それはまるで運命のようだったと、見知らぬ顔をした女が言う。少女のカラを脱皮したいきものは、まばたきする間もなく手の届かない場所へと歩き出していた。

 こんな女は知らないと、時間という摂理を否定したい本能が泣き喚いた。だがお前は知っているだろうと、冷酷に事実を突きつける理性があった。否定することのできない、けれども受け入れることも恐ろしすぎてできないことがらが、心臓を食い破って血管を走り、さながら数十マイルを走り抜いた後のような息切れをダニエルにもたらした。
 青ざめて立ち尽くしながら、答えの知れた問いを繰り返す。この女は、誰だ――夢見るように、否、実際夢見て微笑う、かつて大切にこの手で守った少女の面影を、いまだ強く残すこの女は!
「運命だと思ってた。ずっと前から」
 つたない英語ときり、と話し相手を見つめる目を、知っていた。それだけは何年経っても変わらないのだと、理解してしまえば少女と女を重ね合わせることなど、むずかしくはない程度には。
 その英語はもっと昔からずっとうまかったんだろう? その目をもっと昔からずっとそらしてしまいたかったんだろう?
 二つの問いが頭に浮かんでしまえば、すとんと事実は胸に落ちた。
「俺は運命は信じない。俺が信じるのは――俺だ」
 知ってるだろう、と水を向けると、女はこくりとうなずいた。
「いい。わたしが、そう思ってただけだから」
 どうしてなのだろう、そんなところだけはあどけなく、かつてのままの少女を思い出させた。あのカラに閉じこもっていることはできなかったのか。できなかった。知ってはいても、思わずにはいられなかった。
 そこにいてさえくれれば、運命を信じさせてやることもできたのだけれど。
「お前は我が侭なんだよ、カタリナ」
 それも知っていた、と女はうなずいた。

 遙か先を行く彼女を引きずり、元の位置にもどすことはできないが、走って追い抜くことはできた。むしろ走ることこそが、あの日あの場所で定められたことがらなのかもしれなかった。
 初めから、俺はあなただけのものだった。

 国へもどりたいのです、と吐いた王女の心境は、いかばかりだったのだろう。そもそも、何を考えてその言葉を男の前で吐いたのだろう。彼は――どれだけ彼がそうではないと自身に嘘を重ねたところで、王女の監視役であるに過ぎないのに。
 もどりたい、そう言われてもどりましょうと言える立場であったなら、どれほど救われただろうか。王女の国の騎士であったらと、そこまで傲慢なことを願いはしない。ただ、その身がなにひとつとして抱えることのない、くだらないものであったならと、それだけを願っていた。
 なにを答えることもできずに立ち尽くし、息を飲んでいると、王女はつ、と顔を上げた。男の輪郭を正確にたどることのできないブルーアイが虚空を見つめ、わかっていますと囁いた。
「あなたに願う方がまちがっているのでしょう。けれども……わたくしは、愚かな女なのです」
 はらりと視界を失った目が涙をこぼし、そうして次にはそのことを恥じるかのように、王女はそっと指先で目元をぬぐった。その涙をぬぐいたいと思ったのは、もっと初めのころからだったのだが、結局望みは叶えられないまま今に至っている。
「お願いです、わたくしとともに……あの国へ、帰ってください」
 あてどなく伸ばされた手が違わず自身の手に触れた時、裏切りは許されないのだと知った。
「――承知、しました」

 たったひとつ命じてくれればそれだけで、あなたの足下にも這い蹲ろう。いや、なに。それはなにも忠誠を誓ったこの瞬間からではない。一年前、まだ誇り高く聡明なだけだったあなたに出会った時からずっと、この身はあなたのためにあった。
 あなたを太陽とは呼ばない。むしろこの身を焼き尽くす炎であってくれたなら、それがなによりも喜ばしい。

 天気の良い日に広い庭を散策することが、最近の彼女の日課だ。目が見えないものだからあちこちにぶつかりそうになったり転びそうになったり、果ては藪の中に足を踏み入れそうになったりするから、すすんで護衛を引き受けた。
 危ないですから、と手を差し出してエスコートしようとすると、ためらいがちに伸ばされてくる白い手がとても好きだった。その手を守る資格などありはしないと知っていながら、なおそうしたうつくしい行為にあこがれるほどに。
 そうして二人で芝生を踏み、きれいに刈り込まれた木々を抜けて小径の清楚な花々の香りを感じているこの瞬間で時が止まってしまえばいいと、一体何度思ったことだろう。愚かな願いだ。叶えられるはずもなく、よしんば叶えられたとして、聡明な彼女はほどなく欺瞞に気づくだろうに。
 暗い考えをごまかすように、なぜいつもこんなふうに庭を歩き回るのかと問うたことがある。目が見えないのだから、庭師が丹精こめたこの庭も、彼女にとっては意味などないだろうに。
「あなたの手が、わたくしはとても好きです。あたたかくて……日の光と、同じ温度をしています」
 小川にかけられた石橋の上で、彼の手を取ったまま彼女は笑った。
「でも、わたくしが城内にいると、他にも人がいるからでしょう、ちっともあなたはわたくしの傍にいてはくれません。ですからこうして、」
 ぐ、と思ったよりも強い力で手を引きよせられ、相手が相手だけに抗うこともできないまま、おとなしく――けれどもとてつもない困惑をともなって――一歩彼女の傍に寄る。
「傍にいるためには、わたくしにはこの時間が必要なのです」

 ああ、あどけないひと。あなたは俺の手を日の光のようだと言う。けれどこの手はそれほどきれいではない。
 早く真実に気づいて、そうして混じり気のないあなたの炎で、あなたが太陽と呼んだ俺を滅ぼしてしまってくれればいい。唯一願うことはそれだけなのに。
 馬鹿みたいな夢を見た。

