煮え立つスープの底からもがいて浮かび上がるように、意識をふと取りもどした。手足が馬鹿に冷たい。誰かかけるものを、と不機嫌にうめくが、家のメイドは気の利かない馬鹿な娘で、その程度で女主人の要望を聞き届けてくれるはずもない。仕方がない、と縫い付けられたように言うことを聞いてくれないまぶたをどうにか押し開くと、そこは数ヶ月でようやく見慣れた新居の天井ではなく、ぞっとするほどに清潔な、病院めいて白いそれだった。
 え、と困惑しながら身を起こすと、彼女が身につけていたそれは寝巻きでもお気に入りの若草色のドレスでもなく、馬鹿にしているのかと思うほどにそっけない、真っ白なドレスだった。コルセットは、とあわてて確かめると、どこの誰だかは知らないが、そこまで厚顔無恥な輩ではなかったらしい。
 ともかく今この瞬間の身の安全を確かめると、どこか天の高い場所に預けられていた記憶が、どっと降り注いできた。ここが自宅であるはずはない。だって自分は、……自分と夫は、新婚旅行中だったのだから。
 だが身を横たえていたのはホテルのものとは似ても似つかない硬いベッドで、それは独房めいたこの部屋の壁際にぴったりと寄せられていた。ドアがひとつと、窓がひとつ。どちらにも鉄格子がはめられていて、彼女は以前、錯乱した友人を見舞いに行った病院を思い出した――つ、と背筋に冷たいものが這いずる。知らない内に自分は発狂でもしていたのだろうか。
「待って、待って……わたしは正常よ! どこからどう見たって!」
 青ざめてひとり叫んだその時、かちり、とドアの鍵が外される小さな音がして、鉄格子の向こうに女の顔が覗いた。恐ろしいほどに無表情な青白い顔をした、虚ろな目の色の女だった。否定したくてたまらない病院の文字が、彼女の頭をまた過ぎる。
 女は重たげな鉄のドアを軋ませながらなんとか開き、一歩、部屋の中に足を踏み入れた。彼女が着ているものと寸分違わない白いドレスの裾がゆらりと揺れて、血の気のない爪先がちらとのぞいた。看護人の付き添いがない。結い上げられもしない長い黒髪が不気味でたまらない。彼女はひ、と喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
 女はすうと両手を広げて、ぱたぱたと二三度のまばたきをした。
「ようこそ、『研究所』へ。歓迎するよ、同胞」
 女の薄い唇からこぼれた声は、耳に心地良いアルトだった。そうしておどろくべきことに、それは理性の響きを持っていた。予想外の音に、彼女はおどろいて目を見開いた。
 もっとも、と男がするように皮肉げに唇をゆがめて、女はぱたりと両手を身体の両脇に落とした。うつむきぎみに軽く伏せられたその表情は、彼女からはよく見えなかった。
「――死んだ方がましだったけれどね」

 一の魔女、と呼ばれていた女が、誰より愛した男を目の前で失ったのだと、聞いたのはもっとずっと後のことだった。
 これは緩慢な死であるのだと、彼女は静かに自覚していた。静かに――あるいは冷ややかに。彼女から熱は奪われて久しく、そうして彼女に熱を与えるものはこの研究所にはない。そうして、ならば彼女は死ぬしかなかった。
 否、だけれども、彼女には死さえも許されてはいなかった。冷えた手術台に横たわり、歪み、たわんでねじれてゆく天井をどろりとしたスープの底から眺めるようにしているこんな時に、ふとそんなことを思い出した。
 生はなく、死さえも持たないとするのなら、この身をやわらかく包むこの感覚はなんなのだろうと彼女は訝った。考えてみればこうした哲学めいたことがらを思考するなど、ごく久しぶりのことだった。ただ楽になりたいと思っていた。それが薄い膜のように全身を覆って倦怠に彼女を満たしていた。

 ただどうと言うことはなく、絶望という、ずっと昔に習った、使う機会などあるとは思えなかった単語を思い出した。

 くっと唇の片側を吊り上げると、薬の具合を確かめようとこちらを覗き込んでいた男の顔があからさまな恐怖に引きつった。とろとろと全身を、再びそれが覆い尽くしてゆく。彼女の目はもはや何をも映さなかった。その必要性を感じず、そうできるだけの力もなかった。彼女はすうと目を閉じた。
 二度と再び出会うことのない男を想う。もう夢は見ない。男の姿を思い出せない。ただやさしくこの髪を梳いていた無骨な手を、この世と彼女の曖昧な境界越しにはかなく感じた。

継父。

2005年12月13日 長編断片
 父と母の間に子はなかった。一度母が身ごもったのは戦場で、そうと知れずに流れたのだと聞いている。
 自分に似ない息子を、それでも父は精一杯愛そうとしていた。

 両親は子どものために歩調を緩めるということを知らないひとたちで、いつでも二人、肩で風を切って歩いてゆく。その堂々として誇り高い後ろ姿に、少年はいつでも憧れた。
 だがその焦がれたはるかな高みが彼を見つめてくれることは滅多になく、もどかしいばかりに歩みの遅い己の足に泣き出しそうになりながら前を行く二人に言うのが常だった。待って、と、それはひどく勇気を必要とすることだったけれど。
 冷たい薄いブルーの目といかにも軍人にふさわしいような酷薄そうな顔立ちとは裏腹に、実のところ父の方が彼には甘かった。立ち止まった父は少しだけ表情をやわらかくゆるめて振り返り、彼が彼の足で追いついてくるのをいつでも待っていた。そうして彼が大きくてごつごつした骨太なその手を取ると、父は良し、と空いた手で頭を撫でてくれるのだった。
 対して母は照れがちな人だったのか、曖昧な困ったような微笑を浮かべて彼を見つめていることが多かった。女神像のようにうつくしい母の、その自分に似た深い緑のまなざしを、彼はとても好いていた。母は彼が父の手を取るのをじっと見つめていて、父にうながされて始めて気付いたとでも言うように、おずおずと彼の小さな手に指をからめるのだった。
 ――そうして、三人で手を繋いで歩いてゆく。二人だけでうつくしく完成され、完結された両親の間にその身を交えることができるのは、例えそれが不調和であっても自分だけ、彼らの息子たる自分だけなのだと思えば、一対を打ち壊してしまった言い訳も立つような気がした。

