きみにしか聞こえない。
2006年10月12日 交点ゼロ未満 ああほら静かにして、虫の声がするわよ、とリサが微笑んで言い、ダニエルとニコラス――父――はきょとんと顔を見合わせた。月のきれいな秋の夜長、涼やかな風が吹き込むようにと窓はいっぱいに開けてあったが、そんなものはかけらも聞こえなかった。
「マム、何の話? 何も聞こえないよ」
ダニエルはすげなく言い放ったが、父の方は妻のなんというか、激しい気性を知っていたのでもう少し慎重だった。
「僕らには聞こえないんだが、どうなんだろう。遠くで鳴いているのかもしれない」
リサは不満そうに何事か言い返そうとしたが、ニコラスの加勢を得た息子はちょっと調子に乗って、大体、としてはならない口答えをした。
「『虫の声』ってなんだよ。虫が歌うなんて鳥じゃあるまいしさ、おかしいよ。どうかしてんじゃないの、マム」
まずいと思ったのかニコラスはあわててダニエルの口をふさごうとしたが、「ダニー!」とリサが怒り狂う方が早かった。
ヒロイ家の絶対権力者に、哀れな臣民がひれ伏して「ごめんなさい、もう言いません」と悔し涙を流したのは、ニコラスの制止も空しくリサがダニエルの頭をぽかりと一発やった後のことだった。
「――でもマムは正しかったんだ」
ふふふと笑う青年は子どもめいて靴を脱ぎ捨てた素足を冷たい芝生で遊ばせていて、暗がりの中、そのギャップがカタリナの心臓をとくんと少しだけ早くさせた。こんなふうに思うのは、きっと満月が煌々として空高くに上っているせいだ。こんな夜には誰だって、ちょっとはおかしくなる。
正しかったって、と小首をかしげてみせると、いつになく上機嫌のダニエルは日本人には、とけれど少し寂しそうに言った。
「虫は――虫ったって、蚊とか蜂とか、ああいうのじゃない――『歌っ』てるように聞こえるらしいんだ。りーんりーんとか、ちんちろちんちろとか」
その虫の「声」だけぎこちのない日本語のアクセントで言ってみせると、ダニエルは芝生の中にどさりと身をうずもれさせた。青草の倒れた、えぐいような香りがした。
「ウエストポイントに入ってから、何かの本で読んだ。日本語が母語だと虫の『声』が聞こえて、それ以外の言葉が母語だと雑音にしか聞こえないか、何も聞こえないって」
「おもしろいね。初めて知った」
うん、とやさしい声でダニエルは言って、そっと目を閉じた。
彼の横に何の気なしに寝転がることができなさそうで、カタリナは少し迷ってからほんのわずか、横たえられたダニエルの細い身体の方へと、彼よりももっと細く華奢な自分の身体を寄せた。吐息のようにも感じられる、人の持つぬくみに似た気配が彼に一番近いところから伝わった。
そうしてずいぶんと時間が経ってから、ぽつりとダニエルがでも知る前より俺は寂しくなったよ、と小さくこぼした。
「俺には、マムと同じものは絶対に聞こえないんだってわかって」
ふさわしい言葉を見つけられず、カタリナは途方に暮れた。痛いほどの夜の静寂が――あるいは静寂と思えるものが――耳を打つ。
不意にどうしてもダニエルに触れたくなって、泣き出しそうになりながら目を閉じたままの彼の指先に自分の指先をからめ、カタリナはわけもわからず言った。
「――大丈夫、私にも聞こえないから」
少女の手を、青年は振り払わなかった。
「うん、」
ほころぶようにうっすらと開かれたダークブラウンのまなざしが、月の光でもっと甘い、不思議な琥珀色に見えた。
「そうだな。お前にも聞こえないな、きっと」
ニュージャージーの夜は、ただ静かだった。
「マム、何の話? 何も聞こえないよ」
ダニエルはすげなく言い放ったが、父の方は妻のなんというか、激しい気性を知っていたのでもう少し慎重だった。
「僕らには聞こえないんだが、どうなんだろう。遠くで鳴いているのかもしれない」
リサは不満そうに何事か言い返そうとしたが、ニコラスの加勢を得た息子はちょっと調子に乗って、大体、としてはならない口答えをした。
「『虫の声』ってなんだよ。虫が歌うなんて鳥じゃあるまいしさ、おかしいよ。どうかしてんじゃないの、マム」
まずいと思ったのかニコラスはあわててダニエルの口をふさごうとしたが、「ダニー!」とリサが怒り狂う方が早かった。
ヒロイ家の絶対権力者に、哀れな臣民がひれ伏して「ごめんなさい、もう言いません」と悔し涙を流したのは、ニコラスの制止も空しくリサがダニエルの頭をぽかりと一発やった後のことだった。
「――でもマムは正しかったんだ」
ふふふと笑う青年は子どもめいて靴を脱ぎ捨てた素足を冷たい芝生で遊ばせていて、暗がりの中、そのギャップがカタリナの心臓をとくんと少しだけ早くさせた。こんなふうに思うのは、きっと満月が煌々として空高くに上っているせいだ。こんな夜には誰だって、ちょっとはおかしくなる。
正しかったって、と小首をかしげてみせると、いつになく上機嫌のダニエルは日本人には、とけれど少し寂しそうに言った。
「虫は――虫ったって、蚊とか蜂とか、ああいうのじゃない――『歌っ』てるように聞こえるらしいんだ。りーんりーんとか、ちんちろちんちろとか」
その虫の「声」だけぎこちのない日本語のアクセントで言ってみせると、ダニエルは芝生の中にどさりと身をうずもれさせた。青草の倒れた、えぐいような香りがした。
「ウエストポイントに入ってから、何かの本で読んだ。日本語が母語だと虫の『声』が聞こえて、それ以外の言葉が母語だと雑音にしか聞こえないか、何も聞こえないって」
「おもしろいね。初めて知った」
うん、とやさしい声でダニエルは言って、そっと目を閉じた。
彼の横に何の気なしに寝転がることができなさそうで、カタリナは少し迷ってからほんのわずか、横たえられたダニエルの細い身体の方へと、彼よりももっと細く華奢な自分の身体を寄せた。吐息のようにも感じられる、人の持つぬくみに似た気配が彼に一番近いところから伝わった。
そうしてずいぶんと時間が経ってから、ぽつりとダニエルがでも知る前より俺は寂しくなったよ、と小さくこぼした。
「俺には、マムと同じものは絶対に聞こえないんだってわかって」
ふさわしい言葉を見つけられず、カタリナは途方に暮れた。痛いほどの夜の静寂が――あるいは静寂と思えるものが――耳を打つ。
不意にどうしてもダニエルに触れたくなって、泣き出しそうになりながら目を閉じたままの彼の指先に自分の指先をからめ、カタリナはわけもわからず言った。
「――大丈夫、私にも聞こえないから」
少女の手を、青年は振り払わなかった。
「うん、」
ほころぶようにうっすらと開かれたダークブラウンのまなざしが、月の光でもっと甘い、不思議な琥珀色に見えた。
「そうだな。お前にも聞こえないな、きっと」
ニュージャージーの夜は、ただ静かだった。
正月に日本を訪ねた時には必ずキモノを着せろとねだるカタリナに、甘やかしの実母は夏だからと浴衣を用意していた。たもとと襟から玄妙なグラデーションを描いて裾では薄い青に変化してゆく地に赤い金魚を散らして、帯は金魚と同色の鮮やかな赤。その上にさらに桃色のやけにひらひらとした薄い帯――兵児帯というのだと実母が言った――をくるりと巻いて、そのあどけなさ故に年より幼く見えるカタリナは、けれど宵闇の中で妙に大人びてうつくしく見えた。
似合う? と微笑んで問うてきた彼女に、いつものようにああ、と答えて頭を撫でてやらなかったのはだからで、きれいだと言ってやったことなどそういえば初めてだと気づいたのは、最初の花火が打ち上げられてしばらくしてからだった。隣で手を叩いてはしゃぐカタリナをそっと見やって、改めて彼女の年齢を自覚する――もう十七歳か。妻もいない若い養父などには、そろそろ持て余す年頃だ。
「――なに?」
ふと視線に気づいたカタリナがきょとり、と小首を傾げるのに、なんでもないと苦笑して再びとりどりの光が打ち上げられた夜空をほら、と示す自分は、少しずるいと思った。
から、から、とおぼつかない音を立てて赤い鼻緒の素足を進めるカタリナは、今はもう興奮も少し冷めて、買ってやった丸ごとのリンゴに飴をかけたものをちろちろと舐めながら、もてあそぶようにくるくると回したりしていた。実母は飽きて、とうの昔に先に帰るわ、と花火見物を放棄していたから、今並んで歩いているのは自分と彼女の二人きりだ。
「きれいだったな」
沈黙から逃げるようにつぶやくと、振り向かないままにカタリナはうん、とうなずいて、また来年も見たい、とあまり期待していないような口調で言った。今年の休暇が偶然だということを理解していて、こんな時ばかり癪に障る少女だ。
少しばかり意地の悪い気分になって、からかうように二人で? と問うと、足音は止まらなかったが手の中のリンゴは動きを止めていた。いつもこのくらいわかりやすければいいのに、と思う。彼女のように複雑な――とても複雑な少女の胸の内を知るには、自分はあまりにもシンプルに作られすぎていた。
もうあの角を曲がれば実母のマンションに辿り着く、というころになって、カタリナは不意にうん、と脈絡のないようなささやきをこぼした。
「――うん、二人で」
小さな鈴のついた巾着を持った手が白くなるほどに握り締められているのに気づいてしまったから、彼女の必死さを理解してしまった。
――複雑で、シンプルで、自分たちの間に横たわる絶望的なまでの距離の向こう側から手を伸ばし続けている。その手を払いのけることができるほどに、強くはなれなかった。
「――じゃあ、二人で。来年も」
からん、と下駄の音が鳴って、振り返らないカタリナの顔がにこりと笑んだのを確かに見たような気がした。
似合う? と微笑んで問うてきた彼女に、いつものようにああ、と答えて頭を撫でてやらなかったのはだからで、きれいだと言ってやったことなどそういえば初めてだと気づいたのは、最初の花火が打ち上げられてしばらくしてからだった。隣で手を叩いてはしゃぐカタリナをそっと見やって、改めて彼女の年齢を自覚する――もう十七歳か。妻もいない若い養父などには、そろそろ持て余す年頃だ。
「――なに?」
ふと視線に気づいたカタリナがきょとり、と小首を傾げるのに、なんでもないと苦笑して再びとりどりの光が打ち上げられた夜空をほら、と示す自分は、少しずるいと思った。
から、から、とおぼつかない音を立てて赤い鼻緒の素足を進めるカタリナは、今はもう興奮も少し冷めて、買ってやった丸ごとのリンゴに飴をかけたものをちろちろと舐めながら、もてあそぶようにくるくると回したりしていた。実母は飽きて、とうの昔に先に帰るわ、と花火見物を放棄していたから、今並んで歩いているのは自分と彼女の二人きりだ。
「きれいだったな」
