梅雨の合間に顔を出した太陽はここぞとばかりに張り切って、昨日の午後からずっとよく晴れた、暑い陽気が続いている。グレイ・トーンの雨模様では蛍光塗料でも混ぜているのかと見まがうばかりに色鮮やかな紫陽花は、青空の下ではいまひとつ目を引かず、しおたれて見えた。
 水をやらないとかわいそうだろう、と言ったのは伯父だっただろうか。自分の家と伯父の家の周りに、まるで垣根のように植えられたたくさんの紫陽花に、二人で水やりをしたことを思い出す。
 井戸から大きなバケツに水を汲んでくるのは、自分の役割だった。他の大人たちはいつもそういう時に魔法を使ってみなさい、できないわけがないでしょうと言ったけれど、両親と伯父夫婦だけはそういう意地悪なことを言わなかったから、いつでも安心していられた――ことに伯父は、自分のやることをなんでも少し笑いながら褒めてくれた。
 そうして顔を真っ赤にして運んだ水を、伯父が魔法で紫陽花に分け与えてやる。伯父がにっこり笑って指先をちょっと動かすと、たぷん、とバケツの中から大きな水球が飛び出してくる。それはきらきらと太陽の光を乱反射させながら頭の高さよりも少し上までするすると上がって行って、伯父がもう一度指をくいっと動かすと、ぱちんと音を立てて弾けるのだ――シャワーのような大粒の霧のような水は、そんなふうにやさしく紫陽花に降り注いだ。
 時々元気の良い雫たちが髪や服を濡らしたけれど、伯父は自分が濡れてしまっても、けらけらと笑うばかりで悪戯好きな精霊たちをとがめようとはしなかった。むしろ自らすすんで全身に水を受けるような、子どもっぽい真似をする人だった。
 水まきのお礼にもらうよと紫陽花に断って、彼の分と自分の分、一枝ずつきれいな赤紫と水色の花を折り取ってくれたのも伯父だったし、土の性質によってその花の色が変わるのだということを教えてくれたのも伯父だった。自分と同じようにうまく魔法を使えない伯父が、強い父や兄よりもずっと礼儀正しくて博識だったことに驚いたことを覚えている。
 思えばそれは出来損ないの哀れな子どもが、一族の前で恥をかかないようにと考えてのことだったのだろう。己が強くあるがゆえに、父や兄はそうしたことには無頓着な人びとだったから――せめて同じ重荷を背負う自分が、と。

 「なぁに笑ってんだよ、お前は」
 頭にぽんとつばの大きな麦藁帽子をのせられて、そのままわしわしと帽子ごと頭をかき回される。きゃー、とそれほど嫌そうにも聞こえない悲鳴を上げてバケツの水を背後にぶちまけると、うわぁっとこちらは本当に嫌そうな悲鳴が聞こえた。
「うわー、ルグ君水も滴るいい男っ☆」
「待て、こら蒼呼ッ!」
 お返しとばかりに赤毛の青年は手近にあったバケツ――それにはなみなみと水を汲んであった――を引っつかみ、きゃらきゃらと笑い転げる少女に向けて、遠慮なく中身をぶちまけた。ざぱん、と大きな音を立てて、目を丸く見開いた濡れ狐が一匹出来上がる。青年はその様子に、してやったりと声を上げて笑った。

 大騒ぎを繰り広げる二人の隣で水をたっぷりともらった紫陽花は、初夏の暑さにも負けじと咲き誇っていた。
 大体において人間贔屓で、夜な夜な街に下りて酒場だのなんだので遊び回る親友が、生涯で一度だけ人を殺したことがある。それはいつものことではあるが、自分と彼だけの秘密だった。

 蒼河がどこにいるのかを探し当てるのはいつも自分の役割で、それは他の誰かが彼を探しに出かけてもさっぱり――それはもう確信犯的に――姿を見せないからだが、今度ばかりは羽水も二の足を踏んだ。蒼河の行き先がわからなかったからではない。ただ、彼を探し当ててしまうことが怖かったからだ。
 だが――そう、血の匂いがする。半ば確信に近い予想を、その匂いが後押しした。
 一族の優美な銀の毛皮を狙う狩人は、めずらしくもない。だが今回は運が悪かった。
 子どもが攫われた。蒼河はそれを追って外の森に出た。幼馴染みの親友は、周囲から思われているほど気長でも平和主義者でもない。むしろ血が濃い分、あれの本質はケダモノに近い。羽水はひそかに、哀れな狩人の無事を祈った。
 森には何箇所か、ぽっかりと広場のような空間ができている。血の匂いを辿り、勘とともに急く足を進めると、羽水はそのひとつに出た――禊ぎの泉が湧く場所だ。水際にはくったりと気を失った子どもが倒れ、その子の顔にこびりついた血を、これまた血で汚れた指先で蒼河が拭っていた。
「――どこに放ってあるんだ」
「そこの藪抜けたところ。もう死んでるよ、魔法使うほどもなかった」
 そういうことを言いたいんじゃない、と怒鳴りたかったが、よくよく見れば手も着ていた服もべっとりと血で汚した蒼河は、その匂いに滾るでもなくむしろ呆けた顔をしていた。子どもに飛んだ血を拭っているかと見えた行為も、どうやら手慰みでしかなかったらしい。それで羽水は、すぐそこまで出しかけた罵声をどうにか胃の奥に押し込んだ。
「手、洗え。そんな手で拭いたんじゃ余計汚れる」
 言いながら乱暴に手首をつかむと、初めて子どもに触れていたことに気づいたとばかり、蒼河は目を瞬かせた。ああ、うん、そうだね、とぼやきながら、ぱしゃんと泉に手を突っ込む。羽水は羽水で袖を少しだけ濡らして、子どもの顔を拭ってやった。
「――ねえ羽水。思い出したんだけどさ、僕、人を殺したのは初めてなんだ」
 多分これが最後だとも思うんだけど、と普段饒舌な親友がめずらしく回りくどい。蒼河の言いたいことなど元からわかりすぎるほどにわかっていたから、羽水は口の端をゆがめて笑った。
「俺とお前の秘密なんだろ?」
 瞬間、実にあどけなく笑った蒼河の手は、水の中でまだ赤い色をしていた。