 だけれどいつしか、待ってと縋ることをしなくなった。
「お前とお前んちの父さん、似てないよな」
 それはもちろん自分のことであるから薄々知ってはいたものの、見ないふりをしていたことも、他人にそう言われればひどく傷つくことも事実だった。深い緑の目は母譲り、薄い唇やことさら白い肌もきっと母譲り。――けれど、母とも父とも違うこの金髪めいた薄い茶色の髪は。垂れ気味で、ともすれば優男にも見えるこの目元は。……誰から、譲り受けたというのだろう。
 子どもの変化に敏かったのはやはり父で、どうしたと声をかけてくれたことは嬉しかったが、少し怯えた。だがそれでも言葉にしようと思ったのは、きっと母が出張でいない夜だったからなのだろう。
「ねえ、父さんは――本当に、俺の父さん?」
 震えたまだ高い声に、父は顔をしかめて溜息をついた。それは父がごく困難な事態に行き当たった時に見せる表情だった。どう答えれば満足するのか知らないが、と捨て鉢気味な前置きをして、父は言った。
「私は子どもを持ったことはない。だがお前は彼女の息子だ」
 それで十分だろう、と呟く父の口調は、ひどくやさしげだった。だから彼は、むしろ母こそがためらいがちであった理由をようやく知った。それは父に対する遠慮だったのだ。
 なんと残酷なひとだろう。愛していないわけではないと知っているけれど、それでも彼女にとっての優先順位はもはや動かしようもなく決まってしまっている。だけれど、
「俺、父さんが好きだよ」
「ああ」
 母が向けた想いの分まで父が愛してくれるから、それでかまわないような気もした。

 血は水よりも濃いというけれど、そんなものは嘘だと知っている。
 似ない父こそが、彼の誇りだった。
 それさえもあなたが生きていてくれた証。

 明かりを消して、というその声が、恥ずかしがっているとかそういうことでは説明が付けられないほどに切羽詰っていて、むしろ滑稽にさえ聞こえた。今夜この瞬間を迎えることは明確にではないにせよ、お互い視線とほんのわずかな表情の動きで合意を取っていたはずだ。いまさら、などと酷いことを思ったりはしないが、と彼は眉を寄せた。
 粗末だが清潔な白いシーツの上でか弱く身を縮めている彼女は、こんなにも華奢ではなかったと記憶していた。だが実際そうなってみれば、彼が驚くほどに彼女は――女性だった。そうしてその小さなひとは、すがるように彼を見つめて明かりを消してほしい、ともう一度言った。
「そうでなければ、私のことは忘れてくれてかまわないから。お願いだ……」
「――どうして?」
 責めているのではないのだと、ただそんなことを懇願する理由が知りたいのだとできる限りやさしい声で問うと、彼女は唇をきゅ、と噛み締めて、するりとドレスの袖から腕を抜いた。ほとんど鉄壁の防御とも思えていた高い襟を止めるボタンやらコルセットの紐やらは、つい先ほど、彼がその手をもって攻略したばかりだった。
 そうしてまろく、なめらかで少し明るみを帯びた象牙色の首が、肩があらわになり、彼は息を飲んだ。絹のドレスはさらさらと胸元を滑り落ち、ベッドに尻をぺたりと付けて座り込んでいた彼女の、すんなりとした腹の辺りでわだかまった。どんな著名な芸術品も、これほどにうつくしい生き物の姿を克明に写し取ることはできないだろうと彼は思った。だが、
「……傷痕、ですか…それは」
 胸元から臍の下まで、彼女を二つに引き裂いた傷痕に目を留めると、彼は別の意味で息を飲んだ。
 それは醜い傷痕だった。どんな状況で、一体誰に負わされたものなのか、引き攣れ、土を含んだまま癒えてしまったらしく、そこだけ肌が変色してさえいた。
「この傷を負ったことをね、後悔はしていないんだ。でもそれでも、」
 あなたにこんなものを見せるのは、辛くて。そう薄暗く顔を伏せ、傷痕を覆うようにおずおずとドレスを持ち上げる彼女の手を、彼はそっとさえぎった。恥じる必要も、後ろめたく思う必要もないと思った。後悔はしていないと言うのなら、いつも彼女がそうしているように誇り高く顔を上げて彼をまっすぐに見つめてほしかった。
「あなたは、きれいだ。俺にはもったいないくらいに、いつだって」
 日々の仕事で荒れ、がさついた、それでもなお細く奇跡のように整った指についばむように口付けると、ひく、とうろたえたように喉を鳴らす音がして、それからためらいがちにありがとう、と彼女は言った。彼女は泣いていたが、笑っていた。
 お前のことは『光を与える』と呼ぼうか、と六歳で彼女がついた師匠は言った。それはただ便宜上のことであって、彼女は師匠がそうであり、父や母や祖父母がそうだったようにあくまでもカーヒンに過ぎなかったが、それでも何かその呼び名を天啓のように感じたことだけは覚えている。

 師匠の下ですべての術をおさめたカーヒンは、王族か、それに近い高位の貴族や聖職者の護衛として、たったひとりの主に仕える。
 仕えるべき主はジンが教えてくれるものだよ、と師匠は言ったが、『光を与える』と呼ばれていたカーヒンには、何人の王族、貴族、聖職者に会おうとも、みずからの主には出会えなかった。それは不思議な、理性はもうこの方でいいではないかと思うのに、本能が頭を垂れることを拒否するような、そんな感覚だった。
「師匠、私の主はどこにいるのだろう」
「もうすぐだよ、ゆっくりお待ち」
 長年せっかちな彼女をそう諭し続けてくれた師匠が亡くなったのは、高貴な方の護衛を選ぶから、と王宮に呼ばれる前日のことだった。葬儀どころか、哀しむだけの間すらもなかった。師匠の家は王宮から遠く、正装を身にまとい、習い覚えた妖術を使って首都へと移動するのが精一杯だった。

