめられない魂の相反性を、何より気に入っている。堕天使の翼に自ら飛び込んだくせに、まだ月に鳴く獣の愚かさが、心底愛おしい。
あと少しでも青年の心が自分に向いてしまうことがあれば、きっと自分は彼を捨てるのだろうと、確信していた。
「愛してるのか」
「とても」
男は溜息を吐いて、組み敷いた女の豊かな胸元に顔を埋めた。熱のない身体だ、どれほど攻めても、高まるということを知らない。
夜明けの気配が近付く中、貪るように女を抱き、精を注ぎ込んだ。それとも貪られたのは己の方だったか。
何にせよ、別れる前に一言言っておきたかった。
「ずいぶん歪んでるんだな」
街に戻ってくる恋人を今から迎えに行くという女は、フフと笑って答えた。
「でも、愛してるのよ」
冷ややかな余熱。
2003年10月11日 愛した女性は手が冷たい人だった。火照った肌を心地よく冷やしてくれる、冷え性気味の優しい女だった。
数年前にゴースト・ビレッジでその女と別れて以来、女性の手というものに触れなかった。
それは半ば誓いでもあったし、半ばはやむを得なかったということでもあったが、彼としては、前者を信じたかった。あの冷たい手を、彼は忘れたくはなかったので。
彼女の手は、今もまだ冷たいままなのだろうか。そうであってほしいと願う心を、止められない。
ぬくもりが嫌いなわけではなかった。むしろ温かさには安堵すら覚える。
だが彼女の手に関してだけは、ぬくもりを持っていることが許せなかった。それはすなわち、彼女の手を誰かがあたためたということだったからだ。
「あなたの手であたためてほしい。……これからずっと」
彼女はそう囁いて、己の冷ややかな手を彼のあたたかな手に重ねた。ぬくもりと冷たさが混じり合い、ひとつになって、二つの手に落ち着いた。
彼の手は覚えている。彼女が残した、冷たさの余熱を。
彼女の手は覚えているのだろうか。彼が残した、ぬくもりの余熱を。
数年前にゴースト・ビレッジでその女と別れて以来、女性の手というものに触れなかった。
それは半ば誓いでもあったし、半ばはやむを得なかったということでもあったが、彼としては、前者を信じたかった。あの冷たい手を、彼は忘れたくはなかったので。
彼女の手は、今もまだ冷たいままなのだろうか。そうであってほしいと願う心を、止められない。
ぬくもりが嫌いなわけではなかった。むしろ温かさには安堵すら覚える。
だが彼女の手に関してだけは、ぬくもりを持っていることが許せなかった。それはすなわち、彼女の手を誰かがあたためたということだったからだ。
「あなたの手であたためてほしい。……これからずっと」
彼女はそう囁いて、己の冷ややかな手を彼のあたたかな手に重ねた。ぬくもりと冷たさが混じり合い、ひとつになって、二つの手に落ち着いた。
彼の手は覚えている。彼女が残した、冷たさの余熱を。
彼女の手は覚えているのだろうか。彼が残した、ぬくもりの余熱を。
約束。
2003年10月9日 彼をずっと待っている。
男からの手紙が途切れて、一年が経つ。戦場を転々と渡り歩いているであろう彼は、一体今はどこにいるのだろうか。軍事郵便は、その所在地を明かしてはくれない。
戦死公報などというものは、自分の元にはやってこない。彼とは夫婦でも血縁でもなんでもなく、二人はただの他人だった。だから彼は、知らない間に死んでしまっているのかもしれなかった。
戦死者がどのくらいの数になっているのかくらいは知っていた。その中に彼がいないと、どうして言い切れる?
