薬を、と細い叫びが鼓膜を震わせ、わななく白い手がよろめいて空に伸ばされた。このあばら家のどこに薬などがあると言うのか――もはや夢と現の境が、彼女の中には存在しないのだろう。あるいはその手がつかもうとしているのは、薬などではなくもっとずっと彼女にふさわしいそれなのかもしれなかった。
ばたりと、手が落ちる。女は痛い、痛い、とか細く泣き、崩れた顔を晒すことを恥じるようにそっと力ない手で覆った。
ひとしきり、女が泣き止むのを待って、ふちの欠けた急須の吸い口を、ほんの一年前までは一吸い一両、とまで謳われた唇に押し当てる。ゆるく傾けて重湯を流し込んでやると、かすかに喉がうごめいて、それを飲み込んだ。最後に残った一握りの米を炊いて作ってやったものだった。
あばら家にはもう、金になりそうなものは何もない。女が持っていた着物だの簪だのは、ひとつずつ、一年間をかけて売られ、もっと現実的なもの――たとえば食物、あるいは薬――へと姿を変えていた。日の光が表からふわふわと差し込み、それでもなお薄暗い家には、湿気た薄い布団が一組と短いろうそくが一本、そして、そしてそう、女の矜持の明確な形たるものが、そればかりは売られることもなく残されていた。
「――、」
吸い口を口から離してやると、女が呼んだ。その囁きほどのかすかな空気の振動に合わせるように答えを返すと、此岸へと今一度舞い戻った女は言葉を続けた。
「モシエ、わっちの、――わっちの、…」
舌がもつれている。
「おうぎは、どこぞに、売っちまったンだろうネ――?」
ようやくのように薄く開かれた二つの目が、あらゆる欺瞞を暴くようにざらりと辺りを――横になったままで届くだけの世界を、舐め回す。無遠慮な視線がむしろ痛々しい。もはや優雅さと名づけられるような類のものを取り繕う余裕は、女にはなかった。
女が床についてより、彼女の代わりに、と肌身離さず持ち歩いていた扇を閉じたまま、その手に押し与えてやる。女は疑り深くものろのろと扇を開き、その白地に、ほんのひとさしの紅色で梅の花が描かれているのを見ると、あぁ、と安堵のような、嘆きのようなため息をこぼした。崩れた顔が歪み、女は笑んだ。
「ホンニ、おめぇさんは、うれしがらせをしてくれるわナ、三国一の箱廻したァ、おめぇさんのことに違いあるめぇよ」
つ、と女の目尻から涙があふれ、こめかみを伝った。それをぬぐってやる間もなく、つかれた、と吐息のようなかすれた声が言い、女は目を閉じた。
やがて、乱れていた呼吸が落ち着き、細くもおだやかなそれに変わった。女は眠ったようだった。
――あぁ、と男は声にならない歓喜の音を喉から漏らした。女の崩れた顔にわずか指先ばかりで触れながら、この誇り高い女の、おそらくはもう数日後か、あるいは数時間後にさえ迫った死を思う。病ゆえに打ち捨てられた女との暮らしは無論楽ではなくむしろ辛かったが、それでもその終わりを男は恐れた。今この瞬間に、時など止まってしまえば良いと思った。
いつの間にか、戸の隙間から荒れた家に差し込む光が、宵闇に明るく輝く蝋燭や提灯の橙色になっていた。女はふと目を覚まし、正気めいた表情で男を見上げて小さく笑った。
「おめぇさんは、三つ四つの子ォじゃアあるめぇに、大の男が泣くンじゃアねえわナ」
女は扇をそっと枕元にやり、ふらふらと両手を男の頬に添えた。そうとは知らぬ間にこぼれていたらしい涙を、女の白魚のような指先がぬぐう。その力ないしぐさに、また涙が落ちた。
それはさながら夢のような、あるいは奇跡のような一瞬でさえあった。有り得たはずのない現実に、男は慄いた。女に触れることなど、かつては思いも及ばなかった。
表で、名の知れない鳥がギャア、と喚いた。日は沈みかけ、間近な女の顔さえももはや見えないまでになっていたが、そのおだやかであった表情が途端、ねじれるように引きつったことだけは瞬間的にわかった。ヒイ、とけだもののような悲鳴を喉からあふれさせ、女は彼女に残された力のすべてで男を押し退け、突き飛ばした。
男は、無論弱った女に好きにされるほどにやわではなかった。だがそうされてやらなければならないような気がして、ささくれた畳の上をいざり、布団から離れた壁際で手足を投げ出して座り込んだ。涙はこぼれず、ただ遠い違う世界の景色を眺めるように、女の壊れゆく様を見つめた。