 死体は森の、村から離れたところに二人で穴を掘って埋めた。血で汚れた服は羽水が燃やした。子どもの記憶は蒼河が消した。
 そうしてその日の出来事は、かつてとこれからのいくつかと同じ、二人だけの秘密になった。
 生まれ変われません あなたがいないから この世はひとり

 「双子……みたいなものだな、うん」
 自らも二つに分かたれたもののひとつであった父は、そう言って香月にとってのいとこを、また彼自身にとっての幼馴染みを表した。
 どちらか片方では生きてゆけない。どちらが依存しているのでもない。そう思えるほどのひとつが、感情論ではなくただ事実としてあるのだと言う。だがだとすれば、二つで一対を成す自分たちは、どちらか片方が欠けても生きてゆける双子などより、よほど強い結びつきを持っているのではあるまいか。香月はそう思う。
 母が――つまり父にとっての妻が――いなくても、生きてゆける。でも幼馴染みが死んでしまったら、きっと自分は空っぽになる。父は同じ片割れを持つ香月にそんな教えなくとも良いことを教えて、いつか訪れるかもしれないその日に対しての恐れを、娘に抱かせた。
 時間も、神も、愛しい人も、なにひとつとしてその空白を埋められるものではない。先と後とで分かたれて死んでしまったのなら、輪廻転生に組み込まれる手前で立ち尽くして待つしかない。お互いが、そういう存在だった。

 なぜなのだろう、先に逝ったはずのいとこはけれどまだ来てはいなくて、銀色にきらめく草原で、香月はずっと彼を待っている。
 いつだっただろう、ごく最近だったかもしれないし、もうずっと前だったような気もするが、叔父がひとりきりでとぼとぼとやってきたことがある。父は、と問うと、まだ、とだけ答えて、叔父はそのままそこにすわりこんでしまった。なるほど、『空白』というのはこういうことなのだろうと、香月はなんとなく理解した。
 父がやってきたのはそれからずいぶんと経ってからのことで、ただ思いの強さでのみこの草原へと足を踏み入れた父は、叔父を見つけるや否や草を揺らす風よりも早くこちらへと駆け寄ってきた。
 ――時間も、神も、愛しい人も、なにひとつとしてその空白を埋められるものではない。父にとってのその空白を埋めるものの元へ、ただ一直線に。
 そうして二人は揃って、神の回す輪廻へと旅立った。次の人生でも彼らはふたつに分かたれるのか、それともひとりの独立した人になるのか、……どちらかといえば、二つになるものたちの運命は、もうずっと決まり切って二つになるような気がしたけれど。
 叔父と同じようにその場にすわりこんで、此岸――いや、今や自分のいる方が此岸なのだから、あちらは彼岸になるのだろうか――をぼんやりとながめる。いまだいとこの影すら見えぬあちら側の陽炎に、香月はほぅとためいきをついた。
 あなたを愛してはいるけど、たったひとつのものじゃないの。そう告げると、夫は笑って僕も同罪だからね、と言った。

 夫にとっての、自分の兄。息子にとっての、姪。あるいはその逆も然りで、彼らに彼らの唯一のものを尋ねたら、互いの名前が返ってくる。そんなことは知っていた。
 そもそも夫の『唯一』が妻たる自分ではないという時点でなにか間違っている気もするのだが、では自分の『唯一』はなんなのだろうと考えてみると、これが周囲にはいまひとつ思い当たらない。
 夫は強い人だし時折甘えたがりではあるけれど、甘やかすのは兄の役割だから、愛おしくは思ってもそれだけだ。息子はこれが夫の血を引いたらしく、どうも親から若くして自立しているし、娘は息子――彼女にとっての兄――に依存して、両親を顧みようともしない。
 ただ、実の兄については、いまだに少しばかり拘泥していないでもない。それはおそらく、彼が水に愛されているからなのだろう。

 昔、村外れの川辺に住んでいた自分たち一家にとって、同じ一族とはいえ月を唯一絶対神と崇める人々はどこか異質だった。異質たるものの頂点に交わった今ならば、わかる。あのころ、異質だったのは彼らではなく、水を盟友とする他ならぬ自分たちだった。
 盟友、イコール水守の家系の純血――それはたしかに力無い血ではあったが、一族の頂点の血筋と同じぐらい濃く練り込まれていた――を受け継いだ両親たちは、お互いを『唯一』とは見ていなかった。彼らの思いの丈を注ぐべき対象は水だった。彼らの子どもである自分たちもまた水に愛されたのは、だから当然のことだったのだ。
 愛されれば、愛さざるを得ない。
 ことに他に想いを寄せるべき相手がいなかった自分の中で、水は確固たる地位を築いて行った――けれども、兄。彼は自分よりもなお水に愛されていながら、彼らを唯一の友とはしなかった。兄を奪い取って放さない男がいた。それが、夫だ。
 夫となった男は考えてみれば哀れな人で、兄以外に縋る相手が誰一人としていなかった。だから自然と彼の『唯一』は兄になったのだろう。そうして兄もまた、男を自らの『唯一』と定めたのだ。
 愛している、だから愛されたいのだと嘆く水に、囁いたのはまだ少女のころだった。――私にとって、他に大切なものはなにもない。
 歪な相互関係は、こうして始まったのだった。

 愛している、けれどたったひとつには成り得ない。それは、兄が水たちに告げたと同じ、残酷な言葉だった。
 僕が月なら羽水は星だ、なんて馬鹿げたことを言うから、いい年した男が馬鹿らしい、と怒ってやった。