それでも待っていた。だって男は帰ってくると言ったのだ。必ず戻る、あなたを泣かせはしないと、いつかの夜に。
久しぶりに訪ねた知人にそう言うと、彼は憐れみにそっと目を伏せた。
「過ぎた期待ではないかな」
「期待ではないよ。……彼を信頼しているんだ」
知人は何も言わずに、黙って仕事に戻った。数百人の戦死者の名を刻んだ書類が、その手に握られていた。
勲章も昇進も意味がない。男が生きている、そのことこそが唯一意味を持っており、すばらしいことだった。
多くの女たちとは違い、泣き崩れなかった。浮気に走ることもなかった。ただ彼の帰りだけを待って、日常を送り続けた。
やがて、戦争が終わった。
男からの手紙が途切れて、一年が経つ。戦場を転々と渡り歩いているであろう彼は、一体今はどこにいるのだろうか。軍事郵便は、その所在地を明かしてはくれない。
戦死公報などというものは、自分の元にはやってこない。彼とは夫婦でも血縁でもなんでもなく、二人はただの他人だった。だから彼は、知らない間に死んでしまっているのかもしれなかった。
戦死者がどのくらいの数になっているのかくらいは知っていた。その中に彼がいないと、どうして言い切れる?
それでも待っていた。だって男は帰ってくると言ったのだ。必ず戻る、あなたを泣かせはしないと、いつかの夜に。
久しぶりに訪ねた知人にそう言うと、彼は憐れみにそっと目を伏せた。
「過ぎた期待ではないかな」
「期待ではないよ。……彼を信頼しているんだ」
知人は何も言わずに、黙って仕事に戻った。数百人の戦死者の名を刻んだ書類が、その手に握られていた。
勲章も昇進も意味がない。男が生きている、そのことこそが唯一意味を持っており、すばらしいことだった。
多くの女たちとは違い、泣き崩れなかった。浮気に走ることもなかった。ただ彼の帰りだけを待って、日常を送り続けた。
やがて、戦争が終わった。
誓い。
2003年10月5日 彼女の元に帰るのだと、五年前に誓った。
……だから、諦めない。
収容所は暗くて寒くて狭くて不潔で、そして皆いつでも飢えていた。黴びたパンひとかけら、虫の浮いたスープ一杯に、淡々と人殺しが行われた。
正義なんてものがここにはないことに気付いたのは、存外早かった。腐ったジャガイモ半個のために少年をひとり騙した時、自分の中から正義が消えたことを知った。
ある日の労働作業中に、いつだか騙した少年が風邪を引いたと聞いた。
運の悪いヤツだと思った。ここには薬なんてないから、ちょっとでも体調を崩せば後は死ぬだけだ。
数ヶ月ここで暮らしただけで、憐れみだとか親切心だとかは、きれいさっぱり心からなくなっていた。
「かわいそうに、国で彼女が待ってるんだと」
ところが誰かが漏らした呟きを聞いた途端、眼前に蘇ったのは五年前、必ず戻ると約束した女の顔だった。行ってほしくない、このまま国に戻ろうとせつなげに囁いた彼女に、自分は確かこう言った。
――必ず戻る、あなたを泣かせはしない。
あの少年だって、同じ約束をしたのだろう。このままここで死なせて、いいのだろうか。あの時泣きそうになっていた女が、少年の死によって大粒の涙をこぼすと言うのに?
