待ちぼうけ。
2004年4月15日 アクア=エリアス(?) 息苦しくて胸が詰まる。心臓が痛い。
その痛みを押し退けようとして、さっきから氷河は何度も胸板に爪を立て、失敗していた――暗い夜の森の中、誰にも気づかれない場所で。
彼はほどなくしてその虚しい行為をあきらめ、せめて気をまぎらわせようと、上腕から手の甲にかけてほどこした赤い模様を、じっと見つめた。左手の甲には、大きな輪の中に中くらいの輪が、その中に小さな輪が、さらにその中にはもっと小さな輪がいくつもいくつも重ねられていた。氷河はその輪が無限に続くところを想像し、その数を数え始めた。一、二、三、四、……
太いものから細いものまで、さまざまな種類の筆で描かれた彩色は、新月の夜に、悪いものから身を守るために必要なものだ。血のような染め粉で身を飾らないのは、新月生まれのわずかな一族たちだけ――この夜ばかりは、神官長もその息子も、例外ではいられない。
細く、音を立てずに息を吐き出しながら、しかたがないだろうと独りごちた。月のない夜は、半分ヒトの血が混じってしまった自分たちにとっては、なによりも恐ろしい。夜の冷気が毛穴から血管に入り込み、心臓に到達してイラクサのトゲのようにゆるやかに――しかし確実に、そして深く――そのもっとも大切な内臓を傷つける。抗う術がないことこそが、氷河にとっては怖かった。
……、百二九、百三十、百三一、…
いつになればこの数が終わるのか、さっぱり見当もつかなかった。見当などつけたくはなかった。数を数えること以外のなにかを考え始めたら、心臓に刺さったイラクサのトゲをリアルにとらえてしまいそうだったので。
不意に、どこか遠くから静かな鼓の音が聞こえた。とん、とん、と単調なリズムを刻む。それは心臓の鼓動と同じ拍数を打っていた。祭りが始まるのだ。けれども、まだ立ち上がりたくなかった。呼吸がうまくできずに、苦しかったのだ。
…二百、二百一、二百二、二百三、……
父もこんな倦怠感を味わったのだろうかと思う。そうなのだろう。だが彼にはいつでもそばに親友がいたはずだ。甘えたがりの父を叱咤する、おそらく自分の周りにいる大人の中では、一番現実主義者の彼が。
父がそうだったのだから、自分だって待っていてもいいだろうと、氷河はぼんやり考えた。一番の親友を、もう少しここで待っていても。
鼓の音と心臓の鼓動を聞きながら、輪の数を数え続けて待った。香月がのろのろと彼の目の前に現れた時、その数はちょうど千を数えていた。
その痛みを押し退けようとして、さっきから氷河は何度も胸板に爪を立て、失敗していた――暗い夜の森の中、誰にも気づかれない場所で。
彼はほどなくしてその虚しい行為をあきらめ、せめて気をまぎらわせようと、上腕から手の甲にかけてほどこした赤い模様を、じっと見つめた。左手の甲には、大きな輪の中に中くらいの輪が、その中に小さな輪が、さらにその中にはもっと小さな輪がいくつもいくつも重ねられていた。氷河はその輪が無限に続くところを想像し、その数を数え始めた。一、二、三、四、……
太いものから細いものまで、さまざまな種類の筆で描かれた彩色は、新月の夜に、悪いものから身を守るために必要なものだ。血のような染め粉で身を飾らないのは、新月生まれのわずかな一族たちだけ――この夜ばかりは、神官長もその息子も、例外ではいられない。
細く、音を立てずに息を吐き出しながら、しかたがないだろうと独りごちた。月のない夜は、半分ヒトの血が混じってしまった自分たちにとっては、なによりも恐ろしい。夜の冷気が毛穴から血管に入り込み、心臓に到達してイラクサのトゲのようにゆるやかに――しかし確実に、そして深く――そのもっとも大切な内臓を傷つける。抗う術がないことこそが、氷河にとっては怖かった。
……、百二九、百三十、百三一、…
いつになればこの数が終わるのか、さっぱり見当もつかなかった。見当などつけたくはなかった。数を数えること以外のなにかを考え始めたら、心臓に刺さったイラクサのトゲをリアルにとらえてしまいそうだったので。
不意に、どこか遠くから静かな鼓の音が聞こえた。とん、とん、と単調なリズムを刻む。それは心臓の鼓動と同じ拍数を打っていた。祭りが始まるのだ。けれども、まだ立ち上がりたくなかった。呼吸がうまくできずに、苦しかったのだ。
…二百、二百一、二百二、二百三、……
父もこんな倦怠感を味わったのだろうかと思う。そうなのだろう。だが彼にはいつでもそばに親友がいたはずだ。甘えたがりの父を叱咤する、おそらく自分の周りにいる大人の中では、一番現実主義者の彼が。
父がそうだったのだから、自分だって待っていてもいいだろうと、氷河はぼんやり考えた。一番の親友を、もう少しここで待っていても。
鼓の音と心臓の鼓動を聞きながら、輪の数を数え続けて待った。香月がのろのろと彼の目の前に現れた時、その数はちょうど千を数えていた。
ダージリン、ローズ、アッサム、シナモン、スリランカ、ウバ、ストロベリー、チャイ、アールグレイ。
一体どこから仕入れてくるのだろうと思うほどに、彼女は魔法のように――そうだ、実際魔法を使っていたのかもしれない。なにしろ彼女は魔女だった――いろいろな茶葉を持ち出してきた。家中に広がるどこか異国めいた香りが、彼は好きだった。目の前にあるものが、どこか幸せの象徴のような気がしたからだ。
けして高級ではないけれど使い込まれて愛着のあるカップに、音もなく注がれる深い赤の液体と、焼きたてのプレーンスコーン――そしてもちろん手作りのジャム。煎れる茶葉によってカップに注がれる色も微妙に違うのだと、教えてくれたのは彼女だった。
これが平和だというのなら、一生失いたくはなかった。たとえば我が身に代えてでも、彼女と彼女の煎れるアフタヌーンティーを守らなくてはならないと思った。
だからなのかもしれない。再び戦場にもどったのは。
一体どこから仕入れてくるのだろうと思うほどに、彼女は魔法のように――そうだ、実際魔法を使っていたのかもしれない。なにしろ彼女は魔女だった――いろいろな茶葉を持ち出してきた。家中に広がるどこか異国めいた香りが、彼は好きだった。目の前にあるものが、どこか幸せの象徴のような気がしたからだ。
けして高級ではないけれど使い込まれて愛着のあるカップに、音もなく注がれる深い赤の液体と、焼きたてのプレーンスコーン――そしてもちろん手作りのジャム。煎れる茶葉によってカップに注がれる色も微妙に違うのだと、教えてくれたのは彼女だった。
これが平和だというのなら、一生失いたくはなかった。たとえば我が身に代えてでも、彼女と彼女の煎れるアフタヌーンティーを守らなくてはならないと思った。
だからなのかもしれない。再び戦場にもどったのは。
彼女に会ったのは八年生の始業式だった。ホームルームのクラスに見慣れない顔がいて、先生――名前は忘れた――が転入生を紹介した。それがカタリナだった。
あまりうまくない英語でハジメマシテ、とつぶやいた彼女の隣の席が、俺だったのだ。
で、現在、カタリナは俺のガールフレンドである。告白した記憶もされた記憶もないが、ボールで一緒に踊ったり週末にデートしたりする関係の相手がおたがい他にいない以上、そういうことなんだろう。
しかし俺は、カタリナが意外にモテることを知っている。キムがこの間告白して、見事に玉砕したのも知っている。カタリナは結構可愛いし、養父というのがどうも相当頭のいい人のようで、賢いのだ。
その養父というのが意外なクセモノだと、俺はつい最近知った。大体十歳しか年の離れてない養父というのがまずおかしい。しかも養母はいない。ロリコンじゃなかろうかと、紹介された時に俺は真剣に悩んだものだ。もっとも、奴は奴でガールフレンドがいるらしいので、カタリナ狙いという線はほどなくして消えたが。
それでも俺が時々カタリナの家に行って奴に自分を見せつけるのは、カタリナが奴に対して、異常に過保護だからだ。実は彼女は奴が好きなのではないだろうか。そういうことを邪推するくらいだ。まぁ、彼女は誰にでも優しいからしょうがない。
――と、そんなことを考えていると、向こうの方からカタリナが走ってきた。時計を見ると、五分遅刻していた。見る予定の映画にはじゅうぶん間に合うだろう。
俺は物思いをやめて、ポケットに入ったマジェスタの鍵をさぐった。
彼女が本当は誰を好きだろうが、別に関係ない。なにしろ結局のところ、カタリナは奴とはそういう仲にはなれないのだ。だから、彼女は俺がもらう。
そういうふうに考えてしまう自分が、少し嫌いだった。
あまりうまくない英語でハジメマシテ、とつぶやいた彼女の隣の席が、俺だったのだ。
で、現在、カタリナは俺のガールフレンドである。告白した記憶もされた記憶もないが、ボールで一緒に踊ったり週末にデートしたりする関係の相手がおたがい他にいない以上、そういうことなんだろう。
しかし俺は、カタリナが意外にモテることを知っている。キムがこの間告白して、見事に玉砕したのも知っている。カタリナは結構可愛いし、養父というのがどうも相当頭のいい人のようで、賢いのだ。
その養父というのが意外なクセモノだと、俺はつい最近知った。大体十歳しか年の離れてない養父というのがまずおかしい。しかも養母はいない。ロリコンじゃなかろうかと、紹介された時に俺は真剣に悩んだものだ。もっとも、奴は奴でガールフレンドがいるらしいので、カタリナ狙いという線はほどなくして消えたが。
それでも俺が時々カタリナの家に行って奴に自分を見せつけるのは、カタリナが奴に対して、異常に過保護だからだ。実は彼女は奴が好きなのではないだろうか。そういうことを邪推するくらいだ。まぁ、彼女は誰にでも優しいからしょうがない。
――と、そんなことを考えていると、向こうの方からカタリナが走ってきた。時計を見ると、五分遅刻していた。見る予定の映画にはじゅうぶん間に合うだろう。
俺は物思いをやめて、ポケットに入ったマジェスタの鍵をさぐった。
彼女が本当は誰を好きだろうが、別に関係ない。なにしろ結局のところ、カタリナは奴とはそういう仲にはなれないのだ。だから、彼女は俺がもらう。
そういうふうに考えてしまう自分が、少し嫌いだった。
Is there no choice?