 久しぶりに訪ねるのだからと、たくさんのみやげもの――それは両親や彼女の家族から頼まれたものも含めて、実に一抱えほどになってしまった――を持って行くと、家の近くの草原に葉月が迎えに出ていた。異種族同士の婚姻で生まれた子どもには性別がないけれど、十四歳になった葉月はもうずいぶんと大きくなった。
 葉月、と呼んで手をふってやれば、甘えてくることはないけれども嬉しそうな顔を見せて、子どもはこちらに走ってきた。
「母さんがいつまで待たせるんだって言ってた。父さんももう帰ってるし」
「香月はちょっと短気だからね。まだ約束の時間より早いのにさ」
 笑いながら二人で歩き、途中でせっかくだからと月見草の花を摘んだりして、だから結局家に辿り着いたのはもう約束の時間を数分過ぎた頃だった。香月はすでに表で二人を待っていて、氷河の姿が見えたとたん、遅いと雷を落とした。
 まるで子どものように――いや、片方は本当に子どもなのだが――しゅんとうなだれて叱られていると、香月の後ろから彼女の夫、キールが顔を出してもういいじゃないかとお小言を止めてくれた。この時ほどこの人間の存在をありがたく思ったことはなかったけれど、そういう失礼なことは心に留めておくことにする。
 こぎれいに片付けられた家の中、託されたみやげものを広げ、食事をして、他愛もない話をする。キールと葉月は会話に加わることはあまりなかったけれど、そんなことも気にならないほどに、香月との会話は弾んだ。話すべきことはいくらでもあったのだ、だって自分たちは、毎日一緒にすごすのがあるべき本当の姿なのだから。
 もう夕方も遅くなって、そろそろ空が暗くなりかけるころ、ようやく帰途につくことにした。今日中に村にもどって、香月とその家族が元気で幸せそうだったことを、たくさんの人に報告しなければならなかった。
 それじゃあ、と手を上げる自分に、彼女はほほえんで、ねぇ、と声をかけた。
「いつまでもこんなふうにできたらいいね。そうしたら幸せなのに」
 まるでこの日常が明日にも終わってしまうようなことを言う香月に、少し目を見開いておどろいてみせてから、なんでそんなことを言うんだと笑った。
「終わるわけないよ」
 だって僕らはこんなにも幸せなんだから。

 目覚めて現実を突き付けられて、そうして愚かな自分の願望に気づく。願っていたのだ――香月が死なず、彼女の夫も行方不明になどならず、葉月は大切に育てられ、自分は生きて故郷で暮らしているなどという、もはや叶うはずのない夢を。
 熱のない身体でシーツを掻き抱いて、喘ぐ。夢なんて見たくなかった、と。そういう可能性もあったことを、未来の視点から示唆することはとても辛かった。
 月神様。かつて愛し、愛された神に問いかける。どうして僕らはこんなふうになってしまったんですか。他の選択肢はなかったんですか。
 答えなどないことを、知っていたけれど。
 この身を追うものが背徳感なのだとしたら、どうして自分は生きているのだ?

 たしかに死んだと思ったのだ、闇の中で高らかな死刑実行の合図が響き、銃声とともに鉛の弾で内蔵を射抜かれて。第一その後の記憶などというものもない。
 けれども気が付いてみるとベッドの上、ここはどこだとふらつく身体で外に出てみれば、まるでおとぎ話のように花々が咲き乱れる中、なじみの老婆がおや目が覚めたのかと当然のような口を利く。そのままなにひとつとしてわからないまま、今日もこうして生きている。
 だらりとテラスに身を投げ出し、おだやかな日の光に照らされながら、早く死ぬべきなのだと考えていた。背後から常に背徳感に追われている。思考は一歩も前に進んではくれず、死へのシミュレートを何千回となく繰り返した。
 それなのに、死なせてくれと懇願すると、老婆は言うのだ。その身体はあなたのものではないだろう、と。
 ああ、たしかに。手の甲を蟻が這ってゆくのをながめながら、力無く同意する。たしかにこの身体は自分一人のものではない。忠誠を誓ったあのひとのものでもある。けれどもそのひとは、死ねと命じたではないか。老婆、あなたもそれを聞いていただろうに。
 すでに自分を追うものが背徳感なのか、それとも単なる焦燥なのか、区別がつかなくなりかけていた。まだこの罪悪が確定できている内に、死んでしまうべきとはわかっているのだけれど。
 重苦しいためいきをついて、おだやかな風景から逃れるように目を閉じた。

 「――命令です」
 ふるえた声を、深く頭を垂れて這いつくばったまま聞いていた。
「死ぬことなど許さない。生きて……恥と罪を晒して、生きてください」
 どちらかといえば懇願するような調子だった。許さないと言いながら、すでに罪すらその身に受け入れてしまっているような。
 御意、と額を床にこすりつけてつぶやくと、ざわりと周囲のひとびとがざわめいた。寛大な判決に対する驚きだったのだろうけれど、彼らは知らないのだと暗く考える。この身にとって、こうしてのうのうと生きていることがどれほど辛く耐え難いことであるかを。

 追うものが背徳感であれば早々に死んでいた。死なずに生き続けたのは、泣き叫びながらこの背を追いかけてくるひとが、他ならぬ彼女だったからだ。
 聡明なひとよ。
あなたは一番のつぐないを、この愚かな男に教えてくれた。それはとても辛いことだったけれど。
 待ってる、と彼は言った。だからまちがいなく、彼はそこにいるはずなのだ。