沈黙から逃げるようにつぶやくと、振り向かないままにカタリナはうん、とうなずいて、また来年も見たい、とあまり期待していないような口調で言った。今年の休暇が偶然だということを理解していて、こんな時ばかり癪に障る少女だ。
少しばかり意地の悪い気分になって、からかうように二人で? と問うと、足音は止まらなかったが手の中のリンゴは動きを止めていた。いつもこのくらいわかりやすければいいのに、と思う。彼女のように複雑な――とても複雑な少女の胸の内を知るには、自分はあまりにもシンプルに作られすぎていた。
もうあの角を曲がれば実母のマンションに辿り着く、というころになって、カタリナは不意にうん、と脈絡のないようなささやきをこぼした。
「――うん、二人で」
小さな鈴のついた巾着を持った手が白くなるほどに握り締められているのに気づいてしまったから、彼女の必死さを理解してしまった。
――複雑で、シンプルで、自分たちの間に横たわる絶望的なまでの距離の向こう側から手を伸ばし続けている。その手を払いのけることができるほどに、強くはなれなかった。
「――じゃあ、二人で。来年も」
からん、と下駄の音が鳴って、振り返らないカタリナの顔がにこりと笑んだのを確かに見たような気がした。
君とダンスを、この夜に。
2006年4月23日 交点ゼロ未満 今日のために買ってもらったドレスは強い日差しを浴びて輝く波のような色のマリンブルーで、肩のストラップに安っぽいけれどとてもきれいなビーズのアクセントがついているところと、ダンスでターンするとふわりと広がって花のように見える軽い裾がお気に入りだった。のどもとを飾るのはこの間の誕生日にダニエルの実母リサがわざわざ日本から贈ってくれた、シンプルだけれどヘルガでさえちょっと目を見張るほどものの良いパールのネックレス。髪も大人っぽくアップにして「オズの魔法使い」に出てくるドロシーのような銀色の靴を履いて、だからダンスパーティは大成功だった。
バイバイ、と親から借りたという車で家の目の前まで送ってくれたエドワードにとびきりの笑顔で手を振って、カタリナは軽やかに夜露に濡れた芝生を踏み分け、玄関ではなく庭へと回った。外へ出ることのできる大きな窓はいっぱいに開けられて、白いレースのカーテンが風をはらんでふくらみ、ゆらゆらと手招きをしている。銀の靴を脱いで内側に引き入れ、きれいに並べて置いておく。
リビングは暗かったが、向こうのダニエルの小さな仕事部屋のドアがわずかに開いて、そこからやわらかなオレンジ色の光がこぼれていた。興奮に火照った身体を心地よく冷やしてくれる床の冷たさを足の裏で感じながら、カタリナはひたひたとドアに歩み寄った。
近づくにつれてカタリナは、部屋からカタカタとすばらしいリズムでキーボードを叩く音と、それからカタリナの知らない、けれどもチェロの、低音がひどく耳にやさしいクラシックが聞こえることに気づいた。時刻はもう真夜中だが、ダニエルは相変わらず忙しくしているらしい。
こんこん、と軽くドアを叩くとキーボードを打つ音が止まり、がたりと小さな音を立ててダニエルが立ち上がったことをカタリナに知らせた。次いでもう少しだけドアが開いて、昔はずっと高かった、今はそうカタリナ自身と変わらない背丈の青年が姿を見せる。仕事用の軽い度が入ったメガネをかけ、一日を終えてくたびれたカーキ色のシャツをそのまま着ていたダニエルは、疲れたように少しだけ笑った。
「――お帰り。楽しかったか?」
そのまま彼だけの空間からするりと抜け出て、ぐんと大きく全身を伸ばすダニエルは、どこかしなやかなネコ科のけもののようにカタリナには見えた。
「うん、すごく。あんなの、私、初めてだった。ドレスも、きれいってほめてもらったよ」
そうか、とひかえめながら我がことのように親身な喜びをその声ににじませて、二十六歳の父親は十六歳の娘の頭をそっと撫でた。それからそっとレディの手を取ってさりげない調子でソファに座らせ、ダニエルの方はその斜め向かいにカウチの背にもたれて気楽なふうに立ったままでいた。
「ともかく、パートナーの足を踏まなきゃ上出来だよ。俺はそれで失敗したんだ、緊張してて――でも今でもダンスは苦手だな」
嘘、と笑いながらカタリナは目尻に浮いた涙を指先でぬぐい、首を横に振ったが、ダニエルはいや本当に、と言ってゆずらなかった。だが、その口調からも失敗談を語る口調からも、先ほどべっとりと彼に張り付いていた疲労は抜けていた。
しばし嘘だ本当だの押し問答を繰り返した挙句、業を煮やしたのはカタリナだった。そんなの、とつくろった傲慢なしぐさと口ぶりでつん、とダニエルにのたまう。
「体験しなきゃ、私、信じない」
ダニエルは眉を跳ね上げてふん、とおもしろそうに鼻を鳴らすと、後悔するなよ、と確実におもしろがっている色をにじませながらつぶやいた。女王めいてゆったりとソファに腰を下ろすカタリナに、ごく洗練された紳士の礼をひとつ。
顔を上げた彼は、引き込まれそうに深い東洋人の黒い目で、じっとカタリナを見つめた。
「――Shall we dance?」
にっこりと笑ったカタリナの答えは、始めから決まっていた。
バイバイ、と親から借りたという車で家の目の前まで送ってくれたエドワードにとびきりの笑顔で手を振って、カタリナは軽やかに夜露に濡れた芝生を踏み分け、玄関ではなく庭へと回った。外へ出ることのできる大きな窓はいっぱいに開けられて、白いレースのカーテンが風をはらんでふくらみ、ゆらゆらと手招きをしている。銀の靴を脱いで内側に引き入れ、きれいに並べて置いておく。
リビングは暗かったが、向こうのダニエルの小さな仕事部屋のドアがわずかに開いて、そこからやわらかなオレンジ色の光がこぼれていた。興奮に火照った身体を心地よく冷やしてくれる床の冷たさを足の裏で感じながら、カタリナはひたひたとドアに歩み寄った。
近づくにつれてカタリナは、部屋からカタカタとすばらしいリズムでキーボードを叩く音と、それからカタリナの知らない、けれどもチェロの、低音がひどく耳にやさしいクラシックが聞こえることに気づいた。時刻はもう真夜中だが、ダニエルは相変わらず忙しくしているらしい。
こんこん、と軽くドアを叩くとキーボードを打つ音が止まり、がたりと小さな音を立ててダニエルが立ち上がったことをカタリナに知らせた。次いでもう少しだけドアが開いて、昔はずっと高かった、今はそうカタリナ自身と変わらない背丈の青年が姿を見せる。仕事用の軽い度が入ったメガネをかけ、一日を終えてくたびれたカーキ色のシャツをそのまま着ていたダニエルは、疲れたように少しだけ笑った。
「――お帰り。楽しかったか?」
そのまま彼だけの空間からするりと抜け出て、ぐんと大きく全身を伸ばすダニエルは、どこかしなやかなネコ科のけもののようにカタリナには見えた。
「うん、すごく。あんなの、私、初めてだった。ドレスも、きれいってほめてもらったよ」
そうか、とひかえめながら我がことのように親身な喜びをその声ににじませて、二十六歳の父親は十六歳の娘の頭をそっと撫でた。それからそっとレディの手を取ってさりげない調子でソファに座らせ、ダニエルの方はその斜め向かいにカウチの背にもたれて気楽なふうに立ったままでいた。
「ともかく、パートナーの足を踏まなきゃ上出来だよ。俺はそれで失敗したんだ、緊張してて――でも今でもダンスは苦手だな」
嘘、と笑いながらカタリナは目尻に浮いた涙を指先でぬぐい、首を横に振ったが、ダニエルはいや本当に、と言ってゆずらなかった。だが、その口調からも失敗談を語る口調からも、先ほどべっとりと彼に張り付いていた疲労は抜けていた。
しばし嘘だ本当だの押し問答を繰り返した挙句、業を煮やしたのはカタリナだった。そんなの、とつくろった傲慢なしぐさと口ぶりでつん、とダニエルにのたまう。
「体験しなきゃ、私、信じない」
ダニエルは眉を跳ね上げてふん、とおもしろそうに鼻を鳴らすと、後悔するなよ、と確実におもしろがっている色をにじませながらつぶやいた。女王めいてゆったりとソファに腰を下ろすカタリナに、ごく洗練された紳士の礼をひとつ。
顔を上げた彼は、引き込まれそうに深い東洋人の黒い目で、じっとカタリナを見つめた。
「――Shall we dance?」
にっこりと笑ったカタリナの答えは、始めから決まっていた。
Happy Helloween!
2005年11月1日 交点ゼロ未満 家に帰ると、ひと抱えほどもありそうな巨大なカボチャがごろりとリビングのテーブルの上に転がっていた。派手派手しいオレンジ色のカボチャには、道化じみたけれどもどこか虚ろで怪しげな雰囲気のただよう目と口がきれいにくりぬかれている。その周囲に、ばらまかれた、というよりはしきつめられた、といった方が正しいほどに散らばったおびただしい量のチョコレートやらキャンディやらは彼にとっては正直見ただけでうんざりだったが、甘い物好きの同居人ならば納得の行く飾りではある。
帰りがけにヘルガからもらったキャンディをポケットの中で探りながら、懐かしいなとかすかな笑みをこぼす。ダニエルも、エレメンタリー時代は友達と一緒にこのカボチャのお化けを作ったり、仮装に知恵をしぼったものだ。
ともあれ、おそらくこのジャック・オ・ランタンの製作者はカタリナだろう。十五歳にもなって、彼女はこうした子どもじみた行事が大好きだった――そんなところを、好ましく思ってはいるけれど。
その時ふとキッチンから片手にパンプキンパイの載った皿を持ったカタリナが現れて、お帰りなさいと言うよりも早く、空いた片手を突き出してにっこりと笑った。
「Trick or treat?」
ダニエルは笑って、ポケットから取り出したキャンディをカタリナの手のひらに落としてやった。
帰りがけにヘルガからもらったキャンディをポケットの中で探りながら、懐かしいなとかすかな笑みをこぼす。ダニエルも、エレメンタリー時代は友達と一緒にこのカボチャのお化けを作ったり、仮装に知恵をしぼったものだ。
ともあれ、おそらくこのジャック・オ・ランタンの製作者はカタリナだろう。十五歳にもなって、彼女はこうした子どもじみた行事が大好きだった――そんなところを、好ましく思ってはいるけれど。
その時ふとキッチンから片手にパンプキンパイの載った皿を持ったカタリナが現れて、お帰りなさいと言うよりも早く、空いた片手を突き出してにっこりと笑った。
「Trick or treat?」
ダニエルは笑って、ポケットから取り出したキャンディをカタリナの手のひらに落としてやった。
A special day in a week.