 月がなくては生きてはいけない種族だから、住まう惑星よりも小さい、時によって金や銀や赤に色を変える衛星の必要性は認めている。というよりもむしろ、科学的な価値以上のものを、そこに置いている。だが、その他の星となると、もうなんのためにそこにあるのだかわからない。
 自分の存在というのは要するにそういう、実に役に立たないものなのだと、羽水はしばしば思う。実際、家柄も良く力もある親友の傍にいると、いつでも自分は添え物扱いだ――それを恨んだことは、滅多にないが。
 少年期にありがちな憂鬱と言ってしまえばそれまでだが、羽水の場合は根が深い。なにしろ大して長くもない人生のほとんど、というよりすべてに、親友の存在があったのだから。
 その、嫌味なくらいに欠点のない親友は、机を並べて星々の勉強をしている時に、それじゃあ僕は月かなぁ、とぼんやりつぶやいた。あながち外れてもいないから逆に腹が立つ。ああそうだな、と投げやりな返事をしただけで、羽水は彼から視線を外した。彼を見ていると、ひどいことを怒鳴りつけてしまいそうだったので。
「……なんか怒ってない、羽水?」
 ところがしばらくして、親友はまるで恐る恐ると言ったふうにこちらを見上げてきた。羽水はひく、と喉が震えるのを――図星だったが故に――感じたが、視線を手元に落としたまま首を横にふった。
「怒ってない」
「嘘だ、声が怒ってる」
「怒ってない」
「羽水ー、機嫌直そうよ、ほら」
 ぷつ、となにかの切れる音を、羽水はどこかで聞いたような気がした。
「機嫌直せって言うならお前が黙れ、蒼河!」
 言ってしまってから、しまったこんな口を利くものではないと思ったが、遅かった。結局引っ込みがつかずに羽水は曖昧に視線をうろつかせ、再び手元の星座図に見入る。月のない星空は、なんだかひどく空虚に見えた。
「……別に、自慢しようとか思ったんじゃないんだけどさ」
 目もくれない羽水を伺い、遠慮するようにぽつぽつと親友が言う。
「僕はさぁ、月よりも星の方がすごいと思うんだよ。星はあんなに遠くにあるのに、ここからだって見える。でも月は――近いから見えるだけで」
 羽水はあいかわらず黙っていたが、わずかに肩を揺らして先をうながした。どうしてなのだろう、強い親友は、何故かいつでも羽水に疎まれることこそを恐れているようだった。今も、そうだ。
「羽水はすごいよ。僕は羽水みたいにはなれない。僕は、僕が霧生蒼河でちょっと力が強いから、月みたいに見えるだけなんだ」
 だから、とひどく弱々しい声で親友が喘ぐ。羽水が心配になって顔を上げると、正面で彼は笑っていた。
「僕が月なら、羽水は星だ」

 ――馬鹿らしい、星はいつでも月に憧れていると言うのに、月はそれに気づきもしない。
 ――首をしめようと手を伸ばし、そうしてそこで背後から呼びかけられて、だからというわけでもないのだが振り返って笑った。そこにいた人が、とても――ひょっとしたら妹よりも――大切な人だったからだ。
「やぁ……おはよ」
 軽く手を上げて言うと、彼女はきゅっと眉をひそめたようだった。

 「結局、なにがしたいの?」
 わざわざ妹の前から引きずってきて、だれも近付かない、けれども自分たちにとってはほとんど庭同然の森の中、香月はそう氷河を問い質した。きつく釣り上がった目尻と言い、弾劾するようなその口調と言い、まるで彼女は正義の女神のようだ――そんなことを、ぼんやりと考える。
 そんなことをしていたから、とっさに質問に答えることができなかった。あぁ、とかうん、とか胡乱な返事をして、それであわてて「――なんだって?」と問い返すと、香月はますます眉をひそめた。というより、今や顔をしかめている。それでも、彼女は気のいい、親切な女だった。
「だから、なにがしたいの? ひょっとして寝ぼけてる?」
「いや、寝ぼけてはないけど、」
 のろのろと視線を地面や木々のあちこちに這わせながら、ぽつぽつと答える。
 すると香月は、これは腰を落ち着けて聞き出さなければ無理だと思ったのだろうか、あっさりとその場に腰を下ろして、それから氷河を手招きしてみせた。どうやら隣に来いと言いたいらしい。彼は割合素直に、彼女のごく近くにぺたりと座った。
 しばらく二人とも、なにも言わなかった。氷河はあいかわらずぼんやりして草の上の小さな虫だの時々ひるがえる小鳥の姿だとかをながめていたし、その様子がパフォーマンスにすぎないと知っている香月はあえてなにも言おうとはしなかったからだ。だが、とうとう氷河がこぼした。
「手がさ」
「手? 氷河の?」
「うん、僕の。――きれいすぎるなぁと思って」
 ちらりと香月が覗いた青年の手は、たしかに爪の先まで清潔そうに見えたが、もちろん彼が物理的なことを言っているわけではないことは百も承知の上だった。ただ、習慣というやつだ。
「汚した方がいいっていうんじゃなくて、なんていうかな、汚してみたい…って言うかさ。ほら、そうすれば僕も――」
 相槌をもとめない独白はしばらく続き、ようやく氷河の口が止まった時には、すでに香月は彼の話をまともには聞いていなかった。この馬鹿な男には一言くれてやるだけでいい。それをきちんと知っていた。
「氷河はじゅうぶん汚いから、安心していいと思うけど?」
 そんなことを考える時点で腹黒い、と笑うと、彼は目をわずかに見開いて、それからとてもうれしそうに笑った。

 きれいな枠にはめられて身動きの取れない親友を、彼女だけがきちんと見ていてくれたことを、初めから知っていた。
 かつて亡くなった母がその病床で、頼み事をしたことがある。いや、それが頼み事だったのかどうかはよくわからないが、なんとなく葉月は母の言葉を履行しなくてはならないような気がして、……だからひょっとしたらあれは頼み事というよりも、むしろ遺言なのかもしれない。

