愚かな女です。
そのことを、あなたにだけは知っていてもらいたかった。
男が死んだのだと、全権大使の青年から聞いた。数日前から姿を見せなくなっていた彼が故国へもどったのだろうことは薄々気づいていたけれども、望んでもどったのであろう国で、なぜ彼が死ななければならなかったのかがひとつもわからなかった。
調印式が終わり、人払いをして静かになった東の要塞の一室で、女王ははしたなくも寝椅子にもたれて大きく喘いだ。血の気を失ってふるえる唇が、どうして、とつぶやいた。
「どうして、死んでしまったのですか……」
あれほど自分が守ろうとしたものを――初めは彼が注いでくれる愛情と罪悪感に、そうして次には再び手に入れた権力にすがって。うばわれた、愛おしい人たちすべての命と天秤にかけて、それでもまだ彼の方が勝ってしまうほどに守ろうとしたのに。
エゴイスティックなのだとわかっていた。自分のしたことはすべて、彼の意志をまるきり無視している。彼はいつでも、その首で罪をあがなおうとしていたのに見えないふりをした。
「女王、あの子はあなたよりも弱い子だったのですよ」
いつからそこにいたのか、背後からやさしく気づかうようにかけられた老婆の声に、女王は知っていました、と弱々しく答えた。
「知っていました。けれども、あの方は約束してくださいました――生きてわたくしのためになってくれると」
「あなたのお役に立てないのなら、傍にひかえる必要もないでしょうに。……あなたは最後の機会を無駄にしてしまわれた」
それが数日前の夜、疲れた顔で吐き出された懇願のことをしめしているのだと、女王にはすぐ理解できた。前線に出してくれないかと、男は頭を垂れてそう言った。
ああ、けれども、たとえあれが最後の機会だったからと言って、みすみす彼を失うような真似を、自分が容認できたと思うのか? 答えは否でしかない。
女王はヒステリックな笑みの形に口元をゆがめて、ふ、と苦しげに息をついた。
「それでもわたくしは、彼を愛していました」
そのことを、あなたにだけは知っていてもらいたかった。
男が死んだのだと、全権大使の青年から聞いた。数日前から姿を見せなくなっていた彼が故国へもどったのだろうことは薄々気づいていたけれども、望んでもどったのであろう国で、なぜ彼が死ななければならなかったのかがひとつもわからなかった。
調印式が終わり、人払いをして静かになった東の要塞の一室で、女王ははしたなくも寝椅子にもたれて大きく喘いだ。血の気を失ってふるえる唇が、どうして、とつぶやいた。
「どうして、死んでしまったのですか……」
あれほど自分が守ろうとしたものを――初めは彼が注いでくれる愛情と罪悪感に、そうして次には再び手に入れた権力にすがって。うばわれた、愛おしい人たちすべての命と天秤にかけて、それでもまだ彼の方が勝ってしまうほどに守ろうとしたのに。
エゴイスティックなのだとわかっていた。自分のしたことはすべて、彼の意志をまるきり無視している。彼はいつでも、その首で罪をあがなおうとしていたのに見えないふりをした。
「女王、あの子はあなたよりも弱い子だったのですよ」
いつからそこにいたのか、背後からやさしく気づかうようにかけられた老婆の声に、女王は知っていました、と弱々しく答えた。
「知っていました。けれども、あの方は約束してくださいました――生きてわたくしのためになってくれると」
「あなたのお役に立てないのなら、傍にひかえる必要もないでしょうに。……あなたは最後の機会を無駄にしてしまわれた」
それが数日前の夜、疲れた顔で吐き出された懇願のことをしめしているのだと、女王にはすぐ理解できた。前線に出してくれないかと、男は頭を垂れてそう言った。
ああ、けれども、たとえあれが最後の機会だったからと言って、みすみす彼を失うような真似を、自分が容認できたと思うのか? 答えは否でしかない。
女王はヒステリックな笑みの形に口元をゆがめて、ふ、と苦しげに息をついた。
「それでもわたくしは、彼を愛していました」
約束を、せめて半分でいい、果たすことを許してほしい。
この上裏切るつもりなど、ひとかけらもありはしなかった。ただただこの身を彼女のためにだけ役立てようと、そう思ったことは事実だった。
けれど、その方法がわからない。王族殺しと罵られ、元いた故国を裏切ったと疎まれ、仕事のひとつも回してはもらえない。日がな一日歩き回る宮廷では、あちこちでいわれのない侮蔑までも受けた。
何故とは言わない。浴びせられる罵倒にふさわしいだけのふるまいをしたのだから。ああ、だが彼らはこの身とて人間であることを、忘れているのではあるまいか。心臓にひとつひとつ刻まれた悪口のたぐいは、一日経るごとに膿んで腐り、もはや真っ当な思考回路を成立させることさえむずかしい。
自分のことを、貴様だけは許さないと言い放った男までもが、今ではこの状況を憐れんでいることを知っている。正義感の強い、公明正大な男だ。すくなくともなんらかの仕事に使われるだけの価値のある人間が、なにひとつとしてできないでいることに我慢がならないのだろう。
いつしか再び死を願うようになっていた。這い蹲って生きると誓ったことさえも忘れて、安易な死の方向へと流されてしまいたかった。この首ひとつで犯した罪が償えるというのなら、これほど安価な代償もあるまいに。
そんな折だった。東部の国境にかつて忠誠を誓っていた国が侵攻し、戦争が始まったのは。
ぜひ、と頭を垂れると、朝の御前会議場がざわめいた。無理もない、誰もが忌避する戦場へ、真っ先にそれもすすんで赴こうというのだから、ざわめきの半分はおどろきで、半分は安堵だったのだろう。死にたがりの王族殺しが立候補したからには、女王は彼をその捨て駒役に任命するにちがいないと。
けれども予想外なことに、女王はいつまで経ってもうなずかなかった。彼女はまるで彼の言葉を聞かなかったかのように、立ち上がり、重々しくもきっぱりとした声音で宣言した。
「親征を行います」
意外すぎる言葉に思わず顔を上げれば、思慮を深く宿したブルーアイにぶつかった。死なせはしない。すぐにそらされたその視線が、そう囁いたように思えた。
ひとりきり、この国の果てで戦って、あなたのために死ぬことも許されないのかと絶望した。いまさらながら、女王の聡明さをひどく憎々しく思った。
この上裏切るつもりなど、ひとかけらもありはしなかった。ただただこの身を彼女のためにだけ役立てようと、そう思ったことは事実だった。
けれど、その方法がわからない。王族殺しと罵られ、元いた故国を裏切ったと疎まれ、仕事のひとつも回してはもらえない。日がな一日歩き回る宮廷では、あちこちでいわれのない侮蔑までも受けた。
何故とは言わない。浴びせられる罵倒にふさわしいだけのふるまいをしたのだから。ああ、だが彼らはこの身とて人間であることを、忘れているのではあるまいか。心臓にひとつひとつ刻まれた悪口のたぐいは、一日経るごとに膿んで腐り、もはや真っ当な思考回路を成立させることさえむずかしい。
自分のことを、貴様だけは許さないと言い放った男までもが、今ではこの状況を憐れんでいることを知っている。正義感の強い、公明正大な男だ。すくなくともなんらかの仕事に使われるだけの価値のある人間が、なにひとつとしてできないでいることに我慢がならないのだろう。
いつしか再び死を願うようになっていた。這い蹲って生きると誓ったことさえも忘れて、安易な死の方向へと流されてしまいたかった。この首ひとつで犯した罪が償えるというのなら、これほど安価な代償もあるまいに。
そんな折だった。東部の国境にかつて忠誠を誓っていた国が侵攻し、戦争が始まったのは。
ぜひ、と頭を垂れると、朝の御前会議場がざわめいた。無理もない、誰もが忌避する戦場へ、真っ先にそれもすすんで赴こうというのだから、ざわめきの半分はおどろきで、半分は安堵だったのだろう。死にたがりの王族殺しが立候補したからには、女王は彼をその捨て駒役に任命するにちがいないと。