2005年9月26日 交点ゼロ未満 日曜日は特別な日。
その前の夜に、亡くなった母さんがホットケーキを作ってくれる夢を見たから、休日のくせにめずらしく早く起きてきたダニエルにホットケーキが食べたいなとねだってみた。日ごろあまりあれがほしいだのこれがほしいだのと言わないカタリナがほとんど初めてねだったからだろう、少しだけ困ったように笑って、じゃあ作るかとダニエルは冷蔵庫を開けた。
元々几帳面で手先の器用な人だからきっと料理はうまいだろうと思っていたけれど、慣れないながら材料や道具を出してきて時々これでいいのかとうかがうようにこちらを見てくる妙に子どもじみたしぐさには、カタリナも思わず吹き出した。何かひとつ間違えたくらいでは、料理なんてそれほど壊滅的なことにはならないものなのに。それでもどこで買い込んできたのか、ギャルソン風の黒いエプロンをぴしりと身につけた姿は、なかなか彼に似合っていた。
分量をきちんと量って分け、大きな銀色のボウルに雪のようにきれいな小麦粉をふるって落とし、片手で器用に二個の卵を割り入れる。それに小さめのコップ一杯のミルクをさらに加えて、泡だて器で卵の黄身と白身を丁寧につぶしながら手早く種を混ぜてゆく。高さの合わないシンクからボウルを抱え上げるところなど、なんだかひどく堂に入っていた。
熱したフライパンにバターが溶ける音と、その香りが食欲を刺激する。とろりとしたわずかに甘い匂いのする白い種がフライパンに流し込まれると、きれいなまるい形はゆるゆると広がってぷつりと気泡が弾けた。焼けるまでの間にとコーヒーを入れ始めたダニエルの黒いエプロンは小麦粉で白くまだらがついていて、彼自身がさっぱりそれに気づいていないのがなんとなく可愛らしかった。
少しずつ大きさと焦げ方の違うホットケーキが四枚焼き上がり、まるく、きれいに焼けた二枚が載っていた皿がこちらに押しやられると、カタリナは少しとまどった。見上げた視線を笑って受け止めたダニエルは、お前が食べたかったんだからとてこでも動かないふうだった。
まだあつあつのホットケーキにバターを載せるとそれはとろりととろけ出し、メープルシロップをくるくるとかけまわすと金色の糸はホットケーキの上で複雑な線画を描いた。それだけで思わず口元がゆるんできて、向かいに座ったダニエルはお前顔崩れすぎとまた笑った。
今ならきっと昔絵本で読んだ天井まで届くホットケーキだって食べられるなんて思うのは、きっと今日が日曜日だからなのだろう。
その前の夜に、亡くなった母さんがホットケーキを作ってくれる夢を見たから、休日のくせにめずらしく早く起きてきたダニエルにホットケーキが食べたいなとねだってみた。日ごろあまりあれがほしいだのこれがほしいだのと言わないカタリナがほとんど初めてねだったからだろう、少しだけ困ったように笑って、じゃあ作るかとダニエルは冷蔵庫を開けた。
元々几帳面で手先の器用な人だからきっと料理はうまいだろうと思っていたけれど、慣れないながら材料や道具を出してきて時々これでいいのかとうかがうようにこちらを見てくる妙に子どもじみたしぐさには、カタリナも思わず吹き出した。何かひとつ間違えたくらいでは、料理なんてそれほど壊滅的なことにはならないものなのに。それでもどこで買い込んできたのか、ギャルソン風の黒いエプロンをぴしりと身につけた姿は、なかなか彼に似合っていた。
分量をきちんと量って分け、大きな銀色のボウルに雪のようにきれいな小麦粉をふるって落とし、片手で器用に二個の卵を割り入れる。それに小さめのコップ一杯のミルクをさらに加えて、泡だて器で卵の黄身と白身を丁寧につぶしながら手早く種を混ぜてゆく。高さの合わないシンクからボウルを抱え上げるところなど、なんだかひどく堂に入っていた。
熱したフライパンにバターが溶ける音と、その香りが食欲を刺激する。とろりとしたわずかに甘い匂いのする白い種がフライパンに流し込まれると、きれいなまるい形はゆるゆると広がってぷつりと気泡が弾けた。焼けるまでの間にとコーヒーを入れ始めたダニエルの黒いエプロンは小麦粉で白くまだらがついていて、彼自身がさっぱりそれに気づいていないのがなんとなく可愛らしかった。
少しずつ大きさと焦げ方の違うホットケーキが四枚焼き上がり、まるく、きれいに焼けた二枚が載っていた皿がこちらに押しやられると、カタリナは少しとまどった。見上げた視線を笑って受け止めたダニエルは、お前が食べたかったんだからとてこでも動かないふうだった。
まだあつあつのホットケーキにバターを載せるとそれはとろりととろけ出し、メープルシロップをくるくるとかけまわすと金色の糸はホットケーキの上で複雑な線画を描いた。それだけで思わず口元がゆるんできて、向かいに座ったダニエルはお前顔崩れすぎとまた笑った。
今ならきっと昔絵本で読んだ天井まで届くホットケーキだって食べられるなんて思うのは、きっと今日が日曜日だからなのだろう。
気がつくといつもオーブンの前でケーキだのクッキーだのパイだのを焼いている同居人が、とうとうその調理器具を放棄したのは八月に入って間もなくだった。汗だくになって菓子作りをしている様子はなんだか哀れでもあったから、仮に彼女の作る――甘味を抑えたごく彼好みの――美味い焼き菓子をあきらめることになっても、しかたがないと我慢することにした。
ところがこの少女、こと食べ物に関してはいつもにも増して頭が回るようで、その晩のデザートとして出されたのはアイスキャンデーだった。真っ白い細いかたまりが棒の先にちょこんとくっついていて、暑さにてろりと雫をこぼしているところをあわてて舐めると、ひどく濃厚なミルクの味がした。歯を立てると沁みるほどの冷たさで、きゅっと新雪を踏みしめたような音がこめかみの辺りで聞こえた。
せっかくだからと庭につながる大窓を全開にしてそのふちに腰を下ろし、芝生に裸足で足を下ろしてぶらぶらと爪先で草をいじりながらアイスキャンデーを舐めた。夜だというのに隣の家のローレルの木では蝉がじーぅじーぅと鳴いていて、変なの、と同居人は笑った。すぐ傍らに腰かける彼女は、アイスキャンデーを作るのにいじったせいか、甘ったるいミルクの香りがぷんぷんしていた。
ハーゲンダッツとかハーシーズとか、アイスクリームなんていくらでも買えるけれど、攪拌が足りないせいで少しゆるくてすぐに溶けてしまうミルク味のアイスキャンデーが馬鹿に美味いと思ったのは、きっとこんなにも暑いせいなのだろうと考えた。
ところがこの少女、こと食べ物に関してはいつもにも増して頭が回るようで、その晩のデザートとして出されたのはアイスキャンデーだった。真っ白い細いかたまりが棒の先にちょこんとくっついていて、暑さにてろりと雫をこぼしているところをあわてて舐めると、ひどく濃厚なミルクの味がした。歯を立てると沁みるほどの冷たさで、きゅっと新雪を踏みしめたような音がこめかみの辺りで聞こえた。
せっかくだからと庭につながる大窓を全開にしてそのふちに腰を下ろし、芝生に裸足で足を下ろしてぶらぶらと爪先で草をいじりながらアイスキャンデーを舐めた。夜だというのに隣の家のローレルの木では蝉がじーぅじーぅと鳴いていて、変なの、と同居人は笑った。すぐ傍らに腰かける彼女は、アイスキャンデーを作るのにいじったせいか、甘ったるいミルクの香りがぷんぷんしていた。
ハーゲンダッツとかハーシーズとか、アイスクリームなんていくらでも買えるけれど、攪拌が足りないせいで少しゆるくてすぐに溶けてしまうミルク味のアイスキャンデーが馬鹿に美味いと思ったのは、きっとこんなにも暑いせいなのだろうと考えた。
それを夢だと知っていた。
がくんと大きく揺れて、車両は路肩に止まった。イラク政府高官と、通訳のために同乗した時だったように思う。とっさに高官を伏せさせて、彼は外を覗いた。護衛の軍用車から兵士たちが発砲していた。運転手が、デモ隊から銃撃を受けました、と叫んだ。
攻撃は数分もしなかった。兵士たちはばらばらと死体と武器の確認に向かっていた。失礼、と高官に言い置いて、彼も外に出た――その行為が職務を逸脱することは知っていたけれども。
兵士たちの中に足を踏み入れると、彼らは怯えたような、とまどうような顔をしていた。分隊長にどうしたんだ、と聞くと、その男はひどくためらってから、言った。
「彼らは武器を持っていません」
それはとても重い沈黙だったように思う。愕然とすることすらできずに、彼は息が詰まるのを感じた。だって、もしもこのイラク人たちが無実だというのなら、銃撃を受けたと言ったのは誰だったのだろう。
別の兵士が泣き出しそうな顔で言った。
「この事態をどう説明するんですか、少尉」
どうもこうもないことを知っていた。これは罪だと、誰もが理解していたのだろう。それとも改めて自覚したいのか、――自分たちは罪を犯したのだと。
彼は笑って答えた。
「俺たちには応戦する必要があった。間違いは誰にだってある――この戦いは、相対的には正当なものだ。そうだろう?」
足元で、ほとんど死にかけた少女が「ウンム」と泣いているのを聞いていた。遠く母国にいる養い子と、同じくらいの年ごろだった。
だけれどそれでも、こんな世界を見るために生まれてきたわけではなかった。
がくんと大きく揺れて、車両は路肩に止まった。イラク政府高官と、通訳のために同乗した時だったように思う。とっさに高官を伏せさせて、彼は外を覗いた。護衛の軍用車から兵士たちが発砲していた。運転手が、デモ隊から銃撃を受けました、と叫んだ。
攻撃は数分もしなかった。兵士たちはばらばらと死体と武器の確認に向かっていた。失礼、と高官に言い置いて、彼も外に出た――その行為が職務を逸脱することは知っていたけれども。
兵士たちの中に足を踏み入れると、彼らは怯えたような、とまどうような顔をしていた。分隊長にどうしたんだ、と聞くと、その男はひどくためらってから、言った。
「彼らは武器を持っていません」
それはとても重い沈黙だったように思う。愕然とすることすらできずに、彼は息が詰まるのを感じた。だって、もしもこのイラク人たちが無実だというのなら、銃撃を受けたと言ったのは誰だったのだろう。
別の兵士が泣き出しそうな顔で言った。
「この事態をどう説明するんですか、少尉」
どうもこうもないことを知っていた。これは罪だと、誰もが理解していたのだろう。それとも改めて自覚したいのか、――自分たちは罪を犯したのだと。
彼は笑って答えた。
「俺たちには応戦する必要があった。間違いは誰にだってある――この戦いは、相対的には正当なものだ。そうだろう?」
足元で、ほとんど死にかけた少女が「ウンム」と泣いているのを聞いていた。遠く母国にいる養い子と、同じくらいの年ごろだった。
だけれどそれでも、こんな世界を見るために生まれてきたわけではなかった。