 ひとときたりとも保つことのできない薄らいだ記憶の中、どうしてか彼のことだけはあざやかに色を持ち続けている。もはやつかれきって役立たずになった肉体を抜け出して、まるで少年のころのように月の照らす道を走る間、だからずっと彼のことだけを考えていた。
 ――蒼河、
 妻よりも実の妹よりも強く親友を思っているなどと言ったら馬鹿にされるだろうけれど、事実そうなのだからしかたがない。
 何故と言って、女たちは強かった。物質的な力がではない。精神的に、彼女らは自分たち二人よりもずっと強く、ひとりきりでも生きていけるような存在だった。一緒にいたのは愛しかったからだが、死してなお束縛されることを、たとえそれが夫や兄であっても、彼女らは望まないはずだった。
 彼や自分はちがう。彼は自分から力を、自分は彼から自立心を、それぞれうばいとって生まれてきてしまったから、どちらかひとりきりではうまく生きてゆくことができなかった。馴れ合って傷付け合って、それでようやく立っている。死んでしまっても、その基本的なスタンスは変わるはずもない。
 ――蒼河、
 だから、ひとりで月に還ることなどできないから、待ってると。彼はそう言ったのだった。
 ――蒼河、
 月光に流されて飛んでゆきそうな意識をつなぎとめ、全速力で光の海を駆け抜ける。遙かかなたに求める人影を見つけた時は、だからとてもうれしかった。
「……蒼河」
 ごく静かに呼ぶと、ぼんやり膝を抱えてうずくまっていたそのちっぽけな魂は、のろのろ顔を上げて何度かまばたきをした。泣き出しそうにうるんだ赤い目がとてもきれいで、彼はこの甘えたがりで本当はだれよりも臆病なこの親友を、とても愛しく思った。
 一体何年、それとも何十年ここで待っていたのか、話すことも忘れてしまったようにこちらを見つめる親友に手を差し伸べた。
「蒼河、」
 ああ、けれどダメだ。彼は単に言葉を忘れているだけだけれど、自分は彼ほどに力あるものではないから、すでに声帯が音を出さない。想いの強さだけは自信があるけれど、それがなかったなら、一瞬で月の光に流されてしまっていてもおかしくはないのだ。
「羽水――」
 かすれた小さな声で、彼が自分を呼ぶ。そうして彼は立ち上がり、差し出した手をそっと取った。
 それはまるでからからに乾いた大地に、雨が降り注ぐような感覚だった。触れた彼の手から、土が水を吸収するように、自分は彼の力を共有させてもらった。
「蒼河、行こう。今度はちゃんとついてってやるから」
 分け合った力でそう言うと、分け合った勇気で、彼はうれしそうに笑ってうなずいた。

 約束を破られたことは何度も、それこそ数え切れないけれど、すがるようにつぶやく蒼河はいつだって感情に正直だった。
 ひとときたりとも忘れたことのないものが、二つある。

 もう一度目が見えるようになるかもしれない、と告げたら、たぶん男は目の前で笑ったのだろう、ほんの少し空気がゆれた。そうですか、とごく静かな声とともに、うかがうように指先が髪に触れてくる。
 戦うことが生業の、荒れてざらつきごつごつしたその指が、とても好きだった。目が見えるようになることはたしかに嬉しいけれども、見えないからこそこんなふうに他の感覚で男を知ることもできるのだ。再び光を手に入れてしまったなら、視覚に頼って男の指を忘れてしまうかもしれなかった。
 手探りで男の手をとり、その形をたどると、彼はとまどったようだった。ばれていないと思い込んでいるのだろうけれど、ほとんど無意識の内にぴくりとわなないた筋肉だけは、彼女をごまかすことはできない。
「――王女」
 とがめるように、男が呼ぶ。
「王女、どうかお放しを。お戯れになりませんよう…」
「あなたが先にしかけたのでしょう」
 大きな手のひらを小さな両手で包んでからかいぎみに言うと、男はほとんど逃げ出してしまいそうなくらいに緊張して、お許しくださいとかすれた声でささやいた。途中でその声がくぐもったところを見ると、彼は頭を垂れたようだった。
 あんまりにも男が頼りない声を出すものだから、さすがに哀れに思って手を放してやった。けれどもう遅い。もはやその手の形を、指先のぬくもりを、すべて記憶に刻み込んでしまった。
 ああ、でもいくら記憶したとは言え、やはり一番初めにこの目に入れるものは、彼であってほしい。ひとつお願いがあるのです、とねだれば、やさしい男は断りはしなかった。
「わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです」
 彼は異国の男だから、まして敵国の女である自分の願いなど聞き入れなくともかまわないというのに、あきらめたように我が侭を受け入れてくれる。その、承知しましたとこまったように告げる声が、好きだった。

 「――人殺し!」
 その男と再び相見えることがあったなら、この絶叫だけで彼を殺してやろうと思っていたのだ。けれども興奮しすぎた声帯は、かすれたみっともない声しか出してはくれなかった。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
 ああ、そうとも。忘れるわけがなかった。この目で最後に見た、両親と弟と、婚約者の青年までも殺した男の顔を、一体どこの愚か者が忘れてしまうと言うのだろう。
 ふるえる指先を突き付けられた男は、憎たらしいことに笑んでいた。さながら暗殺者の存在に気づかなかった周囲と、動揺する彼女を嘲るかのように。
 人殺し、と再び叫んだ時、暗殺者はすでに取り押さえられ、床に這い蹲っていた。それでもなお笑う男に、いっそ吐き気がした。

 目が見えないから覚えた、愛しい男の手。
最後に見たものだから覚えた、憎い男の顔。
 二つが表裏一体だったなど、知らなければ幸せだった。

光。

2004年5月23日 長編断片
 王女。
あなたがずっと、薄暗がりの中でまどろんでいてくれることを願う。あなたから不当に奪われたものを再び享受して、愛情の中できれいなものだけを感じていてほしい。
 ――目が覚めたら、俺の裏切りが待っている。