2004年4月5日 交点ゼロ未満 付き合っているんだろう、と言われれば、そりゃイエスと答える。大体そうでない女と、誰がベッドをともにしたりするものか。ダニエルとて、その程度の分別くらいは持ち合わせがあった。
だが結婚という選択肢を持ち出されるとなると、話は別だ。二十八歳、若いとは言えないが、晩婚だの生涯シングルだのがとりざたされる昨今、わざわざ面倒な道をとる必要はないはずだった――自分も、彼女も。
「馬鹿だと思ってるんでしょう、――結婚なんて言い出すようには見えなかったって?」
ヒステリー一歩手前の状態で、なんとかダニエルをにらみつけているようにしか見えなかった、ヘルガは。彼女の口元はひくひくと、奇妙な笑みの形にゆがめられていた。
「ヘルガ、別に俺はそういう…」
「同じことじゃない!」
悲鳴のような叫びでダニエルを牽制し、ヘルガはついに口火を切った。
「大体カタリナ、カタリナって、ベッドにいる時までそんなこと聞きたくないのよ! たまにはもっと中身のあること言えないわけ、このクソ馬鹿野郎!」
ダニエルはぎょっとして身を引いた。そんな口汚い言葉を聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。まして吐いたのは情報部一ともうわさされる美人だ。一瞬、耳をうたがった。
だがヘルガの方はずいぶんと冷静で、弱々しいためいきをもらすと、バッグからシボレーの鍵を出した。踵を返しながら、つぶやく。
「……帰るわ。しばらく私の前でカタリナの話はしないで」
自身のセリフを後悔しているような口調ではあったが、彼女の背筋はぴんと伸びていた。それがせめてもの虚勢だったのかもしれない。
ダニエルは呆然とヘルガを見送り、途方にくれた。
だが結婚という選択肢を持ち出されるとなると、話は別だ。二十八歳、若いとは言えないが、晩婚だの生涯シングルだのがとりざたされる昨今、わざわざ面倒な道をとる必要はないはずだった――自分も、彼女も。
「馬鹿だと思ってるんでしょう、――結婚なんて言い出すようには見えなかったって?」
ヒステリー一歩手前の状態で、なんとかダニエルをにらみつけているようにしか見えなかった、ヘルガは。彼女の口元はひくひくと、奇妙な笑みの形にゆがめられていた。
「ヘルガ、別に俺はそういう…」
「同じことじゃない!」
悲鳴のような叫びでダニエルを牽制し、ヘルガはついに口火を切った。
「大体カタリナ、カタリナって、ベッドにいる時までそんなこと聞きたくないのよ! たまにはもっと中身のあること言えないわけ、このクソ馬鹿野郎!」
ダニエルはぎょっとして身を引いた。そんな口汚い言葉を聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。まして吐いたのは情報部一ともうわさされる美人だ。一瞬、耳をうたがった。
だがヘルガの方はずいぶんと冷静で、弱々しいためいきをもらすと、バッグからシボレーの鍵を出した。踵を返しながら、つぶやく。
「……帰るわ。しばらく私の前でカタリナの話はしないで」
自身のセリフを後悔しているような口調ではあったが、彼女の背筋はぴんと伸びていた。それがせめてもの虚勢だったのかもしれない。
ダニエルは呆然とヘルガを見送り、途方にくれた。
バイバイ。
2004年4月4日 アクア=エリアス(?) 彼がいなくなってしまってから初めて、自分がありがとうだとかそういう類の言葉をなにひとつとして伝えていないことに気付いて、愕然とした。言わなくても彼がいろいろなことを悟ってしまうことを知っていたから、わざわざ口にしたことがなかったのだ。大体、ちょうど思春期をむかえたばかりの自分は、そういうことを言うのがおもはゆかった。
けれど、今になって後悔している。ありがとうもさようならも、なにも言えなかったことを。
十六歳の誕生日の翌日、目覚めると家の中は空っぽで、その代わりテーブルの上にはまだ湯気をたてる朝食が並んでいた。いつもそこで頬杖をつきながら新聞を読んでいるはずの養い親は、もういなかった。
そう言えば寝る前に、妙にやさしげに頭を撫でておやすみ、と言っていた。てっきり自分の目の前で消えてゆくのだと思ったのだが、当てが外れた。葉月はぼんやりとテーブルについて、もそもそと食事を始めた。
朝食は美味しかった。焼きたてのベーコンも、茹でたての卵も、作りたてのバターをそえたパンも、なにもかも。
馬鹿だ、と思った。彼は馬鹿だ。五年も一緒に暮らしていて、しかも養い親だと公言していたくせに、葉月の本当にほしかったものをなにひとつ理解していない。
本当に馬鹿だ、とつぶやいて、葉月は残りの朝食をいそいで飲み込んだ。
本当は言いたいことがあった。言わなくてはならないこともたくさんあった。けれどそういうものは全部自分はどこかに置き忘れてしまって、彼は聞きそこねたまま、月に還ってしまった。
与えてもらったものはたくさんあるのに、与えたものはなにもない。せめて今からでも自分の言いたいことが彼にとどくように、葉月は月見草を窓辺に飾ったのだった。
けれど、今になって後悔している。ありがとうもさようならも、なにも言えなかったことを。
十六歳の誕生日の翌日、目覚めると家の中は空っぽで、その代わりテーブルの上にはまだ湯気をたてる朝食が並んでいた。いつもそこで頬杖をつきながら新聞を読んでいるはずの養い親は、もういなかった。
そう言えば寝る前に、妙にやさしげに頭を撫でておやすみ、と言っていた。てっきり自分の目の前で消えてゆくのだと思ったのだが、当てが外れた。葉月はぼんやりとテーブルについて、もそもそと食事を始めた。
朝食は美味しかった。焼きたてのベーコンも、茹でたての卵も、作りたてのバターをそえたパンも、なにもかも。
馬鹿だ、と思った。彼は馬鹿だ。五年も一緒に暮らしていて、しかも養い親だと公言していたくせに、葉月の本当にほしかったものをなにひとつ理解していない。
本当に馬鹿だ、とつぶやいて、葉月は残りの朝食をいそいで飲み込んだ。
本当は言いたいことがあった。言わなくてはならないこともたくさんあった。けれどそういうものは全部自分はどこかに置き忘れてしまって、彼は聞きそこねたまま、月に還ってしまった。
与えてもらったものはたくさんあるのに、与えたものはなにもない。せめて今からでも自分の言いたいことが彼にとどくように、葉月は月見草を窓辺に飾ったのだった。
思い出。
2004年4月2日 アクア=エリアス(?) 養い親の手は大きく、亡くした母の手を思わせてどこか懐かしかったが、ひんやりとして体温がなかった。考えてみれば初めて顔を合わせた当時から彼は亡霊、身体のない「もの」で、母と同じようにいつか彼が「死ん」でしまうことなど、葉月には考えつきもしなかった。
あのねぇ葉月、とどこか気怠げに、つまりいつもとほとんど変わりのない口調で、氷河は切り出した。なんだ、と視線だけで問うと、モノ食い幽霊、などという悪評にふさわしくジャム付きパンをかじりながら、てれてれと彼は続けた。どうでもいいがいい年をした男がべったりと甘ったるいジャムを、さもうれしそうに舐める姿というのは存外神経に来るものだ。
「一週間後、誕生日じゃなかったっけ」
「そうだよ。十六歳」
うん、それは数えてた。
へらりと笑う氷河はいつになく間が抜けているように感じられて、葉月はちょっと眉をひそめた。いつもこの青年――実のところはすでに四十路に足を突っ込んでいる――はひどく饒舌なのに、今日に限ってなにかを遠慮しているふうだった。
何が言いたいのさ。警戒しながらうながすと、彼はぱたぱたと数度まばたきをして、うん、と小さくうなずいた。
「なんていうかさ――そろそろ、っていうかもう結構前から? 葉月、放っておいても平気そうだし、僕もいい加減香月のトコに行こうかなぁと思って」
そこまで一息に吐き出すと、氷河はまるでいたずらをした後の子どものように、どう思う、と葉月の様子をうかがった。
葉月はびっくりして、しばらくまじまじと氷河の顔を凝視した。ミルクのコップを手にしたまま。
止めることなどできないと知っていた。だが、再び親を失うことに耐えきれるのかと問われれば、どちらかといえば否を答えたかった。
そのうちにふ、と視線を外して、氷河は微苦笑を浮かべてみせた。
「いいよ、悪かった。今のは忘れていい」
ごちそうさま、とていねいに手を合わせて、氷河は食器を片付けにキッチンへと消えた。まさかそんなふうに逃れるとは思ってもみなかった。葉月もあわてて食器を持って、彼を追いかけた。
「氷河、今の」
「んー? だから忘れていいよ。冗談だって」
「そうじゃなくて、それってさ…」
少し口ごもって、けれど言わなければならないとわかっていたから、吐き出した。
「僕がいいとか言うようなことじゃないよ。氷河が決めることだよ、それってさ」
今度は氷河はこちらを凝視する番だった。彼は流しの水を出しっぱなしにしたまま、赤い目を見開いて唇だけで葉月、とつぶやいたようだった。それからどうしてか泣きそうな顔になって、大きくなったなぁ、となにか見当外れのようなセリフをこぼした。
七日目の朝に気付いたらいなくなっていた養い親は、教訓めいたしろものをなにひとつとして葉月に残さなかった――言葉では。彼が残したものはたったひとつ、生前の母を思わせる、冷たくて大きな手の感触だけだった。
あのねぇ葉月、とどこか気怠げに、つまりいつもとほとんど変わりのない口調で、氷河は切り出した。なんだ、と視線だけで問うと、モノ食い幽霊、などという悪評にふさわしくジャム付きパンをかじりながら、てれてれと彼は続けた。どうでもいいがいい年をした男がべったりと甘ったるいジャムを、さもうれしそうに舐める姿というのは存外神経に来るものだ。
「一週間後、誕生日じゃなかったっけ」
「そうだよ。十六歳」
うん、それは数えてた。
へらりと笑う氷河はいつになく間が抜けているように感じられて、葉月はちょっと眉をひそめた。いつもこの青年――実のところはすでに四十路に足を突っ込んでいる――はひどく饒舌なのに、今日に限ってなにかを遠慮しているふうだった。
何が言いたいのさ。警戒しながらうながすと、彼はぱたぱたと数度まばたきをして、うん、と小さくうなずいた。
「なんていうかさ――そろそろ、っていうかもう結構前から? 葉月、放っておいても平気そうだし、僕もいい加減香月のトコに行こうかなぁと思って」
そこまで一息に吐き出すと、氷河はまるでいたずらをした後の子どものように、どう思う、と葉月の様子をうかがった。
葉月はびっくりして、しばらくまじまじと氷河の顔を凝視した。ミルクのコップを手にしたまま。
止めることなどできないと知っていた。だが、再び親を失うことに耐えきれるのかと問われれば、どちらかといえば否を答えたかった。
そのうちにふ、と視線を外して、氷河は微苦笑を浮かべてみせた。
「いいよ、悪かった。今のは忘れていい」
ごちそうさま、とていねいに手を合わせて、氷河は食器を片付けにキッチンへと消えた。まさかそんなふうに逃れるとは思ってもみなかった。葉月もあわてて食器を持って、彼を追いかけた。
「氷河、今の」
「んー? だから忘れていいよ。冗談だって」
「そうじゃなくて、それってさ…」
少し口ごもって、けれど言わなければならないとわかっていたから、吐き出した。
「僕がいいとか言うようなことじゃないよ。氷河が決めることだよ、それってさ」
今度は氷河はこちらを凝視する番だった。彼は流しの水を出しっぱなしにしたまま、赤い目を見開いて唇だけで葉月、とつぶやいたようだった。それからどうしてか泣きそうな顔になって、大きくなったなぁ、となにか見当外れのようなセリフをこぼした。
七日目の朝に気付いたらいなくなっていた養い親は、教訓めいたしろものをなにひとつとして葉月に残さなかった――言葉では。彼が残したものはたったひとつ、生前の母を思わせる、冷たくて大きな手の感触だけだった。
なくしたもの。
2004年4月1日 アクア=エリアス(?) 失ったものたち――それは人だったり物だったりと色々あるのだが――をこの手に取り戻したいと願うわけではない。だが、ふとした拍子に思い出すことはある。あるいはもっとも大切なものはその必要もなく、常に胸の内に住んでいる。