 そのひとが現れた瞬間――広間はぴんとした静寂につつまれた。その場に集ったすべてのカーヒンたちが、異国の王女をとまどうように見つめていたように思う。
 彼女とて、とまどわなかったと言えば嘘になる。だがそれよりも強く、ただ理解していた。この異国の王女こそ、彼女が仕えるべき主なのだと。
「――生涯を貴女に仕え、御身お守りすることを誓います」
 深々と下げた頭をすぅっと上げ、たった今誓約を済ませたばかりの主を見やると、その尊いひとは盲いた目をそれでもまっすぐに彼女に向け、うっすらと笑んでいた。ただ王女に目を向けてもらったというそれだけで、打ち震えるほどの快感であり、幸福であるように彼女には思えた。
「ありがとう。良く仕えてくれることを願います」
 軽く伏せられたうつくしい青い目がものの姿かたちをとらえないのだなどとは、どうしても思えなかった。

 『光を与える』と師匠は彼女を呼んだ。それはこの盲いた王女に仕えるようにというジンからの天啓だったのだろうと、年若いカーヒンは思った。
 同棲中のバケモノが最近、とみにお気に入りなのが、昔懐かしのチューペットだ。けばけばしいオレンジやピンク、グリーンの凍らせた棒を、真ん中でぱきんと折ってその口からちゅうちゅうと甘い汁と氷のかけらを吸う。
 そのしぐさが妙に赤ん坊じみていて、けれどエロくさいと言ったらじゃあ真司はロリコンなんだーなどと甘ったるい声で返されたから、なんとなく悔しくてごまかすようにキスをした。普段とは違う砂糖菓子のような味のする唇は、氷で冷やされ、少しひんやりとしていて気持ちが良かった。そのまま万年布団にその可愛らしいバケモノを押し倒すことになったのは、まあ当然の話だった。

 暑いからもう一本食べる、とのそのそ布団から這い出して行った白い尻は、ばたんばたんとやかましく冷凍庫を開け閉めして、もどってくると薄いブルーのチューペットを一本咥えた少女に化けていた。折って、とねだるこのバケモノは、どうもこちらが眠たがっているというのをちっとも理解していないようだが、だからといって無視をすると後で散々な目に遭うことはわかりきっていたので、はいはいと受け取って膝頭に中心を打ち下ろす。
「よっ、と」
 ぱきり、と景気のいい音が部屋に響いて、二本に割れたチューペットの片方をすかさず奪い取ったバケモノは、折り口からわずかにあふれてこぼれかけた甘い汁をちろりと赤い舌で舐めた。手の中に残されたもう一本は、きっと食えという意味なのだろう。同じくこぼれかけた汁をすすると、寝ぼけたような、だけれど懐かしいソーダの味がした。子どものころ、夏休みに冷蔵庫に入っていた三ツ矢サイダーはこんな味だったような気がする。
 夏祭りだとか、川遊びだとか、花火だとか、そうして三ツ矢サイダーの味のチューペットだとか。このバケモノといると、どうしてこんなにあたたかなものばかり思い出すのだろうと少し不思議に思ったけれど、あつーいと時間もわきまえずわめいた我が侭なそれが布団を蹴っ飛ばして古ぼけた扇風機を足でつけたので、とりあえず考え事は忘れて汗にしっとりと濡れた小さな頭を叩くことにした。
 時に命を懸けることにさえためらいを捨てなくてはならないこの仕事を選んだ時から、いつかできるかもしれない孫の顔を見る、などという安穏とした生活は忘れることに決めた。代わりに選んだものは恋人という呼び名からは遠く離れた、互いの能力を見据えた上で付かず離れずを保ったパートナーだったが、思えばそれこそを恋人と呼んでしかるべきだったのだろうと男は薄く笑った。
 馬鹿だなお前と、愛した女のからかいを思い出した途端、記憶は吹き荒れた雪に流された。

 それほど大きくはない戦闘だったから、病室は比較的空いていた。それでもベッドはすべて埋まっていたし、床に寝かされている者もいた――彼らのほとんどは、夜明けを待たずに死ぬだろうとは軍医の言だ。だがそうしたカテゴリに含まれていたにも関わらず、女はベッドをひとつ与えられていた。それは彼女の襟元に輝く星が三連だったせいもあるだろうし、その類稀な強さを周囲が認めていたせいもあるだろう。
 彼がのろのろ近づくと、モルヒネの浅い眠りからちょうど目覚めた女はふわりと笑った。女のこんなにもおだやかな顔は、かつて見たことがない。それで彼は、もうすぐ女が死ぬのだということを唐突に理解した。女の唇がはくりと動く。
「喋るな。傷に障る」
 だいじょうぶ、と女はかすかに首を振った。傷に障るだとか、そういう状況をもはや自分が超えてしまっていることを、彼女は理解しているのだろう。日ごろ好み、また信頼しているその聡明さを、彼は今ばかりは憎いと感じた――だがその聡明さがなかったなら、こうして女を見取ろうとはしなかった。
 起こしてくれと女がかすかに腕を伸ばしたから、彼はそっと彼女の背に手を入れて、なるべくていねいにその身体を起こした。自分ではその体勢を支えられない女の、知っているよりも華奢に思える肩をゆるく抱く。手と袖がべっとりと血で濡れた。傷ついたのは肝臓か、胃か、あるいは胆のう辺りか。
 その出血量にうろたえたのは、女よりもむしろ彼自身だったらしい。何も言えずにいる間に、女はまた笑って、だいじょうぶ、と繰り返した。もつれがちな舌が懸命につむぐ言葉はどこかあどけなく聞こえた。辛辣な言葉を吐くのが常だった女が不意にやさしさを見せた理由を、彼は考えてぞっとした。
 何十人かの友人と、何百人かの知り合いと、それよりももっと多い顔見知りをすでに失った。だがこのたったひとりの女を失うことは、かつて起きたそれらよりもずっと重く彼にのしかかった。自分よりもずっとゆたかな才能と、強さと、自分にはないやさしさを兼ね備えたこの女は、どこか遠くへ行ってしまうのだ。それを苦痛だと感じたことに、彼はぞっとした。
 抱えた肩にわずかな力を込める。青ざめた女を突き飛ばし、病室から飛び出してしまいたい衝動に駆られた。彼女を見取ってしまったら、立ち直れないような気がした。
 また眠りに落ちかけていた女はふと目を開き、行ってくれてかまわない、と途切れ途切れにつぶやいた。――いや、やはりこのままここにいるべきだと、彼は頭を振った。目の前で女を失くすことよりも、自分の感知しない場所で、ひとりきり、眠るように死ぬのだろう女を後から思うことの方が堪えるだろうと思った。
 それから夜明けまでの間、女は幾度か眠り、目覚め、だいじょうぶと繰り返し、また眠った。最後に女が目覚めたのは日が昇って数時間後で、彼は軍医が言うよりもずっと長くこちら側に留まった彼女を、やはり強いと思った。彼の名を、女は慣れた様子で呼んだ。
「先に、行く」