 世界を見せてあげる、と言われてその気になったことは事実だった。けれどもそれは所詮事実の半分でしかなく、もう半分がずっと欠けているから、いつまで経ってもこの生活は歪だ。養い親との生活が幕を開けて、もうゆうに三年は経つのだけれど。
 欠けたもう半分の理由は、遺言の履行である。つきつめて言ってしまえばつまり義務感というやつで、葉月などはしばしば、一体このもう半分の理由が養い親――葉月を純粋に憐れみ、慈しんでくれる亡霊――に知れたらどうなるのだろうと、不謹慎にもちょっとドキドキしている。いや、養い親はあれでずいぶんと甘やかしなところがあるから、きっと少し寂しそうに笑って、全部許してくれるのだろうが。
 歪んだ生活もほぼ五年を数えるころ、葉月はもうずいぶんと成長していたが、そのせいだったのだろう、いつになく養い親が落ち込んでいることがあった。
 亡霊のくせに人間以上に人間くさいこの――見た目だけ――青年は、落ち込み方も並みではない。落ち込むというより、ほとんど死体同然になる。どうせ食事などしなくても元から死んでいるし、もっと言ってしまえば眠らなくても存在し続けることは可能なわけだから、放っておくと何日でもぼんやり月をながめて過ごしている。喋りもしないし身動きもしない様子がまるで死体だと、葉月はたまに考える。もっとも、とうに死んでしまっている男なのだから、彼に対する形容詞はそれが一番ふさわしいのかもしれないが。
 その日もちょうど養い親は『死体』になっていて、それでもわずかな気づかいか、葉月の目につかない屋根の上にだらりと寝そべり、月を見上げているようだった。いつもならば放っておく彼をわざわざ覗きに行ったのは、どう贔屓目に見ても酔狂としか言いようがない。あるいは悪趣味だろうか。ただ、視線をよこしもしない養い親に、いつになく嗜虐的な気分になったのは確かだった。
「――母さんがね、言ってたよ。氷河は傍にいてやらないとダメだって」
 聡い養い親は、きっと自分が何を言いたいのか気づくだろうと葉月は思った。そう、僕は言ってやりたかった。いたいから傍にいるんじゃない、いてやれと母さんが言ったから、ここにいるんだ。
 養い親はのろのろと顔だけをこちらに向けて、そうしてどこか寝ぼけたような、愚鈍な薄笑いを唇だけで浮かべてみせた。
「それでもいいんだ」
 君は彼女の子どもだから。
 ――葉月はなんだか、背筋に寒気を感じた。
 母がより可愛がったのは、妹だった。父がより気にかけたのは、妹だった。叔母がより叱ったのは、妹だった。叔父がより笑いかけたのは、妹だった。
 真実僕のためにいてくれたのは、従妹だけだった。

 「時々ね、……絞め殺したくなる」
 なんの力もない妹のこと、その辺りを漂う精霊たちに一言告げれば、それだけで彼女は跡形もなく消えてしまうにちがいない。それこそ自分が手を汚す必要もない。
 けれどもあえて、この手を汚してみたいとも思う。品行方正に、優秀に生きることを義務づけられたこの手が妹を縊り殺す場面をシミュレーションすることは、ひどく自分をおだやかにさせる。あるいは、腹を割いて幼い臓器を全部掻き出してやっても素晴らしいと思う。祝詞を紡ぐこの口が、本来供えた獣の牙を行使する空想も、やはり自分を微笑ませる類のものだ。
 明かしてしまえば気狂いだと、あるいは鬼子だと忌まれるだろう。けれども自分は知っている。本当のところ、けだものと人の入り交じった自分たちなのだから、そういった狂気を併せ持たないはずはないのだと。
 背後からぽつりと、いっそ笑いさえ含んだ兄の声に、妹は不思議そうに振り返る。そのしぐさの、なんとあどけなく無防備なことか。けだものはお前のすぐ近くにいるんだよ。例えば、そう、この兄さえもけだものだ。
 お兄ちゃん、と舌足らずに呼びかけて来るものだから、どうにもふぅっと魔が差してくる。それはおそらくは一秒の何百分の一とか何千分の一とかの時間にすぎなかったのだろうけれど、衝動が妹の首を絞めるには十分な時間ではあった。微笑う。首に手をかけて、ぎゅっと。
 僕は妹の、
 親友と妹の間に長女が生まれた時、まるでひらめくように直感した。親友はもちろん彼女の兄も、ひょっとしたら妹でさえも気づかないかもしれないが。
 ――この子どもは、きっと一生影を負う。

 正しく純血の一族に紛れ込んだ異分子である自分と妹は、元から目の前にある途方もなく高い壁にいっそあきらめ気味ではあった。もっとも、妹の方はその旦那がずいぶんと甘やかしで、彼女を抱えてさっさと壁の向こう側へ行ってしまった。
 その点損なのは自分の方で、そりゃたしかに立場としてはこちらの分が悪いが、向こうの方が結婚しようと言ってくれた割にはさっぱり手をさしのべてくれる気配もない。もっとも、そんなところが好きになったと言ってしまえば、それだけの話ではある。――なんのことはない、妻の話だ。
 越えたいと思わないわけではない。けれどももうずっと昔からこのポジションが自分の場所で、いまさらこの壁の向こう側で物事をながめてみたいとも思わない。達観してる、と親友は笑うけれども、そうではない。ある意味、尊い血を持つ彼らの傍にいることを、馬鹿馬鹿しいコンプレックスでもって恐れているだけなのだ。
 親友には絶対わからない。妻にも一生涯知られることはない。妹は注がれた愛情の中、やすやすと飛び越えてくれればいい。この純血を穢した血の業は、自分が月まで持って行こう。

 そう、決めたというのに。
 だれより濃い血を継ぎ、実の兄は百年に一度の、と呼ばれるであろうことが決定づけられた子どもが、何故この業を背負うのか。
 可愛いでしょ、そりゃ僕の子どもだから、と幸せそうに笑う妹と親友の前、彼はひとりああ、と声にならない吐息をこぼした。ああ、この子どもは、きっと一生影を背負う。家族に理解すらされない影を。
 だけれど、心配しなくてもいい。なにも知らない嬰児に、泣き出しそうな顔でほほえみながらささやく。
 その影を、俺だけは理解できるから。
 水が重苦しいと感じたのは初めてだった。夏、森に降る雨はじっとりと羽水の肌を濡らし、かといって暑さに朦朧とする脳を冷やすでもない。ちっとも胸の奥からこぼれてはくれない涙の代わりに、降り注ぐ雨が厭わしかった。
 どうしていまさら気づいて泣きたくなるのだろうと思う。初めて自覚したのはもう三十年か、ひょっとしたら四十年も昔のことだ――昨夜、眠るように亡くなった妻を愛していたことなど。それが一緒に暮らして子どもを育ててゆく内に、彼女を愛していたのだということをほとんど忘れかけていた。いつでも彼女は傍にいたから。
 馬鹿だ、と思う。泣きたいとも。愛した女を亡くしたからではなく、彼女を愛していたことを忘れてしまった自分をこそ、罵倒して泣きたかった。
 ――ああ、だから雨なぞ降ってくれるな。なぜなら自分が泣けないから。子どものように喉を鳴らしてしゃくり上げながら、けれども涙はこぼさずに願う。

