前回更新時に雑記書くのをすっかり忘れていたことにいまさら気づきました。まあさして書くようなこともなかったと言えばそうなのですが…。

 今回の更新は若菜の続き、千恵子のエスが出てくる話です。とは言っても、まだ影も形もいませんね。次回か次々回に出てくる予定です(遅)

 ちなみに朝日屋さんというそば屋は、本当にあったものではなくてフィクションです。店名は我が家の近所にあるごひいきのお店から拝借しました。関係ないですが「そばを手繰る」って江戸弁なんですね……全国共通かと思ってた! あと「ばんたび」というのも共通語だと思っていたのですが、北関東とか山梨辺りで使う言葉のようです。でも落語なんかにもある気がするんですが、どうなのかしら。

 あと当時の用語やら学校システムやらがよくわからないという方も多いと思いますので(正直学校のアレコレは私もよくわからない!)、小事典なるものを作ってみました。目次ページから飛べますので、ご参考までに。

 以前感想を頂いた際に「難読漢字が多い」というご指摘がありましたので、一度読み直してみていくらか漢字を開いたり、ルビをふったりしたいと思います。この漢字が読めないとか地名がローカルすぎるから説明しろとかありましたら、ぜひお知らせください。

 次の更新は……なんだろ、交点かな、SSかもしれないです。

更新雑記

2007年11月22日 更新雑記
 遅刻する更新雑記…。

 ええと、若菜の幕間更新でした。男二人ばっか絡んでて女の子に接点がないのは寂しいので、千恵子と志摩子に出会ってもらいました。

 二人が話題にしていた叙情画家たちは、いずれも当時女学生や若い女性に絶大な人気を誇った人びとです。雑誌の挿絵や詩集・小説などの挿絵の他、便箋や封筒を始めとするレターセットにもイラストを描き、大ヒットしました。現在でも小学校高学年〜中学生くらいの女の子って、友達に可愛いレターセットで手紙を書きたがりますよね。古今東西、あまり乙女心に変化はないようです。

 現代でも有名な叙情画家と言えば竹久夢二(今年の夏はユニクロの浴衣に夢二シリーズが出てましたね)や中原淳一でしょうか。幕間に登場した画家たちを紹介すると、

 松本かつぢ:昭和6年にデビュー。くっきり・ぱっちりした目だけれどうりざね顔の、日本風少女を描く人。はつらつとして健康そうな画風で、後にはマンガにも挑戦した。

 高畠華宵:大正2年にデビュー。妖しい色気のただよう、エキゾチックかつアンニュイな雰囲気(両性具有的、と言う人もいる)の華麗な令嬢を主に描く。当時女学生の間で圧倒的に支持され、下に述べる加藤まさをと人気を二分した。

 加藤まさを:大正末期から昭和初期にかけて活躍。ちょっと物憂げな着物姿の女学生を、斜め後ろや横顔でよく描いた。華宵とは異なったイメージの、「背伸びすれば手の届きそうな憧れの人」が人気になった。

 ちなみに私は加藤まさをと竹久夢二が好きです。高畠華宵はどうもちょっといやらしいというか、エロティックに過ぎるというか。

 ところで第3話の執筆にあたって、参考になりそうな新書をゲットしました。竹内洋著「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」中央公論社(ISBN9784121017048)です。健一と俊介の違いを目の当たりにしたようでなかなかおもしろかったです(あと私が教養主義者だというのもよくわかりました…)

 次回更新は交点の予定です。

更新雑記。

2007年10月27日 更新雑記
 危うく1年経つところだった…! 交点の51話、更新しました。「去年のカレンダー」というより「去年とカレンダー」と言った方が正しい感じの、ティーンエイジャー2人のやりとりです。

 2月29日は言うまでもなく閏日、4年に一度しか来ない日です。閏年は英語ではleap yearと言い、夏季オリンピックやアメリカ大統領選挙の開催される年はleap yearなのだそうです(ということは、来年が閏年ですね) ちなみにleapは名詞では「跳躍」、動詞では「飛び越える」というような意味になります。

 「50:愛想笑い」と今回更新分では大人組がくっついてからのカタリナを主に書いたので、そろそろ当事者たちがどうなったのかを書きたいんですが…。次回のお題もまた難物そうで、どうしたものかと悩んでおります。

 青野優子さま企画の「覆面作家企画3」(http://fukumennkikaku.web.fc2.com/3/)が12月から作品募集されるそうなので、また参加したいと思っています。今回のテーマは「空」だそうですよ。この間ふっとアイデアが浮かんだんですが、どんなのだったかな…(メモしておけば良かった)
 1の時は隠すつもりもなかったせいかやっぱりすぐ何人もの方に見破られてしまったので(リアルの友人にはタイトルだけで特定されました…)、今回はちょっと気合いを入れて隠してみようかな、などと考えております。

 次回更新は若菜の幕間orSSの予定です。
 新しく追加したお題について、補足というか薀蓄。

「夜に口笛」:夜に口笛を吹くと鬼・人買い・蛇が現れる、という言い伝えがある。
「端にぞありける」:逢見むと云ひ渡りしは行末の/物思ふ事の端にぞありける(千載和歌集・巻14 大納言成道)
「朝顔の恋」:源氏物語「朝顔」より。
「ほのかに夢に」:仏は常にいませども/現ならぬぞあはれなる/人の音せぬ暁に/ほのかに夢に見え給う(梁塵秘抄)

「ものや思ふと」:忍ぶれど色に出にけり我が恋は/ものや思ふと人の問ふまで(小倉百人一首 平兼盛)
「一つとや」:数え歌の第一声。「和泉式部日記」とか。
「阿修羅のごとく」:昔こんなタイトルのドラマがありましたが…。

「悲しき玩具」;こんなタイトルの詩集が(以下略)
「飛縁魔の城」:丙午に生まれた女性は男を食う、早死にさせるという迷信があり、そこから日本のサキュバスとも言える類の妖怪となりました。
「燃え立つ蛍々」:我が恋は水に燃え立つ蛍々/もの言わで笑止の蛍(閑吟集)

「な見給ひそ」:「な+動詞連用形+そ」で禁止の意。
「遼遠の彼処へ」:幽闃のあなた、遼遠のかしこへ(草枕 夏目漱石)

「離れ難きは」:本より末まで縒らればや/切るとも刻むとも離れ難きは我が宿世(梁塵秘抄)
「暗きより暗き道にぞ」:暗きより暗き道にぞ入りぬべき/はるかに照らせ山の端の月(拾遺集 和泉式部)
「夢と知りせば」:思ひつつ寝ればや人の見えつらむ/夢と知りせば覚めざらましを(古今和歌集 小野小町)
「闇のうつつを」:夜の闇の中でのはかない逢瀬、ほどの意。

 次は聖書でお題とかやってみたいです。
 中学に上がってから意気投合した少年は名を下山俊介と言って、余り自分のことを話したがらない類の男だったが、実家は中野の米問屋であるらしい。羽振りも良く、頭も回るとあって、付き合い始めてから健一が彼に助けられた回数は片手の指では足りない程だ。
 更に言えば、これが大層な美少年である。同性でも一寸目を惹かれる位の整った顔立ちで、卸し立ての制服をきりりと着、窓際で物憂げに本なぞ読んでいる姿を見ては、上級生達が「麗しの君」と半ば冗談、半ば本気で呼んだりもする。
 ところが親しく話す様になって健一が知った俊介という少年は、全く夢を見ている先輩方に申し訳ないと、彼自身は何らの関係もないにも関わらず平謝りしたくなる様な男であった。
 まず、人をからかうことにかける情熱は並々ならぬ物がある。入学三日目にして地理のうらなり教師に教卓の下で蛙を踏み殺させてキャッと悲鳴を上げさせたのは、実はこの少年だったし(うらなりは散々犯人は名乗り出るようにと憤慨していたが、級の全員が素知らぬ顔だった)、何かと威張り散らす教練の退役将校にひまし油入りの饅頭を食わせて翌日の教練を自習に追い込んだのも彼だった(当然、誰もがこの英雄を称えた)。
 また誰の血を引いた物か、齢十三にしてとんでもない好色である。制服姿の女学生、それも明らかに年上のがこっそりと彼に手紙を渡しているのを見ただとか、果ては中野の方で着物姿の粋な女性と立ち話をしているのを見ただとか、色めいた噂には事欠かない。
 挙句、口が悪い。そもそも健一が俊介と知り合った切欠と言うのが、彼がそのよく回る口でもって散々に健一の訛りをこき下ろしたと言う、傍から見ればどうしてそれで友人等になれたのだかさっぱり掴めない物だった。