 彼女に見せていない、見せることなどできはしない側面が多すぎた。中でも最大の隠し事と言えば、露見した瞬間に首を落とされても文句の言えないほどのことで、別にそうされることは怖くはないのだけれど、少しでも長く彼女の傍にいるために、彼はやさしい嘘をささやき続けていた。
 けれども、だからといっていつまでも目隠しをさせたままでおくわけにもいかなかった。なぜなら、また目が見えるようになるかもしれないの、と言った彼女がひどくうれしそうだったからだ。
「愛するひとが笑っていることが、人としての幸せだと父が言っていました」
 だから、わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです。そう言って、彼女と他愛もない約束をしたのは、つい昨日のことだった――目を開けたら、真っ先に見える場所にいる、と。
 謁見の間につめかけたたくさんの貴族や高級官僚の最前列で、彼はぼんやりとそんなことを思い出していた。この場所に立っていれば少なくとも彼女との約束を果たすことはできるだろう。……約束を果たすことで、彼女が喜ぶかどうかは非常に疑問だったけれど。
 大勢のひとびとの見守る中、まるで戴冠式の洗礼のように優雅なしぐさで老婆の祝福を受け、彼女はゆっくりと目を開いた。ああ、あの日見た時とそっくり同じ、なんときれいなブルーアイ。彼はゆるゆると唇の端を持ち上げて、微笑んだ。
 けれども、約束どおりにまっすぐその笑顔を見すえた彼女の表情が、傍目にもわかるほどに引きつった。
「――人殺し!」
 かすれた声の絶叫がその場の皆の鼓膜を震わせ、愕然とさせた。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
 ぞっとするほどの憎悪の中、彼は約束どおりに微笑み続けていた。それはまずまちがいなく、彼女の誤解を招いただろう。ふてぶてしくも残された者を嘲り笑う、残忍な暗殺者という誤解を。
 彼はそっと目を伏せて、その誤解を甘んじて受け入れた。

 王女。
あなたは聡明な人だ。だから真実に目を閉じていることなど、けしてできはしないだろう。それならそれでもかまわない。暗殺者と詐欺師の汚名をこの背に負って、俺だけが地獄に堕ちていく。
 けれども王女。
もしもあなたが愚かなひとであったなら、俺はそうしようとは思わなかった。
 周りにいたひとびとのように、約束されていたような熱烈な感情や、あるいは長い間あたためていたような思いがあったわけではない。ただ気づけばなんとなく傍にいて、そうしていることが心地よいと思えた。だから、今もこうしてその人の隣で生きている。

 母が逝き、父もほどなくして亡くなったと、最後に残された叔父から聞いた。従弟ではなく彼が伝言役にやってきたのは意外なはずだったのだけれど、蒼呼はまったく疑問に思わなかった。それだけ動転していたのだと、だいぶ経ってから気づいたのは誰にも言えない。
 家族をすべて失ったという喪失感と、とうとう残された者が自分だけになってしまったのだという責任感に呆然としていた時間は、ずいぶんと長かったらしい。気づくととうの昔に叔父はいなくなっていて、代わりに出かけていたはずの男がもどってきていた。
「どした?」
 彼の手がそっと頭に伸びて、くしゃりと蒼呼の髪をかきまわした。あざやかな赤毛と、こまったような微笑がふと目に入って、なぜだか泣きたくなった。
「お父さんが、月に行ったって。今さっき、叔父さんが来て」
 途中でそれ以上言葉を続けることができなくなって、目の前で立ち尽くす男をぎゅ、と抱き寄せた。腕を通して脳でしっかりと認識できるぬくみを、今よりももっとありがたいと思ったことは、かつてなかったように思える。
 なんて世の中は不思議なんだろう、と鼻を鳴らした。父も母も、もっとさかのぼって兄だって、今腕の中にいる彼と同じようにあたたかかったのに、気づけばみんな月に行ってしまった。
「――泣くなよ」
「…泣いてないもん」
「嘘つけ。ほら、蒼呼」
「泣いてない。泣いてないけど……どこにも、行かないで」
 男は小さく笑って、なんでこんな時に出かける馬鹿がいるんだよと言ったけれど、ああ、彼はちっともわかっていない。今この場だけではなくて、一生どこにも行かないでと言いたかったのに。
 愚かな間違いを訂正する気にもなれずに、しばらく男を抱きしめていた。

 甘えたがりで愛情に貪欲な父から、どうも兄も自分もその性質を受け継いでしまっているようだった。父のように、他のものなどなにもいらないと言えるほどに強くはないけれど、独りきりで残されたくはないと思う程度には、彼のことが好きだった。