 無神経な親友でさえこの痛みを理解してくれている時、唯一の盟友たる水が自分を裏切っていることが、なぜだかとてつもなく怒りを招いていた。
 幼いころに母が歌った子守歌には、どうしてだろう、歌詞がなかった。少し大きくなってから聞いてみたことがある。どうして歌を知らないのか、と。
 そのころすでに床につくことが多くなっていた母は、笑って言った。
「この歌は、特別だから。歌詞を知ってるのは、特別な人だけなの」

 養い親に出会った時、葉月はすでに子守歌を必要とするような年齢ではなかった。だからあの、母が昔うたってくれた歌の歌詞を知っているかと、問うてみたことはない。ただ、彼女が『特別』というラベルを貼った相手は、おそらく彼なのだろうと思ってはいるけれど。
 頼めばおそらくきちんと答えてくれただろう。知っていると――あるいは知らないと言うかもしれなかったが――うなずいて、男にしては少し高めのテノールで、養い親は歌ってくれたにちがいない。ただ葉月は、強く記憶に残されたわずかな母の痕跡を、きれいに養い親で覆い隠してしまうことを恐れた。

 それは月の出ていない夜のことだったように思う。なぜなら、かつての母もいつもは傲慢なほどに強気の養い親も、新月の夜ばかりは小さくうずくまって泣き出しそうな顔をしているからだ。常日頃とは異なる彼らの姿は、葉月もよく覚えている。ただ、母がその姿を隠すことがなかったのとは違い、養い親は葉月に心配かけまいとしているのだろう、いつでも新月の夜に葉月の前に現れることはなかった。
 ひとりきり家の中で、たぶん本でも読んでいたのだろう。ふと耳に、どこかで聞いたことのあるメロディが飛び込んできた。――ああ、いや、だが。このメロディには、きちんと歌詞がある。養い親が、見えないどこかで子守歌を、しかもおそらくは自分自身をなぐさめるために歌っているのであろうことは明白だった。
 とぎれとぎれに聞こえるやさしいメロディは、聞き入るともなしに獣の耳を撫でて忘れられた、けれどもまだかすかに伝えられた言葉を葉月に届ける。それはどこか月のやわらかな光にも似て、半分だけ愛し子の血を引いた葉月を憐れむかのような歌だった。子守歌とは、元来そういうものなのだろう。
 やさしかった母の、歌詞のない歌声を思い出す内に、いつしか葉月はやすらかな眠りに落ちていた。
 蒸し暑い夜だったせいだろう、奇妙な夢を見た。

 波の押しよせる砂浜を、ひたひたと裸足で歩いていた。前へ前へ、この海岸線がどこへ続くとも知れず、また自分がどこから来たかもさっぱりわからないくせに、ただひたすらに。
 くすぐるように足の指の間をくぐり、くるぶしを撫でる水の感触が心地いい。だが乾いていた――腕が、腹が、首が。足以外の部位が。もどりたかった。海の中へ。
 誰も止める人はいないのだからと自分で自分を納得させて、もどかしくシャツのボタンを外す。風にはためくスカートも脱ぎ捨てて、切ないほどの焦燥に駆られながら海へと身を沈めた。そのまま力強く足を――いや、いつの間にか青みのかった美しい銀の鱗になっていた尾を蹴り、限りなく透明な水を駆けめぐる。
 まるで生き返ったかのようだった。身体の凹凸をなめらかに包む水こそが、自分の最高の恋人であるような気がした。かすかな潮流をかきわける度に、身体には愛撫が加えられた。
「このままここにいさせてくださいませんか」
 願ったのはだから心からだったのだけれど、海はそれはできないと少し寂しげに笑ったようだった。こぽりと海底から沸き上がる気泡が、髪をゆらめかす。
 ――あなたは大地の眷属だ。お帰り、ハァルターテ。
 とたんに銀の鱗は剥げ落ち、水を蹴る優美な尾は大地を歩く人の足へと変化を遂げた。

 汗でぬめる身体がどうにも不快で、目を覚ました。暑い。窓を開けていてもちっとも風が入ってこないのだから、それは汗まみれにもなるだろう。
 けれどもハァルターテはのろのろと身を起こし、ぼんやりとベッドの上から自室を見回した。今まで海の中にいたような気がしたのは、暑くて暑くて水に濡れたように思えるほど汗をかいてしまったからか?
「……おかしな夢でした」
 つぶやいて、寝間着を変えるためにベッドから出た。先ほどの夢のように大胆に着ているものを脱ぎ捨て、新しい寝間着に袖を通す。
 床の上で、青銀の鱗のかけらが、きらりと光った。
 死んだのは誰よりも先だったくせに、月に還ったのは誰よりも後だったなんて、彼らしい。
 自分の叔父だという人は、そう言って少し笑った。