なにを話していいのかよくわからずに、とっさに腕を伸ばして抱きしめた。ひとときでも力をゆるめたら、このまま腕の中の親友は月へ行ってしまいそうだったから。そんな氷河をからかうように、彼女はくすりと笑ったけれど。
「…笑うことないじゃないか」
いささか不機嫌になって鼻を鳴らすと、ゴメン、と言いながら彼女はからかいの笑みを微笑にすりかえたようだった。氷河からは、よく見えなかった。それが少し残念だった。
「別にどこにも行かないのに、なんでそんなことするのかと思って。子どもじゃあるまいし」
たしかにそのとおりだとは思う。子どもじゃあるまいし、馬鹿げた妄想に取り憑かれて彼女がどこかに行ってしまうと恐れるなど、そんな必要はどこにもない。けれどそれでも不安だった。
それで、約束してもらおうと思った。どこにも行くななどとは言わないから、せめてその消息が知れるところにいてくれと。
「馬鹿だなんてことはわかってるんだけどさ」
いっそ子どものように泣き出せたら、もっと楽になるのではないかと思った。
「僕の知らないところに行かないで。どこにも行くななんて言わないから」
彼女は笑わなかったが、愛の告白みたい、とうれしそうに呟いた。
目が覚めるとまだ部屋は暗く、空は白んでもいなかった。久しぶりにベッドでなど寝たのがいけなかったらしい。心の、割と浅い部分にある引き出しが、勝手に開いてしまったようだった。
肉体がないために意識は寝ぼけることもできず、覚醒してしまった寂しさが唇を動かした。香月。唯一と頼んだ親友の名を、声も出さずに呼んでどうしてか泣き出しそうになる。
ベッドに倒れ込んで、シーツに頭までうずまった。今日はもう、起き上がることはできなさそうだった。
返してほしいとは言わない。けれども、あの日々を再び与えられたなら、もう二度と放すまいと思う程度には、拘泥していた。
なにを話していいのかよくわからずに、とっさに腕を伸ばして抱きしめた。ひとときでも力をゆるめたら、このまま腕の中の親友は月へ行ってしまいそうだったから。そんな氷河をからかうように、彼女はくすりと笑ったけれど。
「…笑うことないじゃないか」
いささか不機嫌になって鼻を鳴らすと、ゴメン、と言いながら彼女はからかいの笑みを微笑にすりかえたようだった。氷河からは、よく見えなかった。それが少し残念だった。
「別にどこにも行かないのに、なんでそんなことするのかと思って。子どもじゃあるまいし」
たしかにそのとおりだとは思う。子どもじゃあるまいし、馬鹿げた妄想に取り憑かれて彼女がどこかに行ってしまうと恐れるなど、そんな必要はどこにもない。けれどそれでも不安だった。
それで、約束してもらおうと思った。どこにも行くななどとは言わないから、せめてその消息が知れるところにいてくれと。
「馬鹿だなんてことはわかってるんだけどさ」
いっそ子どものように泣き出せたら、もっと楽になるのではないかと思った。
「僕の知らないところに行かないで。どこにも行くななんて言わないから」
彼女は笑わなかったが、愛の告白みたい、とうれしそうに呟いた。
目が覚めるとまだ部屋は暗く、空は白んでもいなかった。久しぶりにベッドでなど寝たのがいけなかったらしい。心の、割と浅い部分にある引き出しが、勝手に開いてしまったようだった。
肉体がないために意識は寝ぼけることもできず、覚醒してしまった寂しさが唇を動かした。香月。唯一と頼んだ親友の名を、声も出さずに呼んでどうしてか泣き出しそうになる。
ベッドに倒れ込んで、シーツに頭までうずまった。今日はもう、起き上がることはできなさそうだった。
返してほしいとは言わない。けれども、あの日々を再び与えられたなら、もう二度と放すまいと思う程度には、拘泥していた。
自分の生活の根底がたったひとりの少女にあるということに気付いたのは、少なくともそう最近の話ではない。むしろ昔、スペインの教会で彼女に出会った時から、そうなることの予想はついていたような気がする。
マンハッタン島を抜ける途中で、うっかりスピード違反でニューヨーク市警に止められた。夜中の一時すぎ、こんな時間くらいは職務怠慢をしても誰も文句を言うまいとは思ったが、疲れきっていてそんなことを言う余裕もなかった。小言の途中で船を漕ぎそうになったダニエルを、中年の警官はもういいから行けと哀れんでくれた――ただし、事故を起こしたらただじゃおかないぞと脅しをかけて。
なんだかもう色々と考えるのがめんどくさくて、適当にセダンを家の前に停めると――目をつむって車庫入れをしたのかというほど、ひん曲がって停まっていた――、ダニエルはのろのろと家に入り、そのままソファに身を横たえた。人の気配がしない家は、ひどく冷え切っていて身震いがした。
「……くそ」
身体は早く休みたいと叫んでいたが、あいにくと脳味噌の方が許してくれそうにない。朝早くから軍事・政治用語の入り交じる書類を何カ国語にも翻訳させられて、今もまだ目の前をアルファベットやらハングルやら漢字が踊っているようだ。苛々と立ち上がって、キャビネットからジンのビンを出した。
まったく、生活管理をしてくれる人間がいないものだから、また自分の生活は昔に逆戻りしている。午前様の帰宅、アルコールを摂取しての短い睡眠、コーヒーだけの朝食。あの少女が――カタリナがいないだけでこうも狂ってしまう自分自身に、ダニエルは苦笑した。
ハイスクールの卒業旅行にオーストラリアとは結構な話だが、楽しく過ごしているのだろうか。つい二日前に留守電が入っていたのを覚えているが、眠くて眠くてあまりマジメに聞いていた記憶がない。しかも操作を間違えて消去してしまったものだから、もう一度聞くこともできない。
カタリナがもどってくるまであと四日、いや、すでに日付が変わっているから、三日か。そんなことを考えながら、そのままソファで眠りに落ちた。
面倒を見るよりもむしろ見られている割合の方が大きいことは自覚している。ただ、もはやそれが骨子になっている。この生活に骨を埋めてしまうつもりはないが、できることなら終わりが遠い未来のことであればいいと思っている。
そう願ってしまうほどに、少女のいる生活はおだやかだった。
マンハッタン島を抜ける途中で、うっかりスピード違反でニューヨーク市警に止められた。夜中の一時すぎ、こんな時間くらいは職務怠慢をしても誰も文句を言うまいとは思ったが、疲れきっていてそんなことを言う余裕もなかった。小言の途中で船を漕ぎそうになったダニエルを、中年の警官はもういいから行けと哀れんでくれた――ただし、事故を起こしたらただじゃおかないぞと脅しをかけて。
なんだかもう色々と考えるのがめんどくさくて、適当にセダンを家の前に停めると――目をつむって車庫入れをしたのかというほど、ひん曲がって停まっていた――、ダニエルはのろのろと家に入り、そのままソファに身を横たえた。人の気配がしない家は、ひどく冷え切っていて身震いがした。
「……くそ」
身体は早く休みたいと叫んでいたが、あいにくと脳味噌の方が許してくれそうにない。朝早くから軍事・政治用語の入り交じる書類を何カ国語にも翻訳させられて、今もまだ目の前をアルファベットやらハングルやら漢字が踊っているようだ。苛々と立ち上がって、キャビネットからジンのビンを出した。
まったく、生活管理をしてくれる人間がいないものだから、また自分の生活は昔に逆戻りしている。午前様の帰宅、アルコールを摂取しての短い睡眠、コーヒーだけの朝食。あの少女が――カタリナがいないだけでこうも狂ってしまう自分自身に、ダニエルは苦笑した。
ハイスクールの卒業旅行にオーストラリアとは結構な話だが、楽しく過ごしているのだろうか。つい二日前に留守電が入っていたのを覚えているが、眠くて眠くてあまりマジメに聞いていた記憶がない。しかも操作を間違えて消去してしまったものだから、もう一度聞くこともできない。
カタリナがもどってくるまであと四日、いや、すでに日付が変わっているから、三日か。そんなことを考えながら、そのままソファで眠りに落ちた。
面倒を見るよりもむしろ見られている割合の方が大きいことは自覚している。ただ、もはやそれが骨子になっている。この生活に骨を埋めてしまうつもりはないが、できることなら終わりが遠い未来のことであればいいと思っている。
そう願ってしまうほどに、少女のいる生活はおだやかだった。
一緒に生きようと約束した男が死んで、そろそろ十五年になる。末の娘がまだ小さかったから、彼が死んだ時に後を追いかけようかとも思ったのだけれど踏みとどまった。
そのまま、長男がもうすぐ結婚だとか、次男が大学を卒業するとか、娘もようやく独り立ちをするとかで、ずるずると生き長らえて、十五年だ。うれしいけれど、なんだか長く生きすぎたような気がする。
三人の子どもがいなくなってしまった家は、彼女が独りで住むには少し大きすぎた。元々は大して広くもなかった家を、次男が生まれた時に彼が改築をしたのだ――四人もいたら、これでも手狭ですね、と。結局はもう一人生まれて、家はますます賑やかになったのだけれど。
かつての戦争を戦い抜いた男は、二度目の戦争に借り出されてどこともしれない東の国へおもむき、終戦間際に撃墜されたと聞いた。哀しすぎて涙も出なかったことを覚えているが、立ち直れたのはひとえに三人の子どもが残されていたからだった。
忘れていたわけではないが、つとめて思い出さないようにしていたことも事実だ。証拠に、わずらわしさからすべて解放された今、気が付けば彼の幻影をそこここに見ている自分がいる。
あなたがいないと、ここはとても寂しいです、と彼は言うのだ。だから早くこちらに来てくれと。よくよく考えてみればあのやさしい男がそんなことを言うはずもないから、これはたしかに自分の幻聴なのだろうが、誘うような遠い声は甘く彼女を惹きつけて止まない。そもそも、寂しがっているのは彼女の方だった。
その彼方からの招待状は、免罪符なのだと思う。この長い生をようやく終わらせるための。
どこか遠い場所で自分を待っているだろう彼は、早く来すぎだと怒るかもしれないが、どうか許してくれないものかと思う。だって呼ばれてしまったのだ、それは幻聴だったかもしれないが、彼の姿で、彼と同じ笑顔を浮かべて、少しはかなげにここは寂しいと――彼女の神の声で。
彼方から、呼んだのだ。逆らえるはずもないだろう。
十五年分の言い訳は、そこから始めればいいような気がした。
そのまま、長男がもうすぐ結婚だとか、次男が大学を卒業するとか、娘もようやく独り立ちをするとかで、ずるずると生き長らえて、十五年だ。うれしいけれど、なんだか長く生きすぎたような気がする。
三人の子どもがいなくなってしまった家は、彼女が独りで住むには少し大きすぎた。元々は大して広くもなかった家を、次男が生まれた時に彼が改築をしたのだ――四人もいたら、これでも手狭ですね、と。結局はもう一人生まれて、家はますます賑やかになったのだけれど。
かつての戦争を戦い抜いた男は、二度目の戦争に借り出されてどこともしれない東の国へおもむき、終戦間際に撃墜されたと聞いた。哀しすぎて涙も出なかったことを覚えているが、立ち直れたのはひとえに三人の子どもが残されていたからだった。
忘れていたわけではないが、つとめて思い出さないようにしていたことも事実だ。証拠に、わずらわしさからすべて解放された今、気が付けば彼の幻影をそこここに見ている自分がいる。
あなたがいないと、ここはとても寂しいです、と彼は言うのだ。だから早くこちらに来てくれと。よくよく考えてみればあのやさしい男がそんなことを言うはずもないから、これはたしかに自分の幻聴なのだろうが、誘うような遠い声は甘く彼女を惹きつけて止まない。そもそも、寂しがっているのは彼女の方だった。
その彼方からの招待状は、免罪符なのだと思う。この長い生をようやく終わらせるための。
どこか遠い場所で自分を待っているだろう彼は、早く来すぎだと怒るかもしれないが、どうか許してくれないものかと思う。だって呼ばれてしまったのだ、それは幻聴だったかもしれないが、彼の姿で、彼と同じ笑顔を浮かべて、少しはかなげにここは寂しいと――彼女の神の声で。
彼方から、呼んだのだ。逆らえるはずもないだろう。
十五年分の言い訳は、そこから始めればいいような気がした。
Too much to give.