雌雄。

2004年5月19日 長編断片
 手に入らないのなら殺してしまいたいと思うような男を、昔から捜していたような気がする。

 男のアパートにはクーラーがない。あるのは彼が実家から持ってきたというおんぼろの扇風機だけだったので、昨夜からの延長でこもってしまった熱を吹き飛ばすには、少し――というかかなり――物足りなかった。熱風を無意味にかきまわす機械が、哀れなほどだ。
 無論、死にそうなくらい暑い。けれども彼女は、男の身体にぴったりと這わせた汗でべたつく腕だの足だのを、引き離そうとはちっとも思わなかった。現代社会の男たちからは失われてしまったオスの匂い、たとえば肩口に噛みついた時に感じる汗の味や、追い詰められる寸前の混濁した意識がふと嗅ぎ取る麝香の香りが、彼女は好きだった。
 扇風機の低いうなりが聞こえる。カーテンの隙間からちらちらと万年床に日が差して、その光がまぶたに当たったのだろう、不意に絡ませた足の筋肉が隆起した。
「眠ぃ……さき、何時…?」
 かすれた声とともににゅっと腕が突き出てきて、枕元の携帯電話をまさぐる。十数分前にアラームが鳴ったのを、彼女は聞いていた。
「七時すぎ。さっきアラーム鳴ってたから」
 くつくつと笑って伝えると、男はうう、だかああ、だかうめいて、ようやく決心したようにむくりと起き上がった。そういえば、今日は早くから講義があるのだとか昨日言っていたような気がする。
 自堕落に寝そべったまま、男が部屋を行ったり来たりするのを見ていたが、ふと彼女は胃の辺りに手をやった。ひく、とうごめく内蔵に、そういえば昨夜辺りから空腹だったことに気づく。
「……なんか、おなか減った」
 ぽつんとつぶやくと、シャワーを浴び終え、上半身裸のままジーンズだけを身につけただらしのない格好でうろうろしていた男が、耳ざとくふりかえった。勘がいいから、この男は好きだ。
「したら、晩飯は外にしよう。どこ行くか決めといて」
「はぁーい」
 男が出かけてからもしばらくごろごろしてすごしていたものの、いつの間にか眠ってしまった。今日は帰りが遅くなるから、よく寝ておかないと。そんなことを、言い訳ぶって考えていたような気がする。

 遙か昔からこの身を苦しめる飢餓がなりをひそめることがあるのだとすれば、喰うことなど考えつきもしないほどに、つまり手に入らないのなら喰うよりも殺した方がましだと思えるような男がそばにいる時だけだと信じていた。そうして見つけた男は、まさしくそういう人だった。
 しかたのないことなのだと理解していた。大体罪は初めから確定していて、気まぐれな神が死刑執行をずるずると引き延ばしていただけだ。高貴なひとびとをこの手にかけようとして事実かけた罪は、残された彼女を誠心誠意込めて守ったからと言って、あがなわれるはずがない。
 だから、彼女に知られないままにこうして鉛の弾で胸をえぐられるのは、至極納得できることでしかなかった。ささやき続けた嘘の報いは、受けてしかるべきだろう。そう、自分をここに放り込んで法務官に死刑執行書を手渡したあの男は、正しいのだ。
 そうと知られることはほとんどなかったが、昔から、自分のものを盗られることが大嫌いだった。手元にあるもの、周りにあるものは自分だけが――百歩ゆずって自分の大事なひとたちだけが――触れるのを許されるのだと、固く信じていた。
 独占欲はなにもモノだけにとどまらず、人に関してもそうだった。両親、従妹、親戚。中でも一番他人に触れさせたくなかったのは、同じ日の同じ夜、同じ満月の光を浴びて生まれた親友だった。
 たぶん、自分には引け目があったのだろう。崇める神が自分たちに与えてくれた愛を、彼の分までうばいとって生まれてきてしまったという引け目が。
 その引け目はたやすく同情になり、同情は友情へ親愛へと発展を遂げ、同時に独占欲もふくらんだ。彼は自分だけを親友にして、ずっと自分のそばにいてくれればいい。そうすれば彼からうばいとった力をもって、守ってやることができるから。
 ひどい思い上がりだとわかってはいた。だが、傲慢やエゴを許されてしまう存在が、自分だった。そういうものを、彼にだけ押しつけてはいけない論理がどこにある?
 だから表面上は無邪気にじゃれあって、自分たちはいつでもお互いをひそかに切り刻んで生きている。どちらがより深く相手を切り刻んでいるかと言えば――

「僕は羽水が好きだよ。氷呼の次くらいかな」
「俺はお前が嫌いだ、蒼河」
「うわ、ひどいなぁ。二十年来の親友に向けてそういうこと言うんだ?」
「まとわりついてくるのはお前だろ。いい年してうっとおしいんだよ」
「だってかまってくれるの、羽水くらいだしさー」
「蒼河、ひとつ言っておく」
「んー?」
「お前のそういうところが、俺は嫌いなんだ」

 この薄汚い独占欲のことなど、彼は百も承知なのだろう。だから自分の大好きな笑顔で、こんなひどいことを言うにちがいない。
 それでも手元に大切なものを置いておけるのなら、自尊心くらいはたやすく代償にする覚悟があった。
 彼は独りでも生きてゆくことのできる男だと、初めから知っていた。
 自分との関係は、傍目には自分が彼を守っているとか憐れんでいるとか、あるいは彼が依存しているとか、そういうふうにしか見えなかったにちがいない。だが実際のところは逆で、守られているのは自分の方だったし、依存しているのも自分だった。彼はくだらないお芝居に、昔からずっと付き合ってくれていた。お前は他にどうしようもないんだから、しかたないな。時折そんなふうに苦笑してみせることさえあった。
 ――親友の話だ。