 七本のふさふさとした尻尾を持つ叔父の月代は、養い親ほどではないにせよ葉月に大きな力を感じさせた。そのせいというわけでもなかろうに、初めて彼に会った時から、この人はどうも苦手だったような気がする。一緒に暮らしたこともなければ甘えて我が侭を言った記憶もない。要するに家族だという認識が、さっぱりないのだろう。
 もうちょっとこっちに来いよ、と月代が手招きするから、葉月は彼の隣にちょこんと腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げた。今日の月はあまり色のない、透明な半月だった。
「…すごく強い人だった」
 同じ月を見上げながらぽつりと月代が言う。それが養い親のことをしめしているのだと、とっさに理解したのはなぜだろう。きっと、覚えている限りの一番強い人というのが、彼だったからなのだろう。
「知ってるよ。でも僕はあんまりそう思えなかったけど」
「俺もそう思ってた」
 彼と同じ場所に押し込められるまでは。苦笑いしてみせた月代は、昔の、まだ生きていたころの養い親を思い出しているのかもしれなかった。
「特に彼は……俺たちには何も教えてくれなかったし」
 養い親が小さな従弟と妹のために支払っていた努力や、その他のことも何も。
 恨みに思うわけではないと、月代は言う。何も見えないことこそが、あのころは幸せだったからと。子どもには背後から優しく目をふさいでくれる大人が、絶対に必要だった――ことにこの、閉鎖的で信じていたほど美しくはない場所では。
 けれども葉月は、それは愚かだったと思う。そう、養い親は選択を一度間違えたのだ。年の離れた親族たちを愛しく思うが故に、何も見るなと目を閉じさせた。その結果が彼の死だ。
 ああ、けれど養い親は賢い人で、二度と間違えはしなかった。
「でも、氷河は僕に教えてくれたよ。世界は広いんだって」
 自分は盲目ではない。それは彼が世界を見せてくれたから。
 月代は数秒目を見開いて、それから視線を落とし、強くて頭のいい人だったから、と何か寂しそうにつぶやいた。

 亡霊としてこの世に残された彼に意味を見出すとするのなら、自分こそがそうなのだろうと葉月は思った。
 自分以外の相手というものには、いくつかのラベルをつけることにしている。例えば守るべき人たち、頼ってもかまわない人たち。
 ただ、父。己が母よりも強く引いたであろう血の親族に関してだけは、どうしてもそのラベルの種類がわからないでいる。

 守るべきものとは明らかにちがう。だが、頼ってもかまわないのかとじっくり考えてみると、それもどうもちがうような気がした。
 特異な人だ。自分の父ながら、そう思う。
「……氷河ー?」
 村の最奥、神殿のさらに奥まった一画で、さんさんと降り注ぐ陽光にだらりと伸びきったネコのような姿で昼寝をしていたはずの父が、不意に薄く目を開いて笑った。見ていたことに気づかれたのだろうか。聡い人だ。
「何、父さん」
 気のないふりをして返事をすると、父はのそのそと起き上がってこちらに這い寄り、ぽさりと膝の上に頭を乗せてきた。正直、重たいし男、しかも実の父親などにこんな真似をされても暑苦しいだけなのだが、氷河はちょっと眉を跳ね上げただけで何も言わなかった。
 ごろごろとのどでも鳴らしかねない様子の父は、なんだかうれしそうだ。そう、まるで子どもがお気に入りの玩具を見つけた時のような――
「お前、だんだん羽水に似てくるね。なんでだろうなぁ」
「叔父さんに? 僕が?」
 うんそう、と父は寝転んだまま、器用に氷河の頭をなでた。彼は家族、分けても息子と娘を溺愛していると言っていい。ただし、
「羽水と氷呼はあんまり似てないんだけど。ホントになんでだろうなぁ……羽水がもっと強かったら、こんな感じなのかなぁ」
 父の一番大切なものは、母と結婚する前もしてからも、そして子どもが二人も生まれてなお、氷河の叔父でしかない。そして、叔父の一番大切なものもまた、父なのだ。
 例えて言うのなら、氷河と従妹のようなものなのだろう。自分たちは親友で、お互いが一番大切だ。それはきっとこれから先、それぞれに好きな人ができても変わらない。
 子が親の血を引くのは当たり前の話だが、どうも依存症のラベルまで引き継いでしまったらしい。そんなもの、客観的に見てみればなによりもわずらわしいものでしかないのに。
 けれど、とひょこりと顔を出した叔父に連れられて、やけに楽しそうに外に出てゆく父を見やりながら、氷河は思う。
 この厄介な血は自分があまり似ていないあの人の息子であるという証だから、きっと尊ぶべきなのだ。それに、大切なものが、何に変えても守りたいと思うほどに大切なものがあるということは、それほど悪い話ではないように思えた。
「……僕は叔父さんじゃなくて、父さんに似たんだと思うけどね」
 ためいきをついて、氷河は日なたにごろりと横になった。

 以来父のおもかげは、いつでも依存症というラベルを貼って氷河の心の中にある。
 月が隠れた、と誰かが泣いていた。敬愛すべきかの神の寵児を失って、一族たちはひどく狼狽しているようだった。
 愚かなことだと思う。彼が不治の病に倒れたことはもうずいぶんと前から皆が知っていたことだし、彼の後継者たる自分も、すでに後を継いで神官長としての勤めをこなしている。彼に比べて力不足であることは誰の目にも、それこそ自分でもわかりきっていたことだったが、ではだからといって、他に誰かこの勤めを任されるべき者がいるというのだろうか。
 九尾には敵わない。だが並みの八尾に負けるつもりもない。その程度には努力してきたし、大きな口を叩くだけの実力はあると思う。
 大体にして彼のことを、神官長や月の寵児としてではなく、彼個人として知っていた者が、一族にどれだけいるというのか。そう、たまにふらりと家にやってきては父にじゃれつき、挙げ句の果てに馬鹿だの阿呆だの怒鳴られていた方の彼を知っている者が、どれだけ。

 「霧生は、近親婚が多すぎた」
 ひとり残された父が、喪服もまとわずにぽつりとつぶやいた。母がいなくなってからとたんにがらんとしてしまってもう数年経つ家の中、葬列で弔辞を述べなくてはならない月代は忙しく立ち働いていたが、ふとその手を止めた。
「九尾や八尾はそうそう生まれるものじゃない。歴代の神官長も霧生の当主も、七尾か……六尾の時もあった、らしい」
 父が何の話をしているのか、正直初めはわからなかった。けれども、父は無駄なことはあまり言わない人だったから、月代は黙って彼の言葉を聞いた。
 父は、いまさらだけど、と言い置いて、そっと目を伏せた。
「長老方は……馬鹿だ」
 不意に月代は理解した。父が他の誰よりも、表で月が隠れてしまったと泣き喚く一族の誰よりも彼の死を悼んでいるのだと。そうでなければ目上に敬意を払うことを常に忘れない父が、こんなことを言うはずもなかった。
 濃く優秀な血に固執して、彼という人格そのものを誰ひとりとして認めていないことをこそ、神は嘆いているのかもしれなかった。
 恋と愛は違う。その言葉を、教えてくれたのは君だった。