痛い、と女は叫んだ。幼い子どものように握り拳で布団を叩き、傍に置き放しになっていた急須を壁に投げつけた。瀬戸物の割れる音に、またヒイ、と悲鳴を上げる。
「薬を、――薬を!」
女は男をまるで目に映さず、そのくせ男の名を呼び叫んで何故いないのかと罵り、己の髪を掻き毟り、悔しさに耐えぬふうに布団を噛み、引き裂いた。投げられた枕は男の足にぶつかった。
辺りのものをひとしきり投げ尽くし、女が最後に手にしたものは白い扇だった。女は手を振り上げ、それさえも、その矜持さえも一瞬投げつけようとしたが、どうした気まぐれか、手を下ろし、探り見るように扇を頬に押し当て、はらはらと涙を流して泣いた。
男はきちんとその様子を見ていた。女は正気づいたように見えた。男は今一声、何かしらの言葉を女にかけようとした。
「姐さ、」
瞬間、女はさらばえた身体からひとかけらの力さえも使い果たし、ど、と布団にくずおれた。男はひゅ、と息を飲み、女に手を伸ばしかけたまま、しばし身動きできずにいた。女は、その扇を握り締めた手さえ、ちらとも動かない。女は彼岸へ向かったのだった。
それから男は己が手を引き戻し、静かに両手を合わせた。
ばたりと、手が落ちる。女は痛い、痛い、とか細く泣き、崩れた顔を晒すことを恥じるようにそっと力ない手で覆った。
ひとしきり、女が泣き止むのを待って、ふちの欠けた急須の吸い口を、ほんの一年前までは一吸い一両、とまで謳われた唇に押し当てる。ゆるく傾けて重湯を流し込んでやると、かすかに喉がうごめいて、それを飲み込んだ。最後に残った一握りの米を炊いて作ってやったものだった。
あばら家にはもう、金になりそうなものは何もない。女が持っていた着物だの簪だのは、ひとつずつ、一年間をかけて売られ、もっと現実的なもの――たとえば食物、あるいは薬――へと姿を変えていた。日の光が表からふわふわと差し込み、それでもなお薄暗い家には、湿気た薄い布団が一組と短いろうそくが一本、そして、そしてそう、女の矜持の明確な形たるものが、そればかりは売られることもなく残されていた。
「――、」
吸い口を口から離してやると、女が呼んだ。その囁きほどのかすかな空気の振動に合わせるように答えを返すと、此岸へと今一度舞い戻った女は言葉を続けた。
「モシエ、わっちの、――わっちの、…」
舌がもつれている。
「おうぎは、どこぞに、売っちまったンだろうネ――?」
ようやくのように薄く開かれた二つの目が、あらゆる欺瞞を暴くようにざらりと辺りを――横になったままで届くだけの世界を、舐め回す。無遠慮な視線がむしろ痛々しい。もはや優雅さと名づけられるような類のものを取り繕う余裕は、女にはなかった。
女が床についてより、彼女の代わりに、と肌身離さず持ち歩いていた扇を閉じたまま、その手に押し与えてやる。女は疑り深くものろのろと扇を開き、その白地に、ほんのひとさしの紅色で梅の花が描かれているのを見ると、あぁ、と安堵のような、嘆きのようなため息をこぼした。崩れた顔が歪み、女は笑んだ。
「ホンニ、おめぇさんは、うれしがらせをしてくれるわナ、三国一の箱廻したァ、おめぇさんのことに違いあるめぇよ」
つ、と女の目尻から涙があふれ、こめかみを伝った。それをぬぐってやる間もなく、つかれた、と吐息のようなかすれた声が言い、女は目を閉じた。
やがて、乱れていた呼吸が落ち着き、細くもおだやかなそれに変わった。女は眠ったようだった。
――あぁ、と男は声にならない歓喜の音を喉から漏らした。女の崩れた顔にわずか指先ばかりで触れながら、この誇り高い女の、おそらくはもう数日後か、あるいは数時間後にさえ迫った死を思う。病ゆえに打ち捨てられた女との暮らしは無論楽ではなくむしろ辛かったが、それでもその終わりを男は恐れた。今この瞬間に、時など止まってしまえば良いと思った。
いつの間にか、戸の隙間から荒れた家に差し込む光が、宵闇に明るく輝く蝋燭や提灯の橙色になっていた。女はふと目を覚まし、正気めいた表情で男を見上げて小さく笑った。
「おめぇさんは、三つ四つの子ォじゃアあるめぇに、大の男が泣くンじゃアねえわナ」
女は扇をそっと枕元にやり、ふらふらと両手を男の頬に添えた。そうとは知らぬ間にこぼれていたらしい涙を、女の白魚のような指先がぬぐう。その力ないしぐさに、また涙が落ちた。