けれども予想外なことに、女王はいつまで経ってもうなずかなかった。彼女はまるで彼の言葉を聞かなかったかのように、立ち上がり、重々しくもきっぱりとした声音で宣言した。
「親征を行います」
意外すぎる言葉に思わず顔を上げれば、思慮を深く宿したブルーアイにぶつかった。死なせはしない。すぐにそらされたその視線が、そう囁いたように思えた。
ひとりきり、この国の果てで戦って、あなたのために死ぬことも許されないのかと絶望した。いまさらながら、女王の聡明さをひどく憎々しく思った。
初めから、俺はあなただけのものだった。
国へもどりたいのです、と吐いた王女の心境は、いかばかりだったのだろう。そもそも、何を考えてその言葉を男の前で吐いたのだろう。彼は――どれだけ彼がそうではないと自身に嘘を重ねたところで、王女の監視役であるに過ぎないのに。
もどりたい、そう言われてもどりましょうと言える立場であったなら、どれほど救われただろうか。王女の国の騎士であったらと、そこまで傲慢なことを願いはしない。ただ、その身がなにひとつとして抱えることのない、くだらないものであったならと、それだけを願っていた。
なにを答えることもできずに立ち尽くし、息を飲んでいると、王女はつ、と顔を上げた。男の輪郭を正確にたどることのできないブルーアイが虚空を見つめ、わかっていますと囁いた。
「あなたに願う方がまちがっているのでしょう。けれども……わたくしは、愚かな女なのです」
はらりと視界を失った目が涙をこぼし、そうして次にはそのことを恥じるかのように、王女はそっと指先で目元をぬぐった。その涙をぬぐいたいと思ったのは、もっと初めのころからだったのだが、結局望みは叶えられないまま今に至っている。
「お願いです、わたくしとともに……あの国へ、帰ってください」
あてどなく伸ばされた手が違わず自身の手に触れた時、裏切りは許されないのだと知った。
「――承知、しました」
たったひとつ命じてくれればそれだけで、あなたの足下にも這い蹲ろう。いや、なに。それはなにも忠誠を誓ったこの瞬間からではない。一年前、まだ誇り高く聡明なだけだったあなたに出会った時からずっと、この身はあなたのためにあった。
国へもどりたいのです、と吐いた王女の心境は、いかばかりだったのだろう。そもそも、何を考えてその言葉を男の前で吐いたのだろう。彼は――どれだけ彼がそうではないと自身に嘘を重ねたところで、王女の監視役であるに過ぎないのに。
もどりたい、そう言われてもどりましょうと言える立場であったなら、どれほど救われただろうか。王女の国の騎士であったらと、そこまで傲慢なことを願いはしない。ただ、その身がなにひとつとして抱えることのない、くだらないものであったならと、それだけを願っていた。
なにを答えることもできずに立ち尽くし、息を飲んでいると、王女はつ、と顔を上げた。男の輪郭を正確にたどることのできないブルーアイが虚空を見つめ、わかっていますと囁いた。
「あなたに願う方がまちがっているのでしょう。けれども……わたくしは、愚かな女なのです」
はらりと視界を失った目が涙をこぼし、そうして次にはそのことを恥じるかのように、王女はそっと指先で目元をぬぐった。その涙をぬぐいたいと思ったのは、もっと初めのころからだったのだが、結局望みは叶えられないまま今に至っている。
「お願いです、わたくしとともに……あの国へ、帰ってください」
あてどなく伸ばされた手が違わず自身の手に触れた時、裏切りは許されないのだと知った。
「――承知、しました」
たったひとつ命じてくれればそれだけで、あなたの足下にも這い蹲ろう。いや、なに。それはなにも忠誠を誓ったこの瞬間からではない。一年前、まだ誇り高く聡明なだけだったあなたに出会った時からずっと、この身はあなたのためにあった。
Give me pure something to burn.
2004年5月31日 長編断片 あなたを太陽とは呼ばない。むしろこの身を焼き尽くす炎であってくれたなら、それがなによりも喜ばしい。
天気の良い日に広い庭を散策することが、最近の彼女の日課だ。目が見えないものだからあちこちにぶつかりそうになったり転びそうになったり、果ては藪の中に足を踏み入れそうになったりするから、すすんで護衛を引き受けた。
危ないですから、と手を差し出してエスコートしようとすると、ためらいがちに伸ばされてくる白い手がとても好きだった。その手を守る資格などありはしないと知っていながら、なおそうしたうつくしい行為にあこがれるほどに。
そうして二人で芝生を踏み、きれいに刈り込まれた木々を抜けて小径の清楚な花々の香りを感じているこの瞬間で時が止まってしまえばいいと、一体何度思ったことだろう。愚かな願いだ。叶えられるはずもなく、よしんば叶えられたとして、聡明な彼女はほどなく欺瞞に気づくだろうに。
暗い考えをごまかすように、なぜいつもこんなふうに庭を歩き回るのかと問うたことがある。目が見えないのだから、庭師が丹精こめたこの庭も、彼女にとっては意味などないだろうに。
「あなたの手が、わたくしはとても好きです。あたたかくて……日の光と、同じ温度をしています」
小川にかけられた石橋の上で、彼の手を取ったまま彼女は笑った。
「でも、わたくしが城内にいると、他にも人がいるからでしょう、ちっともあなたはわたくしの傍にいてはくれません。ですからこうして、」
ぐ、と思ったよりも強い力で手を引きよせられ、相手が相手だけに抗うこともできないまま、おとなしく――けれどもとてつもない困惑をともなって――一歩彼女の傍に寄る。
「傍にいるためには、わたくしにはこの時間が必要なのです」
ああ、あどけないひと。あなたは俺の手を日の光のようだと言う。けれどこの手はそれほどきれいではない。
早く真実に気づいて、そうして混じり気のないあなたの炎で、あなたが太陽と呼んだ俺を滅ぼしてしまってくれればいい。唯一願うことはそれだけなのに。
天気の良い日に広い庭を散策することが、最近の彼女の日課だ。目が見えないものだからあちこちにぶつかりそうになったり転びそうになったり、果ては藪の中に足を踏み入れそうになったりするから、すすんで護衛を引き受けた。
危ないですから、と手を差し出してエスコートしようとすると、ためらいがちに伸ばされてくる白い手がとても好きだった。その手を守る資格などありはしないと知っていながら、なおそうしたうつくしい行為にあこがれるほどに。
そうして二人で芝生を踏み、きれいに刈り込まれた木々を抜けて小径の清楚な花々の香りを感じているこの瞬間で時が止まってしまえばいいと、一体何度思ったことだろう。愚かな願いだ。叶えられるはずもなく、よしんば叶えられたとして、聡明な彼女はほどなく欺瞞に気づくだろうに。
暗い考えをごまかすように、なぜいつもこんなふうに庭を歩き回るのかと問うたことがある。目が見えないのだから、庭師が丹精こめたこの庭も、彼女にとっては意味などないだろうに。
「あなたの手が、わたくしはとても好きです。あたたかくて……日の光と、同じ温度をしています」
小川にかけられた石橋の上で、彼の手を取ったまま彼女は笑った。
「でも、わたくしが城内にいると、他にも人がいるからでしょう、ちっともあなたはわたくしの傍にいてはくれません。ですからこうして、」
ぐ、と思ったよりも強い力で手を引きよせられ、相手が相手だけに抗うこともできないまま、おとなしく――けれどもとてつもない困惑をともなって――一歩彼女の傍に寄る。
「傍にいるためには、わたくしにはこの時間が必要なのです」
ああ、あどけないひと。あなたは俺の手を日の光のようだと言う。けれどこの手はそれほどきれいではない。
早く真実に気づいて、そうして混じり気のないあなたの炎で、あなたが太陽と呼んだ俺を滅ぼしてしまってくれればいい。唯一願うことはそれだけなのに。
この身を追うものが背徳感なのだとしたら、どうして自分は生きているのだ?