 例えば親友が死ぬことになったからといって、これほど取り乱しはしなかっただろう。ただ、自分もともに逝けたらいいと、それだけは思うけれど、彼を生に縛りつけておきたいとは思わない。
 ああ、だからつまり。やはり妻に抱く感情は、これは恋なのだと、羽水はようやく思い至って少し自分が間抜けに感じられた。
 それにしても、どうしていまさらそんなことを理解するのだろう。まさしくこの感情を向けるべき相手から、つい今し方、もうすぐ死ぬんだと打ち明けられたばかりなのに。
「病気らしい。よくわからないけど」
「どのくらい?」
「さぁ……半年、くらいかな」
 よくわからない、と妻は妙に明るく笑った。いっそ白々しいと思った。自分が死んでしまうことを知っているのに、どうしてこんなにもきれいな顔で笑うのだろう。
 たまらずに生きてくれと懇願したら、妻は目を見開いて、そんなことを言われると思わなかったとこまったように眉をひそめた。そりゃそうだ、今までそんなことを言ったことはなかったし、これからも言うつもりはない。言ってしまったのは、抱えるものが恋でしかないからだ。
 馬鹿げた話だ。子どもを二人も持って、一人は死んでしまって一人は自立して、ようやくこれから知ってゆくことがもっとあったはずだった。それなのに妻は死んでしまうという。自分はいまさら、彼女に恋していたことに気づく。
 生きて、生きて、生きて、……生きて。どれほど絶叫したところで、自分の手の中になす術がないことを知っていた。
 友情は、恋よりなお愛に似るという。誰が言ったのだかは知らないが、うまい話だ。

 そう思わないか、と話を振られて、日なたに寝そべりうとうとしかけていた蒼河は気怠げに頭を上げた。ふぅん?と気がないふうに鼻を鳴らしながら見てみれば、窓辺に座り込んで本を読んでいた羽水は、今は窓の外をながめている。
「つまり俺とお前にとって、お前と俺の方が夕月や氷呼よりも価値が高いってことだろ」
 常々自分など大嫌いだと言い放ってはばからない羽水がそんなことを言い出したものだから、蒼河は興味深げに耳をうごめかした。
 なるほど、友情がイコール愛なのであれば、蒼河が羽水に向ける報われることのあまりない愛情――これを羽水はしばしば「甘え」だとか「阿呆」と呼ぶ――も、納得が行こうというものだ。
「まぁ僕に関しては否定しないけど?」
「偶然だな、俺も否定できそうにない」
「うれしいなぁ。で、なんでいきなりそんなこと言い出したのさ」
 笑って、のそのそと羽水の方へ寄っていく。彼はめずらしくちょいちょいと蒼河を手招きし、いたずらっぽく窓の外をあごでしめしてみせた。
 表では、まだ子ども時代のなごりを色濃くとどめる少年と少女が、今日は暑いからと水まきをしていた。少年の方がうっかり少女の服に水をかけてしまって、ものすごい剣幕で怒られている。その様子が、どうも十何年か前の自分たちを思い出させた。
 思わず声を上げて笑うと、となりにぴたりとくっついて同じ光景をながめていた羽水も、くくっと喉を鳴らした。
「血だな」
「うん、血だ」

 子どもたちにまで伝わってしまった、この互いに対する思いが、恋ではないことを知っていた。そんなものでは有り得ない。だが、愛なのかと問われれば、そうかもしれないとうなずいただろう。なにしろ友情は、恋よりもなお愛に似ていたから。
 馬鹿みたいな夢を見た。

 久しぶりに訪ねるのだからと、たくさんのみやげもの――それは両親や彼女の家族から頼まれたものも含めて、実に一抱えほどになってしまった――を持って行くと、家の近くの草原に葉月が迎えに出ていた。異種族同士の婚姻で生まれた子どもには性別がないけれど、十四歳になった葉月はもうずいぶんと大きくなった。
 葉月、と呼んで手をふってやれば、甘えてくることはないけれども嬉しそうな顔を見せて、子どもはこちらに走ってきた。
「母さんがいつまで待たせるんだって言ってた。父さんももう帰ってるし」
「香月はちょっと短気だからね。まだ約束の時間より早いのにさ」
 笑いながら二人で歩き、途中でせっかくだからと月見草の花を摘んだりして、だから結局家に辿り着いたのはもう約束の時間を数分過ぎた頃だった。香月はすでに表で二人を待っていて、氷河の姿が見えたとたん、遅いと雷を落とした。
 まるで子どものように――いや、片方は本当に子どもなのだが――しゅんとうなだれて叱られていると、香月の後ろから彼女の夫、キールが顔を出してもういいじゃないかとお小言を止めてくれた。この時ほどこの人間の存在をありがたく思ったことはなかったけれど、そういう失礼なことは心に留めておくことにする。
 こぎれいに片付けられた家の中、託されたみやげものを広げ、食事をして、他愛もない話をする。キールと葉月は会話に加わることはあまりなかったけれど、そんなことも気にならないほどに、香月との会話は弾んだ。話すべきことはいくらでもあったのだ、だって自分たちは、毎日一緒にすごすのがあるべき本当の姿なのだから。
 もう夕方も遅くなって、そろそろ空が暗くなりかけるころ、ようやく帰途につくことにした。今日中に村にもどって、香月とその家族が元気で幸せそうだったことを、たくさんの人に報告しなければならなかった。
 それじゃあ、と手を上げる自分に、彼女はほほえんで、ねぇ、と声をかけた。
「いつまでもこんなふうにできたらいいね。そうしたら幸せなのに」
 まるでこの日常が明日にも終わってしまうようなことを言う香月に、少し目を見開いておどろいてみせてから、なんでそんなことを言うんだと笑った。
「終わるわけないよ」
 だって僕らはこんなにも幸せなんだから。