 「なア君、そう、そこの君だ、大島君だろう。どこの出だい、先の音読は馬鹿に訛りが酷かったぜ――あれじゃア今後困るンじゃないのか」
 失礼極まりないその発言を、健一は努めて無視して一心に鞄に教科書だのノートだのを詰め続けたが、それでもかっと頬に上った血ばかりは誤魔化しようがなかった。これだから嫌なのだ、国語の時間等と言う物は――殊に音読は。
 まして、相手が下山俊介である。入学早々学年一、否、学校一の有名人として燦然(さんぜん)たる輝きを放つこの少年は、無論頭も回る方だったから健一とて多少の憧れを持っていた。それが初めて話しかけられたと思えば、訛りが酷いの今後困るのと、大した言い様である。幻滅もいい所だった。
 オイ大島君、と更にかけられた声を遮る様にがたりと勢いよく席から立ち上がり、殊更に冷静を装って健一は言った。
「ご忠告痛み入るよ、下山君。それじゃア、また明日」
 こんな時ばかり影を潜めた自身の訛りに内心悪態を吐きながら、健一は教室を後にした。だがしつこく俊介は健一の名を呼んで、あまつさえ廊下まで追いかけて来る。それでも健一は無視するがいいのだ、それが一番だと、ずんずんと歩を進めた。
 健一は生来気の長い方である。実家で下の妹が三日と空けず近在の餓鬼大将と大喧嘩をしでかしても、下の弟が毎晩同じ布団の中で寝小便をしても一度たりとて怒りに任せて怒鳴り付けたことはなかったが、上級生の教室前で俊介に腕を掴まれた瞬間、健一の頭の中で何かが切れる音がした。
「――てめエなんかい言われねェでもわアってるっつッてンだろォがよオ、ほっぽっとけ!」
 そのまま腕を振り払い、何事かと向けられる数え切れない程の視線には気付かなかった振りをし、走って下駄箱へと向かった。からかいの相手がようやく馬脚を現したことに満足したと見えて、案の定、俊介は追っては来なかった。
 あんな口の悪い、ついでに性格も悪い奴のどこが「麗しの君」だと帰る道々、地獄の鬼も裸足で逃げ出さんばかりの形相で息巻いた健一が、件の貴公子といかにして友人となったかは、また別の話。
 「若菜」の続き更新しました。これで第二話は終わりです。俊介と志摩子の馴れ初め話でした。DL版はちょっとうまくいかなかったので一度下ろしました(くそうF○2め…!) アップしたらまたお知らせしますねー。

 さて、今回の小ネタは「女学生言葉」です。むしろお嬢さま言葉と言った方がわかりやすいかな? 「〜てよ」「〜だわ」「ごめんあそばせ」みたいな奴ですね。

 昨今ではどこのシロガネーゼかマリみてかと身悶えしそうなこの言葉遣いですが、歴史は意外と新しく、明治から大正にかけてはむしろ間違った日本語、若者言葉として大人たちが眉をひそめる類のものであったようです。今で言う「歩った」(「歩く」の過去形で「あるった」と読むそうです)や「違くない?」(正しく言うとすれば……「間違ってない?」かな?「違ってない?」は微妙な気がします。派生系で「違うくない?」というのもある)のようなものだったんですね。

 しかし現代日本で「ヤバい」や「〜のほう」が徐々に中年層にも浸透しつつあるように、女学生言葉も昭和ごろになるとそれを使って育った世代が親になったため、世に広まるようになりました。志摩子は21歳で1910年(明治43年)ごろの生まれですから、まさしく大正時代の華々しい女学生文化に浸って成長したわけです。

 正直今回更新分はちょっと調子に乗りすぎたかな、と思わないでもないのですが、志摩子のもとの育ちの良さを彼女の遣う言葉に込めてみました。実際、一度身についた言葉遣いというのはなかなか抜けないもので、私もつい「〜じゃないですか」などと話し言葉では言ってしまうんですよね…。

 ところで彼女らの使う最強の一言がこれ。「良くってよ、知らないわ」。現代風に訳せば「別に」「フツー」「知らない」といったところでしょうか。今の中高生が携帯をいじったりテレビを見たりしながら親に言い放つと同じように、当時の女学生も手紙を書いたり小説を読んだりしながらこんなことを言っていたのかもしれません。そう考えると女学生言葉にもなんとなく親近感が沸きません?

 女学生言葉や女性言葉に興味のある方は、光文社から出版されている小林千草著「女ことばはどこへ消えたか?」がおすすめです。新書なので気軽に読めますよ。

 次回更新は戦争物(時期ですから)と、余裕があれば交点書こうと思っています。そういえばSSのリクエストなどありましたらお知らせくださいましね。ご要望にお応えしたいと思いますので。
 一途と言えば聞こえは良いが、一つのことに集中してしまうと没頭のあまり周囲がまるで見えなくなる、要は不器用なだけなのだ、と俊介はその様に親友を理解している。蛇足だが、この白皙の君に親友と呼ばれる名誉を与えられているのは唯一、八王子の水呑み百姓が出の大島健一のみである。
 さて、ここ一、二ヶ月と言うもの健一が執着している物が何なのかは世慣れた俊介からすれば一目瞭然で、勉強にさえ身が入らぬ、一寸どうかしているンじゃないのかと眉をひそめたくもなるのが、つまり小峰千恵子嬢との付き合いだ。三日と空けずに手紙を書いて、月に一度はランデブーをして、仲の良いのは結構なのだが、それはしばらくは一所に落ち着くつもりのない俺への当て付けかと喚き出したくなる。否、健一がそんな真似を考え付きもしない男だと言うのはよくわかっているのだが。
 しかし幾ら不器用と言ってもこれは酷い、と俊介は高畠華宵だか何だか、女学生の好みそうな美しい図柄の便箋を放り投げて盛大に溜息をついた。
 貴方をお慕いしています云々の手紙を貰ったことは、それは伊達で色男を気取っている訳ではないから両の指では足りない程度に経験があるが、他人宛の手紙を貰ったのはさすがに初めてのことだった――手紙の冒頭には、「大島健一様へ」とある。
 健一から「相変わらずお安くない男だな、君は」としかめ面なのか苦笑なのか判別付けかねる顔でこれを渡されたのは、今朝の話だった。
「……お安くないのは君だろう、大島」
 俊介が頭を抱えて机に突っ伏したのも、無理からぬことではあった。