最後まで大切に持っていた、母が送ってきたお守りの金鎖と腕時計を人にゆずって、代わりにアスピリンを三錠手に入れた。運が良かった。おまけに、しけっていないビスケットまでもらうことができた。
それらを持って、夜中にこっそり少年を見舞った。
湿った藁を敷いただけの板に横になっていた少年は、咳を幾度もしながら何故と問うた。
「あなたはどうしてこんなことを……」
「俺にも国で待ってる女性がいる。君もそうだと聞いた」
少年はたった三錠のアスピリンを大切そうに押し抱き、ビスケットは首を横に振って受け取らなかった。待ってる人がいるんでしょうと言って。
その少年がどうなったのか、知らない。ただその時の風邪は治ったのだろう、労働作業に出ているところを、数度見かけた。
間もなく戦争は、終わった。
今、女とぬくもりを共有しながら、思う。あの少年は、自分に女の元へ戻るという誓いを、思い出させてくれたのだと。
彼が生きているといい、そう願いながら、眠りに落ちた。
……だから、諦めない。
収容所は暗くて寒くて狭くて不潔で、そして皆いつでも飢えていた。黴びたパンひとかけら、虫の浮いたスープ一杯に、淡々と人殺しが行われた。
正義なんてものがここにはないことに気付いたのは、存外早かった。腐ったジャガイモ半個のために少年をひとり騙した時、自分の中から正義が消えたことを知った。
ある日の労働作業中に、いつだか騙した少年が風邪を引いたと聞いた。
運の悪いヤツだと思った。ここには薬なんてないから、ちょっとでも体調を崩せば後は死ぬだけだ。
数ヶ月ここで暮らしただけで、憐れみだとか親切心だとかは、きれいさっぱり心からなくなっていた。
「かわいそうに、国で彼女が待ってるんだと」
ところが誰かが漏らした呟きを聞いた途端、眼前に蘇ったのは五年前、必ず戻ると約束した女の顔だった。行ってほしくない、このまま国に戻ろうとせつなげに囁いた彼女に、自分は確かこう言った。
――必ず戻る、あなたを泣かせはしない。
あの少年だって、同じ約束をしたのだろう。このままここで死なせて、いいのだろうか。あの時泣きそうになっていた女が、少年の死によって大粒の涙をこぼすと言うのに?
最後まで大切に持っていた、母が送ってきたお守りの金鎖と腕時計を人にゆずって、代わりにアスピリンを三錠手に入れた。運が良かった。おまけに、しけっていないビスケットまでもらうことができた。
それらを持って、夜中にこっそり少年を見舞った。
湿った藁を敷いただけの板に横になっていた少年は、咳を幾度もしながら何故と問うた。
「あなたはどうしてこんなことを……」
「俺にも国で待ってる女性がいる。君もそうだと聞いた」
少年はたった三錠のアスピリンを大切そうに押し抱き、ビスケットは首を横に振って受け取らなかった。待ってる人がいるんでしょうと言って。
その少年がどうなったのか、知らない。ただその時の風邪は治ったのだろう、労働作業に出ているところを、数度見かけた。
間もなく戦争は、終わった。
今、女とぬくもりを共有しながら、思う。あの少年は、自分に女の元へ戻るという誓いを、思い出させてくれたのだと。
彼が生きているといい、そう願いながら、眠りに落ちた。
I think I must do.
2003年10月1日 ちょっと今日はマジメに日記を書きます。
今日できることを明日にしようとするということは、いつか取り返しが付かなくなるのだと思いました。今生きている人が明日の同じ時間に同じように喋っていられる保証はどこにもないわけです。
聞かなければならないことがあります。
でも私には、それを聞いていいのかどうかわかりません。聞いてしまって、古傷を抉ってしまったらどうすればいいのかわからないから。
でも私には、聞く義務があると思うんです。