 先に行くと彼女は言ったが、どこへ行ったのか、今なお彼にはわからない。彼女も彼も、天国の存在を信じるほどに理想主義者ではなかったし、地獄へ行くほどには罪深くもない。そういえば、生前彼女は彼の故郷に行きたいと言っていた。海を見たことがないからと。ならば彼女はそこにいるのかもしれない。
 魚を釣って暮らすのも悪くはないかと、彼はくつりと笑った。それに故郷は気候がいいから、寒がりのくせに極寒地で死んだ彼女を連れて行くにはちょうどいい。
 最北の、雪吹き荒れる地に、彼は二度と来なかった。

表現方法。

2005年1月18日 長編断片
 もぎとられた右腕と潰された左目を、暗闇に身をひそめながら思う。あの女は同族の身体を食った。ならば殺さねばなるまい――だがその前に、食っておきたい。食って体力をつけなくては勝てない。ああ、でも、それよりももっと切実に思うことがある。
 ――真司、君に会いたい。
 貧血で青ざめて、それでも彼女はくつりと笑った。

 食う気はなかった。だからひとりで出ていった。さようならと、それきり書いたメモを残して。だが少女の傍らでこちらを睨む青年を見て思い出した。自分たちには、もうひとつの方法もあったのだと。
 けれどもその選択は、あるいは二つ並べた内のより残酷な方で、だから彼女は無意識にそちらを選びとる道を自ら閉ざしたのだろう。いや、彼女自身はわずかな痛みに耐えるきりだからかまわない。だが彼が失うものはずっとずっと大きな、彼女になど払えそうにないほどのものだった。愛した者にそうした喪失を強いることは、彼女の本意ではなかった。
 ――すでにこの少女は狂っている、と感じた。自分たちの倫理は、愛した者をバケモノにすることを許しはしないはずなのだから。
 愚かなことだ、と笑う。食わずにはいられない、そういうものだ、生き物というのは。「生きる」という行為そのものに対しての原始的な欲求は、少女を育てた人間とてやめようとはしなかっただろうに。それでもなお飢えから目を背け、辿り着いた結果が死よりもまだ悪い気狂いなど、哀れで――愚かなことだ。
 彼女はくつくつと笑った。こんなに愉快な気分になるのは、十数年か、ひょっとすれば数十年ぶりでさえあるかもしれない。狂った同族に復讐を唱えられることなど、彼女の長い一生でさえ、一度でもあることではなかった。
 少女と青年が飛びかかってくる寸前に、彼女は甘くささやいた。愛してる、だからひとりで来たんだよ。

 おあつらえ向きなことに雨まで降ってくるという事態は、いかにこの身体が人間よりは多少頑丈なバケモノであってもうれしいことではない。それでも彼女はくふんと寂しげに笑ったきり、その場を動こうとはしなかった。
 腹が減っている。血が足りない。右腕と左目が燃えるようだ。だがそれよりも、たったひとりの人間に、男に会いたい。
 水溜まりを踏む足音が、彼女の耳に聞こえた。

帰港。

2004年12月26日 長編断片
 海を見たことがないと、女は言う。
「どのくらい大きいのかな……水が塩辛いなんてのもちょっと想像できない」
 くくくと機嫌がよさそうに小さな笑いをこぼしながら、彼女は腕をゆるりと空中へのばす。そこに海があるのだとでも言いたげなしぐさだった。彼は静かにタバコをふかしながら――情事後の一服というのはおどろくほど美味い――、ちらりと女の緩慢な動きを見やった。
 酸いも甘いも噛み分けた年ごろでしかも慣れた仲だから、女はいまさら自分に、した後にキスをしろだのタバコはやめろだのということは言わない。そもそも一仕事終えた後の男という生き物に、そういうことをしろとねだる方が間違っている。この女はそれを知っている。だからいい。だからせめて、女がだらだらと続ける他愛のない話に、乗ってやる気にもなる。
「見たことあるか、海って」
「生まれは、海の傍だった。気候のいい場所だ。魚がよく釣れた」
 淡々と告げると、女は初耳だ、と身をすり寄せてきた。もっと聞かせろ、と言いたいのだろう。そういえば、長年の付き合いだが故郷の話など一度もしたことがなかった。
「港がある。船が二日か三日に一隻は入ってきた……国内貿易用の商船だ」
 短くなってきていたタバコを灰皿に押しつけて消し、話し続けながら彼は明かりを落とすと、毛布とキルトをめくって身体を入れた。ベッドは、女の体温であたためられていた。すかさず女の腕がのびてきて、彼の腕をからめとる。不思議なことに、と彼は言った。いつになくしゃべりすぎていると感じた。
「船は『彼女』と呼ばれていた。……出てゆく方が女だ」
「それで待ってる方の港は男か? できすぎてないかなぁ」
 できすぎだが正解だ。彼は暗闇につぶやいた。
 すべての女がそうだとは言わない。また、すべての男がそうだとも言わない。ただ、彼と彼女に関して言えば、かつて彼女は彼の知らないどこかへと行ってしまい、彼は待っているという自覚もないままに彼女を待った。三年間。出航した『彼女』の中にはもう二度と『彼』の元を訪れないものもあったから、この女がもどってきたことはまずまず思いがけない幸運なのだろう。
 くつり、とのどを鳴らして笑うと、女はどうした、ととろとろした声音で問うてきた。もう眠いのだろう。思いの外長く考え込んでいたようだ。彼はもう寝ろ、と彼女の肩を叩いた。

 港はいつでも、船を迎え入れるためにだけそこにある。

Chrysanthemum.