 一番初めに逝ったのは、妻だった。続けて従妹が逝き、男二人が残された。そして今、蒼河も月に召されようとしている。別に不満に思うわけでもないしやり残したこともないが、もう少しこの世にいたかったなぁとは思う。
 その一番の理由と言えば、やはり今傍らでぼんやり月をながめている、親友なのかもしれない。昔から優先順位の一番上に来るのは、いつだって彼、羽水――ごくまれに妻――だった。
「…なんだ、起きたのか」
「寝てばっかりだからね。夜になると目も冴えるよ」
 笑ってみせると、月明かりの中、そりゃそうかと羽水も笑った。そう言う彼の方は眠くはないのかと蒼河は少し不思議に思ったが、あるいは羽水も、昼間に寝ているのかもしれなかった。
 お互い目が冴えているのなら、少しくらいは馬鹿な話をしてもかまうまい。蒼河は上半身を起こして、会話をする体勢に入った。羽水は、止めなかった。
「月代はうまくやってる?」
「忙しいらしくて、家にも帰ってこない。俺もお前につきっきりだし、あれじゃ家の方がかわいそうだな」
「別に四六時中いなくたっていいのにさ。たまには帰れば?」
 そうすすめると、羽水はちょっと肩をすくめて、
「だってお前、昔からひとりにするとうるさいだろ」
 蒼河の頭をくしゃりと撫でた。
 なるほど、よくわかっている。甘えたがりの蒼河を正確に把握して、あまつさえ甘えさせてくれるのは、昔から羽水しかいなかった。
 その思いやりが嬉しくて、思わず蒼河は笑った。これだから、ついつい依存してしまうのだ、彼には。
 屈託のない笑顔に、羽水はひどく大きなためいきをついた。蒼河には彼が辛そうな理由が、よくわからなかった。
「……俺はさ、蒼河」
 ずいぶん経ってから、ぽつりと羽水がこぼした。
「できるならお前と一緒に逝ってやりたいんだ」
 蒼河は、ひとりじゃ生きていけないだろ。
 同じ月の光を浴びて生まれ、育った親友に理解してもらえることが、ひとりで逝かなければならない蒼河のなによりのなぐさめだった。

 彼を残して逝きたくなかったのではない。自分が独りで逝きたくなかったという、ただそれだけの話だ。
 エゴイスティックなのは昔からで、そういう自分を受け入れてくれる羽水という存在が、蒼河には必要だった。
 親友というきわどいポジションにいる男が、鈍感だということは知っていた。それはもう非常識なくらいの馬鹿者で、本人は別に女嫌いというわけでもなく純粋にフェミニストであるだけなのに、その鈍感さが災いして誤解されていることも、知っていた。
「私に進んで声をかける女は、どうもお前くらいしかいないな」
 色めいたことがらに興味のなさそうなそのセリフを、称賛と受け取ったのはつい先日のことだったように思えるのだけれど。

「結婚が決まった」
 わざわざ飲みに行こうとさそわれて、おごってくれるのかと茶化したら――渋々ではあったが――かまわないとうなずいた。めずらしいこともあるものだとひょいひょいついて行ったら、これだ。どうも自分という女は、あまり運がいい方ではないらしい。
 内心のところはこの馬鹿と怒鳴りつけてやりたい気分だったのだが、あいにくそれほど愚かな女になるつもりはなかった。だからごく平然とベーコンを指でつまみ、エールを飲みながらそれで、と意地悪く問うてやった。
「一応報告しておこうかと思った。半年後だが、出席してもらえるか」
「半年後ねぇ。相手は誰なんだ? 私の知ってるのか?」
 いいや、とこちらは林檎酒を飲みながら、男もまたベーコンに手をのばした。人の金なのだからあまり食うな、とでも言いたげな手つきを、彼女は意図的に無視した。
「部下の姉だ。悪くない女だった」
「……時々思うんだけどなぁ、私の性別を勘違いしてないか?」
「女だろう?」
 わかっているなら多少気を使えと思わないでもなかったが、いまさらそういう気づかいを要求したところで後の祭りなのだろう。だいたい、性別という壁を最初にぶち壊してこの男の親友に収まったのは、そもそも彼女の方だった。
「まぁいいけど、ね」
 ため息混じりのつぶやきは、どうも男には聞こえなかったようだった。

 さよならなど言うのも癪だったから、わざわざ男が外に出ている時間を見計らって私物を全部ひきとった。手紙を残すのもゴメンだ。まるで振られた女のようで、みっともないじゃないか。
 予定の時間よりもだいぶ遅れてやってきた辻馬車に、乱暴に荷物を放り込んでともかく自宅の住所を告げる。いつ男が帰ってくるかもわからないから、早く立ち去ってしまいたかったのだ。けれども世の中はそううまくは行かないようで、
「結婚式には来るんだな!?」
 めずらしく叫ぶような、男のそのゆたかなバリトンが耳朶を打ち、彼女をうつむかせた。答えろと言うのか? 鈍感な男だ。鈍感で――残酷だ。
 この馬鹿が、と小さくつぶやくと同時、膝の上に冷たい雫が落ちた。彼女はそれを、払わなかった。

ただいま。

2004年5月2日 長編断片
 そう遠くない未来に彼女が来てしまうことはわかっていたが、それにしたってもう少し向こうにいればいいものを、といっそ憤りを覚えた。だいたいこちら側に渡ってくることなどそうそうむずかしいことではなく、その気になればいつだって実行できたはずなのだから、子どもたちのめんどうをもうしばらく見ていれば良かったのだ。
 自然、ためいきがこぼれた。

 「今からでも遅くないですから、帰ったらどうですか」
 ひどくうれしそうに己の名前を呼び、飛ぶように走ってきた女の身体を受け止めて、彼は苦笑いを浮かべた。自分なら、いつまででもここであなたを待っているから、と。けれど彼女は傷ついたふうに首を横にふり、どうして、と彼を責めた。
「十五年だ、あなたがいなくなって」
 独りきりで、決心しなければ行けもしない場所を夢見るには、十五年はひどく長かったのだと、彼女は言う。
「それなのに、またもどれって? そんなのは残酷だ……」
 最後の方はかすれた小さな声でうったえる彼女を、退けることはできそうにもなかった。結局昔、もう彼にとっては本当に遙か昔に思えたが、当時から、彼女には一度も勝てた記憶がない。
 うつむいてしまった彼女の頭をなでて名前を呼ぶと、彼は素直に謝った。ごめんなさい、と。それで彼女が顔を上げてくれたので、彼にもようやく、彼女のきれいな琥珀色の目が見えるようになった。
「正直、あなたにはもっと生きていてほしかったんです。俺に付き合ってこんなところに来る必要は、なかった」
「それはちがうよ。私があなたのそばにいたかった。それだけなんだから、あなたが気にすることじゃない」
 にこりと笑った彼女は、昔と変わらない力で、彼を屈服させた。