たしかに死んだと思ったのだ、闇の中で高らかな死刑実行の合図が響き、銃声とともに鉛の弾で内蔵を射抜かれて。第一その後の記憶などというものもない。
けれども気が付いてみるとベッドの上、ここはどこだとふらつく身体で外に出てみれば、まるでおとぎ話のように花々が咲き乱れる中、なじみの老婆がおや目が覚めたのかと当然のような口を利く。そのままなにひとつとしてわからないまま、今日もこうして生きている。
だらりとテラスに身を投げ出し、おだやかな日の光に照らされながら、早く死ぬべきなのだと考えていた。背後から常に背徳感に追われている。思考は一歩も前に進んではくれず、死へのシミュレートを何千回となく繰り返した。
それなのに、死なせてくれと懇願すると、老婆は言うのだ。その身体はあなたのものではないだろう、と。
ああ、たしかに。手の甲を蟻が這ってゆくのをながめながら、力無く同意する。たしかにこの身体は自分一人のものではない。忠誠を誓ったあのひとのものでもある。けれどもそのひとは、死ねと命じたではないか。老婆、あなたもそれを聞いていただろうに。
すでに自分を追うものが背徳感なのか、それとも単なる焦燥なのか、区別がつかなくなりかけていた。まだこの罪悪が確定できている内に、死んでしまうべきとはわかっているのだけれど。
重苦しいためいきをついて、おだやかな風景から逃れるように目を閉じた。
「――命令です」
ふるえた声を、深く頭を垂れて這いつくばったまま聞いていた。
「死ぬことなど許さない。生きて……恥と罪を晒して、生きてください」
どちらかといえば懇願するような調子だった。許さないと言いながら、すでに罪すらその身に受け入れてしまっているような。
御意、と額を床にこすりつけてつぶやくと、ざわりと周囲のひとびとがざわめいた。寛大な判決に対する驚きだったのだろうけれど、彼らは知らないのだと暗く考える。この身にとって、こうしてのうのうと生きていることがどれほど辛く耐え難いことであるかを。
追うものが背徳感であれば早々に死んでいた。死なずに生き続けたのは、泣き叫びながらこの背を追いかけてくるひとが、他ならぬ彼女だったからだ。
聡明なひとよ。
あなたは一番のつぐないを、この愚かな男に教えてくれた。それはとても辛いことだったけれど。
たしかに死んだと思ったのだ、闇の中で高らかな死刑実行の合図が響き、銃声とともに鉛の弾で内蔵を射抜かれて。第一その後の記憶などというものもない。
けれども気が付いてみるとベッドの上、ここはどこだとふらつく身体で外に出てみれば、まるでおとぎ話のように花々が咲き乱れる中、なじみの老婆がおや目が覚めたのかと当然のような口を利く。そのままなにひとつとしてわからないまま、今日もこうして生きている。
だらりとテラスに身を投げ出し、おだやかな日の光に照らされながら、早く死ぬべきなのだと考えていた。背後から常に背徳感に追われている。思考は一歩も前に進んではくれず、死へのシミュレートを何千回となく繰り返した。
それなのに、死なせてくれと懇願すると、老婆は言うのだ。その身体はあなたのものではないだろう、と。
ああ、たしかに。手の甲を蟻が這ってゆくのをながめながら、力無く同意する。たしかにこの身体は自分一人のものではない。忠誠を誓ったあのひとのものでもある。けれどもそのひとは、死ねと命じたではないか。老婆、あなたもそれを聞いていただろうに。
すでに自分を追うものが背徳感なのか、それとも単なる焦燥なのか、区別がつかなくなりかけていた。まだこの罪悪が確定できている内に、死んでしまうべきとはわかっているのだけれど。
重苦しいためいきをついて、おだやかな風景から逃れるように目を閉じた。
「――命令です」
ふるえた声を、深く頭を垂れて這いつくばったまま聞いていた。
「死ぬことなど許さない。生きて……恥と罪を晒して、生きてください」
どちらかといえば懇願するような調子だった。許さないと言いながら、すでに罪すらその身に受け入れてしまっているような。
御意、と額を床にこすりつけてつぶやくと、ざわりと周囲のひとびとがざわめいた。寛大な判決に対する驚きだったのだろうけれど、彼らは知らないのだと暗く考える。この身にとって、こうしてのうのうと生きていることがどれほど辛く耐え難いことであるかを。
追うものが背徳感であれば早々に死んでいた。死なずに生き続けたのは、泣き叫びながらこの背を追いかけてくるひとが、他ならぬ彼女だったからだ。
聡明なひとよ。
あなたは一番のつぐないを、この愚かな男に教えてくれた。それはとても辛いことだったけれど。
ひとときたりとも忘れたことのないものが、二つある。
もう一度目が見えるようになるかもしれない、と告げたら、たぶん男は目の前で笑ったのだろう、ほんの少し空気がゆれた。そうですか、とごく静かな声とともに、うかがうように指先が髪に触れてくる。
戦うことが生業の、荒れてざらつきごつごつしたその指が、とても好きだった。目が見えるようになることはたしかに嬉しいけれども、見えないからこそこんなふうに他の感覚で男を知ることもできるのだ。再び光を手に入れてしまったなら、視覚に頼って男の指を忘れてしまうかもしれなかった。
手探りで男の手をとり、その形をたどると、彼はとまどったようだった。ばれていないと思い込んでいるのだろうけれど、ほとんど無意識の内にぴくりとわなないた筋肉だけは、彼女をごまかすことはできない。
「――王女」
とがめるように、男が呼ぶ。
「王女、どうかお放しを。お戯れになりませんよう…」
「あなたが先にしかけたのでしょう」
大きな手のひらを小さな両手で包んでからかいぎみに言うと、男はほとんど逃げ出してしまいそうなくらいに緊張して、お許しくださいとかすれた声でささやいた。途中でその声がくぐもったところを見ると、彼は頭を垂れたようだった。
あんまりにも男が頼りない声を出すものだから、さすがに哀れに思って手を放してやった。けれどもう遅い。もはやその手の形を、指先のぬくもりを、すべて記憶に刻み込んでしまった。
ああ、でもいくら記憶したとは言え、やはり一番初めにこの目に入れるものは、彼であってほしい。ひとつお願いがあるのです、とねだれば、やさしい男は断りはしなかった。
「わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです」
彼は異国の男だから、まして敵国の女である自分の願いなど聞き入れなくともかまわないというのに、あきらめたように我が侭を受け入れてくれる。その、承知しましたとこまったように告げる声が、好きだった。
「――人殺し!」
その男と再び相見えることがあったなら、この絶叫だけで彼を殺してやろうと思っていたのだ。けれども興奮しすぎた声帯は、かすれたみっともない声しか出してはくれなかった。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
ああ、そうとも。忘れるわけがなかった。この目で最後に見た、両親と弟と、婚約者の青年までも殺した男の顔を、一体どこの愚か者が忘れてしまうと言うのだろう。
ふるえる指先を突き付けられた男は、憎たらしいことに笑んでいた。さながら暗殺者の存在に気づかなかった周囲と、動揺する彼女を嘲るかのように。
人殺し、と再び叫んだ時、暗殺者はすでに取り押さえられ、床に這い蹲っていた。それでもなお笑う男に、いっそ吐き気がした。
目が見えないから覚えた、愛しい男の手。
最後に見たものだから覚えた、憎い男の顔。
二つが表裏一体だったなど、知らなければ幸せだった。
もう一度目が見えるようになるかもしれない、と告げたら、たぶん男は目の前で笑ったのだろう、ほんの少し空気がゆれた。そうですか、とごく静かな声とともに、うかがうように指先が髪に触れてくる。
戦うことが生業の、荒れてざらつきごつごつしたその指が、とても好きだった。目が見えるようになることはたしかに嬉しいけれども、見えないからこそこんなふうに他の感覚で男を知ることもできるのだ。再び光を手に入れてしまったなら、視覚に頼って男の指を忘れてしまうかもしれなかった。
手探りで男の手をとり、その形をたどると、彼はとまどったようだった。ばれていないと思い込んでいるのだろうけれど、ほとんど無意識の内にぴくりとわなないた筋肉だけは、彼女をごまかすことはできない。
「――王女」
とがめるように、男が呼ぶ。
「王女、どうかお放しを。お戯れになりませんよう…」
「あなたが先にしかけたのでしょう」
大きな手のひらを小さな両手で包んでからかいぎみに言うと、男はほとんど逃げ出してしまいそうなくらいに緊張して、お許しくださいとかすれた声でささやいた。途中でその声がくぐもったところを見ると、彼は頭を垂れたようだった。
あんまりにも男が頼りない声を出すものだから、さすがに哀れに思って手を放してやった。けれどもう遅い。もはやその手の形を、指先のぬくもりを、すべて記憶に刻み込んでしまった。
ああ、でもいくら記憶したとは言え、やはり一番初めにこの目に入れるものは、彼であってほしい。ひとつお願いがあるのです、とねだれば、やさしい男は断りはしなかった。
「わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです」
彼は異国の男だから、まして敵国の女である自分の願いなど聞き入れなくともかまわないというのに、あきらめたように我が侭を受け入れてくれる。その、承知しましたとこまったように告げる声が、好きだった。
「――人殺し!」