長期出張の間通うことに決めた、大使館からほど近いところにあるカフェのウェイトレスとはすぐに親しくなった。毎朝窓辺の席で新聞を広げているとコーヒーを持ってきてくれて、サリューと魅力的な笑顔をくれる彼女は、リズというらしい。
日中暇をもてあまして行った先のルーブル美術館は広くて広くてとても一日では見きれず数日通う羽目になったが、古代オリエント美術の区画を毎日うろうろしている青年は芸術家志望らしかった。それにしても古代オリエントに興味を持つとは、自国の文化に固執するヨーロッパ人にしてはめずらしい。
夕食に誘ってくれた同郷人の外交官はハワードと言い、食にうるさいこの国のしかも首都の人々が舌鼓を打つと有名なビストロに連れて行ってくれたが、長年こちらで暮らす内にフレンチナイズドされてしまったのか、食事のペースが妙にゆっくりしていた。おかげでやろうとしていた仕事の一部は明日に持ち越しになったが、美味いワインが飲めたのは悪くない。
世話になっている大使館でひとり黙々と本国に送る書類を片付けていたら、現地で雇われているスタッフがどうしてかこんな真夜中まで居残っていて、つかれているだろうとハーブティーと小さな焼き菓子を差し入れてくれた。正直ハーブティーよりもコーヒーの方がありがたかったし甘いものは苦手だったが、礼を言って名前を聞くと、ルクールだと笑った。
そんなようなことをしたためて封筒の口を閉めると、ダニエルはカップの底にわずかに残ったカフェオレを飲み干して、代金をテーブルに置いた。店内の観葉植物に水をやっていたリズに軽く手を上げてあいさつをすると、外に出る。今日はいい天気だ。昼食をハワードに呼ばれているが、まだ時間があるからルーブルに行ってあの芸術家志望の青年と少しオリエント文化について話でもしてみようか。手紙の投函は、ルクールに頼むとしよう。
ああ、カタリナも連れて来てやりたかったな。ストリートを足取り軽く行きながら、ダニエルはふとそんなことを思った。
日中暇をもてあまして行った先のルーブル美術館は広くて広くてとても一日では見きれず数日通う羽目になったが、古代オリエント美術の区画を毎日うろうろしている青年は芸術家志望らしかった。それにしても古代オリエントに興味を持つとは、自国の文化に固執するヨーロッパ人にしてはめずらしい。
夕食に誘ってくれた同郷人の外交官はハワードと言い、食にうるさいこの国のしかも首都の人々が舌鼓を打つと有名なビストロに連れて行ってくれたが、長年こちらで暮らす内にフレンチナイズドされてしまったのか、食事のペースが妙にゆっくりしていた。おかげでやろうとしていた仕事の一部は明日に持ち越しになったが、美味いワインが飲めたのは悪くない。
世話になっている大使館でひとり黙々と本国に送る書類を片付けていたら、現地で雇われているスタッフがどうしてかこんな真夜中まで居残っていて、つかれているだろうとハーブティーと小さな焼き菓子を差し入れてくれた。正直ハーブティーよりもコーヒーの方がありがたかったし甘いものは苦手だったが、礼を言って名前を聞くと、ルクールだと笑った。
そんなようなことをしたためて封筒の口を閉めると、ダニエルはカップの底にわずかに残ったカフェオレを飲み干して、代金をテーブルに置いた。店内の観葉植物に水をやっていたリズに軽く手を上げてあいさつをすると、外に出る。今日はいい天気だ。昼食をハワードに呼ばれているが、まだ時間があるからルーブルに行ってあの芸術家志望の青年と少しオリエント文化について話でもしてみようか。手紙の投函は、ルクールに頼むとしよう。
ああ、カタリナも連れて来てやりたかったな。ストリートを足取り軽く行きながら、ダニエルはふとそんなことを思った。
とても風の強い夜は、――正直なところその音が少しだけ怖くて――あまりよく眠れない。両親の葬式を思い出すせいかもしれない。
だからそんな夜は、かつて母が教えてくれた一番効果的な「オクスリ」を飲む。知りうる限りもっとも幸せな家族の記憶を、胸の中であたためながら。
春の嵐がごうごうと、ニューヨークの夜空をゆらしては走ってゆく。ベッドに入ってから四時間、いくら我慢強い方とは言え、目を閉じてみたり開いてみたり、仰向け横向きしまいにはうつぶせまで試した挙げ句に眠れずうめいては布団の中にもぐり込んで息苦しくなる、などという事態には飽きた。要は眠れないことにつかれてしまって、これはあの「オクスリ」に頼るしかないと少女は妙な決意をかため、むくりと起き上がった。暗闇の中でベッドの下のスリッパをさぐり、もう慣れた部屋をすり足でそっと歩く。
きぃ、とドアを開けてリビングをのぞいたが、明かりはすでに落ちていた。いつも宵っ張りの同居人も、今夜は――比較的――早く眠りについたらしい。ほっと息をついて、小さい方の電灯のスイッチをつけた。ぼんやりとして頼りない、わずかに足下を照らすきりのオレンジの光の中、いそいそとキッチンに向かって冷蔵庫を開ける。
お気に入りのカップは黒猫の絵のついた、少し大きめのマグ。戸棚の中からそれを出してミルクをたっぷりと注ぎ、意外にもアルコール好きの同居人とは別に料理用にと買ったラムを、ほんのキャップに一杯落とす。あとは電子レンジにカップを入れて、一分少し。
春先の、夜ともなればまだひんやりと冷たい空気にほんのりと白い湯気が立ち上り、少女はそれにみとれながらリビングにもどった。テレビの正面に置かれた、ゆうに大人ひとりが寝そべれそうなカウチに腰を下ろそうとして、
「さっきからなにやってんだ」
そのカウチから出てきた声に、思わずびくっとカップを取り落としそうになった。さっき見た時はいないように思えたのに――それとも寝そべっていたから見えなかっただけなのか、この同居人は。
薄明かりの中で起き上がった青年がひくりと鼻をうごめかし、ホットミルクかとぼんやりした口調でつぶやいた。察するに、どうも同居人も眠れないでいるらしい――もっとも、彼の方は眠たいのに眠れないのだろう。働きすぎるからそう言う目に遭うのだ。
うんそう、とどこかひそめたような声で返事をして、同居人が起き上がった分だけできたスペースにぽすりと座る。ちらりと横目で見やった彼は、なんとなく物欲しそうな顔をしていた。
「……飲む?」
「……もらう」
こくりと子どもじみた動作でうなずく青年に思わず笑いそうになって、あわてて表情を引き締めてからカップを手渡す。わずかに触れた同居人の手は、おどろくほど冷たかった。
――あら、また寝れないの? こまったわね、……嘘はダメよ、本当に寝れない時にしか「オクスリ」は作ってあげないんだから。
そう笑って抱きしめてくれた母は、ホットミルクと同じかおりがした。あたたかくて甘い液体と、不眠のカタマリを溶かしてしまうかすかなアルコールの入り交じったかおり。
美味いな、とつぶやく声にはっと我に帰ると、もう一口か二口をひかえめにすすってカップをこちらによこそうとしている同居人の姿。いいよ、とその手を押し退けて、カウチから立ち上がった。
「あげる。新しいの、作ってくる」
そう言うと、同居人は少し笑ってありがとう、と言った。
風の強い夜は同居人も眠れないようだから、昔母に与えられた他愛のない「オクスリ」を、今度は自分が彼に与える。新しい家族にそうできる喜びを、かみしめながら。
だからそんな夜は、かつて母が教えてくれた一番効果的な「オクスリ」を飲む。知りうる限りもっとも幸せな家族の記憶を、胸の中であたためながら。
春の嵐がごうごうと、ニューヨークの夜空をゆらしては走ってゆく。ベッドに入ってから四時間、いくら我慢強い方とは言え、目を閉じてみたり開いてみたり、仰向け横向きしまいにはうつぶせまで試した挙げ句に眠れずうめいては布団の中にもぐり込んで息苦しくなる、などという事態には飽きた。要は眠れないことにつかれてしまって、これはあの「オクスリ」に頼るしかないと少女は妙な決意をかため、むくりと起き上がった。暗闇の中でベッドの下のスリッパをさぐり、もう慣れた部屋をすり足でそっと歩く。
きぃ、とドアを開けてリビングをのぞいたが、明かりはすでに落ちていた。いつも宵っ張りの同居人も、今夜は――比較的――早く眠りについたらしい。ほっと息をついて、小さい方の電灯のスイッチをつけた。ぼんやりとして頼りない、わずかに足下を照らすきりのオレンジの光の中、いそいそとキッチンに向かって冷蔵庫を開ける。
お気に入りのカップは黒猫の絵のついた、少し大きめのマグ。戸棚の中からそれを出してミルクをたっぷりと注ぎ、意外にもアルコール好きの同居人とは別に料理用にと買ったラムを、ほんのキャップに一杯落とす。あとは電子レンジにカップを入れて、一分少し。
春先の、夜ともなればまだひんやりと冷たい空気にほんのりと白い湯気が立ち上り、少女はそれにみとれながらリビングにもどった。テレビの正面に置かれた、ゆうに大人ひとりが寝そべれそうなカウチに腰を下ろそうとして、
「さっきからなにやってんだ」
そのカウチから出てきた声に、思わずびくっとカップを取り落としそうになった。さっき見た時はいないように思えたのに――それとも寝そべっていたから見えなかっただけなのか、この同居人は。
薄明かりの中で起き上がった青年がひくりと鼻をうごめかし、ホットミルクかとぼんやりした口調でつぶやいた。察するに、どうも同居人も眠れないでいるらしい――もっとも、彼の方は眠たいのに眠れないのだろう。働きすぎるからそう言う目に遭うのだ。
うんそう、とどこかひそめたような声で返事をして、同居人が起き上がった分だけできたスペースにぽすりと座る。ちらりと横目で見やった彼は、なんとなく物欲しそうな顔をしていた。
「……飲む?」
「……もらう」
こくりと子どもじみた動作でうなずく青年に思わず笑いそうになって、あわてて表情を引き締めてからカップを手渡す。わずかに触れた同居人の手は、おどろくほど冷たかった。
――あら、また寝れないの? こまったわね、……嘘はダメよ、本当に寝れない時にしか「オクスリ」は作ってあげないんだから。
そう笑って抱きしめてくれた母は、ホットミルクと同じかおりがした。あたたかくて甘い液体と、不眠のカタマリを溶かしてしまうかすかなアルコールの入り交じったかおり。
美味いな、とつぶやく声にはっと我に帰ると、もう一口か二口をひかえめにすすってカップをこちらによこそうとしている同居人の姿。いいよ、とその手を押し退けて、カウチから立ち上がった。
「あげる。新しいの、作ってくる」
そう言うと、同居人は少し笑ってありがとう、と言った。
風の強い夜は同居人も眠れないようだから、昔母に与えられた他愛のない「オクスリ」を、今度は自分が彼に与える。新しい家族にそうできる喜びを、かみしめながら。
The housekeeper.