2004年3月28日 交点ゼロ未満 相手の中に占める自分の面積はさして広くもないのに、自分の中に占める相手の面積ばかりがどんどん大きくなっている。脳細胞を侵食するこの毒を、なんとかしなくてはならないことを知っているが、特効薬が見当たらない。手遅れになりつつある身体を抱えて、何故わたしだけが、と叫んでいる。
目の前に己と同い年の、それも女の同僚がいて、単なる友人では済ませることのできない関係を持っているということに、この男は気付いていないのではないかと思う。もしくは気付いてはいても、気が回せないほどに鈍いか。
ダニエル、つまり彼に関して言えば後者の方が有り得そうな気がして、ヘルガはこっそりためいきをついた。が、それにも気付かないまま、ダニエルは話を続けていた――今年で十七歳になる、彼の養子の話だ。そんなわけだから、適当に相槌を打ちながら、ヘルガの脳味噌は違うことを考えていた。
先に惚れた方が負け、とはよく言うが、まったくもってその通りだと思う。大体、先か後かどころの話ではなく、相手の方はこちらに惚れてもいないのだ。タチが悪い。
「ヘルガ? 具合でも悪いのか」
さすがにぼんやりしすぎていたのを見とがめられたのか、ごく思いやりのある声音でダニエルがそう言った。下からこちらを見上げてくるまなざしが、どうにも不安そうだった。
これだから、嫌いだ。やさしくされて舞い上がりそうになる自分も、妙な博愛精神でもってやさしくしてくる男も。……なにより、刻一刻と感情を侵食する、特効薬のないこの病が。
台本を無くしたままステージに立つ女優の気分で、ヘルガはうっすらと笑った。
「飲みすぎたのかもね。送ってくれる、ダニー坊や?」
誰が坊やだ、とぶすくれた顔――それこそが坊やの証拠だろうに――でつぶやきはしたものの、ショットグラスの中身をすばやく飲み干すと勘定を回してくれとバーテンダーに頼んだ。それからちょっと肩をすくめながらこちらを向いて、
「タクシー代は高く付くぞ」
ひどく魅力的なウインクをよこした。
まったく道理に合わない。世の中、物事はギブアンドテイクだと教えられて育ったのに、これではまったく自分の方が与えっぱなしだ。
それでも気まぐれな熱が時折は自分のとなりにあるのなら、この理不尽さにも少しは目をつむらなくてはならないのかもしれないと、男が帰った後のベッドでそう考えた。
目の前に己と同い年の、それも女の同僚がいて、単なる友人では済ませることのできない関係を持っているということに、この男は気付いていないのではないかと思う。もしくは気付いてはいても、気が回せないほどに鈍いか。
ダニエル、つまり彼に関して言えば後者の方が有り得そうな気がして、ヘルガはこっそりためいきをついた。が、それにも気付かないまま、ダニエルは話を続けていた――今年で十七歳になる、彼の養子の話だ。そんなわけだから、適当に相槌を打ちながら、ヘルガの脳味噌は違うことを考えていた。
先に惚れた方が負け、とはよく言うが、まったくもってその通りだと思う。大体、先か後かどころの話ではなく、相手の方はこちらに惚れてもいないのだ。タチが悪い。
「ヘルガ? 具合でも悪いのか」
さすがにぼんやりしすぎていたのを見とがめられたのか、ごく思いやりのある声音でダニエルがそう言った。下からこちらを見上げてくるまなざしが、どうにも不安そうだった。
これだから、嫌いだ。やさしくされて舞い上がりそうになる自分も、妙な博愛精神でもってやさしくしてくる男も。……なにより、刻一刻と感情を侵食する、特効薬のないこの病が。
台本を無くしたままステージに立つ女優の気分で、ヘルガはうっすらと笑った。
「飲みすぎたのかもね。送ってくれる、ダニー坊や?」
誰が坊やだ、とぶすくれた顔――それこそが坊やの証拠だろうに――でつぶやきはしたものの、ショットグラスの中身をすばやく飲み干すと勘定を回してくれとバーテンダーに頼んだ。それからちょっと肩をすくめながらこちらを向いて、
「タクシー代は高く付くぞ」
ひどく魅力的なウインクをよこした。
まったく道理に合わない。世の中、物事はギブアンドテイクだと教えられて育ったのに、これではまったく自分の方が与えっぱなしだ。
それでも気まぐれな熱が時折は自分のとなりにあるのなら、この理不尽さにも少しは目をつむらなくてはならないのかもしれないと、男が帰った後のベッドでそう考えた。
癪の種。
2004年3月26日 アクア=エリアス(?) 結婚する前からつくづく思っていたのだが、自分の兄と夫は実に仲がいい。それは単に幼なじみだからというのではなく、なんというか、実の妹や妻にさえ足を踏み入れることのできない絆のようなモノを感じる。同日同時に生まれ、寸分違わぬ月光をその身体に浴びたせいなのかもしれない。
兄が婿入りした関係で親しく付き合うようになった義姉は、不機嫌そうに八尾をゆらめかせて言ったものだ。いわく、ムカつく、と。
たしかに義姉がムカつくと評したのは、正しい感情なのかもしれない。自分を訪ねてきたはずの兄を横取りし、やめろと言われたにもかかわらずまとわりついて、まんまとカードゲームをやり始めた夫を見ていると、氷呼はそう思う。
なんというか、夫は甘え上手なのだろう。しかも、そうして良い相手と良くない相手とをきちんと見分け、きわめて巧妙に猫をかぶる。甘えてはマズい相手の前で猫をかぶっていることはもちろんだが、兄や自分の前でも本性をちらりとしか見せていないような気がするから嫌になる。
それにしたって、兄ももういい加減、二十年以上の付き合いである。断る術も身に付けていいころだろうに、彼にしても、自分の甘やかしを享受しているように思えてしかたがない。自分たち兄妹など指一本で相手にできるであろう夫が、へらへらと甘えてくることに複雑な優越感を抱いているのかもしれなかった。長年のコンプレックスは、執念深い。
まったくもう、とためいきをついて、氷呼は洗濯物を干しに庭に出た。もどってくるころには、二人の勝負が終わっていることを願って。
いい加減にしろ、と兄の怒鳴り声が聞こえて、氷呼はふと手を止めた。日ごろ激高することのめったにない兄が怒っている。ということは、夫が彼の機嫌を損ねたのだろう。まったく、あの人は不用意だから。
案の定、兄はしばらくすると表に出てきて、ずかずかとこちらに歩いてきた。耳の内側、血管の透けて見えるところが赤く染まっていた。照れているのではなく、怒っているのだろう、たぶん。
その後をあわてて夫が追いかけてくる。氷呼のすぐ近くで二人は立ち止まり、しばしぎゃあぎゃあと言い争いをしていたが、哀しいかな、やはりその内兄の方が根負けして、二人は仲直りしたようだった。
数日後になって、どうしてケンカをしたのかと兄に聞いてみた。
「ああ、うん。アイツが手札何枚かごまかしててな」
それで怒ったんだけど、言いくるめられた。
苦笑いを浮かべる割に、兄はそう悔しそうでもなかった。正直なところ、彼は言いくるめられることに喜びさえ覚えているように見えた。
甘ったれのアホ夫と甘やかしのバカ兄にムカついて、氷呼は尻尾をひとつ、不機嫌そうにゆすった。
兄が婿入りした関係で親しく付き合うようになった義姉は、不機嫌そうに八尾をゆらめかせて言ったものだ。いわく、ムカつく、と。
たしかに義姉がムカつくと評したのは、正しい感情なのかもしれない。自分を訪ねてきたはずの兄を横取りし、やめろと言われたにもかかわらずまとわりついて、まんまとカードゲームをやり始めた夫を見ていると、氷呼はそう思う。
なんというか、夫は甘え上手なのだろう。しかも、そうして良い相手と良くない相手とをきちんと見分け、きわめて巧妙に猫をかぶる。甘えてはマズい相手の前で猫をかぶっていることはもちろんだが、兄や自分の前でも本性をちらりとしか見せていないような気がするから嫌になる。
それにしたって、兄ももういい加減、二十年以上の付き合いである。断る術も身に付けていいころだろうに、彼にしても、自分の甘やかしを享受しているように思えてしかたがない。自分たち兄妹など指一本で相手にできるであろう夫が、へらへらと甘えてくることに複雑な優越感を抱いているのかもしれなかった。長年のコンプレックスは、執念深い。
まったくもう、とためいきをついて、氷呼は洗濯物を干しに庭に出た。もどってくるころには、二人の勝負が終わっていることを願って。
いい加減にしろ、と兄の怒鳴り声が聞こえて、氷呼はふと手を止めた。日ごろ激高することのめったにない兄が怒っている。ということは、夫が彼の機嫌を損ねたのだろう。まったく、あの人は不用意だから。
案の定、兄はしばらくすると表に出てきて、ずかずかとこちらに歩いてきた。耳の内側、血管の透けて見えるところが赤く染まっていた。照れているのではなく、怒っているのだろう、たぶん。
その後をあわてて夫が追いかけてくる。氷呼のすぐ近くで二人は立ち止まり、しばしぎゃあぎゃあと言い争いをしていたが、哀しいかな、やはりその内兄の方が根負けして、二人は仲直りしたようだった。
数日後になって、どうしてケンカをしたのかと兄に聞いてみた。
「ああ、うん。アイツが手札何枚かごまかしててな」
それで怒ったんだけど、言いくるめられた。
苦笑いを浮かべる割に、兄はそう悔しそうでもなかった。正直なところ、彼は言いくるめられることに喜びさえ覚えているように見えた。
甘ったれのアホ夫と甘やかしのバカ兄にムカついて、氷呼は尻尾をひとつ、不機嫌そうにゆすった。
伸べられた腕を取って、舌を這わせる。いつもはセックスの前にするこの行動に、俺はちっとも欲情しなかった。むしろ彼女の冷たい肌に、ひどくぞくっとした。
彼女は一瞬動きの止まった俺の舌に気付いたんだろうか、真司、とやさしく俺の名前を呼んだ。甘え上手なバケモノの声は、麻薬のように俺の頭を支配する。いつでも。…もちろん今日だけ例外なんてコトが、有り得るわけもない。へろへろとあてどなく舌をさまよわせながら、俺は耳だけ彼女の声を聞いた。
「君が、何をしたいのか、よくわからないんだけどね、真司」
血糊が爪の間にはさまった指で、俺の髪を彼女が梳く。
「わたしは、この機に乗じて、君が一緒に来てくれるといいなって、考えてるの」
我が侭でゴメンねぇ、とのんきに彼女は謝った。ぽた、と頭に冷たいものが落ちてきて、俺は顔を上げようと思ったが、彼女の手はそれを許さなかった。俺に触る時はいつも不必要なくらいに普通の女ぶって力をこめないくせに、今ばかりバケモノのように――いや、事実バケモノか。
「君が来て、だからどうなるわけでも、ないんだけど。でもね、せめて君が隣で笑って、キスして、抱きしめてくれるのを、ずっと見てたくて。……あんまり、独りでいるのは、耐え難いから」
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
俺はきわめて常識的にそう考えたが、彼女があんまり泣くので、そんなことを言うのはためらわれた。短絡的で馬鹿げた思考だ、俺が喰われればずっと彼女と一緒にいられるなんてのは。
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
それで俺は常識的な思考を外れて、きわめてバケモノ的な考えを頭にひらめかせた。喰ってしまえばいいだろう。そうすれば、俺は彼女と一緒に生きてゆくことができるにちがいない。俺は無意識の内に、へろへろと彼女の肌をねぶっていた舌を止めていた。
いいのか、それで。二十一年分の常識を全部捨てて、バケモノの道に走るのか?