その男と再び相見えることがあったなら、この絶叫だけで彼を殺してやろうと思っていたのだ。けれども興奮しすぎた声帯は、かすれたみっともない声しか出してはくれなかった。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
ああ、そうとも。忘れるわけがなかった。この目で最後に見た、両親と弟と、婚約者の青年までも殺した男の顔を、一体どこの愚か者が忘れてしまうと言うのだろう。
ふるえる指先を突き付けられた男は、憎たらしいことに笑んでいた。さながら暗殺者の存在に気づかなかった周囲と、動揺する彼女を嘲るかのように。
人殺し、と再び叫んだ時、暗殺者はすでに取り押さえられ、床に這い蹲っていた。それでもなお笑う男に、いっそ吐き気がした。
目が見えないから覚えた、愛しい男の手。
最後に見たものだから覚えた、憎い男の顔。
二つが表裏一体だったなど、知らなければ幸せだった。
王女。
あなたがずっと、薄暗がりの中でまどろんでいてくれることを願う。あなたから不当に奪われたものを再び享受して、愛情の中できれいなものだけを感じていてほしい。
――目が覚めたら、俺の裏切りが待っている。
彼女に見せていない、見せることなどできはしない側面が多すぎた。中でも最大の隠し事と言えば、露見した瞬間に首を落とされても文句の言えないほどのことで、別にそうされることは怖くはないのだけれど、少しでも長く彼女の傍にいるために、彼はやさしい嘘をささやき続けていた。
けれども、だからといっていつまでも目隠しをさせたままでおくわけにもいかなかった。なぜなら、また目が見えるようになるかもしれないの、と言った彼女がひどくうれしそうだったからだ。
「愛するひとが笑っていることが、人としての幸せだと父が言っていました」
だから、わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです。そう言って、彼女と他愛もない約束をしたのは、つい昨日のことだった――目を開けたら、真っ先に見える場所にいる、と。
謁見の間につめかけたたくさんの貴族や高級官僚の最前列で、彼はぼんやりとそんなことを思い出していた。この場所に立っていれば少なくとも彼女との約束を果たすことはできるだろう。……約束を果たすことで、彼女が喜ぶかどうかは非常に疑問だったけれど。
大勢のひとびとの見守る中、まるで戴冠式の洗礼のように優雅なしぐさで老婆の祝福を受け、彼女はゆっくりと目を開いた。ああ、あの日見た時とそっくり同じ、なんときれいなブルーアイ。彼はゆるゆると唇の端を持ち上げて、微笑んだ。
けれども、約束どおりにまっすぐその笑顔を見すえた彼女の表情が、傍目にもわかるほどに引きつった。
「――人殺し!」
かすれた声の絶叫がその場の皆の鼓膜を震わせ、愕然とさせた。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
ぞっとするほどの憎悪の中、彼は約束どおりに微笑み続けていた。それはまずまちがいなく、彼女の誤解を招いただろう。ふてぶてしくも残された者を嘲り笑う、残忍な暗殺者という誤解を。
彼はそっと目を伏せて、その誤解を甘んじて受け入れた。
王女。
あなたは聡明な人だ。だから真実に目を閉じていることなど、けしてできはしないだろう。それならそれでもかまわない。暗殺者と詐欺師の汚名をこの背に負って、俺だけが地獄に堕ちていく。
けれども王女。
もしもあなたが愚かなひとであったなら、俺はそうしようとは思わなかった。
あなたがずっと、薄暗がりの中でまどろんでいてくれることを願う。あなたから不当に奪われたものを再び享受して、愛情の中できれいなものだけを感じていてほしい。
――目が覚めたら、俺の裏切りが待っている。
彼女に見せていない、見せることなどできはしない側面が多すぎた。中でも最大の隠し事と言えば、露見した瞬間に首を落とされても文句の言えないほどのことで、別にそうされることは怖くはないのだけれど、少しでも長く彼女の傍にいるために、彼はやさしい嘘をささやき続けていた。
けれども、だからといっていつまでも目隠しをさせたままでおくわけにもいかなかった。なぜなら、また目が見えるようになるかもしれないの、と言った彼女がひどくうれしそうだったからだ。
「愛するひとが笑っていることが、人としての幸せだと父が言っていました」
だから、わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです。そう言って、彼女と他愛もない約束をしたのは、つい昨日のことだった――目を開けたら、真っ先に見える場所にいる、と。
謁見の間につめかけたたくさんの貴族や高級官僚の最前列で、彼はぼんやりとそんなことを思い出していた。この場所に立っていれば少なくとも彼女との約束を果たすことはできるだろう。……約束を果たすことで、彼女が喜ぶかどうかは非常に疑問だったけれど。
大勢のひとびとの見守る中、まるで戴冠式の洗礼のように優雅なしぐさで老婆の祝福を受け、彼女はゆっくりと目を開いた。ああ、あの日見た時とそっくり同じ、なんときれいなブルーアイ。彼はゆるゆると唇の端を持ち上げて、微笑んだ。
けれども、約束どおりにまっすぐその笑顔を見すえた彼女の表情が、傍目にもわかるほどに引きつった。
「――人殺し!」
かすれた声の絶叫がその場の皆の鼓膜を震わせ、愕然とさせた。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
ぞっとするほどの憎悪の中、彼は約束どおりに微笑み続けていた。それはまずまちがいなく、彼女の誤解を招いただろう。ふてぶてしくも残された者を嘲り笑う、残忍な暗殺者という誤解を。
彼はそっと目を伏せて、その誤解を甘んじて受け入れた。
王女。
あなたは聡明な人だ。だから真実に目を閉じていることなど、けしてできはしないだろう。それならそれでもかまわない。暗殺者と詐欺師の汚名をこの背に負って、俺だけが地獄に堕ちていく。
けれども王女。
もしもあなたが愚かなひとであったなら、俺はそうしようとは思わなかった。
手に入らないのなら殺してしまいたいと思うような男を、昔から捜していたような気がする。
男のアパートにはクーラーがない。あるのは彼が実家から持ってきたというおんぼろの扇風機だけだったので、昨夜からの延長でこもってしまった熱を吹き飛ばすには、少し――というかかなり――物足りなかった。熱風を無意味にかきまわす機械が、哀れなほどだ。
無論、死にそうなくらい暑い。けれども彼女は、男の身体にぴったりと這わせた汗でべたつく腕だの足だのを、引き離そうとはちっとも思わなかった。現代社会の男たちからは失われてしまったオスの匂い、たとえば肩口に噛みついた時に感じる汗の味や、追い詰められる寸前の混濁した意識がふと嗅ぎ取る麝香の香りが、彼女は好きだった。
扇風機の低いうなりが聞こえる。カーテンの隙間からちらちらと万年床に日が差して、その光がまぶたに当たったのだろう、不意に絡ませた足の筋肉が隆起した。
「眠ぃ……さき、何時…?」
かすれた声とともににゅっと腕が突き出てきて、枕元の携帯電話をまさぐる。十数分前にアラームが鳴ったのを、彼女は聞いていた。
「七時すぎ。さっきアラーム鳴ってたから」
くつくつと笑って伝えると、男はうう、だかああ、だかうめいて、ようやく決心したようにむくりと起き上がった。そういえば、今日は早くから講義があるのだとか昨日言っていたような気がする。
自堕落に寝そべったまま、男が部屋を行ったり来たりするのを見ていたが、ふと彼女は胃の辺りに手をやった。ひく、とうごめく内蔵に、そういえば昨夜辺りから空腹だったことに気づく。
「……なんか、おなか減った」
ぽつんとつぶやくと、シャワーを浴び終え、上半身裸のままジーンズだけを身につけただらしのない格好でうろうろしていた男が、耳ざとくふりかえった。勘がいいから、この男は好きだ。
「したら、晩飯は外にしよう。どこ行くか決めといて」
「はぁーい」
男が出かけてからもしばらくごろごろしてすごしていたものの、いつの間にか眠ってしまった。今日は帰りが遅くなるから、よく寝ておかないと。そんなことを、言い訳ぶって考えていたような気がする。
遙か昔からこの身を苦しめる飢餓がなりをひそめることがあるのだとすれば、喰うことなど考えつきもしないほどに、つまり手に入らないのなら喰うよりも殺した方がましだと思えるような男がそばにいる時だけだと信じていた。そうして見つけた男は、まさしくそういう人だった。
男のアパートにはクーラーがない。あるのは彼が実家から持ってきたというおんぼろの扇風機だけだったので、昨夜からの延長でこもってしまった熱を吹き飛ばすには、少し――というかかなり――物足りなかった。熱風を無意味にかきまわす機械が、哀れなほどだ。
無論、死にそうなくらい暑い。けれども彼女は、男の身体にぴったりと這わせた汗でべたつく腕だの足だのを、引き離そうとはちっとも思わなかった。現代社会の男たちからは失われてしまったオスの匂い、たとえば肩口に噛みついた時に感じる汗の味や、追い詰められる寸前の混濁した意識がふと嗅ぎ取る麝香の香りが、彼女は好きだった。
扇風機の低いうなりが聞こえる。カーテンの隙間からちらちらと万年床に日が差して、その光がまぶたに当たったのだろう、不意に絡ませた足の筋肉が隆起した。
「眠ぃ……さき、何時…?」
かすれた声とともににゅっと腕が突き出てきて、枕元の携帯電話をまさぐる。十数分前にアラームが鳴ったのを、彼女は聞いていた。
「七時すぎ。さっきアラーム鳴ってたから」
くつくつと笑って伝えると、男はうう、だかああ、だかうめいて、ようやく決心したようにむくりと起き上がった。そういえば、今日は早くから講義があるのだとか昨日言っていたような気がする。