 健一と俊介のどちらもが一人きりになっている時間と言うのは、実は驚く程少ない。俊介の方は同級生だの上級生だのからやれ蜜柑をやるのあの本を貸してくれだのと始終呼び出されまとわりつかれているし、健一は健一で独自にこなしている問題を教官に聞きに行ったり、上手くもない小説を同人誌にすると気勢を上げる一団に一筆提供していたりする。
 だから健一がドイツ語の辞書とノートを広げて図書館で背を丸めている所へ、ようやく級友を振り切った俊介が一寸いいかい、と話しかけたのは勿論偶然ではなかった。振り返った健一はなんだ下山か、と言う顔をして、外へ出ようと顎をしゃくった。成る程、図書館は勉学の場であって、雑談の場ではない。
 手早く片付けを終えて表に出ると、健一はちらとこちらに目配せをしてそのまま裏手の池へと向かった。鬱蒼と周囲に木々の茂るこの池は、帝大の三四郎池に対抗してか誰からともなく万葉池等と呼ばれ始めて今に至るが、これが密談を交わすに誂えた様な場所で、仮にここで今夜あの同級生にこんな悪ふざけをしてやろうと言う声が聞こえたとしても素知らぬ振りをするが礼儀とされている。
 手近な欅にもたれてふう、と息をつくと、健一は全体何の用だい、と首を傾げてみせた。もっとも、風呂敷に包んだ辞書の端が随分と薄汚れ、ぼろぼろに折れ曲がっているのを見咎めた俊介は、健一に応えるよりも先に顔をしかめて邪魔したな、と確認の様に問うたのだが。
「いや、丁度眠くて集中出来なかったんだ、良かったよ。それで未だ俺に用事を言う気にはなれないッてのかい」
 からかい気味ににやりと笑ってみせる健一はいかにも裏で何事かを画策していそうで、シャポーを脱がざるを得ない。こんなのに小作になられちゃア名主も商売上がったりだったろう、と親友の方向転換を複雑な思いと共に考えながら、俊介は懐から件の手紙を取り出した。
「昨日のこれだが、一体君はこれをどこで、どんな風に、どんなメッチェン(女の子)に貰ったんだ? 本当に俺宛だッてのを確かめたんだろうな」
「おい、俺が一体何度君への恋文を配達させられたと思ってるンだ? 一昨日の夕方頃かな、店番してたら何も言わずにさっと渡されたのさ。君が店にいる時に何度か来てた様だから、その時に思い染めたんだろうな。そりゃア緊張はしてたみたいだが、自分の書いた恋文が好いた相手に渡るのを考えたら、当たり前だろう」
 因みに、と唇を尖らせた不満そうな表情で健一は付け足した。
「所謂トテシャン(超美人)って奴だったよ。どうでもいいが、君、余り女性を哀しませる様なことはしてくれるなよ」
 それでもう話は終いだとでも言いたげな口振りに、俊介は内心、聞くに堪えない罵声を健一に浴びせた。
 手紙の少女が緊張していたことも、美人だったことも理解している癖に、彼女の想い人が己自身だと何故考え付かないのか。余りにも不器用過ぎる。しかもその手紙を俊介宛と勘違いして開封すらせずに寄越して来るに至っては、最早不器用を通り越して絶望的だった。
 ぐるぐると腹の底から吹き上げる激情に堪え切れずに、俊介は怒鳴った。
「大島、阿呆か君は! いや、阿呆だな、知ってたが阿呆だ!」
「なん――おい、人を阿呆阿呆言うな、失敬だな!」
「失敬結構、ああもう、付き合いきれんよ!」
 ばさっと手紙を健一の顔面に叩き付けるとどかどかと足音荒く俊介は万葉池を後にしたが、またも何事か喚きかけた健一の怒号が途中で途絶え、が、だかぐ、だか蛙の踏み潰された様な悲痛な呻きが耳に届いたのは全く爽快なことだった。

 その後一月ばかり、一年の大島と下山が万葉池で別れるの別れないのと痴話喧嘩をしていた、と言ういかにも眉唾、怪しげで学生らしい噂が校内を飛び交ったが、それはまた別の話。
 小金井に桜を見に行きませんか、と健一が三日と空けずに送ってくれる手紙の中で言ったのはまだ梅も咲かない頃だったが、それが届いた翌日に参ります、との返事を書き上げてしばらく経つ。気付けば空気は温み、立川より幾分春の遅い八王子でも、蕾が桃色を帯びる様になっていた。千恵子がそれに微笑んだ翌日に健一からは改めて手紙が届き、そうして週末の今日、二人は武蔵小金井の駅に降り立ったのである。

 駅から玉川上水までの道すがらは、二人の様に桜見物の人々で一杯だった。花の見頃は短く、天気も良いとなれば見物客が集中するのは無理からぬことだったが、千恵子にとっては少々煩わしかった――健一と二人きり、のんびりと花見を楽しめると思ったのに。
 それでも人の気も知らずに「皆、楽しそうですね」等と笑う健一が余りに伸びやかで、浅ましい己の方が恥ずかしくなってしまう程だったから千恵子もそうですね、と気分を変えることにした。愚痴を零す等勿体無い、折角ここに二人でこうしていられるのだから、そのことを楽しまなければ、と思う。
 そう思い直してしまえば浮かれる人々の足取りさえも愉快で、遠目に見え始めた仄かな薄紅がより心を浮き立たせる。その心情のままに隣を行く青年の手を取りたいと千恵子は心底願ったが、生憎と彼女はそうまで世間の目を気にせずにいられる方ではなかった。
 せめて、とやや痩せぎすで頬骨の目立つ横顔をじっと見つめると、さながら思いが通じたかの様に健一はつとこちらを振り向いて、困った様に苦笑いして見せた。どきり、と千恵子の心臓が不安に音を立てる。彼を困らせる程に、私の目は不躾だったのかしら。
 けれども予想外にも健一はすいと腰を屈めて千恵子の耳元に口を寄せ、驚く様なことを囁いた。「もう少し静かな所に行きたい――そう思いませんか」。彼にしては大胆な台詞だ。自身もそう思ったか、目元に僅かに朱が滲んでいるのを千恵子は見逃さなかった。
「――先輩に、英学塾(現津田塾大学)に進んだ方がいらして」
 健一は突然の話題にぱたぱたとあどけない疑問の瞬きを寄越したが、それでもはあ、と頷いた。
「商科大学(現一橋大学)の方と歩くと言う道があるンだそうです。ラバァズレーンって言うそうですけど――行って、みません?」
 その甘やかで秘めやかな言葉に健一が頷かぬはずはなく、二人はそっと人の流れを外れ、五日市街道を商大橋で向こうに渡って女子英学塾の方へと歩いた。
 「恋人達の小怪」と言う尤もらしい名前を与えられたそこは目的の桜こそ姿もまばらだったが、同時に人影も殆ど見当たらず、千恵子は少しほっとした。木漏れ日を吹き抜ける風もどことはなしに先程よりも爽やかで、人混みに当てられていたのかもしれないと思い当たる。健一が気遣う様に少し休みますかと問うたが、歩きましょうと首を振った。
「八王子はまだ咲いていなくて。来週頃になるでしょうか」
「ああ、そうですね、僕の実家の辺りなんかはまだそれよりもう少しかかりますよ。……立川に出て来るまで、花見なんぞはしたことがなかった」
 桑の世話したりお蚕様の支度したりで、気付いたら散ってるンです。健一は懐かしそうに笑ってから途端にはっと真面目な顔になって、すみません、と頭を下げた。
「こんな話、つまらんでしょう。街の人に聞かせる話じゃアなかった」
「あら、いいえ、もっと聞きたいです。新鮮だし……大島さんのお家のことなンですから」
「そうですか? じゃアもう少し――」
 せがむと、健一は訥々と小さな農家の春一番の仕事を語ってくれた。土筆や芹やのびるを弟妹達と摘みに行ったこと、一番下の弟を背負って桑を刈りに奥の畑まで行ったこと。それはこの穏やかで本を愛する青年とはまるで別人の少年時代である様にも思えたが、そうしたものの積み重ねが今の健一を形成しているのだと千恵子は知っていた。
 けれどそれでも優しさと言う名の目隠しで覆われた向こうに透けて見える彼の苦しみを思って、千恵子は堪らずに健一の手を取った。その手は骨張って指先が荒れ、ちくちくと柔肌を引っかくささくれが彼女を切なくさせた。
 きゅ、と握り締めると、健一はうろたえて小峰さん、と弱々しく千恵子を咎めた。振り払いこそしないものの遠慮がちに引き抜かれようとする手を、彼女は逃さないとばかりに両手で取った。
「――誰もいませんから」
 だから、と微かな声で囁くと、健一は迷う様に視線を彷徨わせ、……そうしてようやく肩の力を抜いて、千恵子の華奢な手をそっと握った。彼の手のひらは大きく、彼女の手をすっぽりと包んで優しかった。
 千恵子は不意に、もっとずっと昔、従兄とこうして手を繋いで街を歩いたことを思い出した。あの時と似ている。だがあの時よりも心臓が痛くて頬が熱い。つまりはそれそのものが彼と、健一と歩いていると言うことなのだろう。
 その後は一言の会話もなかった。ただ二人は互いの呼吸さえも逃すまいと耳をそばだて、一つの身じろぎをも捉えようと全身を心地良い甘い緊張に浸した。絡めた右手と左手に、この世の全てがあった。