例えば将来、私は中学校の先生になりたいと思っています。そして今、世界中の人々と会話をしたいと思い、英語を勉強しています。
国際人として、一人の大人として、そのことを私が問われるかもしれないのです。その時に、答えられないなんてことがないようにするためにも、私は話を聞く義務があると思うんです。
世界中の、もっときれいなものを見せてあげたいと思います。私がもっと色んなことを知っている、きれいな人間なら良かったのに。
今日できることを明日にしようとするということは、いつか取り返しが付かなくなるのだと思いました。今生きている人が明日の同じ時間に同じように喋っていられる保証はどこにもないわけです。
聞かなければならないことがあります。
でも私には、それを聞いていいのかどうかわかりません。聞いてしまって、古傷を抉ってしまったらどうすればいいのかわからないから。
でも私には、聞く義務があると思うんです。
例えば将来、私は中学校の先生になりたいと思っています。そして今、世界中の人々と会話をしたいと思い、英語を勉強しています。
国際人として、一人の大人として、そのことを私が問われるかもしれないのです。その時に、答えられないなんてことがないようにするためにも、私は話を聞く義務があると思うんです。
世界中の、もっときれいなものを見せてあげたいと思います。私がもっと色んなことを知っている、きれいな人間なら良かったのに。
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敗北を抱きしめて。
2003年9月28日 暑い夏の日だった。空が青く、雲はひとつもなかった。さんざめく波の音が岩肌の遙か下から聞こえていた。名前も知らない赤い花が風に震えて、ようやく静かになった辺りには、場違いな鳥の声が響いていた。
その日、長かった戦争は、終わりを告げた。
その日、長かった戦争は、終わりを告げた。
当主である夫の権力故だろうか、嫁いだ先で居心地が悪かったことは、一度もなかった。皆優しかったし、彼らに力及ばない嫁のことは、気立てが良いからと目を瞑ってくれていたように思う。
けれども、兄は違った。
神殿の奥の小さな部屋で、なにか声がすることに気付いたのは、ひとえに水の精霊が教えてくれたからだった。彼らは自ら慕った者の苦しみや哀しみを、見捨ててはおかない。
アノネ、水のお狐さまがね、と騒ぎ立てる精霊たちに一言礼を言って、氷呼はそっと歩き出す。奥へ、奥へ。
普段は使われていない小さな部屋からは、いつも氷呼に優しい親戚の声が聞こえていた。
「まったく、どうして夕月もこんな能無しを選んだんだかわからないわ」
夫の親友であり、従妹に当たる女性の名を聞きつけて、獣の耳がぴくりと立った。
「本当に……一族外でもいいから、せめてあと三本は尾がほしかったわ」
「釣り合わないのだよねぇ、並んだ時に」
「妹の方は、いい子なんだが…」
細く開いたドアの隙間から、兄の横顔が見えた。怒りに燃えるわけでもなく、かといって哀しみに沈んでいるわけでもない赤い目は、ぼんやりとどこかを見つめてただただ無表情だった。
なにか見てはいけないものを、見てしまったような気がした。
それが一言もなにも言わない兄の姿だったのか、それとも兄に今更どうにもならない苛立ちをぶつける親戚の姿だったのか、氷呼にはわからない。
ただどちらかが恐ろしくて、氷呼は瞬間ぱっと身をひるがえし、その場から逃げ出した。何故だかひどく哀しくて、涙がぼろぼろとこぼれた。
その夜は泣き腫らした目を、夫が心配した。けれども氷呼はなにも告げずに、首を横に振り続けた。なにもなかったのだと。
翌朝、夫の従妹と兄の夫婦が、家を訪ねてきた。
八尾の妻の傍らで、兄は幸せそうに微笑んでいた。
けれども、兄は違った。
神殿の奥の小さな部屋で、なにか声がすることに気付いたのは、ひとえに水の精霊が教えてくれたからだった。彼らは自ら慕った者の苦しみや哀しみを、見捨ててはおかない。