真司、とまた彼女が俺を呼んだ。あいかわらずやさしく、今度は少し心配そうに。
――ああ、でも俺は実は知っていた。俺は最初からバケモノだった。三年前から。彼女の前に同族の血肉を差し出した時から、ずっと。だったらいまさら、喰うことになにかタブーがあるとは思えない。
俺はまったく当然のことのように俺が彼女を喰うことを納得して、糸切り歯を彼女の腕に突き立てた。ぶつぶつと筋繊維の切れる音が、歯の神経を通して脳に伝わる。吐き気がした。ヒトの形をしたものを喰う嫌悪感を、俺は無理矢理抑え込んだ。
「…ッァ、真司、……ごめ、ゴメンね、――ゴメン、ね…ッ」
痛いほど頭皮に食い込んだ彼女の爪が、肉を食いちぎられる痛みに耐えているんだと何よりもしっかりとしめしていた。何を謝るんだか。バケモノの考えることは、俺にはよくわからない。わかるようになるんだろうか、この肉のかけらを咀嚼したら。
極上のステーキを食べている時のように神妙に、けれどもいつだか作るのを失敗して人間の食うものとは思えないような味になったカレーを食っている時の心境で、俺は肉を、一口きりの肉を奥歯ですりつぶした。ますます強く彼女の爪が頭に食い込む。いっそここで殺してくれれば、この肉を喰わずに済むんだが。だがまぁ、利己的なこのバケモノがそうしてくれるとは思えなかった。
脳まで絞め殺されそうな頭痛の中、俺はようやく口の中のものを嚥下した。この、バケモノ。俺の中の人間が、死ぬ間際に叫んだ。
彼女は一瞬動きの止まった俺の舌に気付いたんだろうか、真司、とやさしく俺の名前を呼んだ。甘え上手なバケモノの声は、麻薬のように俺の頭を支配する。いつでも。…もちろん今日だけ例外なんてコトが、有り得るわけもない。へろへろとあてどなく舌をさまよわせながら、俺は耳だけ彼女の声を聞いた。
「君が、何をしたいのか、よくわからないんだけどね、真司」
血糊が爪の間にはさまった指で、俺の髪を彼女が梳く。
「わたしは、この機に乗じて、君が一緒に来てくれるといいなって、考えてるの」
我が侭でゴメンねぇ、とのんきに彼女は謝った。ぽた、と頭に冷たいものが落ちてきて、俺は顔を上げようと思ったが、彼女の手はそれを許さなかった。俺に触る時はいつも不必要なくらいに普通の女ぶって力をこめないくせに、今ばかりバケモノのように――いや、事実バケモノか。
「君が来て、だからどうなるわけでも、ないんだけど。でもね、せめて君が隣で笑って、キスして、抱きしめてくれるのを、ずっと見てたくて。……あんまり、独りでいるのは、耐え難いから」
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
俺はきわめて常識的にそう考えたが、彼女があんまり泣くので、そんなことを言うのはためらわれた。短絡的で馬鹿げた思考だ、俺が喰われればずっと彼女と一緒にいられるなんてのは。
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
それで俺は常識的な思考を外れて、きわめてバケモノ的な考えを頭にひらめかせた。喰ってしまえばいいだろう。そうすれば、俺は彼女と一緒に生きてゆくことができるにちがいない。俺は無意識の内に、へろへろと彼女の肌をねぶっていた舌を止めていた。
いいのか、それで。二十一年分の常識を全部捨てて、バケモノの道に走るのか?
真司、とまた彼女が俺を呼んだ。あいかわらずやさしく、今度は少し心配そうに。
――ああ、でも俺は実は知っていた。俺は最初からバケモノだった。三年前から。彼女の前に同族の血肉を差し出した時から、ずっと。だったらいまさら、喰うことになにかタブーがあるとは思えない。
俺はまったく当然のことのように俺が彼女を喰うことを納得して、糸切り歯を彼女の腕に突き立てた。ぶつぶつと筋繊維の切れる音が、歯の神経を通して脳に伝わる。吐き気がした。ヒトの形をしたものを喰う嫌悪感を、俺は無理矢理抑え込んだ。
「…ッァ、真司、……ごめ、ゴメンね、――ゴメン、ね…ッ」
痛いほど頭皮に食い込んだ彼女の爪が、肉を食いちぎられる痛みに耐えているんだと何よりもしっかりとしめしていた。何を謝るんだか。バケモノの考えることは、俺にはよくわからない。わかるようになるんだろうか、この肉のかけらを咀嚼したら。
極上のステーキを食べている時のように神妙に、けれどもいつだか作るのを失敗して人間の食うものとは思えないような味になったカレーを食っている時の心境で、俺は肉を、一口きりの肉を奥歯ですりつぶした。ますます強く彼女の爪が頭に食い込む。いっそここで殺してくれれば、この肉を喰わずに済むんだが。だがまぁ、利己的なこのバケモノがそうしてくれるとは思えなかった。
脳まで絞め殺されそうな頭痛の中、俺はようやく口の中のものを嚥下した。この、バケモノ。俺の中の人間が、死ぬ間際に叫んだ。
定めではなく。
2004年3月9日 アクア=エリアス(?) 運命だとか、そういうものを信じているわけではない。が、絆というものがあるのだとすれば、それは信じる。
自分と羽水を同じ世界につなぎとめているものは、間違いなく『絆』だったから。
川の様子を見に行く、と言う羽水に、どうせ暇だったのでついてきたのが間違いだった。下流から上流へと延々三時間も歩いて、挙げ句彼はまだ水の中に入って精霊と話をしたり、薬草を摘んだりしている。三月とは言え、まだ水遊びをするには早いと思うのだが。
くぁ、と蒼河はあくびをこぼした。だらしなく一枚岩の上に寝そべって、九本ある尻尾の毛玉取りをしていたのだが、やめた。あまりに暇だったので始めたことだったが、やっている間に虚しくなってきたのだ。
「暇だー、羽水」
耐えきれずにわめくと、親友はうるさそうに振り返って、
「お前は堪え性がないんだろ」
と冷たく言った。それでもようやく水の中から出てくる辺り、彼はひどく幼なじみに甘いということに気付いていない。蒼河はひそかにほくそえんだ。が、そういう腹黒い面は器用に押し隠し、どうでもいいような、だが実のところ昨日からずっと頭の中にあった質問を、羽水に投げてみる。
「なぁ、運命って信じる?」
「ハァ? …蒼河、熱があるなら戻れよ。まだ俺は仕事が終わってないんだからな」
「いや別に熱はないけどさ。そもそも僕はあんまり風邪引かないから」
別に自慢のつもりではなかったのだが、羽水は肩をすくめた。
「健康までお前に取られなくて感謝してるよ」
「そう、だから僕が言いたいのはそこなんだけどさ。僕ら、生まれが同じだろう。なんでこんなに違うかな――色々と」
嫌味ではなかったのだが、どうしてもこの話題を持ち出すと、嫌味っぽくなる。それは蒼河自身もわかっていたし、羽水もまたきちんと蒼河の立場、そして彼自身の立場を理解していた。それで、二人が言い争いになることは、ごくめずらしかった。
羽水はさぁな、と言いながらも、蒼河の方をまっすぐに見つめていた。口元が少し笑っているようだった。
「あえて言うなら絆とか、そういうのじゃないのか。だってこれで俺がお前くらい強かったりとか、お前が俺くらい弱かったら、絶対俺らトモダチじゃないだろうし」
絆、と口の中で数度繰り返して、蒼河は首をかしげた。
「運命、じゃなくて?」
帰るぞ、と甘やかしの羽水があごをしゃくったので、蒼河は岩から地面に飛び降りた。水際を歩く青年が、振り返ってニヤリと笑った。
「月神様に決められたからお前に付き合ってるわけじゃない」
複雑な力関係と家柄を全部無視して我が侭に付き合ってくれる羽水と彼に甘える自分に、なにがしかの説明を付けるとするならば、それはやはり『絆』になるのだろうと、蒼河は妙に納得したものだった。
自分と羽水を同じ世界につなぎとめているものは、間違いなく『絆』だったから。
川の様子を見に行く、と言う羽水に、どうせ暇だったのでついてきたのが間違いだった。下流から上流へと延々三時間も歩いて、挙げ句彼はまだ水の中に入って精霊と話をしたり、薬草を摘んだりしている。三月とは言え、まだ水遊びをするには早いと思うのだが。
くぁ、と蒼河はあくびをこぼした。だらしなく一枚岩の上に寝そべって、九本ある尻尾の毛玉取りをしていたのだが、やめた。あまりに暇だったので始めたことだったが、やっている間に虚しくなってきたのだ。
「暇だー、羽水」
耐えきれずにわめくと、親友はうるさそうに振り返って、
「お前は堪え性がないんだろ」
と冷たく言った。それでもようやく水の中から出てくる辺り、彼はひどく幼なじみに甘いということに気付いていない。蒼河はひそかにほくそえんだ。が、そういう腹黒い面は器用に押し隠し、どうでもいいような、だが実のところ昨日からずっと頭の中にあった質問を、羽水に投げてみる。
「なぁ、運命って信じる?」
「ハァ? …蒼河、熱があるなら戻れよ。まだ俺は仕事が終わってないんだからな」
「いや別に熱はないけどさ。そもそも僕はあんまり風邪引かないから」
別に自慢のつもりではなかったのだが、羽水は肩をすくめた。
「健康までお前に取られなくて感謝してるよ」
「そう、だから僕が言いたいのはそこなんだけどさ。僕ら、生まれが同じだろう。なんでこんなに違うかな――色々と」
嫌味ではなかったのだが、どうしてもこの話題を持ち出すと、嫌味っぽくなる。それは蒼河自身もわかっていたし、羽水もまたきちんと蒼河の立場、そして彼自身の立場を理解していた。それで、二人が言い争いになることは、ごくめずらしかった。
羽水はさぁな、と言いながらも、蒼河の方をまっすぐに見つめていた。口元が少し笑っているようだった。
「あえて言うなら絆とか、そういうのじゃないのか。だってこれで俺がお前くらい強かったりとか、お前が俺くらい弱かったら、絶対俺らトモダチじゃないだろうし」
絆、と口の中で数度繰り返して、蒼河は首をかしげた。
「運命、じゃなくて?」
帰るぞ、と甘やかしの羽水があごをしゃくったので、蒼河は岩から地面に飛び降りた。水際を歩く青年が、振り返ってニヤリと笑った。
「月神様に決められたからお前に付き合ってるわけじゃない」
複雑な力関係と家柄を全部無視して我が侭に付き合ってくれる羽水と彼に甘える自分に、なにがしかの説明を付けるとするならば、それはやはり『絆』になるのだろうと、蒼河は妙に納得したものだった。
好きで好きでどうしようもない、その感情だけで胸が熱くてどうにかなってしまいそうなほどに想いを寄せた男が、ごくきまじめに正面に立っていた。カタリナ、と彼が自分を呼んだような気がした。
ここはどこなのだろう。なんだかとてもふわふわとしていて、気分が良かった。