 立川の駅に着いたのはまだ明るい頃合だったから、千恵子は送りますと言う健一を丁寧に断って代わりにこう言った。
「また、あの道にご一緒しましょう、ね?」
 健一が顔を赤らめてけれども勢い良く頷いたのは、言うまでもないことだった。
 非常に長いブランク過ぎてめまいがしそうです。スランプに陥っている間に更新雑記用のブログもどきが消えてたのも衝撃でした……なんでも雷でサーバが落ちたそうですが。今までの雑記のログ、どうしようかなあ。

 そんなわけでようよう若菜の続き更新しました。あと1つで二話は終わりです。DL版は9と一緒に上げるつもり。三話は千恵子の学校生活に絡んだ話(決してエスが書きたいわけでは…!)を書く予定ですが、その前に幕間扱いで短いのをひとつ書くつもりでいます。

 さて、今回更新分は特に語るほどの小ネタもなくてなかなか困りものなのですが、ちょうどよく九尺二間というのが出てきたので、建築の単位とか長屋について薀蓄したいと思います。

 「尺」と「間」というのは日本の伝統的な長さの単位でありまして、一尺がおおよそ60cmに当たります。三尺、つまり1.8mが一間と繰り上がりますから、二間というのは大体3.6mです。尺はあまりお目にかかりませんが、間という単位は現在でも使う機会があるようです(私は去年、テントの縦横の長さを間で表すのだ、ということを初めて知りました)

 「九尺二間の長屋」というのは間口が九尺、奥行きが二間の1LK(?)のことですが、転じて非常に狭い家を指すこともあるようです。志摩子の家は2LK(ふたつの部屋と台所を兼ねた土間)ですから、文中では後者の意味で使っています。まあ米屋の坊ちゃんから見れば庶民の家は大体どれも遣れ長屋でしょうが…。

 健一の実家はそれよりは広いですが、弟妹がごろごろいる上、家の中に蚕屋を設けているという設定(どこで出すんだ、そんなもの)なので、実質的には志摩子の家よりも狭いかもしれません。普通に考えて勉強できるような環境で育ってないです、この人。

 あー、健一の子ども時代の話書きたい…!
 少し休憩にしますか、と止まりがちになった鉛筆に苦笑しながら健一が言い、ほんの数ページしか読み進めることの出来なかった英文に、千恵子は赤面した。独りで勉強した方が余程効率が良いなんて、馬鹿げているにもほどがある。忙しい日々を縫う様にして勉強の面倒を見てあげようと申し出てくれた健一にも、その彼の穏やかで高潔な人柄を褒めて頷いてくれた両親にも、申し訳が立たないではないか。
 はい、と静かに鉛筆を置くと、千恵子はするりと立ち上がって部屋の襖に手をかけた。小峰さん、と物問いたげな背後からの声に、肩越しに振り返って微かに笑ってみせる。
「お茶を入れて来ます。それと、最前お隣から一寸良い最中を頂いたと母が申してましたから、それも」
「やあ、それは美味そうですね」
 膝を崩して胡坐をかき、朗らかに笑った健一を眩しく目をすがめてもう一度見つめると、少し待っててくださいね、と言い残して襖を閉めた。

 熱い茶を入れた湯飲みを二つ、中に求肥の入った上等の最中を二つ――勿論母は快くまだ家族の誰も手を付けていないこの菓子を彼に出すことを承知してくれた――、盆に載せてしずしずと運んでゆくと、健一は千恵子が読みさしで机の隅に置いていた本をぱらぱらとめくっていた。大島さん、と控えめに声をかけると、はっと顔を上げた青年は慌てた様にすみません、と本を元あった位置に戻した――勝手に読んだことを咎めるとでも思ったのだろうか、と少しおかしみを覚える。彼に見てもらって恥ずかしいものなどこの部屋には、こと今日は一つもないはずなのに。
 いいンです、と畳の上に盆を置いて、千恵子は本をそっと健一に差し出した。古びて日に焼けたそれは小川未明の童話集で、千恵子が以前中里書店で手に入れたものだった。
「未明、お好きなンですの?」
「――童話なんて女子供の読み物と馬鹿にする者もいます」
 躊躇いがちに本を受け取って、健一は自嘲する様に呟いた。けれども彼が実際にはそう考えているわけではないことは明らかで、だから千恵子は彼の欲しがっている答えを唇に載せてやった。
「言いたい方には言わせておけば良いンです。そう言う人達がどう言ったッて、素敵なものは素敵なンですから」
 そうでしょう、と真摯な声音で語りかけると、健一は一寸呆気に取られた様に目を見開いて、それからははっと軽く声を上げて笑った。清水良雄の描いた、薔薇の只中でうなだれる年老いた兵士の表紙を愛しげに指先で撫で、健一は貴女は、と千恵子を何か神々しいものでも讃えるかの様に見つめていた。
「何時でも、僕には解けない問いを解くンですね」
 それから健一は勧められた湯飲みを手にしてぐいっと茶を一口飲み、照れ隠しの様に最中に噛り付いてうん、美味いと独り言を言った。

 写本のためにとその日本を借りて行った健一が次に千恵子を訪ねた時、ふと気付いた彼の鞄の中に潜んでいた何枚もの原稿用紙――それは勿論未明の童話を写したものだったが――の中、ひっそりと忍ばせられた見覚えのない一編のそれを健一が書いたのだと千恵子が知ったのはもっとずっと後の話。
 ああほら静かにして、虫の声がするわよ、とリサが微笑んで言い、ダニエルとニコラス――父――はきょとんと顔を見合わせた。月のきれいな秋の夜長、涼やかな風が吹き込むようにと窓はいっぱいに開けてあったが、そんなものはかけらも聞こえなかった。
「マム、何の話? 何も聞こえないよ」
 ダニエルはすげなく言い放ったが、父の方は妻のなんというか、激しい気性を知っていたのでもう少し慎重だった。
「僕らには聞こえないんだが、どうなんだろう。遠くで鳴いているのかもしれない」
 リサは不満そうに何事か言い返そうとしたが、ニコラスの加勢を得た息子はちょっと調子に乗って、大体、としてはならない口答えをした。
「『虫の声』ってなんだよ。虫が歌うなんて鳥じゃあるまいしさ、おかしいよ。どうかしてんじゃないの、マム」
 まずいと思ったのかニコラスはあわててダニエルの口をふさごうとしたが、「ダニー!」とリサが怒り狂う方が早かった。
 ヒロイ家の絶対権力者に、哀れな臣民がひれ伏して「ごめんなさい、もう言いません」と悔し涙を流したのは、ニコラスの制止も空しくリサがダニエルの頭をぽかりと一発やった後のことだった。