 寂しくなかったと言えば嘘になる。だが、もうあと二十年やそこら思い出だけを頼りに待ち続けることも、不可能ではなかった。
 それなのに彼女を受け入れてしまったのは、やはり溺れているからなのだろう。腕の中に飛び込んできた魔女を再び手放すことができるほどに、昔も今も強くはない。
 かたわらに、半身とも頼んだ相手がいないことに拘泥していたのは、むしろ自分だったのかもしれない。久しぶりに彼女を抱きしめながら、彼の理性はふとそんなことをつぶやいた。
 手に入れることのできない女だと知っていた。そもそも触れることさえためらわれるような、そういう場所にいる女だった。当たり前だ。一体この世のどんな男が、暗く冷たい谷底で立ち尽くす女に手を述べようと――まして彼女を引き上げようと――言うのだろう。
 そういう男を呼ぶ、正しい名が昔からある。『愚か者』というのだ。

 想いを寄せる甲斐のない相手じゃないかと、言われてしまえば黙るしかなかった。実際のところ、どんな話をしてみても、彼女はかすかにほほえみ、あいづちを打つきりだった。ただ、他の男では彼女のそんな反応すらも引き出すことができなかったから、やはり彼女にとってギルバートは特別な男だったのかもしれない。
 特別と言うのなら、ギルバートにとっての彼女こそ特別だった。冷たくこごった女の無表情を、どうあっても溶かしたいと考えるほどに。話しかけては無視され、笑いかけては眉をひそめられ、そうして徐々に信頼を勝ち取った。今ではギルバートがいつでもとなりにいることも、彼女の負担ではないようだった。
 どうして手を伸ばす気になったのか、さっぱりわからない。無論、彼女が身を浸す冷水の中に、むざむざと飛び込んでしまった理由も。ただ目の前に女がいて、そのひとはひどく寂しそうな顔をしていた。ギルバートはその言い訳ただひとつを免罪符に、彼女のかたわらにいようとした――いつまでも。

 努力や言い訳など、無駄だということを知っていた。あらゆるものに見放された魔女を救うことなど、ただの人間であるギルバートには、できようはずもなかった。
 けれども、ただの人間で、今この場で――まさしく彼女のかたわらで!――死んでしまうからこそ、自分は彼女の心に残るだろうと、そんな卑怯なことを予測した。そうしてそのことが予測できてしまったから、彼はひとつのくちづけすらも、この想いにもとめようとはしなかった。ただ、愛しても愛してもその愛情をぽっかりと空いた胸の空洞に注ぎ込んでしまう愚かな魔女に、ギルバートはそっと囁き、息絶えた。
 戦場に渡る風は、その日少しだけあたたかかった。

過ぎる熱。

2004年4月27日 長編断片
 それは歓喜だった。いっそ泣き出してこの喜びを誰彼かまわず伝えたいほどの。だが例えて言うのなら、恐怖にも似ていたかもしれない。自分がしでかしてしまったことの大きさに、手がふるえてしかたがなかった。
 泣いていたのが、うれしかったからなのか哀しかったからなのか、モーガンにはわからなかった。

 後悔をするわけではない。実際に、腹をくくって自分はここにいるはずだった。それでも、数十時間ぶりであるはずの眠りを手に入れ、あどけない寝顔の男を見やるだに、どうしようもないほどの背徳感に襲われた。彼のきれいな金髪を梳く指先でさえ、ふるえていた。こんなふうでは、うっかり彼を起こしてしまうのではと焦るほどに。
 どうして手に入れてしまったのだろう、とうつむいて、自身の胸をつかんだ。ぎちりと爪がいやな音を立てて肌に食い込む。五つの爪痕が大罪の証のように血を流し、きれいに整えた爪を汚した。
 好きになることはかまわなかった。愛したとしても許されただろう。傲慢にも、彼のそのあたたかな手を取らないかぎりは。神とてそのくらいの寛大さは持ちあわせていたはずだ。
 熱を得ることをもとめてはならない。冷たく凍った時の中、魔女は朽ちずに佇むべきだった。それでも無視し続けるには、心は冷えすぎていたし彼の手はあたたかすぎた。
 相手が眠っているのをいいことに、泣き出しそうになりながらつぶやいた。ごめんね、と。もはや彼を突き放すことは不可能なことだったから、ごめんね、と。それが利己的な魔女に彼の生涯を付き合わせてしまったことへの、せめてもの謝罪だった。

 なるほど、すでに逝ってしまったもうひとりの魔女は、愛情など手に入れることはできなかった。けれども、途方もない罪悪感にさいなまれながら熱を受け入れることの辛さを、彼女は知らない。
 一体どちらの女が幸せなのか、あるいは不幸なのか、モーガンには判断する術もなかった。だからなのかもしれない。涙がこぼれたのは。
 一身に愛されるような存在に、なりたくなかったといえば嘘になる。嘘を言えば楽だったのだろうが、そうすることを赦されていないから、ヒルダはただ残酷な真実を彼に突きつけて、冷えた心をあたためる熱を奪い取った――彼女から。