けれどもすぐに、そんなことはどうでもよくなってしまった。なぜといって、彼がそっとこちらの頬にふれてきて、その唇を寄せてきたからだった。
いつも辛辣な批判だとか、あるいは口汚いののしりだとかをこぼす彼の唇は、近くでこうして見てみると薄く、血色があまり良くなかった。いつも健康に悪い生活をしているからなのかもしれないと、ふと思った。
ごく当然のように彼のキスを受け入れて、彼女は幸せに浸っていた。
――はっと目を覚まし、自分が部屋のベッドで寝ていたことに気づいたカタリナは、なんだ夢かと肩を落としたすぐあとに、なんて夢を見るのだろうと赤面した。昨夜の夢が、欲求不満の少年でもあるまいに、あまりに即物的なものだったので。
うぅ、とうめきながら、シーツに顔をこすりつける。そうしながら、それでもカタリナは思った。あんな出来事が、本当にあればいいのにと。
ここはどこなのだろう。なんだかとてもふわふわとしていて、気分が良かった。
けれどもすぐに、そんなことはどうでもよくなってしまった。なぜといって、彼がそっとこちらの頬にふれてきて、その唇を寄せてきたからだった。
いつも辛辣な批判だとか、あるいは口汚いののしりだとかをこぼす彼の唇は、近くでこうして見てみると薄く、血色があまり良くなかった。いつも健康に悪い生活をしているからなのかもしれないと、ふと思った。
ごく当然のように彼のキスを受け入れて、彼女は幸せに浸っていた。
――はっと目を覚まし、自分が部屋のベッドで寝ていたことに気づいたカタリナは、なんだ夢かと肩を落としたすぐあとに、なんて夢を見るのだろうと赤面した。昨夜の夢が、欲求不満の少年でもあるまいに、あまりに即物的なものだったので。
うぅ、とうめきながら、シーツに顔をこすりつける。そうしながら、それでもカタリナは思った。あんな出来事が、本当にあればいいのにと。
はるかなひと。
2004年2月29日 アクア=エリアス(?) 最近、とみに従兄のことを思い出すようになった。それは昔彼が担っていた役職を、そのまま自分が引き継いだせいなのかもしれない。あるいはまた会いに来ると言った彼が、さっぱり訪ねてこないせいなのかもしれない。どのみち月代が思うことといえば、ひとつきりだった。
――自分は、彼ほどに強くあることはできない。
髪が汗に濡れて、べっとりと額に張り付いていた。幾重にもまとわりついた装飾品や日ごろ着慣れない祭典用の衣装が、ひどく重い。月代は荒い息を整えながら、ひときわ体力をうばう原因である杖を地面に置いた。これから急いで禊ぎを済ませ、今度は一族全員の前で、次代の神官長として祈らなくてはならないのだ。
つくづく、あの従兄はよくもこんなつまらない、しかし重大かつ疲れる仕事を平然とこなしていたと思う。九尾の、とか、満月の、とか言われていただけあって、やはり彼は特別だったのだ。
ためいきをついて父の待つ泉へと踵を返しかけた――が、そこでふと、月代を呼び止める声があった。
「…そうか、月代ももうそういう年だっけな」
従兄だ。
それがわかっていたから、呼吸をなだめてからゆっくりと振り返った。何故といって、汗みずくで肩で息をしているようなみっともない姿を、彼に見せたくはなかったので。
「また来るって言った割に、ずいぶん遅いんじゃないか」
そう皮肉ると、彼は苦笑したようだった。
「なかなか機会がなくてね。今度来る時は、葉月を――君の甥なんだけどさ、連れてこようと思ってたし」
「こんにちは、おじさん」
ひょこりと従兄の影から、小柄な影が姿を見せた。それは子どもだった――年のころなら十四か十五、しかしその割に、いまだ二次性徴らしきものの見られない。
従兄が、その子どもは姉の遺産なのだと教えてくれた。葉月・K・ガイアス。一族に共通の銀髪と獣の耳、そして尻尾を兼ね備えてはいるが、そこだけは父親の血なのだろう、金の目をした子どもだった。
なにを話したのだか、よく覚えていない。ただ少しして、従兄が子どもを、お祖父さんに会っておいでと言って外に送り出した。それが父のことをしめしているのだと思い当たるのに、月代は少しかかった。
従兄はしげしげと、まだ装飾品や豪奢な衣装で飾られたままの月代をながめ、懐かしそうに笑った。
「さっきの舞い、なかなかよかったよ」
「……氷河に言われたくないな。傷付く」
「どうしてさ」
従兄は首をかしげた。ああ、彼には理解することなど一生――いや、もう人生を終えているから、死んでもなお、か――できないのだろう。何故といって、彼はあらゆる人々を、比べることもおこがましいまでに引き離していたのだから。
答えを返すこともなく、月代は一度は置いた杖を再び手にし、従兄にそっと手渡した。
「踊ってくれないか。俺か……姉さんのためでもいいから」
彼は少しとまどったようだった。月に祈ることを赦されない亡霊の身では、いまさら舞うこともできないと言わんばかりに。
だが結局のところ、従兄はどこまでも一族の一員でしかなく、……彼はうやうやしく杖を取り、すぅっと呼吸をととのえると、舞った。
月光がさんさんと降り注ぐ。木々の合間を縫って、新月前のくせに、異常なほどに輝いて亡霊を照らし出す。
やはり彼ほど強く、月に愛されることはできない。死してなお愛し子と呼びかけられる彼を、月代はうらやましいと思った。
――自分は、彼ほどに強くあることはできない。
髪が汗に濡れて、べっとりと額に張り付いていた。幾重にもまとわりついた装飾品や日ごろ着慣れない祭典用の衣装が、ひどく重い。月代は荒い息を整えながら、ひときわ体力をうばう原因である杖を地面に置いた。これから急いで禊ぎを済ませ、今度は一族全員の前で、次代の神官長として祈らなくてはならないのだ。
つくづく、あの従兄はよくもこんなつまらない、しかし重大かつ疲れる仕事を平然とこなしていたと思う。九尾の、とか、満月の、とか言われていただけあって、やはり彼は特別だったのだ。
ためいきをついて父の待つ泉へと踵を返しかけた――が、そこでふと、月代を呼び止める声があった。
「…そうか、月代ももうそういう年だっけな」
従兄だ。
それがわかっていたから、呼吸をなだめてからゆっくりと振り返った。何故といって、汗みずくで肩で息をしているようなみっともない姿を、彼に見せたくはなかったので。
「また来るって言った割に、ずいぶん遅いんじゃないか」
そう皮肉ると、彼は苦笑したようだった。
「なかなか機会がなくてね。今度来る時は、葉月を――君の甥なんだけどさ、連れてこようと思ってたし」
「こんにちは、おじさん」
ひょこりと従兄の影から、小柄な影が姿を見せた。それは子どもだった――年のころなら十四か十五、しかしその割に、いまだ二次性徴らしきものの見られない。
従兄が、その子どもは姉の遺産なのだと教えてくれた。葉月・K・ガイアス。一族に共通の銀髪と獣の耳、そして尻尾を兼ね備えてはいるが、そこだけは父親の血なのだろう、金の目をした子どもだった。
なにを話したのだか、よく覚えていない。ただ少しして、従兄が子どもを、お祖父さんに会っておいでと言って外に送り出した。それが父のことをしめしているのだと思い当たるのに、月代は少しかかった。
従兄はしげしげと、まだ装飾品や豪奢な衣装で飾られたままの月代をながめ、懐かしそうに笑った。
「さっきの舞い、なかなかよかったよ」
「……氷河に言われたくないな。傷付く」
「どうしてさ」
従兄は首をかしげた。ああ、彼には理解することなど一生――いや、もう人生を終えているから、死んでもなお、か――できないのだろう。何故といって、彼はあらゆる人々を、比べることもおこがましいまでに引き離していたのだから。
答えを返すこともなく、月代は一度は置いた杖を再び手にし、従兄にそっと手渡した。
「踊ってくれないか。俺か……姉さんのためでもいいから」
彼は少しとまどったようだった。月に祈ることを赦されない亡霊の身では、いまさら舞うこともできないと言わんばかりに。
だが結局のところ、従兄はどこまでも一族の一員でしかなく、……彼はうやうやしく杖を取り、すぅっと呼吸をととのえると、舞った。
月光がさんさんと降り注ぐ。木々の合間を縫って、新月前のくせに、異常なほどに輝いて亡霊を照らし出す。
やはり彼ほど強く、月に愛されることはできない。死してなお愛し子と呼びかけられる彼を、月代はうらやましいと思った。
自分はこの男にとって、一体なんなのだろうと思うようになった。一年ほど前にぽつんと胸に沸いたその疑問は、今も消えることなくカタリナの頭をぐるぐると回っている。
ダニエルにとってのカタリナ。
それはおそらくカタリナにとってのダニエルとはまったくちがうものであるはずで、だからこそ彼自身に問うてみることなど、できるはずがなかった。けれども自答できるような種類の問題でもなく、彼女はすでに、消化不良を起こして久しい。
スペインに帰ったらどうだと、ダニエルが言った。それはごく日常会話の一端であるかのようなもの言いで、実際彼はマンハッタンに向けて自動車を走らせているところだった。
助手席にすわっていたカタリナは目をみひらいて、ダニエルに彼女のショックを伝えてきた。それは哀しみではなかったが、絶望ではあるようだった。
「……どうして」
ようようカタリナがつぶやいた言葉と言えば、『Why?』というためらいがちなそれだった。だがおそらく彼女はこう言いたかったのだろう――「どうしていまさら、そんなひどいことを言うの?」。そのくらいは、鈍いダニエルにもわかっていた。
「お前の国籍はスペインだろ。この辺りで、帰国したらどうかと思ってな」
ストリートの脇に自動車を停めて、ダニエルはカタリナの方を向いた。こういう話は、運転しながらするようなたぐいのものではない。それこそ事故を起こしてしまいそうだった。
「長くアメリカにいすぎてる、カタリナ」
ごく真剣そうな男の顔を真っ正面からとらえながら、カタリナは考えていた。どうしてこんな時ばかり、この男は自分を名前で呼ぶのだろうと。せめてニーニャと、普段どおりに呼んでくれたなら、こちらもあのぎこちのない英語でかえすことができただろうに。
長年自身に課してきた鎖をひきちぎることは、そうむずかしくはなくむしろたやすかった。意識しないうちに、唇からは流暢な英語がこぼれていた。
「スペインに帰るところなんてない。そんなの知ってるでしょ? それに、ならどうして私をひろったの? どうして養子にしたの?」
突然まくしたて、癇癪を起こしたカタリナを、ダニエルはぽかんとみつめていた――彼は彼女が英語をすでに会得していることなど、知らなかったので。