 「――でもマムは正しかったんだ」
 ふふふと笑う青年は子どもめいて靴を脱ぎ捨てた素足を冷たい芝生で遊ばせていて、暗がりの中、そのギャップがカタリナの心臓をとくんと少しだけ早くさせた。こんなふうに思うのは、きっと満月が煌々として空高くに上っているせいだ。こんな夜には誰だって、ちょっとはおかしくなる。
 正しかったって、と小首をかしげてみせると、いつになく上機嫌のダニエルは日本人には、とけれど少し寂しそうに言った。
「虫は――虫ったって、蚊とか蜂とか、ああいうのじゃない――『歌っ』てるように聞こえるらしいんだ。りーんりーんとか、ちんちろちんちろとか」
 その虫の「声」だけぎこちのない日本語のアクセントで言ってみせると、ダニエルは芝生の中にどさりと身をうずもれさせた。青草の倒れた、えぐいような香りがした。
「ウエストポイントに入ってから、何かの本で読んだ。日本語が母語だと虫の『声』が聞こえて、それ以外の言葉が母語だと雑音にしか聞こえないか、何も聞こえないって」
「おもしろいね。初めて知った」
 うん、とやさしい声でダニエルは言って、そっと目を閉じた。
 彼の横に何の気なしに寝転がることができなさそうで、カタリナは少し迷ってからほんのわずか、横たえられたダニエルの細い身体の方へと、彼よりももっと細く華奢な自分の身体を寄せた。吐息のようにも感じられる、人の持つぬくみに似た気配が彼に一番近いところから伝わった。
 そうしてずいぶんと時間が経ってから、ぽつりとダニエルがでも知る前より俺は寂しくなったよ、と小さくこぼした。
「俺には、マムと同じものは絶対に聞こえないんだってわかって」
 ふさわしい言葉を見つけられず、カタリナは途方に暮れた。痛いほどの夜の静寂が――あるいは静寂と思えるものが――耳を打つ。
 不意にどうしてもダニエルに触れたくなって、泣き出しそうになりながら目を閉じたままの彼の指先に自分の指先をからめ、カタリナはわけもわからず言った。
「――大丈夫、私にも聞こえないから」
 少女の手を、青年は振り払わなかった。
「うん、」
 ほころぶようにうっすらと開かれたダークブラウンのまなざしが、月の光でもっと甘い、不思議な琥珀色に見えた。
「そうだな。お前にも聞こえないな、きっと」
 ニュージャージーの夜は、ただ静かだった。
 正月に日本を訪ねた時には必ずキモノを着せろとねだるカタリナに、甘やかしの実母は夏だからと浴衣を用意していた。たもとと襟から玄妙なグラデーションを描いて裾では薄い青に変化してゆく地に赤い金魚を散らして、帯は金魚と同色の鮮やかな赤。その上にさらに桃色のやけにひらひらとした薄い帯――兵児帯というのだと実母が言った――をくるりと巻いて、そのあどけなさ故に年より幼く見えるカタリナは、けれど宵闇の中で妙に大人びてうつくしく見えた。
 似合う? と微笑んで問うてきた彼女に、いつものようにああ、と答えて頭を撫でてやらなかったのはだからで、きれいだと言ってやったことなどそういえば初めてだと気づいたのは、最初の花火が打ち上げられてしばらくしてからだった。隣で手を叩いてはしゃぐカタリナをそっと見やって、改めて彼女の年齢を自覚する――もう十七歳か。妻もいない若い養父などには、そろそろ持て余す年頃だ。
「――なに?」
 ふと視線に気づいたカタリナがきょとり、と小首を傾げるのに、なんでもないと苦笑して再びとりどりの光が打ち上げられた夜空をほら、と示す自分は、少しずるいと思った。

 から、から、とおぼつかない音を立てて赤い鼻緒の素足を進めるカタリナは、今はもう興奮も少し冷めて、買ってやった丸ごとのリンゴに飴をかけたものをちろちろと舐めながら、もてあそぶようにくるくると回したりしていた。実母は飽きて、とうの昔に先に帰るわ、と花火見物を放棄していたから、今並んで歩いているのは自分と彼女の二人きりだ。
「きれいだったな」
 沈黙から逃げるようにつぶやくと、振り向かないままにカタリナはうん、とうなずいて、また来年も見たい、とあまり期待していないような口調で言った。今年の休暇が偶然だということを理解していて、こんな時ばかり癪に障る少女だ。
 少しばかり意地の悪い気分になって、からかうように二人で? と問うと、足音は止まらなかったが手の中のリンゴは動きを止めていた。いつもこのくらいわかりやすければいいのに、と思う。彼女のように複雑な――とても複雑な少女の胸の内を知るには、自分はあまりにもシンプルに作られすぎていた。
 もうあの角を曲がれば実母のマンションに辿り着く、というころになって、カタリナは不意にうん、と脈絡のないようなささやきをこぼした。
「――うん、二人で」
 小さな鈴のついた巾着を持った手が白くなるほどに握り締められているのに気づいてしまったから、彼女の必死さを理解してしまった。
 ――複雑で、シンプルで、自分たちの間に横たわる絶望的なまでの距離の向こう側から手を伸ばし続けている。その手を払いのけることができるほどに、強くはなれなかった。
「――じゃあ、二人で。来年も」
 からん、と下駄の音が鳴って、振り返らないカタリナの顔がにこりと笑んだのを確かに見たような気がした。

舞姫。

2006年7月12日 その他
 薬を、と細い叫びが鼓膜を震わせ、わななく白い手がよろめいて空に伸ばされた。このあばら家のどこに薬などがあると言うのか――もはや夢と現の境が、彼女の中には存在しないのだろう。あるいはその手がつかもうとしているのは、薬などではなくもっとずっと彼女にふさわしいそれなのかもしれなかった。
 ばたりと、手が落ちる。女は痛い、痛い、とか細く泣き、崩れた顔を晒すことを恥じるようにそっと力ない手で覆った。
 ひとしきり、女が泣き止むのを待って、ふちの欠けた急須の吸い口を、ほんの一年前までは一吸い一両、とまで謳われた唇に押し当てる。ゆるく傾けて重湯を流し込んでやると、かすかに喉がうごめいて、それを飲み込んだ。最後に残った一握りの米を炊いて作ってやったものだった。
 あばら家にはもう、金になりそうなものは何もない。女が持っていた着物だの簪だのは、ひとつずつ、一年間をかけて売られ、もっと現実的なもの――たとえば食物、あるいは薬――へと姿を変えていた。日の光が表からふわふわと差し込み、それでもなお薄暗い家には、湿気た薄い布団が一組と短いろうそくが一本、そして、そしてそう、女の矜持の明確な形たるものが、そればかりは売られることもなく残されていた。
「――、」
 吸い口を口から離してやると、女が呼んだ。その囁きほどのかすかな空気の振動に合わせるように答えを返すと、此岸へと今一度舞い戻った女は言葉を続けた。
「モシエ、わっちの、――わっちの、…」
 舌がもつれている。
「おうぎは、どこぞに、売っちまったンだろうネ――?」
 ようやくのように薄く開かれた二つの目が、あらゆる欺瞞を暴くようにざらりと辺りを――横になったままで届くだけの世界を、舐め回す。無遠慮な視線がむしろ痛々しい。もはや優雅さと名づけられるような類のものを取り繕う余裕は、女にはなかった。
 女が床についてより、彼女の代わりに、と肌身離さず持ち歩いていた扇を閉じたまま、その手に押し与えてやる。女は疑り深くものろのろと扇を開き、その白地に、ほんのひとさしの紅色で梅の花が描かれているのを見ると、あぁ、と安堵のような、嘆きのようなため息をこぼした。崩れた顔が歪み、女は笑んだ。
「ホンニ、おめぇさんは、うれしがらせをしてくれるわナ、三国一の箱廻したァ、おめぇさんのことに違いあるめぇよ」
 つ、と女の目尻から涙があふれ、こめかみを伝った。それをぬぐってやる間もなく、つかれた、と吐息のようなかすれた声が言い、女は目を閉じた。
 やがて、乱れていた呼吸が落ち着き、細くもおだやかなそれに変わった。女は眠ったようだった。
 ――あぁ、と男は声にならない歓喜の音を喉から漏らした。女の崩れた顔にわずか指先ばかりで触れながら、この誇り高い女の、おそらくはもう数日後か、あるいは数時間後にさえ迫った死を思う。病ゆえに打ち捨てられた女との暮らしは無論楽ではなくむしろ辛かったが、それでもその終わりを男は恐れた。今この瞬間に、時など止まってしまえば良いと思った。
 いつの間にか、戸の隙間から荒れた家に差し込む光が、宵闇に明るく輝く蝋燭や提灯の橙色になっていた。女はふと目を覚まし、正気めいた表情で男を見上げて小さく笑った。
「おめぇさんは、三つ四つの子ォじゃアあるめぇに、大の男が泣くンじゃアねえわナ」
 女は扇をそっと枕元にやり、ふらふらと両手を男の頬に添えた。そうとは知らぬ間にこぼれていたらしい涙を、女の白魚のような指先がぬぐう。その力ないしぐさに、また涙が落ちた。
 それはさながら夢のような、あるいは奇跡のような一瞬でさえあった。有り得たはずのない現実に、男は慄いた。女に触れることなど、かつては思いも及ばなかった。
 表で、名の知れない鳥がギャア、と喚いた。日は沈みかけ、間近な女の顔さえももはや見えないまでになっていたが、そのおだやかであった表情が途端、ねじれるように引きつったことだけは瞬間的にわかった。ヒイ、とけだもののような悲鳴を喉からあふれさせ、女は彼女に残された力のすべてで男を押し退け、突き飛ばした。
 男は、無論弱った女に好きにされるほどにやわではなかった。だがそうされてやらなければならないような気がして、ささくれた畳の上をいざり、布団から離れた壁際で手足を投げ出して座り込んだ。涙はこぼれず、ただ遠い違う世界の景色を眺めるように、女の壊れゆく様を見つめた。
 痛い、と女は叫んだ。幼い子どものように握り拳で布団を叩き、傍に置き放しになっていた急須を壁に投げつけた。瀬戸物の割れる音に、またヒイ、と悲鳴を上げる。
「薬を、――薬を!」
 女は男をまるで目に映さず、そのくせ男の名を呼び叫んで何故いないのかと罵り、己の髪を掻き毟り、悔しさに耐えぬふうに布団を噛み、引き裂いた。投げられた枕は男の足にぶつかった。
 辺りのものをひとしきり投げ尽くし、女が最後に手にしたものは白い扇だった。女は手を振り上げ、それさえも、その矜持さえも一瞬投げつけようとしたが、どうした気まぐれか、手を下ろし、探り見るように扇を頬に押し当て、はらはらと涙を流して泣いた。
 男はきちんとその様子を見ていた。女は正気づいたように見えた。男は今一声、何かしらの言葉を女にかけようとした。
「姐さ、」
 瞬間、女はさらばえた身体からひとかけらの力さえも使い果たし、ど、と布団にくずおれた。男はひゅ、と息を飲み、女に手を伸ばしかけたまま、しばし身動きできずにいた。女は、その扇を握り締めた手さえ、ちらとも動かない。女は彼岸へ向かったのだった。
 それから男は己が手を引き戻し、静かに両手を合わせた。
 従兄の様に強い訳ではないかもしれないけれど、この人はとても優しくて、素敵な人。