自堕落に寝そべったまま、男が部屋を行ったり来たりするのを見ていたが、ふと彼女は胃の辺りに手をやった。ひく、とうごめく内蔵に、そういえば昨夜辺りから空腹だったことに気づく。
「……なんか、おなか減った」
ぽつんとつぶやくと、シャワーを浴び終え、上半身裸のままジーンズだけを身につけただらしのない格好でうろうろしていた男が、耳ざとくふりかえった。勘がいいから、この男は好きだ。
「したら、晩飯は外にしよう。どこ行くか決めといて」
「はぁーい」
男が出かけてからもしばらくごろごろしてすごしていたものの、いつの間にか眠ってしまった。今日は帰りが遅くなるから、よく寝ておかないと。そんなことを、言い訳ぶって考えていたような気がする。
遙か昔からこの身を苦しめる飢餓がなりをひそめることがあるのだとすれば、喰うことなど考えつきもしないほどに、つまり手に入らないのなら喰うよりも殺した方がましだと思えるような男がそばにいる時だけだと信じていた。そうして見つけた男は、まさしくそういう人だった。
しかたのないことなのだと理解していた。大体罪は初めから確定していて、気まぐれな神が死刑執行をずるずると引き延ばしていただけだ。高貴なひとびとをこの手にかけようとして事実かけた罪は、残された彼女を誠心誠意込めて守ったからと言って、あがなわれるはずがない。
だから、彼女に知られないままにこうして鉛の弾で胸をえぐられるのは、至極納得できることでしかなかった。ささやき続けた嘘の報いは、受けてしかるべきだろう。そう、自分をここに放り込んで法務官に死刑執行書を手渡したあの男は、正しいのだ。
だから、彼女に知られないままにこうして鉛の弾で胸をえぐられるのは、至極納得できることでしかなかった。ささやき続けた嘘の報いは、受けてしかるべきだろう。そう、自分をここに放り込んで法務官に死刑執行書を手渡したあの男は、正しいのだ。
親友というきわどいポジションにいる男が、鈍感だということは知っていた。それはもう非常識なくらいの馬鹿者で、本人は別に女嫌いというわけでもなく純粋にフェミニストであるだけなのに、その鈍感さが災いして誤解されていることも、知っていた。
「私に進んで声をかける女は、どうもお前くらいしかいないな」
色めいたことがらに興味のなさそうなそのセリフを、称賛と受け取ったのはつい先日のことだったように思えるのだけれど。
「結婚が決まった」
わざわざ飲みに行こうとさそわれて、おごってくれるのかと茶化したら――渋々ではあったが――かまわないとうなずいた。めずらしいこともあるものだとひょいひょいついて行ったら、これだ。どうも自分という女は、あまり運がいい方ではないらしい。
内心のところはこの馬鹿と怒鳴りつけてやりたい気分だったのだが、あいにくそれほど愚かな女になるつもりはなかった。だからごく平然とベーコンを指でつまみ、エールを飲みながらそれで、と意地悪く問うてやった。
「一応報告しておこうかと思った。半年後だが、出席してもらえるか」
「半年後ねぇ。相手は誰なんだ? 私の知ってるのか?」
いいや、とこちらは林檎酒を飲みながら、男もまたベーコンに手をのばした。人の金なのだからあまり食うな、とでも言いたげな手つきを、彼女は意図的に無視した。
「部下の姉だ。悪くない女だった」
「……時々思うんだけどなぁ、私の性別を勘違いしてないか?」
「女だろう?」
わかっているなら多少気を使えと思わないでもなかったが、いまさらそういう気づかいを要求したところで後の祭りなのだろう。だいたい、性別という壁を最初にぶち壊してこの男の親友に収まったのは、そもそも彼女の方だった。
「まぁいいけど、ね」
ため息混じりのつぶやきは、どうも男には聞こえなかったようだった。
さよならなど言うのも癪だったから、わざわざ男が外に出ている時間を見計らって私物を全部ひきとった。手紙を残すのもゴメンだ。まるで振られた女のようで、みっともないじゃないか。
予定の時間よりもだいぶ遅れてやってきた辻馬車に、乱暴に荷物を放り込んでともかく自宅の住所を告げる。いつ男が帰ってくるかもわからないから、早く立ち去ってしまいたかったのだ。けれども世の中はそううまくは行かないようで、
「結婚式には来るんだな!?」
めずらしく叫ぶような、男のそのゆたかなバリトンが耳朶を打ち、彼女をうつむかせた。答えろと言うのか? 鈍感な男だ。鈍感で――残酷だ。
この馬鹿が、と小さくつぶやくと同時、膝の上に冷たい雫が落ちた。彼女はそれを、払わなかった。
「私に進んで声をかける女は、どうもお前くらいしかいないな」
色めいたことがらに興味のなさそうなそのセリフを、称賛と受け取ったのはつい先日のことだったように思えるのだけれど。
「結婚が決まった」
わざわざ飲みに行こうとさそわれて、おごってくれるのかと茶化したら――渋々ではあったが――かまわないとうなずいた。めずらしいこともあるものだとひょいひょいついて行ったら、これだ。どうも自分という女は、あまり運がいい方ではないらしい。
内心のところはこの馬鹿と怒鳴りつけてやりたい気分だったのだが、あいにくそれほど愚かな女になるつもりはなかった。だからごく平然とベーコンを指でつまみ、エールを飲みながらそれで、と意地悪く問うてやった。
「一応報告しておこうかと思った。半年後だが、出席してもらえるか」
「半年後ねぇ。相手は誰なんだ? 私の知ってるのか?」
いいや、とこちらは林檎酒を飲みながら、男もまたベーコンに手をのばした。人の金なのだからあまり食うな、とでも言いたげな手つきを、彼女は意図的に無視した。
「部下の姉だ。悪くない女だった」
「……時々思うんだけどなぁ、私の性別を勘違いしてないか?」
「女だろう?」
わかっているなら多少気を使えと思わないでもなかったが、いまさらそういう気づかいを要求したところで後の祭りなのだろう。だいたい、性別という壁を最初にぶち壊してこの男の親友に収まったのは、そもそも彼女の方だった。
「まぁいいけど、ね」
ため息混じりのつぶやきは、どうも男には聞こえなかったようだった。
さよならなど言うのも癪だったから、わざわざ男が外に出ている時間を見計らって私物を全部ひきとった。手紙を残すのもゴメンだ。まるで振られた女のようで、みっともないじゃないか。
予定の時間よりもだいぶ遅れてやってきた辻馬車に、乱暴に荷物を放り込んでともかく自宅の住所を告げる。いつ男が帰ってくるかもわからないから、早く立ち去ってしまいたかったのだ。けれども世の中はそううまくは行かないようで、
「結婚式には来るんだな!?」
めずらしく叫ぶような、男のそのゆたかなバリトンが耳朶を打ち、彼女をうつむかせた。答えろと言うのか? 鈍感な男だ。鈍感で――残酷だ。
この馬鹿が、と小さくつぶやくと同時、膝の上に冷たい雫が落ちた。彼女はそれを、払わなかった。
そう遠くない未来に彼女が来てしまうことはわかっていたが、それにしたってもう少し向こうにいればいいものを、といっそ憤りを覚えた。だいたいこちら側に渡ってくることなどそうそうむずかしいことではなく、その気になればいつだって実行できたはずなのだから、子どもたちのめんどうをもうしばらく見ていれば良かったのだ。
自然、ためいきがこぼれた。
「今からでも遅くないですから、帰ったらどうですか」
ひどくうれしそうに己の名前を呼び、飛ぶように走ってきた女の身体を受け止めて、彼は苦笑いを浮かべた。自分なら、いつまででもここであなたを待っているから、と。けれど彼女は傷ついたふうに首を横にふり、どうして、と彼を責めた。
「十五年だ、あなたがいなくなって」
独りきりで、決心しなければ行けもしない場所を夢見るには、十五年はひどく長かったのだと、彼女は言う。
「それなのに、またもどれって? そんなのは残酷だ……」
最後の方はかすれた小さな声でうったえる彼女を、退けることはできそうにもなかった。結局昔、もう彼にとっては本当に遙か昔に思えたが、当時から、彼女には一度も勝てた記憶がない。
うつむいてしまった彼女の頭をなでて名前を呼ぶと、彼は素直に謝った。ごめんなさい、と。それで彼女が顔を上げてくれたので、彼にもようやく、彼女のきれいな琥珀色の目が見えるようになった。
「正直、あなたにはもっと生きていてほしかったんです。俺に付き合ってこんなところに来る必要は、なかった」
「それはちがうよ。私があなたのそばにいたかった。それだけなんだから、あなたが気にすることじゃない」
にこりと笑った彼女は、昔と変わらない力で、彼を屈服させた。
寂しくなかったと言えば嘘になる。だが、もうあと二十年やそこら思い出だけを頼りに待ち続けることも、不可能ではなかった。
それなのに彼女を受け入れてしまったのは、やはり溺れているからなのだろう。腕の中に飛び込んできた魔女を再び手放すことができるほどに、昔も今も強くはない。
かたわらに、半身とも頼んだ相手がいないことに拘泥していたのは、むしろ自分だったのかもしれない。久しぶりに彼女を抱きしめながら、彼の理性はふとそんなことをつぶやいた。
自然、ためいきがこぼれた。
「今からでも遅くないですから、帰ったらどうですか」
ひどくうれしそうに己の名前を呼び、飛ぶように走ってきた女の身体を受け止めて、彼は苦笑いを浮かべた。自分なら、いつまででもここであなたを待っているから、と。けれど彼女は傷ついたふうに首を横にふり、どうして、と彼を責めた。
「十五年だ、あなたがいなくなって」
独りきりで、決心しなければ行けもしない場所を夢見るには、十五年はひどく長かったのだと、彼女は言う。