2005年1月12日 交点ゼロ未満 洗濯は二日に一度。本当は毎日やりたいところだが、家事嫌いの同居人が元々持っていた洗濯機はむやみやたらと巨大で、そうそう頻繁に動かしていては電気代の無駄になってしまう。
朝食の後に同居人を送り出し、洗濯機のスイッチを入れる。終了のブザーが鳴るまでの一時間あまりを勉強にあてた後は、さっさと裏庭に干してしまわなければならない。彼女には他にもやらなければならないことがたくさんある。
夕方に、干しておいた衣服を取り込む。夕食を終えてテレビを同居人と一緒に見た後は、いよいよ大仕事だ。同居人はいくつかの仕事を手伝ってくれるが、こればかりは彼女も彼に任せたことはない。この家に二人で暮らしはじめたころからの、それは不文律だった。
シャツにアイロンをかける方法を、そんなのは簡単なのよと笑って教えてくれた母に感謝している。なぜなら同居人は襟と袖以外の場所にアイロンをかけることがひどく下手で、この仕事はいつでも彼女のものだからだ。
しゅ、とかすかな蒸気を立てながら、カーキ色のシャツからはきれいにしわが消えてゆく。たまにこの光景を見かけると同居人は感心してため息をこぼすが、そんな彼を、笑いを噛み殺しながらながめるのがとても好きだ。
奇妙な優越感にすぎないのだろう。同居人よりも勝っている部分があることで、彼を支配する唯一の手綱を手に入れた気分になっている。わかってはいても、他人が容易に踏み込むことのできない場所に自分がいるのだと実感できることは、彼女にとっては大きな喜びだった。
ぴしりと型のついたシャツを、そのまま店頭に並べても違和感がないほどの几帳面さでたたみ、同居人に手渡す。ありがとう、と屈託のない、純粋な尊敬のまなざしとともに返される言葉は、彼女の誇りだった。
きちんとアイロンがけされたシャツは、彼女が彼の家族であることの明確な証なのだった。
朝食の後に同居人を送り出し、洗濯機のスイッチを入れる。終了のブザーが鳴るまでの一時間あまりを勉強にあてた後は、さっさと裏庭に干してしまわなければならない。彼女には他にもやらなければならないことがたくさんある。
夕方に、干しておいた衣服を取り込む。夕食を終えてテレビを同居人と一緒に見た後は、いよいよ大仕事だ。同居人はいくつかの仕事を手伝ってくれるが、こればかりは彼女も彼に任せたことはない。この家に二人で暮らしはじめたころからの、それは不文律だった。
シャツにアイロンをかける方法を、そんなのは簡単なのよと笑って教えてくれた母に感謝している。なぜなら同居人は襟と袖以外の場所にアイロンをかけることがひどく下手で、この仕事はいつでも彼女のものだからだ。
しゅ、とかすかな蒸気を立てながら、カーキ色のシャツからはきれいにしわが消えてゆく。たまにこの光景を見かけると同居人は感心してため息をこぼすが、そんな彼を、笑いを噛み殺しながらながめるのがとても好きだ。
奇妙な優越感にすぎないのだろう。同居人よりも勝っている部分があることで、彼を支配する唯一の手綱を手に入れた気分になっている。わかってはいても、他人が容易に踏み込むことのできない場所に自分がいるのだと実感できることは、彼女にとっては大きな喜びだった。
ぴしりと型のついたシャツを、そのまま店頭に並べても違和感がないほどの几帳面さでたたみ、同居人に手渡す。ありがとう、と屈託のない、純粋な尊敬のまなざしとともに返される言葉は、彼女の誇りだった。
きちんとアイロンがけされたシャツは、彼女が彼の家族であることの明確な証なのだった。
ある原風景がある。そこへ帰るつもりは、ひとつもない。
あるひとがいる。そのひとの元へ、いつでも帰りたい。
思春期を抜けるよりも早く使わなくなってしまった言葉を、二十歳を前にしてなお忘れていないというのは、ある種の僥倖なのだろう。それとも養父の教育のたまものだろうか。そういえば、日ごろ使わないものも多いだろうに、彼は一度習得した言語を二度と忘れはしなかった。
ただ、彼女にかぎって言えば、いっそ忘れてしまいたいと思ったことは何度もあった。生まれた国の言葉を忘れることで育った国の青年に寄り添えるのならば、支払うべき代価は安価とすら思えた。
だけれど養父は言うのだ。故国の言葉を忘れてはならないと。それは保険であり、武器なのだからと。
「それを忘れないかぎり、お前には帰る場所があるんだ」
――帰るつもりなどないと言えば、ずっと、いつか本当の家族になるそのもっと先の日までも、ここに住まわせてくれるのか。ここを『帰る場所』にさせてくれるのか。故国を忘れさせてくれるのか。
ああ、認めよう。たしかに彼女は愛していた。遠く海をはさんだ向こうの国、両親が眠るあの場所を。初めて青年と出会った場所を。今でもそこにある風景をありありと思い出せるのが、その証拠だ。
だがだからといって、『愛している』は『帰りたい』とイコールではない。なぜなら帰りたい場所を見つけてしまった。あなたの傍に。
かつて話していた言葉を忘れれば、あの原風景も消え去るのだろうか。それとも原風景を消してしまえば、言葉も忘れられるのだろうか。どちらが先ともとれない疑問は、結局答えを見つけることができない。だから彼女は、忘れさせてと願いながら、今日も思う。
帰るつもりはひとつもない。あなたの元へ帰りたいから。
忘れたい、忘れさせてと拘泥することこそを、人は望郷と呼ぶのかもしれないけれど。
あるひとがいる。そのひとの元へ、いつでも帰りたい。
思春期を抜けるよりも早く使わなくなってしまった言葉を、二十歳を前にしてなお忘れていないというのは、ある種の僥倖なのだろう。それとも養父の教育のたまものだろうか。そういえば、日ごろ使わないものも多いだろうに、彼は一度習得した言語を二度と忘れはしなかった。
ただ、彼女にかぎって言えば、いっそ忘れてしまいたいと思ったことは何度もあった。生まれた国の言葉を忘れることで育った国の青年に寄り添えるのならば、支払うべき代価は安価とすら思えた。
だけれど養父は言うのだ。故国の言葉を忘れてはならないと。それは保険であり、武器なのだからと。
「それを忘れないかぎり、お前には帰る場所があるんだ」
――帰るつもりなどないと言えば、ずっと、いつか本当の家族になるそのもっと先の日までも、ここに住まわせてくれるのか。ここを『帰る場所』にさせてくれるのか。故国を忘れさせてくれるのか。
ああ、認めよう。たしかに彼女は愛していた。遠く海をはさんだ向こうの国、両親が眠るあの場所を。初めて青年と出会った場所を。今でもそこにある風景をありありと思い出せるのが、その証拠だ。
だがだからといって、『愛している』は『帰りたい』とイコールではない。なぜなら帰りたい場所を見つけてしまった。あなたの傍に。
かつて話していた言葉を忘れれば、あの原風景も消え去るのだろうか。それとも原風景を消してしまえば、言葉も忘れられるのだろうか。どちらが先ともとれない疑問は、結局答えを見つけることができない。だから彼女は、忘れさせてと願いながら、今日も思う。
帰るつもりはひとつもない。あなたの元へ帰りたいから。
忘れたい、忘れさせてと拘泥することこそを、人は望郷と呼ぶのかもしれないけれど。
ひとりきり、暗い海で溺れかけている子どもがいる。
夜、あがくように男の腕が空を切ることを知っている。朝、誰でもない誰かを見つめる黒い目を知っている。昼夜を分かたず、いつくしむ少女の名を呼ぶその声が、自分の名を呼んでくれる時を待っている。
そんなにも好きなら取捨選択をしてしまえばいいのだ、と常々考える。そうして少女を、彼女を、みずからをも、傷つけてしまえばいい。ずたずたに引き裂かれた男に手を差し伸べてやるいつかを想像することで、彼女の芯の部分は熱いため息をこぼしている。
傷つくのは彼だけじゃないんだよ、と数少ない友人たちは口をそろえて忠告してくれる。そも、どうしてあの男に拘泥するのだという根本的な問いかけを、彼女自身が忘れる寸前にくれたりもする。
どうしてと言われてもわからないし、彼女も傷つく羽目になることはもちろんわかっているけれど、それでも欲しいものは欲しい。それはひょっとすると、支配欲じみたものなのかもしれない。まるで男のようではないか、と少し笑う。
――あるいは、男が昔こぼしたセリフが、頭に残っているのかもしれない。
「家族は、自分の弱い場所を見せてもいいひとだと思ってる、俺は」
「恋人は?」
「他に誰もいなくなったら。最後の手段」
「最低」
そう、笑った。
ならばうばってやろうと思う。縋るべき相手をすべてうばい、薄暗い部屋の片隅にうずくまった男を掬い上げてやろう。いや、むしろ引きずり込むのか、彼女の中に巣くう暗い海へと。
これは愛情なのだよと、耳元で誰かが笑った。
――引きずり込まれたのは、どこの幼子だったのだろう。
夜、あがくように男の腕が空を切ることを知っている。朝、誰でもない誰かを見つめる黒い目を知っている。昼夜を分かたず、いつくしむ少女の名を呼ぶその声が、自分の名を呼んでくれる時を待っている。
そんなにも好きなら取捨選択をしてしまえばいいのだ、と常々考える。そうして少女を、彼女を、みずからをも、傷つけてしまえばいい。ずたずたに引き裂かれた男に手を差し伸べてやるいつかを想像することで、彼女の芯の部分は熱いため息をこぼしている。
傷つくのは彼だけじゃないんだよ、と数少ない友人たちは口をそろえて忠告してくれる。そも、どうしてあの男に拘泥するのだという根本的な問いかけを、彼女自身が忘れる寸前にくれたりもする。
どうしてと言われてもわからないし、彼女も傷つく羽目になることはもちろんわかっているけれど、それでも欲しいものは欲しい。それはひょっとすると、支配欲じみたものなのかもしれない。まるで男のようではないか、と少し笑う。
――あるいは、男が昔こぼしたセリフが、頭に残っているのかもしれない。
「家族は、自分の弱い場所を見せてもいいひとだと思ってる、俺は」
「恋人は?」
「他に誰もいなくなったら。最後の手段」
「最低」
そう、笑った。
ならばうばってやろうと思う。縋るべき相手をすべてうばい、薄暗い部屋の片隅にうずくまった男を掬い上げてやろう。いや、むしろ引きずり込むのか、彼女の中に巣くう暗い海へと。
これは愛情なのだよと、耳元で誰かが笑った。
――引きずり込まれたのは、どこの幼子だったのだろう。
It is fool of you.