 父方の伯母のことは、あまり好きではない。出世もしないと言っては父を嘲り、家事もできないと言っては母をなじる。三日と空けずにわざわざ家へ来てそんなことを愚痴って帰るものだから、千恵子は余程そんなんじゃア貴女の方が家事ができていないンじゃないですか、と言ってやりたいのだけれど、そう言えば余計に父や母が困ることを知っているからしおらしい顔をして頷いておく。そんな自分が、千恵子は余り好きでない。
 それにつけても理解に苦しむのは、あんな伯母から従兄の様な立派な人が生まれたことだ。彼は聡明で強く、その上いつでも優しかった。ちえちゃん、と彼が自分を呼ぶ時の少しのんびりとした甘い低い声を、千恵子はまだきちんと覚えている。
 ちえちゃんは賢い子だから、もっともっと勉強するが良いよ。そんな人なら誰だって放っておかない、一番好きな人を選びなさい。兄さま、と呼んでいた彼は、とても進んだ考えの持ち主だったのだと思う。
「女に学問なんかいらないでしょう、貴女の父さんは甘いのねえ。女学校なんてあんな所に行って役にも立たないことをやっているから、貴女の母さんは家事もちゃんとできないんですよ。それより伯母さんの家にいらっしゃいな、家事の他にお花もお茶も教えてあげられるし、申し分のない旦那様も見つけてあげますよ」
 だから父を貶されたことよりも母を馬鹿にされたことよりも、従兄の言葉を全くの初めから覆した、その事実その物が千恵子には許せなかった。
 それは伯母への当て付けではなく、従兄の遺言を後生大事に抱えていたせいでもなく、ただ彼を亡くした数年間で自然と千恵子の心に芽生えた幼くも熱い感情だった。伯母の様にはならぬ、私は私の足で歩いて、一番好きな人を選ぶのだ。
 女学校へ行きます、と何者の干渉も認めない娘の言葉に、物静かな父は一つ頷き、「好きにしなさい」と言った。