アノネ、水のお狐さまがね、と騒ぎ立てる精霊たちに一言礼を言って、氷呼はそっと歩き出す。奥へ、奥へ。
普段は使われていない小さな部屋からは、いつも氷呼に優しい親戚の声が聞こえていた。
「まったく、どうして夕月もこんな能無しを選んだんだかわからないわ」
夫の親友であり、従妹に当たる女性の名を聞きつけて、獣の耳がぴくりと立った。
「本当に……一族外でもいいから、せめてあと三本は尾がほしかったわ」
「釣り合わないのだよねぇ、並んだ時に」
「妹の方は、いい子なんだが…」
細く開いたドアの隙間から、兄の横顔が見えた。怒りに燃えるわけでもなく、かといって哀しみに沈んでいるわけでもない赤い目は、ぼんやりとどこかを見つめてただただ無表情だった。
なにか見てはいけないものを、見てしまったような気がした。
それが一言もなにも言わない兄の姿だったのか、それとも兄に今更どうにもならない苛立ちをぶつける親戚の姿だったのか、氷呼にはわからない。
ただどちらかが恐ろしくて、氷呼は瞬間ぱっと身をひるがえし、その場から逃げ出した。何故だかひどく哀しくて、涙がぼろぼろとこぼれた。
その夜は泣き腫らした目を、夫が心配した。けれども氷呼はなにも告げずに、首を横に振り続けた。なにもなかったのだと。
翌朝、夫の従妹と兄の夫婦が、家を訪ねてきた。
八尾の妻の傍らで、兄は幸せそうに微笑んでいた。
死期。
2003年9月18日 息子が生まれた日のことを、よく覚えている。
小さな命を「あなたの子どもよ」と手渡され、ひどく感動すると同時に、月神に感謝した。この世に、自分の血を継ぐものを与えてくれて、ありがとうございますと。
その息子が、家を、いや村を出ると言う。理由は修行のため。
それが嘘であることを、蒼河は理解していた。
「どうしてかなんて無粋なことは聞かないけどね、氷呼を心配させるんじゃないよ」
ぽつりとそう告げると、もはや蒼河自身とたいして背丈も体つきも変わらなくなった息子は、神妙な顔でうなずいた。
いつの時代も、息子には父よりも母の存在の方が大きいらしかった。
その時から、知っていたのかもしれない。
息子が決して長くはないことを、……黒翼の堕天使に魅入られていることを。
小さな命を「あなたの子どもよ」と手渡され、ひどく感動すると同時に、月神に感謝した。この世に、自分の血を継ぐものを与えてくれて、ありがとうございますと。
その息子が、家を、いや村を出ると言う。理由は修行のため。
それが嘘であることを、蒼河は理解していた。
「どうしてかなんて無粋なことは聞かないけどね、氷呼を心配させるんじゃないよ」
ぽつりとそう告げると、もはや蒼河自身とたいして背丈も体つきも変わらなくなった息子は、神妙な顔でうなずいた。
いつの時代も、息子には父よりも母の存在の方が大きいらしかった。
その時から、知っていたのかもしれない。
息子が決して長くはないことを、……黒翼の堕天使に魅入られていることを。
Innocent Days.
2003年9月15日 力が無いということがどういうことなのか、氷河にはよくわからなかった。力は生まれた時から彼の傍にあるもので、すべてのものは少し頼み事をすれば、たやすく願いを叶えてくれた。そうではない自分など、彼には想像もつかなかった。
いつのことだっただろうか。自分はまだ少年で、ようやく妹が生まれたばかりだったように思う。
その日は従妹の誕生日で、祭りの日だった。その準備に追われる叔母の手伝いをしようと思い、少し早めに家を出た。
なんの気紛れを起こしたのだか、よく覚えていない。とにかく自分は村を出て、どうしてか川へ行ったのだ。そうしてそこで、叔父の羽水に会った。
彼は川の水面を、じっと怖い顔で睨み付けていた。娘の誕生日だと言うのに。