「それなのに、またもどれって? そんなのは残酷だ……」
最後の方はかすれた小さな声でうったえる彼女を、退けることはできそうにもなかった。結局昔、もう彼にとっては本当に遙か昔に思えたが、当時から、彼女には一度も勝てた記憶がない。
うつむいてしまった彼女の頭をなでて名前を呼ぶと、彼は素直に謝った。ごめんなさい、と。それで彼女が顔を上げてくれたので、彼にもようやく、彼女のきれいな琥珀色の目が見えるようになった。
「正直、あなたにはもっと生きていてほしかったんです。俺に付き合ってこんなところに来る必要は、なかった」
「それはちがうよ。私があなたのそばにいたかった。それだけなんだから、あなたが気にすることじゃない」
にこりと笑った彼女は、昔と変わらない力で、彼を屈服させた。
寂しくなかったと言えば嘘になる。だが、もうあと二十年やそこら思い出だけを頼りに待ち続けることも、不可能ではなかった。
それなのに彼女を受け入れてしまったのは、やはり溺れているからなのだろう。腕の中に飛び込んできた魔女を再び手放すことができるほどに、昔も今も強くはない。
かたわらに、半身とも頼んだ相手がいないことに拘泥していたのは、むしろ自分だったのかもしれない。久しぶりに彼女を抱きしめながら、彼の理性はふとそんなことをつぶやいた。
手に入れることのできない女だと知っていた。そもそも触れることさえためらわれるような、そういう場所にいる女だった。当たり前だ。一体この世のどんな男が、暗く冷たい谷底で立ち尽くす女に手を述べようと――まして彼女を引き上げようと――言うのだろう。
そういう男を呼ぶ、正しい名が昔からある。『愚か者』というのだ。
想いを寄せる甲斐のない相手じゃないかと、言われてしまえば黙るしかなかった。実際のところ、どんな話をしてみても、彼女はかすかにほほえみ、あいづちを打つきりだった。ただ、他の男では彼女のそんな反応すらも引き出すことができなかったから、やはり彼女にとってギルバートは特別な男だったのかもしれない。
特別と言うのなら、ギルバートにとっての彼女こそ特別だった。冷たくこごった女の無表情を、どうあっても溶かしたいと考えるほどに。話しかけては無視され、笑いかけては眉をひそめられ、そうして徐々に信頼を勝ち取った。今ではギルバートがいつでもとなりにいることも、彼女の負担ではないようだった。
どうして手を伸ばす気になったのか、さっぱりわからない。無論、彼女が身を浸す冷水の中に、むざむざと飛び込んでしまった理由も。ただ目の前に女がいて、そのひとはひどく寂しそうな顔をしていた。ギルバートはその言い訳ただひとつを免罪符に、彼女のかたわらにいようとした――いつまでも。
努力や言い訳など、無駄だということを知っていた。あらゆるものに見放された魔女を救うことなど、ただの人間であるギルバートには、できようはずもなかった。
けれども、ただの人間で、今この場で――まさしく彼女のかたわらで!――死んでしまうからこそ、自分は彼女の心に残るだろうと、そんな卑怯なことを予測した。そうしてそのことが予測できてしまったから、彼はひとつのくちづけすらも、この想いにもとめようとはしなかった。ただ、愛しても愛してもその愛情をぽっかりと空いた胸の空洞に注ぎ込んでしまう愚かな魔女に、ギルバートはそっと囁き、息絶えた。
戦場に渡る風は、その日少しだけあたたかかった。
そういう男を呼ぶ、正しい名が昔からある。『愚か者』というのだ。
想いを寄せる甲斐のない相手じゃないかと、言われてしまえば黙るしかなかった。実際のところ、どんな話をしてみても、彼女はかすかにほほえみ、あいづちを打つきりだった。ただ、他の男では彼女のそんな反応すらも引き出すことができなかったから、やはり彼女にとってギルバートは特別な男だったのかもしれない。
特別と言うのなら、ギルバートにとっての彼女こそ特別だった。冷たくこごった女の無表情を、どうあっても溶かしたいと考えるほどに。話しかけては無視され、笑いかけては眉をひそめられ、そうして徐々に信頼を勝ち取った。今ではギルバートがいつでもとなりにいることも、彼女の負担ではないようだった。
どうして手を伸ばす気になったのか、さっぱりわからない。無論、彼女が身を浸す冷水の中に、むざむざと飛び込んでしまった理由も。ただ目の前に女がいて、そのひとはひどく寂しそうな顔をしていた。ギルバートはその言い訳ただひとつを免罪符に、彼女のかたわらにいようとした――いつまでも。
努力や言い訳など、無駄だということを知っていた。あらゆるものに見放された魔女を救うことなど、ただの人間であるギルバートには、できようはずもなかった。
けれども、ただの人間で、今この場で――まさしく彼女のかたわらで!――死んでしまうからこそ、自分は彼女の心に残るだろうと、そんな卑怯なことを予測した。そうしてそのことが予測できてしまったから、彼はひとつのくちづけすらも、この想いにもとめようとはしなかった。ただ、愛しても愛してもその愛情をぽっかりと空いた胸の空洞に注ぎ込んでしまう愚かな魔女に、ギルバートはそっと囁き、息絶えた。
戦場に渡る風は、その日少しだけあたたかかった。
それは歓喜だった。いっそ泣き出してこの喜びを誰彼かまわず伝えたいほどの。だが例えて言うのなら、恐怖にも似ていたかもしれない。自分がしでかしてしまったことの大きさに、手がふるえてしかたがなかった。
泣いていたのが、うれしかったからなのか哀しかったからなのか、モーガンにはわからなかった。
後悔をするわけではない。実際に、腹をくくって自分はここにいるはずだった。それでも、数十時間ぶりであるはずの眠りを手に入れ、あどけない寝顔の男を見やるだに、どうしようもないほどの背徳感に襲われた。彼のきれいな金髪を梳く指先でさえ、ふるえていた。こんなふうでは、うっかり彼を起こしてしまうのではと焦るほどに。
どうして手に入れてしまったのだろう、とうつむいて、自身の胸をつかんだ。ぎちりと爪がいやな音を立てて肌に食い込む。五つの爪痕が大罪の証のように血を流し、きれいに整えた爪を汚した。
好きになることはかまわなかった。愛したとしても許されただろう。傲慢にも、彼のそのあたたかな手を取らないかぎりは。神とてそのくらいの寛大さは持ちあわせていたはずだ。
熱を得ることをもとめてはならない。冷たく凍った時の中、魔女は朽ちずに佇むべきだった。それでも無視し続けるには、心は冷えすぎていたし彼の手はあたたかすぎた。
相手が眠っているのをいいことに、泣き出しそうになりながらつぶやいた。ごめんね、と。もはや彼を突き放すことは不可能なことだったから、ごめんね、と。それが利己的な魔女に彼の生涯を付き合わせてしまったことへの、せめてもの謝罪だった。
なるほど、すでに逝ってしまったもうひとりの魔女は、愛情など手に入れることはできなかった。けれども、途方もない罪悪感にさいなまれながら熱を受け入れることの辛さを、彼女は知らない。
一体どちらの女が幸せなのか、あるいは不幸なのか、モーガンには判断する術もなかった。だからなのかもしれない。涙がこぼれたのは。
泣いていたのが、うれしかったからなのか哀しかったからなのか、モーガンにはわからなかった。
後悔をするわけではない。実際に、腹をくくって自分はここにいるはずだった。それでも、数十時間ぶりであるはずの眠りを手に入れ、あどけない寝顔の男を見やるだに、どうしようもないほどの背徳感に襲われた。彼のきれいな金髪を梳く指先でさえ、ふるえていた。こんなふうでは、うっかり彼を起こしてしまうのではと焦るほどに。
どうして手に入れてしまったのだろう、とうつむいて、自身の胸をつかんだ。ぎちりと爪がいやな音を立てて肌に食い込む。五つの爪痕が大罪の証のように血を流し、きれいに整えた爪を汚した。
好きになることはかまわなかった。愛したとしても許されただろう。傲慢にも、彼のそのあたたかな手を取らないかぎりは。神とてそのくらいの寛大さは持ちあわせていたはずだ。
熱を得ることをもとめてはならない。冷たく凍った時の中、魔女は朽ちずに佇むべきだった。それでも無視し続けるには、心は冷えすぎていたし彼の手はあたたかすぎた。
相手が眠っているのをいいことに、泣き出しそうになりながらつぶやいた。ごめんね、と。もはや彼を突き放すことは不可能なことだったから、ごめんね、と。それが利己的な魔女に彼の生涯を付き合わせてしまったことへの、せめてもの謝罪だった。
なるほど、すでに逝ってしまったもうひとりの魔女は、愛情など手に入れることはできなかった。けれども、途方もない罪悪感にさいなまれながら熱を受け入れることの辛さを、彼女は知らない。
一体どちらの女が幸せなのか、あるいは不幸なのか、モーガンには判断する術もなかった。だからなのかもしれない。涙がこぼれたのは。
一身に愛されるような存在に、なりたくなかったといえば嘘になる。嘘を言えば楽だったのだろうが、そうすることを赦されていないから、ヒルダはただ残酷な真実を彼に突きつけて、冷えた心をあたためる熱を奪い取った――彼女から。
やさしいとヒルダが感じ、やさしい人だと彼女が評した男は、案の定吐き気がするほどやさしかった。そんなことは恋人にやるべきだと、さして経験のないヒルダでさえ考えるようなキスをして、惜しみなく彼が持つ過ぎるほどの熱を与えてくれた。
「支払いは済ませておきますから」
別れは名残惜しかったが、彼の腕がヒルダのものでない以上、いつまでも固執しているわけにはいかなかった。彼には彼の、そして自分には自分のすべきことがあり、二人はたまたま直線上の一点ですれちがったにすぎなかった。常に移動し、その場に止まることを赦されない点AとB。交錯したからと言って、次の日には別れる運命だ。