 少し離れた、けれど温もりを感じる距離を歩く青年を盗み見るように見つめながら思う。
 ――この人が、私の一番好きな人。
 今日のために買ってもらったドレスは強い日差しを浴びて輝く波のような色のマリンブルーで、肩のストラップに安っぽいけれどとてもきれいなビーズのアクセントがついているところと、ダンスでターンするとふわりと広がって花のように見える軽い裾がお気に入りだった。のどもとを飾るのはこの間の誕生日にダニエルの実母リサがわざわざ日本から贈ってくれた、シンプルだけれどヘルガでさえちょっと目を見張るほどものの良いパールのネックレス。髪も大人っぽくアップにして「オズの魔法使い」に出てくるドロシーのような銀色の靴を履いて、だからダンスパーティは大成功だった。
 バイバイ、と親から借りたという車で家の目の前まで送ってくれたエドワードにとびきりの笑顔で手を振って、カタリナは軽やかに夜露に濡れた芝生を踏み分け、玄関ではなく庭へと回った。外へ出ることのできる大きな窓はいっぱいに開けられて、白いレースのカーテンが風をはらんでふくらみ、ゆらゆらと手招きをしている。銀の靴を脱いで内側に引き入れ、きれいに並べて置いておく。
 リビングは暗かったが、向こうのダニエルの小さな仕事部屋のドアがわずかに開いて、そこからやわらかなオレンジ色の光がこぼれていた。興奮に火照った身体を心地よく冷やしてくれる床の冷たさを足の裏で感じながら、カタリナはひたひたとドアに歩み寄った。
 近づくにつれてカタリナは、部屋からカタカタとすばらしいリズムでキーボードを叩く音と、それからカタリナの知らない、けれどもチェロの、低音がひどく耳にやさしいクラシックが聞こえることに気づいた。時刻はもう真夜中だが、ダニエルは相変わらず忙しくしているらしい。
 こんこん、と軽くドアを叩くとキーボードを打つ音が止まり、がたりと小さな音を立ててダニエルが立ち上がったことをカタリナに知らせた。次いでもう少しだけドアが開いて、昔はずっと高かった、今はそうカタリナ自身と変わらない背丈の青年が姿を見せる。仕事用の軽い度が入ったメガネをかけ、一日を終えてくたびれたカーキ色のシャツをそのまま着ていたダニエルは、疲れたように少しだけ笑った。
「――お帰り。楽しかったか?」
 そのまま彼だけの空間からするりと抜け出て、ぐんと大きく全身を伸ばすダニエルは、どこかしなやかなネコ科のけもののようにカタリナには見えた。
「うん、すごく。あんなの、私、初めてだった。ドレスも、きれいってほめてもらったよ」
 そうか、とひかえめながら我がことのように親身な喜びをその声ににじませて、二十六歳の父親は十六歳の娘の頭をそっと撫でた。それからそっとレディの手を取ってさりげない調子でソファに座らせ、ダニエルの方はその斜め向かいにカウチの背にもたれて気楽なふうに立ったままでいた。
「ともかく、パートナーの足を踏まなきゃ上出来だよ。俺はそれで失敗したんだ、緊張してて――でも今でもダンスは苦手だな」
 嘘、と笑いながらカタリナは目尻に浮いた涙を指先でぬぐい、首を横に振ったが、ダニエルはいや本当に、と言ってゆずらなかった。だが、その口調からも失敗談を語る口調からも、先ほどべっとりと彼に張り付いていた疲労は抜けていた。
 しばし嘘だ本当だの押し問答を繰り返した挙句、業を煮やしたのはカタリナだった。そんなの、とつくろった傲慢なしぐさと口ぶりでつん、とダニエルにのたまう。
「体験しなきゃ、私、信じない」
 ダニエルは眉を跳ね上げてふん、とおもしろそうに鼻を鳴らすと、後悔するなよ、と確実におもしろがっている色をにじませながらつぶやいた。女王めいてゆったりとソファに腰を下ろすカタリナに、ごく洗練された紳士の礼をひとつ。
 顔を上げた彼は、引き込まれそうに深い東洋人の黒い目で、じっとカタリナを見つめた。
「――Shall we dance?」
 にっこりと笑ったカタリナの答えは、始めから決まっていた。
 煮え立つスープの底からもがいて浮かび上がるように、意識をふと取りもどした。手足が馬鹿に冷たい。誰かかけるものを、と不機嫌にうめくが、家のメイドは気の利かない馬鹿な娘で、その程度で女主人の要望を聞き届けてくれるはずもない。仕方がない、と縫い付けられたように言うことを聞いてくれないまぶたをどうにか押し開くと、そこは数ヶ月でようやく見慣れた新居の天井ではなく、ぞっとするほどに清潔な、病院めいて白いそれだった。
 え、と困惑しながら身を起こすと、彼女が身につけていたそれは寝巻きでもお気に入りの若草色のドレスでもなく、馬鹿にしているのかと思うほどにそっけない、真っ白なドレスだった。コルセットは、とあわてて確かめると、どこの誰だかは知らないが、そこまで厚顔無恥な輩ではなかったらしい。
 ともかく今この瞬間の身の安全を確かめると、どこか天の高い場所に預けられていた記憶が、どっと降り注いできた。ここが自宅であるはずはない。だって自分は、……自分と夫は、新婚旅行中だったのだから。
 だが身を横たえていたのはホテルのものとは似ても似つかない硬いベッドで、それは独房めいたこの部屋の壁際にぴったりと寄せられていた。ドアがひとつと、窓がひとつ。どちらにも鉄格子がはめられていて、彼女は以前、錯乱した友人を見舞いに行った病院を思い出した――つ、と背筋に冷たいものが這いずる。知らない内に自分は発狂でもしていたのだろうか。
「待って、待って……わたしは正常よ! どこからどう見たって!」
 青ざめてひとり叫んだその時、かちり、とドアの鍵が外される小さな音がして、鉄格子の向こうに女の顔が覗いた。恐ろしいほどに無表情な青白い顔をした、虚ろな目の色の女だった。否定したくてたまらない病院の文字が、彼女の頭をまた過ぎる。
 女は重たげな鉄のドアを軋ませながらなんとか開き、一歩、部屋の中に足を踏み入れた。彼女が着ているものと寸分違わない白いドレスの裾がゆらりと揺れて、血の気のない爪先がちらとのぞいた。看護人の付き添いがない。結い上げられもしない長い黒髪が不気味でたまらない。彼女はひ、と喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
 女はすうと両手を広げて、ぱたぱたと二三度のまばたきをした。
「ようこそ、『研究所』へ。歓迎するよ、同胞」
 女の薄い唇からこぼれた声は、耳に心地良いアルトだった。そうしておどろくべきことに、それは理性の響きを持っていた。予想外の音に、彼女はおどろいて目を見開いた。
 もっとも、と男がするように皮肉げに唇をゆがめて、女はぱたりと両手を身体の両脇に落とした。うつむきぎみに軽く伏せられたその表情は、彼女からはよく見えなかった。
「――死んだ方がましだったけれどね」

 一の魔女、と呼ばれていた女が、誰より愛した男を目の前で失ったのだと、聞いたのはもっとずっと後のことだった。
 これは緩慢な死であるのだと、彼女は静かに自覚していた。静かに――あるいは冷ややかに。彼女から熱は奪われて久しく、そうして彼女に熱を与えるものはこの研究所にはない。そうして、ならば彼女は死ぬしかなかった。
 否、だけれども、彼女には死さえも許されてはいなかった。冷えた手術台に横たわり、歪み、たわんでねじれてゆく天井をどろりとしたスープの底から眺めるようにしているこんな時に、ふとそんなことを思い出した。
 生はなく、死さえも持たないとするのなら、この身をやわらかく包むこの感覚はなんなのだろうと彼女は訝った。考えてみればこうした哲学めいたことがらを思考するなど、ごく久しぶりのことだった。ただ楽になりたいと思っていた。それが薄い膜のように全身を覆って倦怠に彼女を満たしていた。

 ただどうと言うことはなく、絶望という、ずっと昔に習った、使う機会などあるとは思えなかった単語を思い出した。

 くっと唇の片側を吊り上げると、薬の具合を確かめようとこちらを覗き込んでいた男の顔があからさまな恐怖に引きつった。とろとろと全身を、再びそれが覆い尽くしてゆく。彼女の目はもはや何をも映さなかった。その必要性を感じず、そうできるだけの力もなかった。彼女はすうと目を閉じた。
 二度と再び出会うことのない男を想う。もう夢は見ない。男の姿を思い出せない。ただやさしくこの髪を梳いていた無骨な手を、この世と彼女の曖昧な境界越しにはかなく感じた。
 おめぇの見送りなんかい行けねぇよ、と父は言い、母は黙って戸口の所で握り飯の弁当を持たせてくれた。一番上の弟でさえ尋常の四年生、一番下は矢張り弟で、未だやっと手を引いてやって歩ける様になったばかり。そんな二人を入れて合計四人の弟妹達は、朝から桑を刈りに行けと、鎌と籠を持たされて何処かへやられていた。彼らは皆長兄に懐いていて、これからあにさんは遠い所へ行って暮らすのだ等と聞かせたら揃って泣き喚くに違いなかったから、それはきっと両親の思いやりだったのだろう。
 君は賢い子だ、もっと勉強しなさい、と言って学費の負担を申し出てくれた未だ若い教師の、ペン胼胝の出来た手を握ってただ街の駅への長い長い道程を歩く。これは俺んとこのでぇじな上のおとこしだ、来年からは畑の仕事をさせる、と顔を真っ赤にして怒鳴る父に、どうか中学に行かしてやって下さいと土間に土下座をしさえしたあの強情な面影は今はなく、ちらりと隣を行く彼を見上げても、村の他の大人達とは一線を画した、静かに理知的な痩せた顔があるばかりだった。
 せんせえよぅ、と風呂敷包みの握り飯を妙に意識しながら声をかけると、うん、と教師はこちらを向いた。彼は、少し微笑んでいるようにも見えたが、もしもそうなのだとすればそれは苦しそうな笑顔だった。
「俺んち、ど貧乏です。せんせえに借りた金も、いつ返せるか、返せないかもわかんねぇ」
 相槌を打つでもなしに、ただ教師は黙って耳を傾けていた。
「――それでいいんかな? 俺、せんせえに金借りて、弟と妹と働かして中学行って、でもきっと高校は行けねぇ」
 学費が幾らなのかも教師の月給が幾らなのかも知らなかった。だけれどそれでもようやく一人前になりかけた男手が百姓家から一人減ることが家族にとって酷い負担になることは間違いなく、去年街から嫁を貰った教師の生活が切迫することもどうやら子どもの浅慮ではないように思えた。
 賢いと褒められることは嬉しかった。もっと勉強したいと思ったのも事実だった。だが降って沸いた学費負担の申し出に狂喜した後に見えた生活と言う名の現実は、尋常を出たばかりの少年の目にまざまざと映し出されて希望を苛んでいた。
 彼の一歩後ろで、下げた風呂敷包みを手が白くなる程に握り締めた子どもを、教師はあの苦しげな微笑みと共に見つめた。あたかも、そうした生真面目な性格がもたらす葛藤は予想していたとでも言いたげに。
「――僕の家は、日野で梨を育てていてね」
 師範学校時代に矯正でもしたのだろうか、教師の喋る言葉はいつも村では聞き慣れない、山の手の言葉だった。ただ、僅かばかりそこに残る泥臭いアクセントを、子ども達は殊の外笑い、それでいながら好いていたけれども。
「僕の中学の学費は、矢っ張り家では出なかったから、親戚が出してくれた。両親も君の父上の様に嫌がった」
 でも、と教師は不意に微笑みを顔から消した。
「そうやって学校に行ったから、今僕は君を中学にやってあげることも出来るし、両親に仕送りも出来る」
 僕が言えるのはそれぎりだよ、と教師は言い、またあの苦しそうな微笑みを顔に呼び戻して、昼餉にしようかと道の脇の大きな石に腰を下ろした。並んで石の上に腰掛け、風呂敷と竹の皮に包まれた大きくて不細工で塩の味しかしない握り飯を喉の奥に押し込む――ゆっくり咀嚼すること等出来そうになかった。そうしてしまえば泣いてしまいそうだった。おとこしは泣くもんじゃねえ、と父は言ったのだ。
 せんせえよぅ、と正月にしか見たことのなかった白米だけの握り飯を哀しく思いながら言った。
「俺、高師に行く。そいで、せんせえになって皆んなに仕送りしてやりてぇ」
 ぼろりとどうしようもなく零れた涙と一緒に最後の飯粒を飲み込んだ健一に、教師はうん、とだけ言いながら、水筒の水を差し出した。
 クリスマスと言う行事が欧羅巴の国々ではあるのだ、と教えてくれたのは、十以上も年上の従兄だった。