2004年11月21日 長編断片
 ひどく飢えている。だが、生きている。
ならばあの女はつみびとなのだ。

 母の命日には、父とそれから当時から近所に住む、兄と慕った青年とともに花を供えに行く。それが毎年のことだった。今年は少しちがう。花を供えるのは自分と青年の二人きりで、供えられる方は二人に増えた――父だ。
 やさしい両親だった。この人たちがそれはしてはならないと言うのなら、狂おしいほどの飢餓感にも耐えてみせようと思うほどに。そうして実際、耐えた。両親と暮らしてから十数年というもの、彼女は肉を喰らっていない。
 無論、飢えていた。初めの数年は何度家族を喰い殺そうとその背後に忍び寄り、ためらい、その挙げ句に与えられた部屋で悶え苦しんだかわからない。だが、今彼女は生きている。別段体の具合がおかしいわけでもない。むしろ感覚は鋭く冴えている。
 人というものを喰らう必要などないのだと体現した自分だからこそ、こんな人間じみたことを思うのかもしれない。あの女は、喰ってはならないものを食った女は、つみびとなのだと。だから、
 ――殺してやる。
 あの女の大切なものを。かつて自分が自分の大切なものを喰われたように、そのためならば長年の禁忌をも犯してやろう。ひそかに固めた決意に、胃がぞろりと動いたような気がした。
「――どうした? 具合でも悪いのかい」
「…いえ、なんでもないです」
 気遣わしげに声をかけてきた青年に、彼女はそっと微笑んだ。
 守らねばなるまい。人を喰らってでも、残された唯一の家族を。そうして、復讐せねばなるまい。人を喰らってでも、逝ってしまった家族たちのために。
 瞬間、彼女はかつてのひどい飢餓感を思い出したような気がした。

鈍痛。

2004年11月13日 長編断片
 鈍い痛みを、抱えている。

 薄暗がりがそこかしこにわだかまる一室で、女はベッドに膝を抱え、うずくまっている。
 耐えられる。いろんなことに耐えられる。だがだからと言って、耐えなければならないのか。そう自問して、女はうめいた。耐えなければならないのなら、彼女自身の弱さは一体どこへ行けばいいのだ。
 否、どこへも行くべきではないからこそ、ここにあるのか。この弱さを、鈍痛を力強く抱いて溶かしてくれる腕を、これは自分のものではないからと押し退けて笑ったことを、女は忘れてはいない。己の予定調和な行動に、いまさらながら吐き気がした。
 抱えた足にぎちりと爪を立て、皮膚が破れる感触を戒めのように刻み込む。背筋に走る怖気が、逆に妙に心地よかった。物理的な鈍痛が、精神的な鈍痛を凌駕してゆくような気がした。もしそうならば、うれしいのだけれど。
 しわがれた声で男の名を呼んだ。手の届く場所で呼べば、今も男は振り返ってはくれるだろう。昔からそうだった。だから自惚れていた。この男の隣に立ち、視線を合わせることができるのは自分だけなのだと。なんと愚かなのか、とかつての己に歯がみした。男がそのようなことを、一度でも言ってくれたか? 否だ。ならば期待すべきではなかったのに。
 再び、男の名を呼んだ。
 耐えられる。いろんなことに耐えられる。だから耐えなければならないのだろう。彼女自身の弱さも含めて。

人ニ非ズ。

2004年10月20日 長編断片
 あとどのくらい、君の傍にいられるんだろう。否、――どのくらい、傍に置いていてくれるんだろう。

 物事に執着するのはごく久しぶりのことで、なるほど当初は一体何十年か、ひょっとしたら何百年かぶりの感覚にとまどったものだが、一度手に入れてしまえば彼は手放しがたい存在だった、二つの意味で。
 一つ目の意味はごく簡単でわかりやすい。つまり彼女と彼は共生関係にある。バケモノの彼女に血肉を提供する殺人鬼と、殺人鬼の犯罪的証拠を残らず咀嚼するバケモノの二人組は、正直なところ相性のいい組み合わせではあった――その考えがうぬぼれではない、と思える程度には。
 ことがそれきりだったなら、自分たちはもっと簡単だったのだろうと彼女は思う。
 問題は彼が手放しがたい存在となってしまった理由の二つ目で、しかも比率的にはこちらの方が重視されがちであることだ。
 ――愛している、と考えるようになったのは、さていつのことだったか。三年前に出会った当初から、現代社会ではなかなかお目にかかれない、ざらついて乾いた砂のような雰囲気が好きだった。
 私が食べるから、殺していいよ。そう言った時の彼の、なんとうれしそうだったことか。余人には理解のできない渇きを、ようやく彼は満たすことができたのだ、彼女というパートナーを得て。
 少なくとも二ヶ月にひとり、多ければ一ヶ月にふたり。共生を始めてからの彼は、日に日に彼女好みの男に変化してゆくようだった。かつての彼が冴えない様子であったのがその渇きのせいなのだとすれば、人間というものは実にもったいないことをする。この男は、こんなにも魅力的なのに。
 彼に傾倒してしまった今、その身体を喰ってしまうことはたやすいが、そうするには愛情が深すぎる。だから、彼の腕に抱かれながら、彼の隣でその寝息を聞きながら、二人で街中を歩きながら、あるいは彼の殺した人間を喰らいながら、考えている。
 あとどのくらい、君の傍にいられるだろう。あとどのくらい、君は生きているんだろう。それよりもむしろ、……どのくらい、傍に置いていてくれるんだろう。君はたしかによりこちら側に近い。けれどそれでも君と同じではないバケモノを、いつまで?
「大好き、真司」
 自分は、うまく笑えているんだろうか。