それはさながら夢のような、あるいは奇跡のような一瞬でさえあった。有り得たはずのない現実に、男は慄いた。女に触れることなど、かつては思いも及ばなかった。
表で、名の知れない鳥がギャア、と喚いた。日は沈みかけ、間近な女の顔さえももはや見えないまでになっていたが、そのおだやかであった表情が途端、ねじれるように引きつったことだけは瞬間的にわかった。ヒイ、とけだもののような悲鳴を喉からあふれさせ、女は彼女に残された力のすべてで男を押し退け、突き飛ばした。
男は、無論弱った女に好きにされるほどにやわではなかった。だがそうされてやらなければならないような気がして、ささくれた畳の上をいざり、布団から離れた壁際で手足を投げ出して座り込んだ。涙はこぼれず、ただ遠い違う世界の景色を眺めるように、女の壊れゆく様を見つめた。
痛い、と女は叫んだ。幼い子どものように握り拳で布団を叩き、傍に置き放しになっていた急須を壁に投げつけた。瀬戸物の割れる音に、またヒイ、と悲鳴を上げる。
「薬を、――薬を!」
女は男をまるで目に映さず、そのくせ男の名を呼び叫んで何故いないのかと罵り、己の髪を掻き毟り、悔しさに耐えぬふうに布団を噛み、引き裂いた。投げられた枕は男の足にぶつかった。
辺りのものをひとしきり投げ尽くし、女が最後に手にしたものは白い扇だった。女は手を振り上げ、それさえも、その矜持さえも一瞬投げつけようとしたが、どうした気まぐれか、手を下ろし、探り見るように扇を頬に押し当て、はらはらと涙を流して泣いた。
男はきちんとその様子を見ていた。女は正気づいたように見えた。男は今一声、何かしらの言葉を女にかけようとした。
「姐さ、」
瞬間、女はさらばえた身体からひとかけらの力さえも使い果たし、ど、と布団にくずおれた。男はひゅ、と息を飲み、女に手を伸ばしかけたまま、しばし身動きできずにいた。女は、その扇を握り締めた手さえ、ちらとも動かない。女は彼岸へ向かったのだった。
それから男は己が手を引き戻し、静かに両手を合わせた。
ああ、ああ。どうしてこんなに世界が愛しいんだろう?
カーラジオからは音楽が流れていた。静かな音楽だ。誰もその曲名を知らなかったが、彼らは素直にその音楽を、うつくしいと感じた。それから、ひとりが、最期の日に音楽なんて洒落てる、と少しだけ笑った。
それからしばらく、車内は静かだった。規則正しい彼らの呼吸の音だけが、音楽に溶け込んで聞こえていた。
やがてラジオの音楽がとぎれ、ニュースが始まった。アナウンサーは、国連が、本日をもって世界中の紛争が終結したと発表した、と告げた。誰かが、世界平和は実現するんだね、と言った。別の誰かが、もっと早くこうなれば良かった、と言った。また違う誰かが、宇宙人の襲来みたいなものだな、と笑った。
ニュースは多くを告げず、その日世界中で死んだ人々の数を国別に放送すると、再び音楽を流した。彼らは世界の人口が、一世紀前の三分の一にまで減ったことを知った。みんな死んでいくね、と誰かが言った。世界平和は実現したよ、と違う誰かが言い、しばらくして、先ほどと同じ誰かが怖い、とだけつぶやいた。怖くないよとそれをなだめた誰かが、ずっと抱きしめててあげる、と腕を伸ばした。
カーラジオの音楽は終わりを知ることがないかのように、ずっと同じ曲だけを流している。放送局で、ディスクをエンドレスにしてあるのかもしれない。音楽に溶ける呼吸音の中に、ひとつ嗚咽が混じった。ごめんね、ごめんね、と誰かが泣いた。それが何に対しての謝罪なのか、彼らはみんな知っていた。だから、大好きだったよ、ずっとここにいたかった、と誰かが言った。戦争なんて終わらなければ良かったね、と泣き声を抱きしめた誰かが、泣きながら言った。
やがて泣き声は消え、車内から音がなくなった。カーラジオの音楽は流れ続けていたが、もはや混じり合う呼吸音はひとつもない。
世界中のあらゆる場所で、屍の上に静かに音楽が流れていた。
カーラジオからは音楽が流れていた。静かな音楽だ。誰もその曲名を知らなかったが、彼らは素直にその音楽を、うつくしいと感じた。それから、ひとりが、最期の日に音楽なんて洒落てる、と少しだけ笑った。