 「樅の木にガラスや銀で作った天使やくす玉の様な飾りを吊るしてね、鶏の丸ごと焼いたのや焼いた洋菓子なんかの大層な御馳走を食べる」
 火鉢の上では薬缶がしゅんしゅんと沸いているが、小峰の家は今日は千恵子と従兄ぎり残っていて、家人は出払っている。そのせいで、師走の忙しい時期だと言うのに、家は不気味な程しんと静まり返っていた。千恵子は耳が痛い程の静寂を怖がる厄介な性質の子どもで、兄様お話して、広い肩幅と大きな手を持つ優しい従兄に甘えるのは、別にこれが始めてと言う訳ではなかった。
 それでお土産に持って来た金平糖の小さなビンを、おかっぱ頭も愛らしい少女のために開けてやり、洋菓子の代わりとばかりに桃色の金平糖を千恵子の口に入れてやりながら、従兄は話を続けた。
「二十四日の夜には、ちえちゃんの様な子どもは皆んな布団の所に靴下を下げておく。そうすると夜中にサンタクロウスと言う仙人の様なお爺さんが来て、贈り物をくれるんだよ。ちえちゃんも良い子にしていたら、明日の朝には贈り物を貰えるかもしれない」
 それは確か十二月の大晦日も近い頃で、従兄はその時何かとても素敵な贈り物を千恵子にくれたのだったが、あれは何だったろうか。欲しがっていた赤い靴だった様な気もするし、もっと全然違う物だった様な気もする。ただ、そうして従兄は彼の分の贈り物をくれたのに、次の日の朝起きてみると布団の横には綺麗な千代紙と真っ赤なリボンで飾られた大きな包みが置いてあって、中には金色の巻き毛と空色の目の大層可愛らしい仏蘭西人形が入っていた。
 きっと兄様の言っていた、サンタクロウスと言う仙人が来たんだわ、と千恵子は喜び勇んでその夜は家に泊まったはずの従兄に見せに行こうとしたのだけれど、軍から急な呼び出しがあったとかで彼はもう家にはいなかった。また今度いらした時に見て頂きなさいな、と母は言ったけれど、結局従兄に会えたのはその後一度きり、どこか遠い北の国に、「アカ」と言う悪者を退治し、良い外国の兵隊達を助けに行くと言うその朝だけだった。

 駐在武官の一人として独逸か仏蘭西か、どこか女学生になって初めて知った様な名前の国へも訪れた従兄はもういない。シベリアに出兵した彼は二十五歳で時を止めてしまって、二度と千恵子に金平糖や赤い靴をくれることも、クリスマスの話をしてくれることもないのだ。
 だから千恵子は、未だにあの仏蘭西人形のお礼を従兄に言えないままでいる。幼く無知であったことは、幸せだったけれど残酷だと、十七を迎えた今、ようやく知った。

継父。

2005年12月13日 長編断片
 父と母の間に子はなかった。一度母が身ごもったのは戦場で、そうと知れずに流れたのだと聞いている。
 自分に似ない息子を、それでも父は精一杯愛そうとしていた。

 両親は子どものために歩調を緩めるということを知らないひとたちで、いつでも二人、肩で風を切って歩いてゆく。その堂々として誇り高い後ろ姿に、少年はいつでも憧れた。
 だがその焦がれたはるかな高みが彼を見つめてくれることは滅多になく、もどかしいばかりに歩みの遅い己の足に泣き出しそうになりながら前を行く二人に言うのが常だった。待って、と、それはひどく勇気を必要とすることだったけれど。
 冷たい薄いブルーの目といかにも軍人にふさわしいような酷薄そうな顔立ちとは裏腹に、実のところ父の方が彼には甘かった。立ち止まった父は少しだけ表情をやわらかくゆるめて振り返り、彼が彼の足で追いついてくるのをいつでも待っていた。そうして彼が大きくてごつごつした骨太なその手を取ると、父は良し、と空いた手で頭を撫でてくれるのだった。
 対して母は照れがちな人だったのか、曖昧な困ったような微笑を浮かべて彼を見つめていることが多かった。女神像のようにうつくしい母の、その自分に似た深い緑のまなざしを、彼はとても好いていた。母は彼が父の手を取るのをじっと見つめていて、父にうながされて始めて気付いたとでも言うように、おずおずと彼の小さな手に指をからめるのだった。
 ――そうして、三人で手を繋いで歩いてゆく。二人だけでうつくしく完成され、完結された両親の間にその身を交えることができるのは、例えそれが不調和であっても自分だけ、彼らの息子たる自分だけなのだと思えば、一対を打ち壊してしまった言い訳も立つような気がした。

 だけれどいつしか、待ってと縋ることをしなくなった。
「お前とお前んちの父さん、似てないよな」
 それはもちろん自分のことであるから薄々知ってはいたものの、見ないふりをしていたことも、他人にそう言われればひどく傷つくことも事実だった。深い緑の目は母譲り、薄い唇やことさら白い肌もきっと母譲り。――けれど、母とも父とも違うこの金髪めいた薄い茶色の髪は。垂れ気味で、ともすれば優男にも見えるこの目元は。……誰から、譲り受けたというのだろう。
 子どもの変化に敏かったのはやはり父で、どうしたと声をかけてくれたことは嬉しかったが、少し怯えた。だがそれでも言葉にしようと思ったのは、きっと母が出張でいない夜だったからなのだろう。
「ねえ、父さんは――本当に、俺の父さん?」
 震えたまだ高い声に、父は顔をしかめて溜息をついた。それは父がごく困難な事態に行き当たった時に見せる表情だった。どう答えれば満足するのか知らないが、と捨て鉢気味な前置きをして、父は言った。
「私は子どもを持ったことはない。だがお前は彼女の息子だ」
 それで十分だろう、と呟く父の口調は、ひどくやさしげだった。だから彼は、むしろ母こそがためらいがちであった理由をようやく知った。それは父に対する遠慮だったのだ。
 なんと残酷なひとだろう。愛していないわけではないと知っているけれど、それでも彼女にとっての優先順位はもはや動かしようもなく決まってしまっている。だけれど、
「俺、父さんが好きだよ」
「ああ」
 母が向けた想いの分まで父が愛してくれるから、それでかまわないような気もした。

 血は水よりも濃いというけれど、そんなものは嘘だと知っている。
 似ない父こそが、彼の誇りだった。

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