つぐない。

2004年9月29日 長編断片
 愛しているからと愚かな理由であなたにすがりつくことを、正しいとは思わない。

 一日経るごとに自身を消耗してゆく男に、胸が痛んで痛んでならなかった。彼自身は気づいていないのだろう、あるいは気づいてはいるが彼女を不安がらせないようにと、無意識の内に疲労を押し隠しているのだろうか。
 どのみち彼はひどく嘘の下手な人で、そうして不器用な人だった。魔女などと、本来彼の傍にいるべきではないものを愛しているのだという素直な感情を、隠そうともしないほどに。子どものようにあどけないその感情の奔流が私を傷つけるのだと告げたなら、彼はどんな顔をするのだろう。
 実際、あまりにも男は純粋で、もっと他の誰かよい人、せめて普通の女をその伴侶に選びとったなら、まったく異なった未来をつかんでいたにちがいない。そうしてその未来は、彼にとって彼女とともに在るよりももっとずっとよいものだったはずで。だから彼女は、彼を失うよりもひどい、けれどもゆるやかな痛みを、胸にずっと抱いている。
 ただ、そう理解はしていても、いまさら男のぬくもりを手放すことは耐え難かった。一度手に入れたものを失ってしまえば、立っていることさえできないことが明らかだったから、彼の想いをいいことにその心臓を魔女はわしづかみにした。
「愛してるよ。……愛してるよ、とても」
 こんな、崖っぷちに引っかけた指先だけで全霊を伝えるような愛情など、彼が求めていないことは知っているのに――離れなければならない、別れなければならない、傍にいてはならない。そういうことを自覚しているから、こんなにも醜い愛し方しかできない。
「離れないで、傍にいて。別れるなんて許さない」
 あざとく笑って、それでいながら泣き出しそうに唇の端をふるわせてそう告げれば、男は伸ばした指先を拒みはしない。魔女から離れてどこかへ飛んで行ってくれることを願っているのに――なんと不器用な人だろう。
 ――あなたはやさしい。そうして純粋だ、子どものように。別れることでこの想いをつぐなうことさえ、許さないほど。

 愛しているからと愚かな理由であなたにすがりつくことを、正しいとは思わない。
だが正しくはないからと言って、いつでもその道を拒めるほどに賢くはない。

執着。

2004年9月27日 長編断片
 時折、人にささやかれることがある。何故あんな女を愛したのかと。
 ――あなたを愛したことを、間違いだとは思っていない。

 政府の高官のみがその存在を知る魔女と結婚したことは、実のところ彼にとってプラスに働いたわけではなかった。むしろそんな男を高位につけることは危険だと判断されたのか、権力や地位からは遠ざけられ、現場仕事ばかりが与えられた――もっとも、そちらの方が性には合っていたが。
 それはなるほど己が気に病むことではあるかもしれないが、すくなくとも彼女が気にすることではない。魔女という存在を痛いほどに理解していながら、それでも己の短い一生を彼女とともに在ろうと決めたのは、間違いなく彼自身だったからだ。
 それでも女は、泣く。目覚めた朝に、あるいは彼のもどることのできない夜更けに、――私が私でなければ良かったと言って。
 あんな女を愛したのは何故かと問われることもあることが事実であるだけに、彼女の負い目は深い。いっそ別れようと言い出さないことこそが、そんなことを言われた日にはこちらが哀しくて死んでしまうかもしれないが、彼にとっては不思議でならなかった。
「別れるなんて許さない。あなたは私のものだ。……そうでしょう?」
 だけれどある日問うてみれば、彼女は泣き出しそうな顔で笑って、そうすがりついた。不器用に指先だけを肌に伸ばしてくるその手の、なんと頼りなげで儚いことか――いっそ彼女が魔女であるだけに。
「あなたが言ったんだ、私と結婚してくれって。だから別れない。あなたが後悔しててもかまわない、私があなたを愛してるから」
 自分がかけた愛情と同じだけの愛情を自分に求めてはくれない彼女が、少しだけ寂しくそしてどうしようもなく愛おしかった。
 ――誰が後悔するというのだろう。自分に与えられたマイナスばかりを他人に指摘されて、それでもなお今以上にあなたを求めているというのに。

 あなたを愛したことを、間違いだとは思わない。
だから、ずっと傍にいる。いつかそう遠くはない日に、この身が屍になったとしても。

Op41-3.

2004年9月23日 長編断片
 あなたを想う いつもあなただけを

 愛していると男は一度もささやかなかった。ただひそやかに、暗闇の中で回された腕はおどろくほどに力強く、熱かった。名前だけを呼ばれていたように思う。いつもは呼ばれないその名前こそが、愛しているとささやくことのせめてもの代わりだったのだろうか。
 どう言葉にしても伝わらない想いがあることを、自分も男も知っていた。まして言葉少なであるようにとふるまう自分たちに、伝えられるはずもない。だから愛しているなどとは言わなかった。ただ、呼べない名前を、まるで言葉を覚えたての子どものように繰り返し繰り返し呼んだ。――それさえできるのなら、なにも、せめて今一時だけは恐れるものなどないのだとでも言いたげに。
 夜の暗闇は重苦しく、雲は月をさえぎって春の嵐がお互いの声をかき消した。月明かりさえもないのならば、見なければいい。その方が罪悪感は少なくて済む。それでも互いに、腕の中にいる相手が確かに求めたひとりであることを愚かにも確かめたくて、だから嵐をかいくぐるように近くで呼んだ。身を寄せ合う獣のように。
 恋ではないことを知っていた。ならばそれは愛でしかないはずだったが、愛しているとのたまうことは欺瞞でしかない。何故なら不器用に身体を重ねて名前を呼ぶことしか知らなかった。
 ――ただ、呼ばれた名前に、
 もう二度と届くことのない、そも届けることを目的とされたのかどうかも曖昧な想いがあったことだけは、確かなのだと彼女は知っている。

 あなたを愛す いつまでも変わることなく
 愛しているなんて陳腐な言葉では、いっそ彼女への冒涜になる。正しい言葉が見つからない。だからいつも、伝えるべきたったひとつの想いは、胸の中にだけ落ちる。