それからしばらく、車内は静かだった。規則正しい彼らの呼吸の音だけが、音楽に溶け込んで聞こえていた。
やがてラジオの音楽がとぎれ、ニュースが始まった。アナウンサーは、国連が、本日をもって世界中の紛争が終結したと発表した、と告げた。誰かが、世界平和は実現するんだね、と言った。別の誰かが、もっと早くこうなれば良かった、と言った。また違う誰かが、宇宙人の襲来みたいなものだな、と笑った。
ニュースは多くを告げず、その日世界中で死んだ人々の数を国別に放送すると、再び音楽を流した。彼らは世界の人口が、一世紀前の三分の一にまで減ったことを知った。みんな死んでいくね、と誰かが言った。世界平和は実現したよ、と違う誰かが言い、しばらくして、先ほどと同じ誰かが怖い、とだけつぶやいた。怖くないよとそれをなだめた誰かが、ずっと抱きしめててあげる、と腕を伸ばした。
カーラジオの音楽は終わりを知ることがないかのように、ずっと同じ曲だけを流している。放送局で、ディスクをエンドレスにしてあるのかもしれない。音楽に溶ける呼吸音の中に、ひとつ嗚咽が混じった。ごめんね、ごめんね、と誰かが泣いた。それが何に対しての謝罪なのか、彼らはみんな知っていた。だから、大好きだったよ、ずっとここにいたかった、と誰かが言った。戦争なんて終わらなければ良かったね、と泣き声を抱きしめた誰かが、泣きながら言った。
やがて泣き声は消え、車内から音がなくなった。カーラジオの音楽は流れ続けていたが、もはや混じり合う呼吸音はひとつもない。
世界中のあらゆる場所で、屍の上に静かに音楽が流れていた。
Once upon a time...
2005年1月22日 その他 涙がこぼれて止まらない。愛しているよ、愛しているよ、愛しているよ。何度叫んでも届かない場所に、君がいる。
腐臭のし始めた遺体を埋葬する気にどうしてもなれない。いっそこのまま肉が腐り落ち、されこうべになった男を抱きしめることが想いの深さの証であるような気がしてならず、彼女はふふふと小さく笑った。死んでさえいなければ、もげた腕や足の代わりとして自らのそれなどいくらでもさしだしたのだけれど――もはや男は息をしていないから、彼女にはそんなことさえできない。もらったものをなにひとつとして返すことが、できない。
どうして、なんて、役立たずな。明確な自己否定を繰り返し繰り返し、胸の中でつぶやいた。涙はもうこぼれることさえ許してくれない。だから胸の中の哀しみと絶望は自浄もされずにぐるぐるとここに留まっている。
そのくせまだ思い出すのだ。何度でも、やさしい声のささやきを――愛しているよ、というそれを。
彼女は悲鳴のような声で笑いながら、腐汁にまみれて不気味な色にぬめる手を宙へとさしのべた。こんな死体は早く腐り落ちてしまえばいい。抱きしめることに苦痛はないけれど、されこうべの方があなたの傍にいることが簡単になるから。
ふふ、と笑うと、なくなった涙がひとつぶだけぽろりとこぼれた。
届かない。そう知っていたから、彼女は叫ぶことをやめた。まだうっすらとあたたかな死体を抱きしめて、代わりに笑った。
腐臭のし始めた遺体を埋葬する気にどうしてもなれない。いっそこのまま肉が腐り落ち、されこうべになった男を抱きしめることが想いの深さの証であるような気がしてならず、彼女はふふふと小さく笑った。死んでさえいなければ、もげた腕や足の代わりとして自らのそれなどいくらでもさしだしたのだけれど――もはや男は息をしていないから、彼女にはそんなことさえできない。もらったものをなにひとつとして返すことが、できない。
どうして、なんて、役立たずな。明確な自己否定を繰り返し繰り返し、胸の中でつぶやいた。涙はもうこぼれることさえ許してくれない。だから胸の中の哀しみと絶望は自浄もされずにぐるぐるとここに留まっている。
そのくせまだ思い出すのだ。何度でも、やさしい声のささやきを――愛しているよ、というそれを。
彼女は悲鳴のような声で笑いながら、腐汁にまみれて不気味な色にぬめる手を宙へとさしのべた。こんな死体は早く腐り落ちてしまえばいい。抱きしめることに苦痛はないけれど、されこうべの方があなたの傍にいることが簡単になるから。
ふふ、と笑うと、なくなった涙がひとつぶだけぽろりとこぼれた。