叔父さんと声をかけると、羽水ははっと顔を上げ、氷河を見つけてぎこちなく微笑んだ。
「なんでもないよ。…行こうか、夕月に怒られるな、あんまり遅いと」
そう言いながら、羽水は子どもの手を取って歩き出した。
村から川までは、存外遠い。しかも流れは精錬で、それ故に人間の狩人なども、時折訪れる場所だった。
運が悪かっただけなのだろう。帰り道、人間の狩人、それも銀狐族の美しい尾や毛皮を狙う、そんな連中に出会ってしまったのは。
先にそれに気付いたのは氷河の方で、羽水に注意を促すと、彼は眉をひそめてこう言った。
「ここでじっとしてろ。人を呼ぶんじゃないぞ、今日は祭りなんだから、流血沙汰は御法度だ」
氷河を押し退けて羽水は草藪をかき分け、狩人たちの背後に回り、すっくと立ち上がって彼らに声をかけた。村になんの用がある、と。
狩人は返答などしなかった。彼らは弓をつがえ、放ち、魔法の言葉を唱え、電撃を呼び出した。
さっと身を翻し、村と氷河とは反対の方向へ、羽水は走り去った。狩人が一斉に追いかける。
氷河はそれを、草むらの中で見つめていた。
「氷河、氷河……そこにいるのか?」
ずいぶんと長い時間が経ってから、疲れたような羽水の声が聞こえて、氷河は立ち上がった。見回すと、少し向こうの方の木の陰に、叔父がうずくまっていた。
叔父さん、と声をかけると、羽水は振り向いて、弱々しく微笑んだ。霧生の跡取り息子に怪我がなくて良かったと、彼はぽつりと呟いた。
「悪いな、夕月を呼んできてほしいんだ。夕月だけだぞ、他には言っちゃダメだ」
とにかく叔母を呼んでこいと言われて、氷河は村に向かって走り出した。ボロ雑巾のようにぐったりとして、肩から血を流した叔父の姿が、目の奥の方でぐるぐると回っていた。
何故彼は、あんなにも怪我をしているのだろう。たった一言その辺にいる精霊たちに、守ってほしいと頼めばいいだけなのに。
夕月に事の次第を伝えると、彼女は血相を変えて家を飛び出し、一分後にはすでに羽水の元にいた。
「馬鹿か、お前は!」
「その言いぐさはないだろ、仮にも霧生の跡取りを守ったんだぞ、俺は!」
遅れて氷河がその場に辿り着いた時には、そこでは盛大に夫婦喧嘩が繰り広げられていた。
「それでお前が死んだら、どうするつもりだったんだ? 無責任、鈍感、……馬鹿野郎」
唐突に夕月の声が小さくなって、しばらくその場はしんとなった。
顔を出すわけにもいかず、かといって様子のわからない氷河は、一体二人はどうしたのかと、子どもながらにやきもきした。
「お前は水がなければ能無しなんだぞ、わかってるのか…?」
震えた小さな夕月の声が聞こえて、氷河は唐突に理解した。
叔父は精霊に頼まなかったのではない。頼めなかったのだ。彼にはその力がなかった。
力を持つが故の無知とその残酷さを、氷河はその日知った。
いつのことだっただろうか。自分はまだ少年で、ようやく妹が生まれたばかりだったように思う。
その日は従妹の誕生日で、祭りの日だった。その準備に追われる叔母の手伝いをしようと思い、少し早めに家を出た。
なんの気紛れを起こしたのだか、よく覚えていない。とにかく自分は村を出て、どうしてか川へ行ったのだ。そうしてそこで、叔父の羽水に会った。
彼は川の水面を、じっと怖い顔で睨み付けていた。娘の誕生日だと言うのに。
叔父さんと声をかけると、羽水ははっと顔を上げ、氷河を見つけてぎこちなく微笑んだ。
「なんでもないよ。…行こうか、夕月に怒られるな、あんまり遅いと」
そう言いながら、羽水は子どもの手を取って歩き出した。
村から川までは、存外遠い。しかも流れは精錬で、それ故に人間の狩人なども、時折訪れる場所だった。
運が悪かっただけなのだろう。帰り道、人間の狩人、それも銀狐族の美しい尾や毛皮を狙う、そんな連中に出会ってしまったのは。
先にそれに気付いたのは氷河の方で、羽水に注意を促すと、彼は眉をひそめてこう言った。