その態度がますます頭に来て、とうとうカタリナは絶叫した。
「ダニエルはいつも、私のことなんて知ろうともしない。じゃあ、私はダニエルのなんなの?」
一生涯心に秘めて、なんとか自答しようとしていた問いを吐き出すと、もはやカタリナはこの場にいることなどできなかった。
しんと静まりかえった自動車から、ダニエルが引き止めることもできないほどショックを受けているのをいいことに、カタリナは抜け出した。マンハッタンはまだこの場から遠く、川向こうの景色がにじんで見えた。
四年前にスペインの教会で出会った時から、自分の祖国はアメリカだと決めていた。例え市民になれなくともかまわない。ダニエルの暮らす国こそが、カタリナにとっての祖国だった。
ダニエルにとってのカタリナ。
それはおそらくカタリナにとってのダニエルとはまったくちがうものであるはずで、だからこそ彼自身に問うてみることなど、できるはずがなかった。けれども自答できるような種類の問題でもなく、彼女はすでに、消化不良を起こして久しい。
スペインに帰ったらどうだと、ダニエルが言った。それはごく日常会話の一端であるかのようなもの言いで、実際彼はマンハッタンに向けて自動車を走らせているところだった。
助手席にすわっていたカタリナは目をみひらいて、ダニエルに彼女のショックを伝えてきた。それは哀しみではなかったが、絶望ではあるようだった。
「……どうして」
ようようカタリナがつぶやいた言葉と言えば、『Why?』というためらいがちなそれだった。だがおそらく彼女はこう言いたかったのだろう――「どうしていまさら、そんなひどいことを言うの?」。そのくらいは、鈍いダニエルにもわかっていた。
「お前の国籍はスペインだろ。この辺りで、帰国したらどうかと思ってな」
ストリートの脇に自動車を停めて、ダニエルはカタリナの方を向いた。こういう話は、運転しながらするようなたぐいのものではない。それこそ事故を起こしてしまいそうだった。
「長くアメリカにいすぎてる、カタリナ」
ごく真剣そうな男の顔を真っ正面からとらえながら、カタリナは考えていた。どうしてこんな時ばかり、この男は自分を名前で呼ぶのだろうと。せめてニーニャと、普段どおりに呼んでくれたなら、こちらもあのぎこちのない英語でかえすことができただろうに。
長年自身に課してきた鎖をひきちぎることは、そうむずかしくはなくむしろたやすかった。意識しないうちに、唇からは流暢な英語がこぼれていた。
「スペインに帰るところなんてない。そんなの知ってるでしょ? それに、ならどうして私をひろったの? どうして養子にしたの?」
突然まくしたて、癇癪を起こしたカタリナを、ダニエルはぽかんとみつめていた――彼は彼女が英語をすでに会得していることなど、知らなかったので。
その態度がますます頭に来て、とうとうカタリナは絶叫した。
「ダニエルはいつも、私のことなんて知ろうともしない。じゃあ、私はダニエルのなんなの?」
一生涯心に秘めて、なんとか自答しようとしていた問いを吐き出すと、もはやカタリナはこの場にいることなどできなかった。
しんと静まりかえった自動車から、ダニエルが引き止めることもできないほどショックを受けているのをいいことに、カタリナは抜け出した。マンハッタンはまだこの場から遠く、川向こうの景色がにじんで見えた。
四年前にスペインの教会で出会った時から、自分の祖国はアメリカだと決めていた。例え市民になれなくともかまわない。ダニエルの暮らす国こそが、カタリナにとっての祖国だった。
たいせつ ということ。
2004年2月22日 長編断片 俺はあまり体調を崩さない方なんだが、だいぶ前に一度、風邪を引いたことがある。その時はもう、俺の家には彼女がいた。
さすがに熱が出てくると、いくら俺でも人間だから、動くのが辛くなる。おまけに喉は痛いわ咳は出るわで、本当はその夜は寝ていたかったんだが、あいにくそろそろ彼女が食事をするサイクルが回ってくるころだった。
俺は彼女に死体を提供して、彼女はその代わりに俺の犯罪証拠を隠滅する。それが俺たちの契約だった――破るわけにはいかない、契約。
それで俺は市販の風邪薬と解熱剤を飲んで、よろよろしながら夜中の街に出た。彼女は家にいなかったが、血の匂いを嗅ぎ付ければ、どこからかやってくるはずだった。
真夜中の公園、木の陰に身をひそめて息を整えながら、俺は獲物が来るのを待った――できれば今日は、女がいい。男だと、抵抗されると今はちょっとマズいかもしれなかった。
どのくらい、待ったのか。足音が聞こえて、俺ははっと目を覚ました。解熱剤のせいか、寝ていたらしい。
あわてて小道の方を見てみると、向こうから大きな荷物をかかえた女子高生がやってくる。運動系の部活なんだろう、ショートカットの、活発そうな子だった。
俺はするりと木陰から抜け出ると、一息に女子高生との距離を詰めた。そうしながら、手にしたナイフをいいように握り直す。その子の喉を切り裂き、仕上げに心臓を一突き、それで今日の俺の役割は、果たされるはずだった。
が、女子高生は意外と素早かった。おどろきながらも咄嗟に彼女はのけぞり、俺のナイフは皮一枚を切り裂いて、空を切った。マズい、と俺は舌打ちした。俺はそう体力がある方じゃないので、一撃必殺が不文律なのだ。それに、仕留め損ねると人を呼ばれる恐れがある。
案の定、女子高生は青ざめてさっと身をひるがえし、一体コイツは陸上の全国大会にでも出場したのかと思うほどの速さで走り出した――ギャアギャア、叫びながら。
いくら住宅街からやや離れた場所にある公園とは言え、これ以上叫ばれると俺の身が危ない。こっちも青ざめて、俺は高校卒業以来こんなに懸命に走ることがあっただろうかと思いながら、女子高生を追いかけた。
幸いだったのは、俺が高校時代マジメに部活の走り込みをしていたことと、女子高生が途中で一度転んだことだろう。ほどなく俺は彼女に追いつき、その背中にナイフを突き立てた。心臓を食い破る冷たい牙に、哀れな少女は絶命した。
しばらく俺は、死体の隣で荒い息を整えていた。風邪引きのクセに無理をしたおかげで、苦しかった。だが、これで彼女も喜んでくれるだろう。俺から離れることもない。俺は少しほっとしていた。
「――何、ソレ」
ふと彼女の声がして、俺は顔を上げた。
「ああ。お前の。そろそろじゃなかったっけ」
「そうだけど。……ねぇ、臭い」
あんまりと言えばあんまりなセリフに、俺は顔をしかめた。それが、お前のために努力した風邪引きの男にかける言葉なのか?
だが彼女は俺の気持ちなどおかまいなしにこちらに身を寄せてきて、俺のあごをぐいっとつかんだ。そのまま、大好きな深いキス。
「クスリ、飲んだ? 臭いよ」
唇を離した彼女は、ささやくようにそう言って、俺の手にこびりついた女子高生の血を舐めた。ぞくり、と背筋を快感が走る。この女は、意識してこんなことをしてるんだろうか。
「ねぇ、人間なんだから、無理しないでね。せっかくだからコレはもらっておくけど、ちゃんと治るまで、家で寝てよ」
無理させて君がいなくなっても、おもしろくないから。そう言って、彼女はもう一度俺にキスをした。
さすがに熱が出てくると、いくら俺でも人間だから、動くのが辛くなる。おまけに喉は痛いわ咳は出るわで、本当はその夜は寝ていたかったんだが、あいにくそろそろ彼女が食事をするサイクルが回ってくるころだった。
俺は彼女に死体を提供して、彼女はその代わりに俺の犯罪証拠を隠滅する。それが俺たちの契約だった――破るわけにはいかない、契約。
それで俺は市販の風邪薬と解熱剤を飲んで、よろよろしながら夜中の街に出た。彼女は家にいなかったが、血の匂いを嗅ぎ付ければ、どこからかやってくるはずだった。
真夜中の公園、木の陰に身をひそめて息を整えながら、俺は獲物が来るのを待った――できれば今日は、女がいい。男だと、抵抗されると今はちょっとマズいかもしれなかった。
どのくらい、待ったのか。足音が聞こえて、俺ははっと目を覚ました。解熱剤のせいか、寝ていたらしい。
あわてて小道の方を見てみると、向こうから大きな荷物をかかえた女子高生がやってくる。運動系の部活なんだろう、ショートカットの、活発そうな子だった。
俺はするりと木陰から抜け出ると、一息に女子高生との距離を詰めた。そうしながら、手にしたナイフをいいように握り直す。その子の喉を切り裂き、仕上げに心臓を一突き、それで今日の俺の役割は、果たされるはずだった。
が、女子高生は意外と素早かった。おどろきながらも咄嗟に彼女はのけぞり、俺のナイフは皮一枚を切り裂いて、空を切った。マズい、と俺は舌打ちした。俺はそう体力がある方じゃないので、一撃必殺が不文律なのだ。それに、仕留め損ねると人を呼ばれる恐れがある。
案の定、女子高生は青ざめてさっと身をひるがえし、一体コイツは陸上の全国大会にでも出場したのかと思うほどの速さで走り出した――ギャアギャア、叫びながら。
いくら住宅街からやや離れた場所にある公園とは言え、これ以上叫ばれると俺の身が危ない。こっちも青ざめて、俺は高校卒業以来こんなに懸命に走ることがあっただろうかと思いながら、女子高生を追いかけた。
幸いだったのは、俺が高校時代マジメに部活の走り込みをしていたことと、女子高生が途中で一度転んだことだろう。ほどなく俺は彼女に追いつき、その背中にナイフを突き立てた。心臓を食い破る冷たい牙に、哀れな少女は絶命した。
しばらく俺は、死体の隣で荒い息を整えていた。風邪引きのクセに無理をしたおかげで、苦しかった。だが、これで彼女も喜んでくれるだろう。俺から離れることもない。俺は少しほっとしていた。
「――何、ソレ」
ふと彼女の声がして、俺は顔を上げた。
「ああ。お前の。そろそろじゃなかったっけ」
「そうだけど。……ねぇ、臭い」
あんまりと言えばあんまりなセリフに、俺は顔をしかめた。それが、お前のために努力した風邪引きの男にかける言葉なのか?
だが彼女は俺の気持ちなどおかまいなしにこちらに身を寄せてきて、俺のあごをぐいっとつかんだ。そのまま、大好きな深いキス。
「クスリ、飲んだ? 臭いよ」
唇を離した彼女は、ささやくようにそう言って、俺の手にこびりついた女子高生の血を舐めた。ぞくり、と背筋を快感が走る。この女は、意識してこんなことをしてるんだろうか。
「ねぇ、人間なんだから、無理しないでね。せっかくだからコレはもらっておくけど、ちゃんと治るまで、家で寝てよ」
無理させて君がいなくなっても、おもしろくないから。そう言って、彼女はもう一度俺にキスをした。
She came to pick him up.