届かない。そう知っていたから、彼女は叫ぶことをやめた。まだうっすらとあたたかな死体を抱きしめて、代わりに笑った。
なんの気まぐれだか知らないが、男が指輪をくれた。ていねいになにか花の模様が刻まれた、銀色の指輪だった。小さな輪は、奇妙なことに指にぴたりと収まった。
別れようと思った。
この距離を保ったまま『愛情』というベクトルから『友情』というベクトルに関係がくるりと回ってくれれば話は別だったのだが、そうするにはともに過ごした三年間という時間――こと欲望という点において、バケモノと殺人鬼のペアで過ごす時間というのはなんと充実していたことだろう!――は意外と重たいようだった。少なくとも、心に絡みついて『好き』という単純明快な感情を形成する程度には。
男がくれた指輪は、その三年分の自分たちの想いなのだろう。もはや例えば平面図形の解答のように、抱える感情のみを回転させるような未来はないのだと男は言いたかったのかもしれない。
いや、あるいは。
「前より、血生臭くなったよね。こわいし」
「お前の言ってることは昔から、俺にはわけがわからん」
言う割に、男はくつりといかにも楽しげに笑う。
「前より好きになったってこと」
「それはどーも。つまりこれからもっと好きになるってことで?」
うん、とうなずいて笑うと、男はやさしく頭をなでてくれた。
――あるいは、もう元にはもどれないと暗に示しているのか。そうなのかもしれない。男はすでに罪を犯しているのだから、同胞の血肉をバケモノに分け与えるような。
それでも男はまだいい。このまま進んでゆくだけの気概がある。
都合のいい関係に回転したまま続けられる未来がそこになく、もはや各々元の場所へともどることも不可能で、そのまま突き進んでしまうには彼女に勇気が足りない。男から指輪を受け取るだけの勇気が。
だから、別れようと思った。
バケモノに持ち歩くべきものはない。ちょっとそこまで出かけるような格好で、彼女は今は部屋にいない男にさよなら、とつぶやいた。
薬指から抜き取ってそのまま空中で手を放した指輪が、フローリングの床でかつんと小さな音を立てた。
別れようと思った。
この距離を保ったまま『愛情』というベクトルから『友情』というベクトルに関係がくるりと回ってくれれば話は別だったのだが、そうするにはともに過ごした三年間という時間――こと欲望という点において、バケモノと殺人鬼のペアで過ごす時間というのはなんと充実していたことだろう!――は意外と重たいようだった。少なくとも、心に絡みついて『好き』という単純明快な感情を形成する程度には。
男がくれた指輪は、その三年分の自分たちの想いなのだろう。もはや例えば平面図形の解答のように、抱える感情のみを回転させるような未来はないのだと男は言いたかったのかもしれない。
いや、あるいは。
「前より、血生臭くなったよね。こわいし」
「お前の言ってることは昔から、俺にはわけがわからん」
言う割に、男はくつりといかにも楽しげに笑う。
「前より好きになったってこと」
「それはどーも。つまりこれからもっと好きになるってことで?」
うん、とうなずいて笑うと、男はやさしく頭をなでてくれた。
――あるいは、もう元にはもどれないと暗に示しているのか。そうなのかもしれない。男はすでに罪を犯しているのだから、同胞の血肉をバケモノに分け与えるような。
それでも男はまだいい。このまま進んでゆくだけの気概がある。
都合のいい関係に回転したまま続けられる未来がそこになく、もはや各々元の場所へともどることも不可能で、そのまま突き進んでしまうには彼女に勇気が足りない。男から指輪を受け取るだけの勇気が。
だから、別れようと思った。
バケモノに持ち歩くべきものはない。ちょっとそこまで出かけるような格好で、彼女は今は部屋にいない男にさよなら、とつぶやいた。
薬指から抜き取ってそのまま空中で手を放した指輪が、フローリングの床でかつんと小さな音を立てた。
痛みと快楽の境目が曖昧で、しかもその方面に貪欲な性質なのだと知ったのは、ごく幼いころだった。
痛みというのはこの場合物理的な――つまり肉体の――痛みではなく、精神的な痛みである。昔から感情を繕うことはひどく上手かったが、外堀を越えて入り込んできたもの、あるいは人々に対しては、ひどく従順でしかも寛大だった。大抵のことがらは笑って許してやったし、そうでない場合でも、いまさら堀の外側に追い出すことはできなかった。