2004年10月24日 交点ゼロ未満 自分をもっと愛してあげて。私はその余り物でかまわないから。
男が彼の体にひどく無頓着であることは知っていた。もう休めと半ば強制的に言い渡されでもしない限り、いつまでもどこまでもその肉体と脳を酷使する。その様はまるで休息を求めることは罪悪なのだとでも言いたげで、そのくせどこか苦しげでもある。
男がそんなふうだから彼女には明白なレーゾン・デートルがあるのだけれど、疲れきってずたぼろになった男が彼女の元へともどってくる度に、考えるのだ――いっそ自分など童話の人魚姫のように泡となって消えてしまってもかまわない、それで男が『休息』だとか『安らぎ』という言葉を知るのなら。
わずかばかり愛情不足の環境で成長してしまったのだと、男の母親が嘆いたことがある。もっときちんと、例え仕方のない事情があったのだとしても、息子たる男を愛してやるべきだったのだと。普通の親子と言うには少し濃密すぎる母親の愛情表現は、贖罪なのだと知れば自然なことのようにも思えた。
だから、なのだろうか。我が身を省みずに走り続けなくては人の注目を、愛情を集められないとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それはなんと哀しいことなのだろう。
ここにいる、と手を差し伸べてあげたいと思う。それが不可能ならば、せめてそう叫びたい。――ここにいる。あなたを好きな人が。なんらかの方法でこの感情が伝えられたなら、男は立ち止まってくれるのだろうか。
元より返されることなど望んではいない感情だ。けれどうつろな容れ物は注いでも注いでもいっぱいにはならず、むしろそれこそが辛い。内側から修復してくれない限り、男の繊細な容れ物はいつまでもヒビの入ったままだ。想いは泉のように無尽蔵ではないから、きっといつかこんな関係に疲弊して、彼女は壊れてしまうにちがいない。
だからそうなる前に、と願う。
自分をもっと愛してあげて。私はその余り物でかまわないから。
――いっそ与えられなくとも、泣いたりはしないから。
男が彼の体にひどく無頓着であることは知っていた。もう休めと半ば強制的に言い渡されでもしない限り、いつまでもどこまでもその肉体と脳を酷使する。その様はまるで休息を求めることは罪悪なのだとでも言いたげで、そのくせどこか苦しげでもある。
男がそんなふうだから彼女には明白なレーゾン・デートルがあるのだけれど、疲れきってずたぼろになった男が彼女の元へともどってくる度に、考えるのだ――いっそ自分など童話の人魚姫のように泡となって消えてしまってもかまわない、それで男が『休息』だとか『安らぎ』という言葉を知るのなら。
わずかばかり愛情不足の環境で成長してしまったのだと、男の母親が嘆いたことがある。もっときちんと、例え仕方のない事情があったのだとしても、息子たる男を愛してやるべきだったのだと。普通の親子と言うには少し濃密すぎる母親の愛情表現は、贖罪なのだと知れば自然なことのようにも思えた。
だから、なのだろうか。我が身を省みずに走り続けなくては人の注目を、愛情を集められないとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それはなんと哀しいことなのだろう。
ここにいる、と手を差し伸べてあげたいと思う。それが不可能ならば、せめてそう叫びたい。――ここにいる。あなたを好きな人が。なんらかの方法でこの感情が伝えられたなら、男は立ち止まってくれるのだろうか。
元より返されることなど望んではいない感情だ。けれどうつろな容れ物は注いでも注いでもいっぱいにはならず、むしろそれこそが辛い。内側から修復してくれない限り、男の繊細な容れ物はいつまでもヒビの入ったままだ。想いは泉のように無尽蔵ではないから、きっといつかこんな関係に疲弊して、彼女は壊れてしまうにちがいない。
だからそうなる前に、と願う。
自分をもっと愛してあげて。私はその余り物でかまわないから。
――いっそ与えられなくとも、泣いたりはしないから。
君をもっと愛せれば良かった、と彼は言った。抑揚のない声に、不意に欲情した。
普段と変わらない朝が始まった日にこそ、悪いことは起こるものなのだと知っていた。例えば両親が事故で死んだ日だとか、世界のすべてが覆された九月の日だとか、――そうして今度はこれだ。信じないと決めているのに信じてしまうもののひとつに、それらは数えられていた。
ニュージャージーからホランド・トンネルを抜け、対岸のブルックリンまで行く途中のマンハッタン島、キャナル・ストリートからは、今はすでにないWTCの幻が見えるような気もする。こんなよく晴れた夜に、何気なしに空を見上げていると、なおさら。
路上駐車したセダンの横を、やかましくロックをかけた一台が通り抜けてゆく。彼女はふと視線を車内にもどし、運転席でじっと前を見つめる男の横顔を見つめた。助手席と運転席、二人のちょうど真ん中で、遠慮がちに重ねられた手が熱かった。
キスをしてもいいかと男が問うた。彼女はうなずき、それで彼は重ねた手から彼女の腕をたぐり寄せ、壊れ物をあつかうようにそっと抱きしめて唇を重ねてきた。まるで初恋のようにぎこちなく、熱く、それでいながらこれが初恋ではないことを示して、二人はたがいにこのくちづけが最後なのだということを知っていた。
それは貪るようなものではなかったが、だからといって触れるようなものでもなく、丹念に相手を辿るようなそれだった。この女を、この男を、たがいにいつまでも覚えておきたかった――今後も友人として付き合う気でいながら、なお。
一度目のくちづけの後、男は泣き笑いのような歪んだ笑顔で、彼女の頬にかすめるように唇で触れ、そうして再びセダンを走らせ始めた。ウィンドウから外をながめてみたが、もうWTCの幻は見えなかった。繁栄の象徴は、すでに崩れ去って久しい。
「――君を、」
不意に男がつぶやいた。
「君をもっと愛せれば良かった」
その声には抑揚がひとかけらもなく、彼女からうかがえる横顔には表情と呼べるものがなにひとつとして浮いていなかった。
――ああ。
彼女は心中でうめき、男からは見えない角度で、ぽたりと一粒涙をこぼした。
「……そう、ね」
愛している、この男を愛している。こんななんでもないしぐさにさえ、どうしようもなく血を巡らせてしまう自分がその事実を証明している。ならば彼と別れた今夜から、自分はどうすればいいと言うのだろう。
どれほど問いを投げかけても、百万ドルの夜景はひとりぼっちの女には冷たく、答えてくれそうにはなかったのだけれど。
普段と変わらない朝が始まった日にこそ、悪いことは起こるものなのだと知っていた。例えば両親が事故で死んだ日だとか、世界のすべてが覆された九月の日だとか、――そうして今度はこれだ。信じないと決めているのに信じてしまうもののひとつに、それらは数えられていた。
ニュージャージーからホランド・トンネルを抜け、対岸のブルックリンまで行く途中のマンハッタン島、キャナル・ストリートからは、今はすでにないWTCの幻が見えるような気もする。こんなよく晴れた夜に、何気なしに空を見上げていると、なおさら。
路上駐車したセダンの横を、やかましくロックをかけた一台が通り抜けてゆく。彼女はふと視線を車内にもどし、運転席でじっと前を見つめる男の横顔を見つめた。助手席と運転席、二人のちょうど真ん中で、遠慮がちに重ねられた手が熱かった。
キスをしてもいいかと男が問うた。彼女はうなずき、それで彼は重ねた手から彼女の腕をたぐり寄せ、壊れ物をあつかうようにそっと抱きしめて唇を重ねてきた。まるで初恋のようにぎこちなく、熱く、それでいながらこれが初恋ではないことを示して、二人はたがいにこのくちづけが最後なのだということを知っていた。
それは貪るようなものではなかったが、だからといって触れるようなものでもなく、丹念に相手を辿るようなそれだった。この女を、この男を、たがいにいつまでも覚えておきたかった――今後も友人として付き合う気でいながら、なお。
一度目のくちづけの後、男は泣き笑いのような歪んだ笑顔で、彼女の頬にかすめるように唇で触れ、そうして再びセダンを走らせ始めた。ウィンドウから外をながめてみたが、もうWTCの幻は見えなかった。繁栄の象徴は、すでに崩れ去って久しい。
「――君を、」
不意に男がつぶやいた。
「君をもっと愛せれば良かった」
その声には抑揚がひとかけらもなく、彼女からうかがえる横顔には表情と呼べるものがなにひとつとして浮いていなかった。
――ああ。
彼女は心中でうめき、男からは見えない角度で、ぽたりと一粒涙をこぼした。
「……そう、ね」
愛している、この男を愛している。こんななんでもないしぐさにさえ、どうしようもなく血を巡らせてしまう自分がその事実を証明している。ならば彼と別れた今夜から、自分はどうすればいいと言うのだろう。
どれほど問いを投げかけても、百万ドルの夜景はひとりぼっちの女には冷たく、答えてくれそうにはなかったのだけれど。
Foolish games.
2004年10月2日 交点ゼロ未満 天国よりも野蛮なのに、時々世界はうつくしい。
薄く瞼を伏せて狂ったように一途に快楽を追う男を、いつでも可愛らしいと思う。彼に限らず、男などという生き物は、それほど多くと付き合ったわけではないが大抵がそんなものだろう。男の方は、女にそう思われていることに気づこうともしないが。
くふんとかすかに喉を鳴らして笑うと、彼はうかがうようにこちらを見上げ――身体そのものは自分の上に彼がいるのだから、本当は見下ろしてというのが正しいのだろうが、どことなくその視線は母親をうかがう子どものようだった――、ついばむようなキスをよこした。お礼とばかりにぎゅうと首に腕を回してやれば、名前を呼んでくれもする。決して低いとは言えない、むしろ同じテノールでも高めの彼の声が、好きだ。
別に声に限った話ではなく、東洋人ゆえの細身の身体や、あるいはこれは彼個人の資質なのかもしれないが、ふとした瞬間に垣間見えるこまやかさにこそ、異性を感じた。引く手は数多、とは言わないまでも選り好みできる程度にはいた。だがそれでもなお――彼が良かったのだ。いささか神経質な、おそらくはそれゆえにひどく切れる男が。
だから今が幸せだ。例え世界のどこかで今も戦争が起こっていて、自分たちもその当事者でないとは言い切れず、飢えや病気や災害やその他のもっとひどいことで死ぬ子どもがいて、身近で大切な人の死や苦しみに泣き叫ぶ人々がいることを知っていたとしても、……幸せだ。少なくとも世界の片隅の暗い一部屋には、絶望など転がってはいない。
なんと傲慢で、目の前の明るい欺瞞だけを見つめていることだろう。だけでなく、正義という名の目隠しはすでにほころびて久しく、明日はもはや信じられるものではない。こんなことが幸せだというのなら、相当に病んでいる。
だが、
「俺は、君を愛してる」
あなたがこうしてここにいるのなら、
「ええ。……私も愛してる」
世界はそれだけでうつくしい。
うつくしいすべては恐ろしさの前兆だと、誰かが言った。
薄く瞼を伏せて狂ったように一途に快楽を追う男を、いつでも可愛らしいと思う。彼に限らず、男などという生き物は、それほど多くと付き合ったわけではないが大抵がそんなものだろう。男の方は、女にそう思われていることに気づこうともしないが。
くふんとかすかに喉を鳴らして笑うと、彼はうかがうようにこちらを見上げ――身体そのものは自分の上に彼がいるのだから、本当は見下ろしてというのが正しいのだろうが、どことなくその視線は母親をうかがう子どものようだった――、ついばむようなキスをよこした。お礼とばかりにぎゅうと首に腕を回してやれば、名前を呼んでくれもする。決して低いとは言えない、むしろ同じテノールでも高めの彼の声が、好きだ。
別に声に限った話ではなく、東洋人ゆえの細身の身体や、あるいはこれは彼個人の資質なのかもしれないが、ふとした瞬間に垣間見えるこまやかさにこそ、異性を感じた。引く手は数多、とは言わないまでも選り好みできる程度にはいた。だがそれでもなお――彼が良かったのだ。いささか神経質な、おそらくはそれゆえにひどく切れる男が。
だから今が幸せだ。例え世界のどこかで今も戦争が起こっていて、自分たちもその当事者でないとは言い切れず、飢えや病気や災害やその他のもっとひどいことで死ぬ子どもがいて、身近で大切な人の死や苦しみに泣き叫ぶ人々がいることを知っていたとしても、……幸せだ。少なくとも世界の片隅の暗い一部屋には、絶望など転がってはいない。
なんと傲慢で、目の前の明るい欺瞞だけを見つめていることだろう。だけでなく、正義という名の目隠しはすでにほころびて久しく、明日はもはや信じられるものではない。こんなことが幸せだというのなら、相当に病んでいる。
だが、
「俺は、君を愛してる」
あなたがこうしてここにいるのなら、
「ええ。……私も愛してる」
世界はそれだけでうつくしい。
うつくしいすべては恐ろしさの前兆だと、誰かが言った。
Not enough to touch.