 目覚めて現実を突き付けられて、そうして愚かな自分の願望に気づく。願っていたのだ――香月が死なず、彼女の夫も行方不明になどならず、葉月は大切に育てられ、自分は生きて故郷で暮らしているなどという、もはや叶うはずのない夢を。
 熱のない身体でシーツを掻き抱いて、喘ぐ。夢なんて見たくなかった、と。そういう可能性もあったことを、未来の視点から示唆することはとても辛かった。
 月神様。かつて愛し、愛された神に問いかける。どうして僕らはこんなふうになってしまったんですか。他の選択肢はなかったんですか。
 答えなどないことを、知っていたけれど。
 待ってる、と彼は言った。だからまちがいなく、彼はそこにいるはずなのだ。

 ひとときたりとも保つことのできない薄らいだ記憶の中、どうしてか彼のことだけはあざやかに色を持ち続けている。もはやつかれきって役立たずになった肉体を抜け出して、まるで少年のころのように月の照らす道を走る間、だからずっと彼のことだけを考えていた。
 ――蒼河、
 妻よりも実の妹よりも強く親友を思っているなどと言ったら馬鹿にされるだろうけれど、事実そうなのだからしかたがない。
 何故と言って、女たちは強かった。物質的な力がではない。精神的に、彼女らは自分たち二人よりもずっと強く、ひとりきりでも生きていけるような存在だった。一緒にいたのは愛しかったからだが、死してなお束縛されることを、たとえそれが夫や兄であっても、彼女らは望まないはずだった。
 彼や自分はちがう。彼は自分から力を、自分は彼から自立心を、それぞれうばいとって生まれてきてしまったから、どちらかひとりきりではうまく生きてゆくことができなかった。馴れ合って傷付け合って、それでようやく立っている。死んでしまっても、その基本的なスタンスは変わるはずもない。
 ――蒼河、
 だから、ひとりで月に還ることなどできないから、待ってると。彼はそう言ったのだった。
 ――蒼河、
 月光に流されて飛んでゆきそうな意識をつなぎとめ、全速力で光の海を駆け抜ける。遙かかなたに求める人影を見つけた時は、だからとてもうれしかった。
「……蒼河」
 ごく静かに呼ぶと、ぼんやり膝を抱えてうずくまっていたそのちっぽけな魂は、のろのろ顔を上げて何度かまばたきをした。泣き出しそうにうるんだ赤い目がとてもきれいで、彼はこの甘えたがりで本当はだれよりも臆病なこの親友を、とても愛しく思った。
 一体何年、それとも何十年ここで待っていたのか、話すことも忘れてしまったようにこちらを見つめる親友に手を差し伸べた。
「蒼河、」
 ああ、けれどダメだ。彼は単に言葉を忘れているだけだけれど、自分は彼ほどに力あるものではないから、すでに声帯が音を出さない。想いの強さだけは自信があるけれど、それがなかったなら、一瞬で月の光に流されてしまっていてもおかしくはないのだ。
「羽水――」
 かすれた小さな声で、彼が自分を呼ぶ。そうして彼は立ち上がり、差し出した手をそっと取った。
 それはまるでからからに乾いた大地に、雨が降り注ぐような感覚だった。触れた彼の手から、土が水を吸収するように、自分は彼の力を共有させてもらった。
「蒼河、行こう。今度はちゃんとついてってやるから」
 分け合った力でそう言うと、分け合った勇気で、彼はうれしそうに笑ってうなずいた。

 約束を破られたことは何度も、それこそ数え切れないけれど、すがるようにつぶやく蒼河はいつだって感情に正直だった。
 周りにいたひとびとのように、約束されていたような熱烈な感情や、あるいは長い間あたためていたような思いがあったわけではない。ただ気づけばなんとなく傍にいて、そうしていることが心地よいと思えた。だから、今もこうしてその人の隣で生きている。

 母が逝き、父もほどなくして亡くなったと、最後に残された叔父から聞いた。従弟ではなく彼が伝言役にやってきたのは意外なはずだったのだけれど、蒼呼はまったく疑問に思わなかった。それだけ動転していたのだと、だいぶ経ってから気づいたのは誰にも言えない。
 家族をすべて失ったという喪失感と、とうとう残された者が自分だけになってしまったのだという責任感に呆然としていた時間は、ずいぶんと長かったらしい。気づくととうの昔に叔父はいなくなっていて、代わりに出かけていたはずの男がもどってきていた。
「どした?」
 彼の手がそっと頭に伸びて、くしゃりと蒼呼の髪をかきまわした。あざやかな赤毛と、こまったような微笑がふと目に入って、なぜだか泣きたくなった。
「お父さんが、月に行ったって。今さっき、叔父さんが来て」
 途中でそれ以上言葉を続けることができなくなって、目の前で立ち尽くす男をぎゅ、と抱き寄せた。腕を通して脳でしっかりと認識できるぬくみを、今よりももっとありがたいと思ったことは、かつてなかったように思える。
 なんて世の中は不思議なんだろう、と鼻を鳴らした。父も母も、もっとさかのぼって兄だって、今腕の中にいる彼と同じようにあたたかかったのに、気づけばみんな月に行ってしまった。
「――泣くなよ」
「…泣いてないもん」
「嘘つけ。ほら、蒼呼」
「泣いてない。泣いてないけど……どこにも、行かないで」
 男は小さく笑って、なんでこんな時に出かける馬鹿がいるんだよと言ったけれど、ああ、彼はちっともわかっていない。今この場だけではなくて、一生どこにも行かないでと言いたかったのに。
 愚かな間違いを訂正する気にもなれずに、しばらく男を抱きしめていた。

 甘えたがりで愛情に貪欲な父から、どうも兄も自分もその性質を受け継いでしまっているようだった。父のように、他のものなどなにもいらないと言えるほどに強くはないけれど、独りきりで残されたくはないと思う程度には、彼のことが好きだった。

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