 石畳の上をもぞもぞと、名前も知らない虫が這っている。なんの気まぐれか腕さえ突き出せないような鉄格子の隙間から入り込んで、その虫はもう軽く一日はここにいる。それがわかるのは、虫が彼の視界内から出ていこうとしないからだ。
 もっとも彼は確かに虫を目に留めてはいたが、それが思考になんらかの影響を与えているかと言えば、まったくそうではなかった。彼はもっと別のことを考えていた――美しく聡明で、高貴なひと。
 遠いひとだった。どうしたらこの気持ちを伝えられるのだろう、いや伝えるべきではないのかもしれないと、何度も思った。それならば黙ってあのひとの傍にいること、あのひとの剣となり盾となること以上に、なにをすればいいのだろう。
 ――ちがう男を傍に従えて、誇り高く、いっそ傲然と微笑む彼女を見た。
 どうすれば自分はあんなふうにあのひとの背後に立てるだろうか。そのためならなんでもしようと思うが、方法がちっともわからない。
 ――俺が、俺だから。
 だから無理なのだろう。自分のなにが悪いのではない、ただ自分という存在それ故に、この願いはきっと一生叶うことがない。そう定められている。
 気づき、それでもかまわないと思った。それでもかまわない。傍にいること、剣となり盾となること叶わぬなら、せめて遠くで貴女を見守り、影にひそんで貴女に徒なすものを食い殺す獣になろう。だから、そんな俺でもいい、どんな形であれ、『俺が』必要だと言ってくれ。
 そう、願っていた。

 虫が、一体何十時間ぶりだろう、飛び立って出ていった。彼はひとり残され、ごとりと石畳の上に横になった。ベッドに入る気にはなれなかった。冷ややかな無機質の感触を肌に感じ、薄く笑う。
 おそらくは多少なりともこちらを想っていてくれたのだろう、あらゆる命の危険から、その一度うばわれ、取りもどした力でもって自分を遠ざけてくれていた、あのひとは。この身が抱える罪が露見してからは、視線のひとつ、命令のひとつもくれはしなかったけれど。
 耐えられたのに――むしろ耐えるなどという言葉でなく、それ以上に高尚な言葉にすら換えられるほど、貴女が望むのならこの身を差し出したのに。
 だが、あのひとには伝わらなかった。自分は伝えることなどできなかった。声をかけることなど、おこがましかったから。だから使い道のないこの身体は、せめてものつぐないにかつての主の命をうばって、今貴女に自分の首もろとも差し出そうとしている。
 いまさらなにかを伝えておきたいとは思わない。そもそも言葉などではこの気持ちを伝えられない。だから黙って死んでゆく――今まで黙って生きてきたように。
 目を閉じて、はるかなひとの、遠目に垣間見た美しい横顔を思った。

ハレの日。

2004年7月25日 長編断片
 夕方、遠くから聞こえてくるお囃子を耳にして、俺の隣で早姫がもそりと体を起こした。裸のままで窓の方までにじり寄って行って、迷惑なことにそのまま外をながめている。
 ご近所さんに変態だと思われたくはなかったので、俺は早姫のほしがってる答えをさっさとくれてやった。
「昨日が宵宮で、今日が本宮だってよ。行くか?」
 言いながら携帯を見ると、時間はちょうど六時だった。これから二三時間、祭りを見に行くのにはちょうどいい時間だ。
 こういうハレの場が大好きな早姫は、普段のにま、というのじゃなくてぱっと笑って、行く、と大きくうなずいた。俺はそれを見て、ああ、こいつ可愛いなと素直に考えた。バケモノ相手に、馬鹿な話だ。

 一体どこから調達してきたのか、早姫は俺が着替えてる間に、浴衣なんぞ着ていた。まぁ、深くは追求するまい。そもそもこいつの存在自体、勝手に出てきた浴衣よりも不思議なんだから。
 駅前の歩行者天国になった道路には、たくさんの山車や神輿、それから露店が出ていた。早姫は俺のサイフの中身も考えないで、あんず飴だのわたがしだのチョコバナナを食いまくった。食ったのが甘いものだけというのが、バケモノながら女らしくてなんだかおかしかった。
 早姫はあんず飴をしゃぶりながら山車の上で狐が踊ってるのを見て、そういえば元気かなぁ、と俺にはよくわけのわからないことをつぶやいた。たぶん、どこかの街かひょっとしたら山の中にでも、狐の知り合いがいるんだろう。俺は別に根拠もなくきっと元気だろと適当なことを言ったが、早姫はうんそう思う、とちょっと笑った。

 それから二人でおかめとひょっとこが踊ってる山車を見たり、喧嘩神輿を見たりして、家に帰ろうと行って歩き始めたのはもう九時過ぎだった。早姫はまたしても俺にねだったハッカパイプをくわえて、飼うアテのない金魚の入った袋を片手に持っていた。帰ったら洗面器に出してやろう、と思った。
 お囃子の音がまだかすかに聞こえる、でも人通りのない辺りまで来ると、早姫はいつも真夜中の公園帰りにそうするように、俺にキスをねだってきた。この女は、とても即物的だ。
 一度舌をからませるキスをして、その後じゃれ合うように笑いながら髪をさわり合ったり顔のパーツをいじりまわしたりしながら、早姫はまたいつもとはちがう、ぱっとした笑顔で言った。
「また来年も行こうね」
 俺がうなずいたのは、言うまでもない。