2004年9月7日 交点ゼロ未満 遠慮がちに指先を伸ばしたのは、おそらく自分の方が先だった。
「ダニエルは、ヘルガが好き?」
意味合いがちがっていると知りながらわざとlikeという動詞を使ったのは、そちらの方が彼が答えやすいだろうと思ったからだ。英語という言語にうとい少女の他愛もない問いかけなど、たやすくごまかせると彼は思っているのだろうが、そうはいかない。男の浅知恵など、十を越えれば女にはすぐわかるものだ。
できる限りのあどけなさを装って小首をかしげると、彼は笑ってああ、とうなずいた。
「好きだよ。お前も好きだろ?」
「うん――」
ほとんどいつもと変わらない笑みの中に、かすかな引きつりと赤く染まった耳朶を見たのは、たぶん気のせいではなかっただろう。
なにか唐突にいたたまれなくなって、きゅ、と唇をかみしめながら視線を落とした。持ち上げたコーヒーカップの縁をせわしなくなぞる彼の指先は、力仕事には向いておらず細いが、やはり男なのだ、どことなくごつごつしていて骨張り、節がちだった。
――ああ、あの指先に触れたら。
きっと自分の胸はどうしようもなく高鳴って、いっそ痛いほどになるのだろう。壊れてしまえば楽なのにとさえ、考えるほど。
そう思ったらなぜか息苦しくなって手がふるえた。泣きたいのかもしれない、とふと思う。現に目の下の辺りが熱い。
あわててもう寝るね、と言って部屋に駆け込み、ドアを乱暴に閉めて鍵をかけた。案の定だ、ぱたぱたと床に水の雫がこぼれている。ドアを背もたれに力無く寄り掛かって、天井を見上げる。涙がこぼれないように。
なんて遠いんだろう、と思った。あの男と自分は、あまりにも遠い場所にいる――その距離は指先を伸ばしても届かないほどで、だから手に入れることはできなかった。けれども涙が出るのはだからではない。
腕を伸ばしさえすれば、届いた。
事実そうして彼を手に入れた人がいる。遠すぎる、と信じ込んで自分が伸ばすことをあきらめた腕を、ためらいなく差し伸べた人がいた。自分が指先をためらいがちに伸ばすきりで満足してしまったことが、悔しかった。だから泣くのだ。
あぁ、と小さな喘ぎがこぼれた。この世界はなんて苦しいんだろう。こまねいた指先を胸の中にもどすこともできずに、ただこの手に触れてと願うばかりのこの世界は。
ありがたいことに、ドアの外の世界にいる彼は、なにひとつとして気づいてはいなかった。
「ダニエルは、ヘルガが好き?」
意味合いがちがっていると知りながらわざとlikeという動詞を使ったのは、そちらの方が彼が答えやすいだろうと思ったからだ。英語という言語にうとい少女の他愛もない問いかけなど、たやすくごまかせると彼は思っているのだろうが、そうはいかない。男の浅知恵など、十を越えれば女にはすぐわかるものだ。
できる限りのあどけなさを装って小首をかしげると、彼は笑ってああ、とうなずいた。
「好きだよ。お前も好きだろ?」
「うん――」
ほとんどいつもと変わらない笑みの中に、かすかな引きつりと赤く染まった耳朶を見たのは、たぶん気のせいではなかっただろう。
なにか唐突にいたたまれなくなって、きゅ、と唇をかみしめながら視線を落とした。持ち上げたコーヒーカップの縁をせわしなくなぞる彼の指先は、力仕事には向いておらず細いが、やはり男なのだ、どことなくごつごつしていて骨張り、節がちだった。
――ああ、あの指先に触れたら。
きっと自分の胸はどうしようもなく高鳴って、いっそ痛いほどになるのだろう。壊れてしまえば楽なのにとさえ、考えるほど。
そう思ったらなぜか息苦しくなって手がふるえた。泣きたいのかもしれない、とふと思う。現に目の下の辺りが熱い。
あわててもう寝るね、と言って部屋に駆け込み、ドアを乱暴に閉めて鍵をかけた。案の定だ、ぱたぱたと床に水の雫がこぼれている。ドアを背もたれに力無く寄り掛かって、天井を見上げる。涙がこぼれないように。
なんて遠いんだろう、と思った。あの男と自分は、あまりにも遠い場所にいる――その距離は指先を伸ばしても届かないほどで、だから手に入れることはできなかった。けれども涙が出るのはだからではない。
腕を伸ばしさえすれば、届いた。
事実そうして彼を手に入れた人がいる。遠すぎる、と信じ込んで自分が伸ばすことをあきらめた腕を、ためらいなく差し伸べた人がいた。自分が指先をためらいがちに伸ばすきりで満足してしまったことが、悔しかった。だから泣くのだ。
あぁ、と小さな喘ぎがこぼれた。この世界はなんて苦しいんだろう。こまねいた指先を胸の中にもどすこともできずに、ただこの手に触れてと願うばかりのこの世界は。
ありがたいことに、ドアの外の世界にいる彼は、なにひとつとして気づいてはいなかった。
A letter is forever.
2004年9月5日 交点ゼロ未満 遠い国にいる男からの手紙を、彼女はとっさに視線から外した。
帰りたい。それは、許されないことだ。
たくさんのダイレクトメールにまぎれて、その日彼女の家のポストには、一通の封書が入っていた。表書きにはたしかに彼女の住所と名前、そしてAir-Mailの文字が見える。そこまで来れば彼女には、もはや裏側を見なくとも差出人の予想がついた。今は仕事で遠い国に行っている、同僚の男からの手紙だ。
いつもは手軽にEメールで済ませるくせに、めずらしいこともあるものだと妙に感心して、彼女はその手紙をバッグにつっこんだ。この場で開封している暇はない。今朝は少しばかり、忙しいのだ。
シボレーのエンジンを吹かし、マンハッタン島に渡ってオフィスにすべりこみ、早朝のミーティングを終えてようやくデスクにつく。そのころには少し時間もできていて、彼女はようやくバッグの中の手紙を思い出した。周囲を見回し、今日はそれほど忙しくもなさそうだということを確認してから、ペーパーナイフでていねいに封を切る。
てっきり数枚にわたる文章を予測していた彼女は、しかし推測を裏切られることとなった。封筒の中には小さな紙切れが、一枚ひらりと入っていたきりだった。なにか嫌な予感がする。彼女は眉をひそめて、その紙切れをつまみあげた。
――帰りたい。
署名もなく、他に伝えるべきことなどなにひとつとして持ち合わせていないかのように、ただ紙にはそれきりが書かれていた。帰りたい、おそらく唯一の願いが。
不意にめまいを感じ、彼女は額を押さえた。帰りたい、そんなことは国から離れれば、誰でも願うことだ。だがこと男に関して言えば、今までそんな泣き言を一度も聞いたことがなかった。
なにかがあったというのだろうか。だけれども、
「どうにもならないわよ……」
自分にはなにひとつとしてできることがない。男を呼び戻すことも、帰りたい、ここは辛いと嘆く心を抱きしめてやることも。
ただ、たったひとつこの国から男にしてやれることと言えば。
きゅ、と唇をかみしめて、彼女はペン立てから万年筆を取り上げ、デスクの引き出しから封筒と上質な便せんを出した。署名もなにもなく、男のように、ただ伝えたい言葉だけをひとつ、そこに記す。
――泣かないで、待ってるから。
無力な自分が、ひどく歯痒かった。
帰りたい。それは、許されないことだ。
たくさんのダイレクトメールにまぎれて、その日彼女の家のポストには、一通の封書が入っていた。表書きにはたしかに彼女の住所と名前、そしてAir-Mailの文字が見える。そこまで来れば彼女には、もはや裏側を見なくとも差出人の予想がついた。今は仕事で遠い国に行っている、同僚の男からの手紙だ。
いつもは手軽にEメールで済ませるくせに、めずらしいこともあるものだと妙に感心して、彼女はその手紙をバッグにつっこんだ。この場で開封している暇はない。今朝は少しばかり、忙しいのだ。
シボレーのエンジンを吹かし、マンハッタン島に渡ってオフィスにすべりこみ、早朝のミーティングを終えてようやくデスクにつく。そのころには少し時間もできていて、彼女はようやくバッグの中の手紙を思い出した。周囲を見回し、今日はそれほど忙しくもなさそうだということを確認してから、ペーパーナイフでていねいに封を切る。
てっきり数枚にわたる文章を予測していた彼女は、しかし推測を裏切られることとなった。封筒の中には小さな紙切れが、一枚ひらりと入っていたきりだった。なにか嫌な予感がする。彼女は眉をひそめて、その紙切れをつまみあげた。
――帰りたい。
署名もなく、他に伝えるべきことなどなにひとつとして持ち合わせていないかのように、ただ紙にはそれきりが書かれていた。帰りたい、おそらく唯一の願いが。
不意にめまいを感じ、彼女は額を押さえた。帰りたい、そんなことは国から離れれば、誰でも願うことだ。だがこと男に関して言えば、今までそんな泣き言を一度も聞いたことがなかった。
なにかがあったというのだろうか。だけれども、
「どうにもならないわよ……」
自分にはなにひとつとしてできることがない。男を呼び戻すことも、帰りたい、ここは辛いと嘆く心を抱きしめてやることも。
ただ、たったひとつこの国から男にしてやれることと言えば。
きゅ、と唇をかみしめて、彼女はペン立てから万年筆を取り上げ、デスクの引き出しから封筒と上質な便せんを出した。署名もなにもなく、男のように、ただ伝えたい言葉だけをひとつ、そこに記す。
――泣かないで、待ってるから。
無力な自分が、ひどく歯痒かった。
膝を抱えてうずくまっている。抱きしめてくれる腕がない。
おかあさん。
暑くもなく涼しくもない、風の止んだなまぬるい日は、決まって馬鹿みたいな妙な夢を見る。記憶にも残っていない、子どものころのことだ。
両親の離婚はひどくあっさりしていて、子ども心にもそんなに適当でいいのだろうかと思ったことがある。ただ、後々なんとなく理解はできた――二人は互いがきらいになったわけではなく、単にどうしてもゆずれない意見の相違があっただけなのだと。
それでも母は生まれた国へと帰り、父は彼を可愛がってはくれたものの元から仕事への情熱が偏りぎみな人で、……つまるところ、子どもはひとりきりで残された。広い家にひとりきりで。