 やさしいとヒルダが感じ、やさしい人だと彼女が評した男は、案の定吐き気がするほどやさしかった。そんなことは恋人にやるべきだと、さして経験のないヒルダでさえ考えるようなキスをして、惜しみなく彼が持つ過ぎるほどの熱を与えてくれた。
「支払いは済ませておきますから」
 別れは名残惜しかったが、彼の腕がヒルダのものでない以上、いつまでも固執しているわけにはいかなかった。彼には彼の、そして自分には自分のすべきことがあり、二人はたまたま直線上の一点ですれちがったにすぎなかった。常に移動し、その場に止まることを赦されない点AとB。交錯したからと言って、次の日には別れる運命だ。
「いや、俺が。女性にそういうことをさせるのは……ルール違反だ」
「いまさら、妙なことにこだわるのですね」
 小さく笑ったが、そういうこまやかな心配りはきらいではなかった。むしろ好きだった。
 帰りたくないと泣き喚く愚かな少女を、ヒルダは冷ややかに制した。だまりなさい、ここにいるわけにはいかないのだから。それともあなたは、彼を無理矢理とらえておくつもり? できるはずのないことを明示された我が侭娘は、きれいに汚い感情を押し隠したヒルダに沈黙させられた。
「それでは」
 ぱたんと背後でドアが閉まった。

 朝など来なければよかった。そう願えばよかった。望めば叶わなくはなかったかもしれない。魔女の力をもってすれば、永遠の夜を引きずり出すこともできただろう。
 けれどどれほど夜をこの場に留めたところで、彼の落ち着くべき場所はヒルダの元ではなかった。本来熱を分け与えるべき女のところへと、彼は飛んで行ってしまうにちがいない。想像することはたやすかった。
 彼が持つ羽を切り裂くほどの真実は、あいにくと持ち合わせがなかったし、嘘はつけなかった。結局のところ愛情など手に入れることはできるはずもなく、ヒルダは愛されるような存在ではなかった。あたためられたのは心ではなく身体で、しかも与えられた熱は消化しきれずに、中途半端に燻っている。
 なんて愚かな女だろうと、ヒルダはドアの外で、少しだけ泣いた。彼がこの声を聞きつけてはくれないことを、知っていたけれど。

Lost girl.

2004年4月20日 交点ゼロ未満
 『雪女』という妖怪がいると教えてくれたのは、母だった。そのもののけは色白の美しくも妖しい女で、妖怪などというよりはもっとずっと人間のように思えると言ったのも、母だった。

 誰かが、キッチンに立って背中を見せている。華奢な背中から、それが女なのだとダニエルにはわかっていた。だが、具体的な顔となると、さっぱり思い当たらなかった。ただ、彼女が自分とともに人生を歩む人だと言うことは、わかっていた。
 それだけわかればじゅうぶんと、特別なにかを考えることもなく、幼いころに母から聞かされた昔話を、始めていた。
 昔々、ある若者が山に猟に行って道に迷い、ひとりの雪女に出会ったこと。彼女を見たことを誰にも話さない条件で、若者が里に帰してもらったこと。ほどなくして嫁をもらった若者が、冬のある夜、うっかりと妻に昔出会った雪女の話をしてしまうこと。妻がそれを聞いて、雪女という己の正体を現し、いずこかへ去ってしまったこと。
 とても怖いと思った、と苦笑混じりにダニエルはぼやいたが、キッチンの女性は返事をしもしなかった。ただ、鍋を洗っていた手を止めて、そのくせ水道は流しっぱなしのまま、しばらくしてからそれは、と振り向いた。
「話しちゃいけないって、お母さんは言わなかった?」
「あ? ――ああ、言われた、ような…」
 奇妙な既視感がダニエルを襲った。これはなんだ。この問答は、まるで――
「ダニエル、約束は破っちゃダメ。ね?」
 昔話の、雪女のような。
 見覚えのない女がするりとダニエルの隣をすり抜けて、ドアを開け放って外へ出てゆく。あわてて追いかけたが、外は雪が降っているきり、女の後ろ姿さえも見当たらなかった。

 雪女のように消えてしまうものだとは、思いたくはなかった。だからそばにおいている。
 そういうのを結局は固執というのかもしれないと、ダニエルはふと思った。
 手を出さないで。ごくきれいなアクセントの英語でそう言って、少女は哀しそうに眉をよせた。口から出してしまった言葉を、いまさらのように後悔しているようだった。
 そもそも後悔は当然のことなのかもしれない。ヘルガと少女は、昔から――それこそ初めて顔を合わせた四年前から――ずっと仲が良かった。少女は時々ヘルガの家に遊びに来たし、ヘルガ自身、彼女の訪問を楽しみにしていた。
 小さな齟齬が生まれたのは、いつだったのだろうか。おそらく、とヘルガはぼんやり考えた。かみあわない歯車が、いつのまにか、四年という時間の間にひとつずつ増えていたのだ。そして今に至るまで、自分も少女もそれを認めようとはしなかった。そう、どちらも煮え立ったスープに口を付けて、火傷したくはなかったのだ。
「手を出すとか出さないの問題じゃない。……わかってるでしょ、カタリナ」
 見せつけるように指先で唇を撫で、ヘルガはぽつりと言った。
「そのことに関してだけなら、私はもうダンに手を出してる。ええと、そうね。出したのは彼だけど、出させたのは私よ」
 ただし、と暗く考える。
 食事をしていてもベッドの中でも、男が口にする話題は、この目の前の少女のことばかりだ。付き合った一年というもの、ずっとそのことに歯がみさせられてきた。
 けれど、彼女の方は、もっと長い間彼の背中ばかりを見ていたのだろう。半年どころの話ではなく、ひょっとしたら四年間、ずっと。そう考えると、妙に切なくなって胃の奥がきゅっと締め付けられたような気がした。

 結局のところ少女は自分と瓜二つのものなのだと、ヘルガは妙に納得した。ただひとつ、二人の間に立っている、ある男を手に入れたいと望むその一点において。
 まるで鏡のように同じ思いを向ける少女を、切ないと思った。ただ、退くつもりは、ひとつもなかったのだけれど。

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