「いや、俺が。女性にそういうことをさせるのは……ルール違反だ」
「いまさら、妙なことにこだわるのですね」
小さく笑ったが、そういうこまやかな心配りはきらいではなかった。むしろ好きだった。
帰りたくないと泣き喚く愚かな少女を、ヒルダは冷ややかに制した。だまりなさい、ここにいるわけにはいかないのだから。それともあなたは、彼を無理矢理とらえておくつもり? できるはずのないことを明示された我が侭娘は、きれいに汚い感情を押し隠したヒルダに沈黙させられた。
「それでは」
ぱたんと背後でドアが閉まった。
朝など来なければよかった。そう願えばよかった。望めば叶わなくはなかったかもしれない。魔女の力をもってすれば、永遠の夜を引きずり出すこともできただろう。
けれどどれほど夜をこの場に留めたところで、彼の落ち着くべき場所はヒルダの元ではなかった。本来熱を分け与えるべき女のところへと、彼は飛んで行ってしまうにちがいない。想像することはたやすかった。
彼が持つ羽を切り裂くほどの真実は、あいにくと持ち合わせがなかったし、嘘はつけなかった。結局のところ愛情など手に入れることはできるはずもなく、ヒルダは愛されるような存在ではなかった。あたためられたのは心ではなく身体で、しかも与えられた熱は消化しきれずに、中途半端に燻っている。
なんて愚かな女だろうと、ヒルダはドアの外で、少しだけ泣いた。彼がこの声を聞きつけてはくれないことを、知っていたけれど。
やさしいとヒルダが感じ、やさしい人だと彼女が評した男は、案の定吐き気がするほどやさしかった。そんなことは恋人にやるべきだと、さして経験のないヒルダでさえ考えるようなキスをして、惜しみなく彼が持つ過ぎるほどの熱を与えてくれた。
「支払いは済ませておきますから」
別れは名残惜しかったが、彼の腕がヒルダのものでない以上、いつまでも固執しているわけにはいかなかった。彼には彼の、そして自分には自分のすべきことがあり、二人はたまたま直線上の一点ですれちがったにすぎなかった。常に移動し、その場に止まることを赦されない点AとB。交錯したからと言って、次の日には別れる運命だ。
「いや、俺が。女性にそういうことをさせるのは……ルール違反だ」
「いまさら、妙なことにこだわるのですね」
小さく笑ったが、そういうこまやかな心配りはきらいではなかった。むしろ好きだった。
帰りたくないと泣き喚く愚かな少女を、ヒルダは冷ややかに制した。だまりなさい、ここにいるわけにはいかないのだから。それともあなたは、彼を無理矢理とらえておくつもり? できるはずのないことを明示された我が侭娘は、きれいに汚い感情を押し隠したヒルダに沈黙させられた。
「それでは」
ぱたんと背後でドアが閉まった。
朝など来なければよかった。そう願えばよかった。望めば叶わなくはなかったかもしれない。魔女の力をもってすれば、永遠の夜を引きずり出すこともできただろう。
けれどどれほど夜をこの場に留めたところで、彼の落ち着くべき場所はヒルダの元ではなかった。本来熱を分け与えるべき女のところへと、彼は飛んで行ってしまうにちがいない。想像することはたやすかった。
彼が持つ羽を切り裂くほどの真実は、あいにくと持ち合わせがなかったし、嘘はつけなかった。結局のところ愛情など手に入れることはできるはずもなく、ヒルダは愛されるような存在ではなかった。あたためられたのは心ではなく身体で、しかも与えられた熱は消化しきれずに、中途半端に燻っている。
なんて愚かな女だろうと、ヒルダはドアの外で、少しだけ泣いた。彼がこの声を聞きつけてはくれないことを、知っていたけれど。
一緒に生きようと約束した男が死んで、そろそろ十五年になる。末の娘がまだ小さかったから、彼が死んだ時に後を追いかけようかとも思ったのだけれど踏みとどまった。
そのまま、長男がもうすぐ結婚だとか、次男が大学を卒業するとか、娘もようやく独り立ちをするとかで、ずるずると生き長らえて、十五年だ。うれしいけれど、なんだか長く生きすぎたような気がする。
三人の子どもがいなくなってしまった家は、彼女が独りで住むには少し大きすぎた。元々は大して広くもなかった家を、次男が生まれた時に彼が改築をしたのだ――四人もいたら、これでも手狭ですね、と。結局はもう一人生まれて、家はますます賑やかになったのだけれど。
かつての戦争を戦い抜いた男は、二度目の戦争に借り出されてどこともしれない東の国へおもむき、終戦間際に撃墜されたと聞いた。哀しすぎて涙も出なかったことを覚えているが、立ち直れたのはひとえに三人の子どもが残されていたからだった。
忘れていたわけではないが、つとめて思い出さないようにしていたことも事実だ。証拠に、わずらわしさからすべて解放された今、気が付けば彼の幻影をそこここに見ている自分がいる。
あなたがいないと、ここはとても寂しいです、と彼は言うのだ。だから早くこちらに来てくれと。よくよく考えてみればあのやさしい男がそんなことを言うはずもないから、これはたしかに自分の幻聴なのだろうが、誘うような遠い声は甘く彼女を惹きつけて止まない。そもそも、寂しがっているのは彼女の方だった。
その彼方からの招待状は、免罪符なのだと思う。この長い生をようやく終わらせるための。
どこか遠い場所で自分を待っているだろう彼は、早く来すぎだと怒るかもしれないが、どうか許してくれないものかと思う。だって呼ばれてしまったのだ、それは幻聴だったかもしれないが、彼の姿で、彼と同じ笑顔を浮かべて、少しはかなげにここは寂しいと――彼女の神の声で。
彼方から、呼んだのだ。逆らえるはずもないだろう。
十五年分の言い訳は、そこから始めればいいような気がした。
そのまま、長男がもうすぐ結婚だとか、次男が大学を卒業するとか、娘もようやく独り立ちをするとかで、ずるずると生き長らえて、十五年だ。うれしいけれど、なんだか長く生きすぎたような気がする。
三人の子どもがいなくなってしまった家は、彼女が独りで住むには少し大きすぎた。元々は大して広くもなかった家を、次男が生まれた時に彼が改築をしたのだ――四人もいたら、これでも手狭ですね、と。結局はもう一人生まれて、家はますます賑やかになったのだけれど。
かつての戦争を戦い抜いた男は、二度目の戦争に借り出されてどこともしれない東の国へおもむき、終戦間際に撃墜されたと聞いた。哀しすぎて涙も出なかったことを覚えているが、立ち直れたのはひとえに三人の子どもが残されていたからだった。
忘れていたわけではないが、つとめて思い出さないようにしていたことも事実だ。証拠に、わずらわしさからすべて解放された今、気が付けば彼の幻影をそこここに見ている自分がいる。
あなたがいないと、ここはとても寂しいです、と彼は言うのだ。だから早くこちらに来てくれと。よくよく考えてみればあのやさしい男がそんなことを言うはずもないから、これはたしかに自分の幻聴なのだろうが、誘うような遠い声は甘く彼女を惹きつけて止まない。そもそも、寂しがっているのは彼女の方だった。
その彼方からの招待状は、免罪符なのだと思う。この長い生をようやく終わらせるための。
どこか遠い場所で自分を待っているだろう彼は、早く来すぎだと怒るかもしれないが、どうか許してくれないものかと思う。だって呼ばれてしまったのだ、それは幻聴だったかもしれないが、彼の姿で、彼と同じ笑顔を浮かべて、少しはかなげにここは寂しいと――彼女の神の声で。
彼方から、呼んだのだ。逆らえるはずもないだろう。
十五年分の言い訳は、そこから始めればいいような気がした。
伸べられた腕を取って、舌を這わせる。いつもはセックスの前にするこの行動に、俺はちっとも欲情しなかった。むしろ彼女の冷たい肌に、ひどくぞくっとした。
彼女は一瞬動きの止まった俺の舌に気付いたんだろうか、真司、とやさしく俺の名前を呼んだ。甘え上手なバケモノの声は、麻薬のように俺の頭を支配する。いつでも。…もちろん今日だけ例外なんてコトが、有り得るわけもない。へろへろとあてどなく舌をさまよわせながら、俺は耳だけ彼女の声を聞いた。
「君が、何をしたいのか、よくわからないんだけどね、真司」
血糊が爪の間にはさまった指で、俺の髪を彼女が梳く。
「わたしは、この機に乗じて、君が一緒に来てくれるといいなって、考えてるの」
我が侭でゴメンねぇ、とのんきに彼女は謝った。ぽた、と頭に冷たいものが落ちてきて、俺は顔を上げようと思ったが、彼女の手はそれを許さなかった。俺に触る時はいつも不必要なくらいに普通の女ぶって力をこめないくせに、今ばかりバケモノのように――いや、事実バケモノか。
「君が来て、だからどうなるわけでも、ないんだけど。でもね、せめて君が隣で笑って、キスして、抱きしめてくれるのを、ずっと見てたくて。……あんまり、独りでいるのは、耐え難いから」
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
俺はきわめて常識的にそう考えたが、彼女があんまり泣くので、そんなことを言うのはためらわれた。短絡的で馬鹿げた思考だ、俺が喰われればずっと彼女と一緒にいられるなんてのは。
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
それで俺は常識的な思考を外れて、きわめてバケモノ的な考えを頭にひらめかせた。喰ってしまえばいいだろう。そうすれば、俺は彼女と一緒に生きてゆくことができるにちがいない。俺は無意識の内に、へろへろと彼女の肌をねぶっていた舌を止めていた。
いいのか、それで。二十一年分の常識を全部捨てて、バケモノの道に走るのか?