つまるところ、内側は想像もできないほどに脆い。虚勢を張って、他人のように縮こまることもしないから、一度受け入れたものに手ひどく裏切られ、傷つけられることもしばしばだった。
薄皮を剥ぐように心が一枚ずつ削られてゆくその痛みが、どうしてだろう、どことなく心地よい。例えて言うのならそれは指先のささくれを弄り回すような甘靡な痛みで、どんな異性と付き合うよりも『ささくれ』は彼を痺れさせた。
だからそれを味わうためにわざと自分を傷つけるようになった時、自覚した。ああ、俺はいつかこの性癖で、身を滅ぼすにちがいない。
それでも世渡りは比較的上手い方で、やっかいな性癖を抱えながらも彼は比較的真っ当に成長した。若いが三十路も見える年となり、そのまま時が過ぎ去ることになんの疑いも抱かなかった――その、青年に出会わなければ。あるいは出会ったとしても、決定的な出来事さえなければ。
正直なところ、彼は青年が好きだった――無論、likeの意味でではあったけれど。尊敬していたし、いつかは自分も彼のようになりたいと願っていた。一見おとなしやかに見えて強靱で、その脆さはしなやかさで、……空の高い場所を飛ぶ鳥のような人だった。
だが、逆にだからこそだったのかもしれない。手の中の凶器をその人に突きつけた時、つまり傷口を自らの爪でこじった時、間違いなく自分の脳は快楽物質を吐き出していた。震える手で一枚薄皮を剥ぐことに、叫び出したいほどの悦びを感じていた。
――ああ、俺は。
自分がそうなのだということを自覚できることこそが、なによりもおぞましく、……同時に快感でもあった。
――俺は、止められない。
何故ならここにあるものが疑いようもなく痛みで、痛みは快楽だから。それが快楽ならば、求めてしまうから。
青ざめ、だから誰か俺を止めてくれと必死で祈りながら、彼は痛みという名の快楽が赴くままに引き金にかけた指先に力をこめた。
痛みというのはこの場合物理的な――つまり肉体の――痛みではなく、精神的な痛みである。昔から感情を繕うことはひどく上手かったが、外堀を越えて入り込んできたもの、あるいは人々に対しては、ひどく従順でしかも寛大だった。大抵のことがらは笑って許してやったし、そうでない場合でも、いまさら堀の外側に追い出すことはできなかった。
つまるところ、内側は想像もできないほどに脆い。虚勢を張って、他人のように縮こまることもしないから、一度受け入れたものに手ひどく裏切られ、傷つけられることもしばしばだった。
薄皮を剥ぐように心が一枚ずつ削られてゆくその痛みが、どうしてだろう、どことなく心地よい。例えて言うのならそれは指先のささくれを弄り回すような甘靡な痛みで、どんな異性と付き合うよりも『ささくれ』は彼を痺れさせた。
だからそれを味わうためにわざと自分を傷つけるようになった時、自覚した。ああ、俺はいつかこの性癖で、身を滅ぼすにちがいない。
それでも世渡りは比較的上手い方で、やっかいな性癖を抱えながらも彼は比較的真っ当に成長した。若いが三十路も見える年となり、そのまま時が過ぎ去ることになんの疑いも抱かなかった――その、青年に出会わなければ。あるいは出会ったとしても、決定的な出来事さえなければ。
正直なところ、彼は青年が好きだった――無論、likeの意味でではあったけれど。尊敬していたし、いつかは自分も彼のようになりたいと願っていた。一見おとなしやかに見えて強靱で、その脆さはしなやかさで、……空の高い場所を飛ぶ鳥のような人だった。
だが、逆にだからこそだったのかもしれない。手の中の凶器をその人に突きつけた時、つまり傷口を自らの爪でこじった時、間違いなく自分の脳は快楽物質を吐き出していた。震える手で一枚薄皮を剥ぐことに、叫び出したいほどの悦びを感じていた。
――ああ、俺は。
自分がそうなのだということを自覚できることこそが、なによりもおぞましく、……同時に快感でもあった。
――俺は、止められない。
何故ならここにあるものが疑いようもなく痛みで、痛みは快楽だから。それが快楽ならば、求めてしまうから。
青ざめ、だから誰か俺を止めてくれと必死で祈りながら、彼は痛みという名の快楽が赴くままに引き金にかけた指先に力をこめた。