「ここでじっとしてろ。人を呼ぶんじゃないぞ、今日は祭りなんだから、流血沙汰は御法度だ」
氷河を押し退けて羽水は草藪をかき分け、狩人たちの背後に回り、すっくと立ち上がって彼らに声をかけた。村になんの用がある、と。
狩人は返答などしなかった。彼らは弓をつがえ、放ち、魔法の言葉を唱え、電撃を呼び出した。
さっと身を翻し、村と氷河とは反対の方向へ、羽水は走り去った。狩人が一斉に追いかける。
氷河はそれを、草むらの中で見つめていた。
「氷河、氷河……そこにいるのか?」
ずいぶんと長い時間が経ってから、疲れたような羽水の声が聞こえて、氷河は立ち上がった。見回すと、少し向こうの方の木の陰に、叔父がうずくまっていた。
叔父さん、と声をかけると、羽水は振り向いて、弱々しく微笑んだ。霧生の跡取り息子に怪我がなくて良かったと、彼はぽつりと呟いた。
「悪いな、夕月を呼んできてほしいんだ。夕月だけだぞ、他には言っちゃダメだ」
とにかく叔母を呼んでこいと言われて、氷河は村に向かって走り出した。ボロ雑巾のようにぐったりとして、肩から血を流した叔父の姿が、目の奥の方でぐるぐると回っていた。
何故彼は、あんなにも怪我をしているのだろう。たった一言その辺にいる精霊たちに、守ってほしいと頼めばいいだけなのに。
夕月に事の次第を伝えると、彼女は血相を変えて家を飛び出し、一分後にはすでに羽水の元にいた。
「馬鹿か、お前は!」
「その言いぐさはないだろ、仮にも霧生の跡取りを守ったんだぞ、俺は!」
遅れて氷河がその場に辿り着いた時には、そこでは盛大に夫婦喧嘩が繰り広げられていた。
「それでお前が死んだら、どうするつもりだったんだ? 無責任、鈍感、……馬鹿野郎」
唐突に夕月の声が小さくなって、しばらくその場はしんとなった。
顔を出すわけにもいかず、かといって様子のわからない氷河は、一体二人はどうしたのかと、子どもながらにやきもきした。
「お前は水がなければ能無しなんだぞ、わかってるのか…?」
震えた小さな夕月の声が聞こえて、氷河は唐突に理解した。
叔父は精霊に頼まなかったのではない。頼めなかったのだ。彼にはその力がなかった。
力を持つが故の無知とその残酷さを、氷河はその日知った。
Why is the things so complicated?
2003年9月14日 兄がとても怖い顔をして、水面を睨み付けていることが、よくあった。
それは大抵親友とどこかに出かけた後だったり、彼と政について話をした後だったり、あるいは村の若者たちが参加する、狩りや何かの祭りの後だったりした。
一度だけ、問うたことがある。そんな怖い顔をして、一体何があったのかと。
「何も。……何もなかったよ、氷呼。少なくとも俺にはね」
そんな時は、兄は真夜中を過ぎるまで、家に戻っては来なかった。
兄には親友がいて、その人は九つの尾と果てないほどの力を持つ、類い希なほどに月に愛された人だった。霧生本家の、跡取り息子。兄や自分の一家では、逆立ちしても敵わないほどの上位一族だった。
それでもその人はいい人で、ちっとも偉ぶらず、誰にでも親切だった。少し自信家で、いつでも快活、ユーモアもある素敵な青年。
恋をしたのはいつだったか、もう覚えていない。
彼はまだ少年のころから、よく家に遊びに来ていた。兄と仲が良かったのだ。
彼らは同じ年の、同じ月の、同じ満月の日に生まれた。双子のようにこの世に生を受けて、寸分違わぬ月光を受けた、半ば兄弟のようなものだった。
けれども二人はまた、どこまでも異質でもあった。一方は扱い切れぬほどの力を持ち、一方は子どもほどの力しか持たなかった。そして兄は、後者だった。
兄は親友を家族と同じように愛していたのだと思う。そしてだからこそ、憎んでもいた。どうあがいても、兄には手の届かない場所にいる青年だったのだ、彼は。