2004年2月14日 長編断片 彼女はその手を差し出した――細く、今は人の血にまみれて赤い、その手を。人間など少し力をこめただけでひねり潰してしまえる、その手を。
「来て」
まさか来ないなどということはないだろう?とでも言いたげに、彼女は傲慢に微笑んだ。差し出した手をくるり、とひねり、そうするとその手には、今度はナイフが乗っていた。アメリカ空軍パイロット御用達、刑事に取り上げられた俺のナイフだった。刃の部分は黒いからよくわからないが、きっと彼女の手と同じく、血にまみれているんだろう。
彼女はそのナイフをぽんっとこちらに放り投げ、窓枠に腰を下ろした。尋問室にはまだひとり、生きている刑事がいたが、彼女はちらりとそちらを見やった。その刑事は、俺にメモを残すことを許してくれた、あのオヤジだった。
「たぶん美味いと思うけど」
「食べたいな。いい?」
「お安いご用で」
俺はナイフを利き手に持ちかえてひらりと身をひるがえし、なんら対処の取れないオヤジの身体を、切り裂いた。胃の少し上辺りから、喉にかけてを逆さに一息で切り上げると、オヤジは一瞬ぎょっとしたような顔をして俺を見つめてから、ごば、と血を吹き出した。頸動脈が切れたんだと、俺はぼうっと考えた。
止めの一刺しを心臓にくれてやり、血にまみれて、俺は背後の彼女を振り返った。
「ま、こんなもんで」
「ありがと。後でキスしてね」
そして彼女はオヤジの喉に、指先を突っ込んで喰らい始めたのだった。
「来て」
まさか来ないなどということはないだろう?とでも言いたげに、彼女は傲慢に微笑んだ。差し出した手をくるり、とひねり、そうするとその手には、今度はナイフが乗っていた。アメリカ空軍パイロット御用達、刑事に取り上げられた俺のナイフだった。刃の部分は黒いからよくわからないが、きっと彼女の手と同じく、血にまみれているんだろう。
彼女はそのナイフをぽんっとこちらに放り投げ、窓枠に腰を下ろした。尋問室にはまだひとり、生きている刑事がいたが、彼女はちらりとそちらを見やった。その刑事は、俺にメモを残すことを許してくれた、あのオヤジだった。
「たぶん美味いと思うけど」
「食べたいな。いい?」
「お安いご用で」
俺はナイフを利き手に持ちかえてひらりと身をひるがえし、なんら対処の取れないオヤジの身体を、切り裂いた。胃の少し上辺りから、喉にかけてを逆さに一息で切り上げると、オヤジは一瞬ぎょっとしたような顔をして俺を見つめてから、ごば、と血を吹き出した。頸動脈が切れたんだと、俺はぼうっと考えた。
止めの一刺しを心臓にくれてやり、血にまみれて、俺は背後の彼女を振り返った。
「ま、こんなもんで」
「ありがと。後でキスしてね」
そして彼女はオヤジの喉に、指先を突っ込んで喰らい始めたのだった。
どこから足がついたのだか、わからない。誰かに見られた記憶もなかったし、仮に見られたとしても、俺か、あるいは彼女が、目撃者を屠るから、そんな存在が残るはずはなかった。死体だって彼女がきれいに、それこそはらわたのひとつ、血液の一滴残さずに味わうから、発見されるわけがない。
唯一あやしまれることがあるとすれば、それはたぶん俺の匂いだろう。いつか彼女が、君は血の匂いがすると俺に微笑んだことがある。それが、敗因かもしれない。
「――クンだね。署まで来てもらっていいかな」
「どうぞ。いいですよ」
俺にはあまり執着というものがない。ドライすぎると、友人は言う。それは悪いことじゃないだろう、諦めが早いのは、世の中肝心だと俺は思う。
刑事が俺の両脇を固めて部屋から連れ出し、家賃六万/月の部屋にずかずかと上がり込む。俺はぼんやりと、階段のところでそれを見ていた。
「警部、凶器です!」
「意外と小さいな。これは君のだな?」
愛用のナイフを少しはなれたところから見せられて、俺は素直にうなずいた。そう、それは俺のだ。アメリカ空軍パイロットの、サバイバルナイフ。刃渡り十三センチとちょっと、重さは三百グラムない。使いやすいてごろなサイズで、気に入っていた。
若い刑事がそのナイフをビニール袋に放り込み、また部屋の中に消えた。警部と呼ばれた年かさの、ちょうど俺くらいの息子や娘がいてもおかしくないようなオヤジが、憐れむようにこっちを見てきた。
俺は、どうして足がついたのかとずっと不思議で、そればかりが知りたくて、オヤジに話しかけてみた。
「どうして見つかったんですか、俺」
「現場に君の髪が落ちていた」
「はぁ、そんなもんで。最近はすごいんですね」
しかし、だったら彼女も一緒に捕まっても、おかしくはなさそうだが。まぁバケモノは、警察なんかに捕まらない方法も心得てるんだろう、たぶん。
俺が間の抜けたことを言ったからだろう、オヤジは気味悪そうに顔をしかめて、それきり俺の方を見ようとはしなかった。こっちも考え事をしたかったので、ちょうどいい。俺は目を閉じて、ヘマをしたのは一昨日の夜だったのか、それとも二週間前だったのかを思い出すことにした。
しばらくすると部屋の捜査も終わったのか、俺はパトカーに乗せられることになった。さっきのオヤジが、また憐れむように見てくる。頭のおかしい若いの、とでも思われてるんだろうか。なかなか人情がある。きっと胸を捌いたらゾクゾク来るに違いない。彼女も美味そうに食ってくれるだろう。
そこでふと思い出したが、俺という狩人がいなくなったら、彼女は一体どうするのだろう。絶妙なサイクルで死体を提供してやる男も、その後に大好きな深い深いキスをくれてやる男も、ましてや帰ってから血の匂いにまみれて抱いてやる男もいなくなる。
彼女が途方に暮れる姿がちらりと頭をかすめて、俺はオヤジに声をかけた。
「友達が心配すると悪いんで。書き置きしてもいいですか」
「友達?」
「はぁ。なんか、よく俺のところに来るんで」
オヤジが許してくれたので、俺は手錠をはめられた不自由な姿勢のまま、彼女にメモを残した。
『肉まんの金はタンスの上から二段目。帰りは遅くなるだろうから、好きなもんなんとかして食ってて。』
気まぐれなバケモノのことだ、どうせ一週間くらいしても俺が戻らなきゃ、またなんとかして人を食って行くに違いない。――俺のことなんか、きれいさっぱり忘れて。
そう考えると、少しだけ辛かった。
唯一あやしまれることがあるとすれば、それはたぶん俺の匂いだろう。いつか彼女が、君は血の匂いがすると俺に微笑んだことがある。それが、敗因かもしれない。
「――クンだね。署まで来てもらっていいかな」
「どうぞ。いいですよ」
俺にはあまり執着というものがない。ドライすぎると、友人は言う。それは悪いことじゃないだろう、諦めが早いのは、世の中肝心だと俺は思う。
刑事が俺の両脇を固めて部屋から連れ出し、家賃六万/月の部屋にずかずかと上がり込む。俺はぼんやりと、階段のところでそれを見ていた。
「警部、凶器です!」
「意外と小さいな。これは君のだな?」
愛用のナイフを少しはなれたところから見せられて、俺は素直にうなずいた。そう、それは俺のだ。アメリカ空軍パイロットの、サバイバルナイフ。刃渡り十三センチとちょっと、重さは三百グラムない。使いやすいてごろなサイズで、気に入っていた。
若い刑事がそのナイフをビニール袋に放り込み、また部屋の中に消えた。警部と呼ばれた年かさの、ちょうど俺くらいの息子や娘がいてもおかしくないようなオヤジが、憐れむようにこっちを見てきた。
俺は、どうして足がついたのかとずっと不思議で、そればかりが知りたくて、オヤジに話しかけてみた。
「どうして見つかったんですか、俺」
「現場に君の髪が落ちていた」
「はぁ、そんなもんで。最近はすごいんですね」
しかし、だったら彼女も一緒に捕まっても、おかしくはなさそうだが。まぁバケモノは、警察なんかに捕まらない方法も心得てるんだろう、たぶん。
俺が間の抜けたことを言ったからだろう、オヤジは気味悪そうに顔をしかめて、それきり俺の方を見ようとはしなかった。こっちも考え事をしたかったので、ちょうどいい。俺は目を閉じて、ヘマをしたのは一昨日の夜だったのか、それとも二週間前だったのかを思い出すことにした。
しばらくすると部屋の捜査も終わったのか、俺はパトカーに乗せられることになった。さっきのオヤジが、また憐れむように見てくる。頭のおかしい若いの、とでも思われてるんだろうか。なかなか人情がある。きっと胸を捌いたらゾクゾク来るに違いない。彼女も美味そうに食ってくれるだろう。
そこでふと思い出したが、俺という狩人がいなくなったら、彼女は一体どうするのだろう。絶妙なサイクルで死体を提供してやる男も、その後に大好きな深い深いキスをくれてやる男も、ましてや帰ってから血の匂いにまみれて抱いてやる男もいなくなる。
彼女が途方に暮れる姿がちらりと頭をかすめて、俺はオヤジに声をかけた。
「友達が心配すると悪いんで。書き置きしてもいいですか」
「友達?」
「はぁ。なんか、よく俺のところに来るんで」
オヤジが許してくれたので、俺は手錠をはめられた不自由な姿勢のまま、彼女にメモを残した。
『肉まんの金はタンスの上から二段目。帰りは遅くなるだろうから、好きなもんなんとかして食ってて。』
気まぐれなバケモノのことだ、どうせ一週間くらいしても俺が戻らなきゃ、またなんとかして人を食って行くに違いない。――俺のことなんか、きれいさっぱり忘れて。
そう考えると、少しだけ辛かった。
昨日OLの腹に頭をつっこんで血を啜った女は、今は俺の隣で肉まんを食っている。別にこういうものを食べなくてもバケモノは生きていけるらしいが、彼女は肉まんが大好きだ。そしてその味にいちいち注文をつける。
最近のお気に入りは近所でオバさんが屋台を引いて売っている、一個300円の、肉まんにしてはなかなかの高級品だ。彼女は、グルメだ。
湯気の立つ、赤ん坊の頬のようにやわらかい薄皮を、その部分だけ芸術的な器用さで剥ぎ取って、大好物である『世間ずれしてない若者の心臓』を食う時のように厳かな表情で、彼女はそっと舌の上に乗せた。血の気の薄い顔にぱっと朱をのぼらせるようなところを見ると、彼女はこの肉まんがとても好きなのだということが俺にもわかる。
ほとんど打ち震えるように歓喜に満ちて薄皮を嚥下すると、彼女は昨夜俺の唇を破った牙を突き立てて、肉まんを食いちぎった。
「ホントに美味しそうに食べるねぇ、うれしいよ」
「うふん。大好物とそっくりな味がするんですよー」
オバさんと妙に愛想のいい会話を交わす彼女は、誰がどう見たってバケモノには見えないだろう。実際、俺だって勘違いしそうになる。となりにいるこの女は、実はただの同級生なんじゃなかろうかと――
馬鹿げた、話だ。
お目当ての肉まんを胃におさめ、帰り道で彼女はキスをねだってきた。今日食ったのは人の血じゃなくて、肉まんのはずだったんだが。
美人とキスするのは悪いもんじゃない。幸い人通りも少なかったので、俺はまるで恋人にそうするように彼女を抱き寄せて、深くキスをしてやった。
「あのねぇ」
薄い唇の端から牙をのぞかせて、甘えたように彼女は笑った。
「あのオバさん、大好き。きっと殺したら楽しいだろうし、血も美味しいよ」
「別に殺してもいいけど。あの年頃ならめんどくさくなさそうだし」
「ダメ」
どうして、と再びキスをしながら問うと、くすぐったそうに彼女は身をよじった。少し俺から距離を取って、ぺろりと唇を、毒々しいほど赤い舌が舐める。
その舌なめずりはとても幸せそうで、俺はやっぱりあのオバさんを彼女のために殺してやるべきなんじゃないかと、止められたクセに考えた。
「だって、オバさんの肉まんが食べれなくなるでしょ。それって君がいなくなるのと同じくらい、私にとっては痛いことなの」
「ふぅん。利害の一致、ってヤツ?」
「そ。世の中、そういうのばっかりだったらシンプルなのになぁ」
ああでも、いつかあのオバさんが肉まんを作れなくなる日が来たら、その時は俺が殺してやろう。彼女の言うとおり、それはきっととても楽しいだろうし、オバさんの血は美味いに違いないから。
最近のお気に入りは近所でオバさんが屋台を引いて売っている、一個300円の、肉まんにしてはなかなかの高級品だ。彼女は、グルメだ。
湯気の立つ、赤ん坊の頬のようにやわらかい薄皮を、その部分だけ芸術的な器用さで剥ぎ取って、大好物である『世間ずれしてない若者の心臓』を食う時のように厳かな表情で、彼女はそっと舌の上に乗せた。血の気の薄い顔にぱっと朱をのぼらせるようなところを見ると、彼女はこの肉まんがとても好きなのだということが俺にもわかる。
ほとんど打ち震えるように歓喜に満ちて薄皮を嚥下すると、彼女は昨夜俺の唇を破った牙を突き立てて、肉まんを食いちぎった。
「ホントに美味しそうに食べるねぇ、うれしいよ」
「うふん。大好物とそっくりな味がするんですよー」
オバさんと妙に愛想のいい会話を交わす彼女は、誰がどう見たってバケモノには見えないだろう。実際、俺だって勘違いしそうになる。となりにいるこの女は、実はただの同級生なんじゃなかろうかと――
馬鹿げた、話だ。
お目当ての肉まんを胃におさめ、帰り道で彼女はキスをねだってきた。今日食ったのは人の血じゃなくて、肉まんのはずだったんだが。
美人とキスするのは悪いもんじゃない。幸い人通りも少なかったので、俺はまるで恋人にそうするように彼女を抱き寄せて、深くキスをしてやった。
「あのねぇ」
薄い唇の端から牙をのぞかせて、甘えたように彼女は笑った。
「あのオバさん、大好き。きっと殺したら楽しいだろうし、血も美味しいよ」
「別に殺してもいいけど。あの年頃ならめんどくさくなさそうだし」
「ダメ」
どうして、と再びキスをしながら問うと、くすぐったそうに彼女は身をよじった。少し俺から距離を取って、ぺろりと唇を、毒々しいほど赤い舌が舐める。
その舌なめずりはとても幸せそうで、俺はやっぱりあのオバさんを彼女のために殺してやるべきなんじゃないかと、止められたクセに考えた。
「だって、オバさんの肉まんが食べれなくなるでしょ。それって君がいなくなるのと同じくらい、私にとっては痛いことなの」
「ふぅん。利害の一致、ってヤツ?」
「そ。世の中、そういうのばっかりだったらシンプルなのになぁ」
ああでも、いつかあのオバさんが肉まんを作れなくなる日が来たら、その時は俺が殺してやろう。彼女の言うとおり、それはきっととても楽しいだろうし、オバさんの血は美味いに違いないから。