君が笑ったり泣いたり喜んだり怒ったり、感情をあらわにしてこちらに顔を向けると。
……とたんに自分は、どうしていいのかわからなくなる。
自分の中には、比喩ではなく獣がいる。時折、というよりも頻繁に起き上がって厳重に囲い込んだ檻をガンガンと叩く獣は、喰いたい喰いたいと喚き散らしては頭痛を引き起こす。その度に、自分は檻の中の獣をうるさいと怒鳴りつけてはみるのだが、そもそも実は心の奥で喰いたいと願っているのだから、さっぱり意味がない。
――どうしろと?
弾けそうな笑顔を見せて無邪気に距離をつめてくる少女に、やさしい皮をかぶっていたい獣は途方にくれる。ああ、だって。さっきから檻の中で馬鹿が暴れて、頭痛はするし。俺が君を喰いたいとか考えてることなんて、ひとつも知らないで話しかけてくれるし。君を傷つけるわけにはいかないと知っている。だから喰いたくなどはないのに、……なぜだろう、滅茶苦茶にしてやりたいとも思う。
けれどもそんな葛藤はきれいに押し隠し、猫かぶりな獣はにこりと笑った。
もしも知らない間に君を傷つけてしまうようなことがあったら。その時は、かまわない、俺などひと思いに殺してほしい。他にこの獣を止める術など、知らないのだから。
……とたんに自分は、どうしていいのかわからなくなる。
自分の中には、比喩ではなく獣がいる。時折、というよりも頻繁に起き上がって厳重に囲い込んだ檻をガンガンと叩く獣は、喰いたい喰いたいと喚き散らしては頭痛を引き起こす。その度に、自分は檻の中の獣をうるさいと怒鳴りつけてはみるのだが、そもそも実は心の奥で喰いたいと願っているのだから、さっぱり意味がない。
――どうしろと?
弾けそうな笑顔を見せて無邪気に距離をつめてくる少女に、やさしい皮をかぶっていたい獣は途方にくれる。ああ、だって。さっきから檻の中で馬鹿が暴れて、頭痛はするし。俺が君を喰いたいとか考えてることなんて、ひとつも知らないで話しかけてくれるし。君を傷つけるわけにはいかないと知っている。だから喰いたくなどはないのに、……なぜだろう、滅茶苦茶にしてやりたいとも思う。
けれどもそんな葛藤はきれいに押し隠し、猫かぶりな獣はにこりと笑った。
もしも知らない間に君を傷つけてしまうようなことがあったら。その時は、かまわない、俺などひと思いに殺してほしい。他にこの獣を止める術など、知らないのだから。
ダージリン、ローズ、アッサム、シナモン、スリランカ、ウバ、ストロベリー、チャイ、アールグレイ。
一体どこから仕入れてくるのだろうと思うほどに、彼女は魔法のように――そうだ、実際魔法を使っていたのかもしれない。なにしろ彼女は魔女だった――いろいろな茶葉を持ち出してきた。家中に広がるどこか異国めいた香りが、彼は好きだった。目の前にあるものが、どこか幸せの象徴のような気がしたからだ。
けして高級ではないけれど使い込まれて愛着のあるカップに、音もなく注がれる深い赤の液体と、焼きたてのプレーンスコーン――そしてもちろん手作りのジャム。煎れる茶葉によってカップに注がれる色も微妙に違うのだと、教えてくれたのは彼女だった。
これが平和だというのなら、一生失いたくはなかった。たとえば我が身に代えてでも、彼女と彼女の煎れるアフタヌーンティーを守らなくてはならないと思った。
だからなのかもしれない。再び戦場にもどったのは。
一体どこから仕入れてくるのだろうと思うほどに、彼女は魔法のように――そうだ、実際魔法を使っていたのかもしれない。なにしろ彼女は魔女だった――いろいろな茶葉を持ち出してきた。家中に広がるどこか異国めいた香りが、彼は好きだった。目の前にあるものが、どこか幸せの象徴のような気がしたからだ。
けして高級ではないけれど使い込まれて愛着のあるカップに、音もなく注がれる深い赤の液体と、焼きたてのプレーンスコーン――そしてもちろん手作りのジャム。煎れる茶葉によってカップに注がれる色も微妙に違うのだと、教えてくれたのは彼女だった。
これが平和だというのなら、一生失いたくはなかった。たとえば我が身に代えてでも、彼女と彼女の煎れるアフタヌーンティーを守らなくてはならないと思った。
だからなのかもしれない。再び戦場にもどったのは。
I wish I were God.