幸い、と言えるのかどうかはわからないが、ともかく一年ほど後には養母が家にやってきたし、彼女は前の妻の置き土産にきちんと愛情を注いでくれた。だけれども、部屋のすみに膝を抱えてうずくまり、母の腕を求めてなにもない空間を見つめ続けた子どもには、あいにくとその愛情は遅すぎた。
行為の後のわずかな眠りの最中にうなされる男を起こす度に、馬鹿な夢を見たと言う。なんの夢かと問うても答えてはくれない。ただあいまいに笑って、馬鹿な夢、とだけ繰り返す。
まったく関係のない会話の中で一度だけ、冗談めかして欠乏症なのかも、と彼が言ったことがある。ビタミンが不足しているとか睡眠が不足しているとかいうのを話題にするのと同じレベルで、彼は愛情が不足している、とこぼした。
冗談を真実と受け止めて、さらにそれを自分の中で憐れみという感情に昇華させるまで、それほど時間はかからなかった。その理由はわからない。ただ、ラベルを貼るのなら、『情愛』というそれが一番ふさわしいような気がしていた。
「今は不足してないでしょ?」
そう微笑んで抱きしめたその日から、案の定男はうなされることがなくなった。代わりにまるで嬰児のように丸まって、一番手近なぬくもりにすがりつくようにして眠る。
おかあさん、とわずか切なげに寝言をささやいた彼に、彼女はだいじょうぶ、と答え、寝ぼけた腕でそっと子どもを抱きしめた。
おかあさん。
暑くもなく涼しくもない、風の止んだなまぬるい日は、決まって馬鹿みたいな妙な夢を見る。記憶にも残っていない、子どものころのことだ。
両親の離婚はひどくあっさりしていて、子ども心にもそんなに適当でいいのだろうかと思ったことがある。ただ、後々なんとなく理解はできた――二人は互いがきらいになったわけではなく、単にどうしてもゆずれない意見の相違があっただけなのだと。
それでも母は生まれた国へと帰り、父は彼を可愛がってはくれたものの元から仕事への情熱が偏りぎみな人で、……つまるところ、子どもはひとりきりで残された。広い家にひとりきりで。
幸い、と言えるのかどうかはわからないが、ともかく一年ほど後には養母が家にやってきたし、彼女は前の妻の置き土産にきちんと愛情を注いでくれた。だけれども、部屋のすみに膝を抱えてうずくまり、母の腕を求めてなにもない空間を見つめ続けた子どもには、あいにくとその愛情は遅すぎた。
行為の後のわずかな眠りの最中にうなされる男を起こす度に、馬鹿な夢を見たと言う。なんの夢かと問うても答えてはくれない。ただあいまいに笑って、馬鹿な夢、とだけ繰り返す。
まったく関係のない会話の中で一度だけ、冗談めかして欠乏症なのかも、と彼が言ったことがある。ビタミンが不足しているとか睡眠が不足しているとかいうのを話題にするのと同じレベルで、彼は愛情が不足している、とこぼした。
冗談を真実と受け止めて、さらにそれを自分の中で憐れみという感情に昇華させるまで、それほど時間はかからなかった。その理由はわからない。ただ、ラベルを貼るのなら、『情愛』というそれが一番ふさわしいような気がしていた。
「今は不足してないでしょ?」
そう微笑んで抱きしめたその日から、案の定男はうなされることがなくなった。代わりにまるで嬰児のように丸まって、一番手近なぬくもりにすがりつくようにして眠る。
おかあさん、とわずか切なげに寝言をささやいた彼に、彼女はだいじょうぶ、と答え、寝ぼけた腕でそっと子どもを抱きしめた。
初めて出会った時からずっと、ひとりきりで歌をうたっている。
学校にいても家にいても、どころか友達と映画やモールに行っていてさえ、気づくと指先が単調なリズムを打っている。何それ、いつから、とみんな聞くけれど、思い出してみればもうそれはずっと前、たしか養父に引き取られた直後辺りからのくせだったように思う。
たん、たたん、たん、た。
別にこのリズムに意味があるわけではなくて、手についてしまっただけの話だ。けれども気づけば合わせて、なんのともつかないメロディを口ずさんでいる自分がいたりして、それも妙な話ではある。
これは歌なのだと気づいたのは、なんだか少し痛いような痒いような、それでいながら幸せな感情とともに養父を見つめるようになった――つまり、十六の誕生日を迎えたころだっただろうか。
単調なリズムの、どうしても止めることのできない歌。その歌はとても不思議なところがあって、養父が笑ってくれたりなにかうれしいことを言ってくれたりすると、とたんに速いリズムの、軽い音になる。そんな時はまるで彼もどこかでこの歌を奏でているのではと、あらぬことを思ってしまうくらいだ。
他の人もそうなのかなぁ、とぼんやり考えて、ある日一番親しい友達に聞いてみた。そんなふうになることはないか、と。
「それ、恋って言うんだと思うけど」
あっさりと単純明快な、それでいながら承伏しがたいような答えをくれた彼女にはそんなことないと言ったけれど、後から考えてみてどうにもすとんと納得してしまった。なるほど、養父が笑うから、この歌が楽しげになるのだと――それが恋以外の、一体なんだというのだろう。
ああ、恋ってそんなものだったんだと、理解したのは十六の夏だった。
学校にいても家にいても、どころか友達と映画やモールに行っていてさえ、気づくと指先が単調なリズムを打っている。何それ、いつから、とみんな聞くけれど、思い出してみればもうそれはずっと前、たしか養父に引き取られた直後辺りからのくせだったように思う。
たん、たたん、たん、た。
別にこのリズムに意味があるわけではなくて、手についてしまっただけの話だ。けれども気づけば合わせて、なんのともつかないメロディを口ずさんでいる自分がいたりして、それも妙な話ではある。
これは歌なのだと気づいたのは、なんだか少し痛いような痒いような、それでいながら幸せな感情とともに養父を見つめるようになった――つまり、十六の誕生日を迎えたころだっただろうか。
単調なリズムの、どうしても止めることのできない歌。その歌はとても不思議なところがあって、養父が笑ってくれたりなにかうれしいことを言ってくれたりすると、とたんに速いリズムの、軽い音になる。そんな時はまるで彼もどこかでこの歌を奏でているのではと、あらぬことを思ってしまうくらいだ。
他の人もそうなのかなぁ、とぼんやり考えて、ある日一番親しい友達に聞いてみた。そんなふうになることはないか、と。
「それ、恋って言うんだと思うけど」
あっさりと単純明快な、それでいながら承伏しがたいような答えをくれた彼女にはそんなことないと言ったけれど、後から考えてみてどうにもすとんと納得してしまった。なるほど、養父が笑うから、この歌が楽しげになるのだと――それが恋以外の、一体なんだというのだろう。
ああ、恋ってそんなものだったんだと、理解したのは十六の夏だった。
The Foreign Country.
2004年8月8日 交点ゼロ未満 低い空調の音が耳に触る。ちっとも冷えない部屋の空気に、じっとりと身体が濡れた。
……暑い。こんな暑さは、知らない。
朝出かける前に天気予報を聞かなくなった。理由は簡単で、ここには天気などひとつきりしかないからだ――晴天。それも忌々しくなるほどの。
くだらないことなのだけれど、妙にそれがここは異国の土地なのだと彼に知らしめて、なんとも不思議な気分にさせる。もっと言ってしまえば、胸を悪くさせる。熱気に当てられて体調を崩したまま、すでに一ヶ月と半ほどを過ごしていた。
ああ、こんな時に、たとえば体調が悪いんじゃない、休めば、と忠告してくれる友人だとか、無理矢理体温計を押しつけて大丈夫、と舌足らずに言ってくれる少女だとかがいればいいのに。そうすれば、自分はなにひとつとして気兼ねなくベッドにもぐり込んでいられるのに。
だんだんと部屋の外は騒がしくなっていたが、あいかわらず耳に入る音の中で一番目立つものは、空調の気が滅入るような音ばかりだった。同居人の少女にはまったく見せることのできない下着だけのだらしのない格好で、ベッドを転がってうめく。気分が悪い。
何故なのか、今朝はことさら母国にもどりたいと思った。夏とは言っても日陰に入れば涼しく、冬には雪さえ降る、なによりもきちんと天気予報のあるあの国に帰りたい。
ホームシックなんて子どもみたいだ、と思いながら、彼はなんとか気合いを入れて起き上がった。暑さを言い訳に、仕事をさぼることはできない。
空調はちっとも利かずに、肌を汗で濡らしていた。
……暑い。こんな暑さは、知らない。
朝出かける前に天気予報を聞かなくなった。理由は簡単で、ここには天気などひとつきりしかないからだ――晴天。それも忌々しくなるほどの。
くだらないことなのだけれど、妙にそれがここは異国の土地なのだと彼に知らしめて、なんとも不思議な気分にさせる。もっと言ってしまえば、胸を悪くさせる。熱気に当てられて体調を崩したまま、すでに一ヶ月と半ほどを過ごしていた。
ああ、こんな時に、たとえば体調が悪いんじゃない、休めば、と忠告してくれる友人だとか、無理矢理体温計を押しつけて大丈夫、と舌足らずに言ってくれる少女だとかがいればいいのに。そうすれば、自分はなにひとつとして気兼ねなくベッドにもぐり込んでいられるのに。
だんだんと部屋の外は騒がしくなっていたが、あいかわらず耳に入る音の中で一番目立つものは、空調の気が滅入るような音ばかりだった。同居人の少女にはまったく見せることのできない下着だけのだらしのない格好で、ベッドを転がってうめく。気分が悪い。
何故なのか、今朝はことさら母国にもどりたいと思った。夏とは言っても日陰に入れば涼しく、冬には雪さえ降る、なによりもきちんと天気予報のあるあの国に帰りたい。
ホームシックなんて子どもみたいだ、と思いながら、彼はなんとか気合いを入れて起き上がった。暑さを言い訳に、仕事をさぼることはできない。
空調はちっとも利かずに、肌を汗で濡らしていた。
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