だからだろうか、彼と互いに恋をして、睦言を交わし、夜を過ごし、結婚を決めた。そのことを兄に告げると、すでに家を継いでいた兄は、ぽつりと呟いたのだ。やめておけ、と。
「アイツの家とじゃ、釣り合わない」
日頃から身分というものをまったく意識していない兄が相手だっただけに、その言葉はとても意外だった。
けれども同時に、やはりと納得できる部分もあった。
兄にはいつでも、コンプレックスだったのだ。釣り合わない家柄が、釣り合わない力が、……親友に並び立てないことが。
「俺が付き合いをしなきゃいけなくなるからじゃない。九尾だとか八尾だとかがごろごろしてる場所に嫁に行って、苦労するのはお前だ、氷呼」
そしてそうなった時、自分はお前を守ってやれないと、自嘲気味に兄は言った。水のない魚は、哀れ以外の何物でもなかった。
「蒼河を信頼してる。でも俺は……今まで以上に見せつけられるのか? 俺が守れない妹を、アイツがまるで息をするみたいに簡単に守るところを?」
吐き出すように嘆いて、兄は立ち上がった。
雨が降り出していて、川が増水していた。その様子を見てくると、兄は力無く、玄関脇に立てかけてあった杖を手に取り、家を出た。
それは大抵親友とどこかに出かけた後だったり、彼と政について話をした後だったり、あるいは村の若者たちが参加する、狩りや何かの祭りの後だったりした。
一度だけ、問うたことがある。そんな怖い顔をして、一体何があったのかと。
「何も。……何もなかったよ、氷呼。少なくとも俺にはね」
そんな時は、兄は真夜中を過ぎるまで、家に戻っては来なかった。
兄には親友がいて、その人は九つの尾と果てないほどの力を持つ、類い希なほどに月に愛された人だった。霧生本家の、跡取り息子。兄や自分の一家では、逆立ちしても敵わないほどの上位一族だった。
それでもその人はいい人で、ちっとも偉ぶらず、誰にでも親切だった。少し自信家で、いつでも快活、ユーモアもある素敵な青年。
恋をしたのはいつだったか、もう覚えていない。
彼はまだ少年のころから、よく家に遊びに来ていた。兄と仲が良かったのだ。
彼らは同じ年の、同じ月の、同じ満月の日に生まれた。双子のようにこの世に生を受けて、寸分違わぬ月光を受けた、半ば兄弟のようなものだった。
けれども二人はまた、どこまでも異質でもあった。一方は扱い切れぬほどの力を持ち、一方は子どもほどの力しか持たなかった。そして兄は、後者だった。
兄は親友を家族と同じように愛していたのだと思う。そしてだからこそ、憎んでもいた。どうあがいても、兄には手の届かない場所にいる青年だったのだ、彼は。
だからだろうか、彼と互いに恋をして、睦言を交わし、夜を過ごし、結婚を決めた。そのことを兄に告げると、すでに家を継いでいた兄は、ぽつりと呟いたのだ。やめておけ、と。
「アイツの家とじゃ、釣り合わない」
日頃から身分というものをまったく意識していない兄が相手だっただけに、その言葉はとても意外だった。
けれども同時に、やはりと納得できる部分もあった。
兄にはいつでも、コンプレックスだったのだ。釣り合わない家柄が、釣り合わない力が、……親友に並び立てないことが。
「俺が付き合いをしなきゃいけなくなるからじゃない。九尾だとか八尾だとかがごろごろしてる場所に嫁に行って、苦労するのはお前だ、氷呼」
そしてそうなった時、自分はお前を守ってやれないと、自嘲気味に兄は言った。水のない魚は、哀れ以外の何物でもなかった。
「蒼河を信頼してる。でも俺は……今まで以上に見せつけられるのか? 俺が守れない妹を、アイツがまるで息をするみたいに簡単に守るところを?」
吐き出すように嘆いて、兄は立ち上がった。
雨が降り出していて、川が増水していた。その様子を見てくると、兄は力無く、玄関脇に立てかけてあった杖を手に取り、家を出た。