2004年2月8日 その他 もう少し、もう少しでいいんだけれど。
そう呟いて、私は身体を引きずるように、彼に近付いた。心臓が痛い。どくどく、どくどく、いつもと同じように痛いのに、いつもよりも大きく鳴っているような気がした。
もういいよ、止まれ。
彼の動かない瞳孔がそう言っているように思えたけれど、私はいつでもこうしてきた。今度だけこの歩みを止めることなど、しはしない。
そう、いつだって私は動かない彼に、死にそうになりながら歩み寄った。
生肉のマネキン。よくできたアンドロイドって、そういうものだと私は思う。実際私が見送ってきた彼は、いつだって『生肉のマネキン』だった。
オリジナルの体細胞の一片からDNA情報を採集、二七年という短い時間で螺旋を描くことを止めてしまった彼の、その記憶を全部拾い集める。別の体細胞を育ててできた生肉に、マネキンとなるべく記憶を入れれば、完成。愛しい男の出来上がり。
やってみれば大したことではなかったし、彼を愛していた。痛む心臓という、生殖的な致命的欠陥ごと私を愛してくれるような男は、他にこの世には見当たりそうになかった。
ああ、だが――
神様はやはり公平だ。ひとりだけ死人を取り戻そうとした愚かな女に、きちんと罰を与える。
私はようやく彼の元に辿り着き、見開かれた目をそっと閉ざした。お願いだから目を覚ましてなどと、もう馬鹿みたいに喚く必要性も感じなかった。一度神の領域に足を踏み入れたのなら、抜け出すことなど考えつきもしないように。
二一人目の『彼』の弔いを済ませると、私は二二回目の培養を始めた――
そう呟いて、私は身体を引きずるように、彼に近付いた。心臓が痛い。どくどく、どくどく、いつもと同じように痛いのに、いつもよりも大きく鳴っているような気がした。
もういいよ、止まれ。
彼の動かない瞳孔がそう言っているように思えたけれど、私はいつでもこうしてきた。今度だけこの歩みを止めることなど、しはしない。
そう、いつだって私は動かない彼に、死にそうになりながら歩み寄った。
生肉のマネキン。よくできたアンドロイドって、そういうものだと私は思う。実際私が見送ってきた彼は、いつだって『生肉のマネキン』だった。
オリジナルの体細胞の一片からDNA情報を採集、二七年という短い時間で螺旋を描くことを止めてしまった彼の、その記憶を全部拾い集める。別の体細胞を育ててできた生肉に、マネキンとなるべく記憶を入れれば、完成。愛しい男の出来上がり。
やってみれば大したことではなかったし、彼を愛していた。痛む心臓という、生殖的な致命的欠陥ごと私を愛してくれるような男は、他にこの世には見当たりそうになかった。
ああ、だが――
神様はやはり公平だ。ひとりだけ死人を取り戻そうとした愚かな女に、きちんと罰を与える。
私はようやく彼の元に辿り着き、見開かれた目をそっと閉ざした。お願いだから目を覚ましてなどと、もう馬鹿みたいに喚く必要性も感じなかった。一度神の領域に足を踏み入れたのなら、抜け出すことなど考えつきもしないように。
二一人目の『彼』の弔いを済ませると、私は二二回目の培養を始めた――