告別の日。

2004年7月20日 長編断片
 当たり前の一言を、言うことができなかった。

 アンタには世話になったから、とますます無表情かつ無口になった男は言って、風が吹けばそれだけで散ってしまいそうにはかない白い花を一輪差し出した。どうして、と思わずこぼせば、俺は城下で買い物ができないから知人にもらってきたのだと、的はずれな答えを返された。
 戦場に行くのだと聞いている。親征を決断した女王に、何もさせてはもらえないと知っていながらついてゆくのだと。
 ああ、ではこの男は、死ぬつもりなのだ。戦場という混乱した場所で、誰の目にも触れないまま、その首を女王に差し出そうとしている。――彼女がそれを望んでいないと、知っていながら。
「どうして……死のうとするんですか」
 わずかにそよぐ風にさえふるえる花を手に取らないまま、彼女はひたと男を見すえてそう問うた。見上げるほどではないにせよ、彼女にしてみればずいぶんと長身でたくましい男だ。
 そう、おそらく女王もこの視点で彼を見つめるのだろう。本来今ここにいて、この花を受け取らなければならないのは女王ではないかと思うのだが――男も、また女王も、それを自らに許しはしないはずだ。
「俺は、必要とされてないようだから。奴隷でも罪人でもなんでも、あの方が望むなら俺はなるが、」
 そういうことではなく、本当に必要とされていないようだから。ひとつの仕事も与えず、かといって人でなしと罵倒するでもない女王を、男は薄く笑ってそう評した。
 それはちがうと言いたかった。だって、知っていた。女王が遠目に男を見るだけで、どれほどうれしそうな――しかし同時に苦しそうな――顔をするかを、傍仕えの侍女だからこそ。あの貴い人に、あんな表情をさせる相手は、この男ひとりしかいないと言うのに。それだけで、彼は価値がある。
 ああ、だけれど彼の決意はゆらぐまい。もはや彼は死人の目をしている。彼女はあえぐように息をついて、男の手にふれないように白い花を受け取った。
「……どうぞ陛下をお守りください」
 深々と一礼すると、目の前の男はどこかうろたえたようだった。

 生きて帰ってくださいねとは言えなかった。そんな残酷なことを彼に言えるわけがない。何故と言って、彼の居場所は、ここにはないのだから。
 女王がまだ少女だった時分から、同い年のごく親しい侍女として女王に仕えてきた彼女にしてみても、今回の命令はどうにも酔狂としか思えなかった。でなくばとうとう道を踏み外してしまったかのどちらかだ。
 だって、馬鹿げている。家族を殺し、自分を敵国へ拉致した張本人である男を、たとえ公の場で忠誠を誓ったからと言って、信用して自室に入れる許可を与えるなど。

 そんなことをつらつらと、しかも男の方を盗み見ながら考えていたせいだろう、手が滑ってカップを落としてしまった。いくら床は長毛のじゅうたんだからと言っても、繊細な造りの瀬戸物は落下の衝撃に、たやすく割れてしまった。
 あ、と小さくこぼれた悲鳴と、それからカップの割れた音を聞いたのだろう、ぼんやりと窓辺で庭園をながめていた男は、さっと振り向いた。心配そうに彼は歩み寄ってきたが、あわてて床にしゃがみこんだ彼女は、そのことには気づいていなかった。
 まったく、どうしていつもならしないようなミスをしてしまったのか。しかもこのカップは、たしか女王のお気に入りではなかったか。あとで女王に謝っておかなければ。そっと手首をつかまれたのは、その時だった。
 陶器の破片にふれかけた手を止められて、おどろいて顔を上げてみるとそこには男がいた。ごく近く、近すぎると思えるほどの距離に。
 ひくりとのどが引きつって、カップを落とした時よりもずっと大きな悲鳴を上げようとしたが、それより一瞬早く男がぽつりとつぶやいた。
「手に傷がつく。アンタはさわらない方がいい」
 そうしてそっけない言葉とは裏腹にやさしく彼女の手を押し退けて、常日ごろは剣や、あるいは銃を持つのだろう無骨な指先でカップのかけらを拾い始める。ひとつひとつ、ていねいに。
 呆然と男を見つめながら、なんなのだ、と彼女は自問を繰り返していた。この男は、なんなのだ。敵ではなかったのか、彼女の主たる女王を害する、許し難い存在ではなかったのか。
 ああ、だが。この宮廷に来てからというもの、この男はずっとこんな先入観のままに見られ、ひょっとして傷ついているのではあるまいか。そういえば以前よりもずっと、口を閉ざしているように思う――まだ彼の罪が明らかになる前は、何度か女王の傍で笑った顔も見たはずなのに。
 かわいそうな男だと思い、そうしてでは何故彼はここにいるのだろうと不思議に思った。疎まれるばかりの、祖国でさえない国に、何故。
 問いかけることはできないままに、彼女はそっと目を伏せた。

The widow.

2004年7月9日 長編断片
 母上、とあどけない声で娘が問う。ねぇ母上、どうしてわたくしには父上がいらっしゃらないの?

 娘が生まれて、六年が経つ。女王の治める国は年ごとに平和を増し、今では彼女の占める仕事はひどく少ない。それはつまり娘とこうして他愛のないお喋りをする時間が増えたということで、やはり平和はいいものだと女王はしみじみ考える。
「母上、きいてください。今日は生物の時間に、先生にほめていただきました」
 春から市井の初等学校に通うようになった娘は、その日にあったことを何くれとなく――例えそれがどれほどつまらないものであったとしても――女王に報告する。女王もまた、娘の話を聞くことが好きだった。
 王族の親子としてはめずらしく、娘の頭をなでてやったりしておだやかな時間を過ごすことしばし、不意に母上、と呼ばれ、女王は首をかしげてみせた。娘は女王には似ていない目の色で、じっと彼女の――母となってなお美しい――顔を見つめていた。
 不思議なことに、年を経るごと、娘は伴侶として選ぶことのできなかった青年に似てゆくような気がする。どこがどう、というのではなく、ただなんとなく。
「どうしたのですか、アリス?」
 奇妙に愛しい、それは娘に向けるものとは明らかにちがった感情を持てあましながら、女王は静かに先をうながした。
「どうしてわたくしには、父上がいらっしゃらないの?」
 ぎくりと身体を強張らせ、女王は内心であえいだ――ああ、いつかこんな日が来ることを、知ってはいたけれど。
 思い出すのは、一度として女王を名前で呼ぶことはなかった男のことだった。明確な階級の壁と、それ以上に険しく立ちはだかる罪という名の山を越えることを、彼はけして自らに許しはしなかった。臆病で善良な男は、それゆえ死んでいったのだ――たった独りで。
「――あなたの父上は」
 ひとつ息をついて、娘の目をまっすぐに見すえる。
「とてもやさしい人でした」
 幼い娘に伝えるためにそれ以上にふさわしい言葉を、女王は見つけだすことができなかった。

 やさしい男だった。愚かな女に、嘘をつくこととそのあたたかさを教えてくれた。
 ただ、と思う。どうせ嘘をつくのなら、最後まで自分の目を覆い隠した手のひらを、彼はどけるべきではなかった。

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