真司、とまた彼女が俺を呼んだ。あいかわらずやさしく、今度は少し心配そうに。
――ああ、でも俺は実は知っていた。俺は最初からバケモノだった。三年前から。彼女の前に同族の血肉を差し出した時から、ずっと。だったらいまさら、喰うことになにかタブーがあるとは思えない。
俺はまったく当然のことのように俺が彼女を喰うことを納得して、糸切り歯を彼女の腕に突き立てた。ぶつぶつと筋繊維の切れる音が、歯の神経を通して脳に伝わる。吐き気がした。ヒトの形をしたものを喰う嫌悪感を、俺は無理矢理抑え込んだ。
「…ッァ、真司、……ごめ、ゴメンね、――ゴメン、ね…ッ」
痛いほど頭皮に食い込んだ彼女の爪が、肉を食いちぎられる痛みに耐えているんだと何よりもしっかりとしめしていた。何を謝るんだか。バケモノの考えることは、俺にはよくわからない。わかるようになるんだろうか、この肉のかけらを咀嚼したら。
極上のステーキを食べている時のように神妙に、けれどもいつだか作るのを失敗して人間の食うものとは思えないような味になったカレーを食っている時の心境で、俺は肉を、一口きりの肉を奥歯ですりつぶした。ますます強く彼女の爪が頭に食い込む。いっそここで殺してくれれば、この肉を喰わずに済むんだが。だがまぁ、利己的なこのバケモノがそうしてくれるとは思えなかった。
脳まで絞め殺されそうな頭痛の中、俺はようやく口の中のものを嚥下した。この、バケモノ。俺の中の人間が、死ぬ間際に叫んだ。
彼女は一瞬動きの止まった俺の舌に気付いたんだろうか、真司、とやさしく俺の名前を呼んだ。甘え上手なバケモノの声は、麻薬のように俺の頭を支配する。いつでも。…もちろん今日だけ例外なんてコトが、有り得るわけもない。へろへろとあてどなく舌をさまよわせながら、俺は耳だけ彼女の声を聞いた。
「君が、何をしたいのか、よくわからないんだけどね、真司」
血糊が爪の間にはさまった指で、俺の髪を彼女が梳く。
「わたしは、この機に乗じて、君が一緒に来てくれるといいなって、考えてるの」
我が侭でゴメンねぇ、とのんきに彼女は謝った。ぽた、と頭に冷たいものが落ちてきて、俺は顔を上げようと思ったが、彼女の手はそれを許さなかった。俺に触る時はいつも不必要なくらいに普通の女ぶって力をこめないくせに、今ばかりバケモノのように――いや、事実バケモノか。
「君が来て、だからどうなるわけでも、ないんだけど。でもね、せめて君が隣で笑って、キスして、抱きしめてくれるのを、ずっと見てたくて。……あんまり、独りでいるのは、耐え難いから」
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
俺はきわめて常識的にそう考えたが、彼女があんまり泣くので、そんなことを言うのはためらわれた。短絡的で馬鹿げた思考だ、俺が喰われればずっと彼女と一緒にいられるなんてのは。
だったら、喰ってしまえばいいだろう。
それで俺は常識的な思考を外れて、きわめてバケモノ的な考えを頭にひらめかせた。喰ってしまえばいいだろう。そうすれば、俺は彼女と一緒に生きてゆくことができるにちがいない。俺は無意識の内に、へろへろと彼女の肌をねぶっていた舌を止めていた。
いいのか、それで。二十一年分の常識を全部捨てて、バケモノの道に走るのか?
真司、とまた彼女が俺を呼んだ。あいかわらずやさしく、今度は少し心配そうに。
――ああ、でも俺は実は知っていた。俺は最初からバケモノだった。三年前から。彼女の前に同族の血肉を差し出した時から、ずっと。だったらいまさら、喰うことになにかタブーがあるとは思えない。
俺はまったく当然のことのように俺が彼女を喰うことを納得して、糸切り歯を彼女の腕に突き立てた。ぶつぶつと筋繊維の切れる音が、歯の神経を通して脳に伝わる。吐き気がした。ヒトの形をしたものを喰う嫌悪感を、俺は無理矢理抑え込んだ。
「…ッァ、真司、……ごめ、ゴメンね、――ゴメン、ね…ッ」
痛いほど頭皮に食い込んだ彼女の爪が、肉を食いちぎられる痛みに耐えているんだと何よりもしっかりとしめしていた。何を謝るんだか。バケモノの考えることは、俺にはよくわからない。わかるようになるんだろうか、この肉のかけらを咀嚼したら。
極上のステーキを食べている時のように神妙に、けれどもいつだか作るのを失敗して人間の食うものとは思えないような味になったカレーを食っている時の心境で、俺は肉を、一口きりの肉を奥歯ですりつぶした。ますます強く彼女の爪が頭に食い込む。いっそここで殺してくれれば、この肉を喰わずに済むんだが。だがまぁ、利己的なこのバケモノがそうしてくれるとは思えなかった。
脳まで絞め殺されそうな頭痛の中、俺はようやく口の中のものを嚥下した。この、バケモノ。俺の中の人間が、死ぬ間際に叫んだ。
たいせつ ということ。
2004年2月22日 長編断片 俺はあまり体調を崩さない方なんだが、だいぶ前に一度、風邪を引いたことがある。その時はもう、俺の家には彼女がいた。
さすがに熱が出てくると、いくら俺でも人間だから、動くのが辛くなる。おまけに喉は痛いわ咳は出るわで、本当はその夜は寝ていたかったんだが、あいにくそろそろ彼女が食事をするサイクルが回ってくるころだった。
俺は彼女に死体を提供して、彼女はその代わりに俺の犯罪証拠を隠滅する。それが俺たちの契約だった――破るわけにはいかない、契約。
それで俺は市販の風邪薬と解熱剤を飲んで、よろよろしながら夜中の街に出た。彼女は家にいなかったが、血の匂いを嗅ぎ付ければ、どこからかやってくるはずだった。
真夜中の公園、木の陰に身をひそめて息を整えながら、俺は獲物が来るのを待った――できれば今日は、女がいい。男だと、抵抗されると今はちょっとマズいかもしれなかった。
どのくらい、待ったのか。足音が聞こえて、俺ははっと目を覚ました。解熱剤のせいか、寝ていたらしい。
あわてて小道の方を見てみると、向こうから大きな荷物をかかえた女子高生がやってくる。運動系の部活なんだろう、ショートカットの、活発そうな子だった。
俺はするりと木陰から抜け出ると、一息に女子高生との距離を詰めた。そうしながら、手にしたナイフをいいように握り直す。その子の喉を切り裂き、仕上げに心臓を一突き、それで今日の俺の役割は、果たされるはずだった。
が、女子高生は意外と素早かった。おどろきながらも咄嗟に彼女はのけぞり、俺のナイフは皮一枚を切り裂いて、空を切った。マズい、と俺は舌打ちした。俺はそう体力がある方じゃないので、一撃必殺が不文律なのだ。それに、仕留め損ねると人を呼ばれる恐れがある。
案の定、女子高生は青ざめてさっと身をひるがえし、一体コイツは陸上の全国大会にでも出場したのかと思うほどの速さで走り出した――ギャアギャア、叫びながら。
いくら住宅街からやや離れた場所にある公園とは言え、これ以上叫ばれると俺の身が危ない。こっちも青ざめて、俺は高校卒業以来こんなに懸命に走ることがあっただろうかと思いながら、女子高生を追いかけた。
幸いだったのは、俺が高校時代マジメに部活の走り込みをしていたことと、女子高生が途中で一度転んだことだろう。ほどなく俺は彼女に追いつき、その背中にナイフを突き立てた。心臓を食い破る冷たい牙に、哀れな少女は絶命した。
しばらく俺は、死体の隣で荒い息を整えていた。風邪引きのクセに無理をしたおかげで、苦しかった。だが、これで彼女も喜んでくれるだろう。俺から離れることもない。俺は少しほっとしていた。
「――何、ソレ」
ふと彼女の声がして、俺は顔を上げた。
「ああ。お前の。そろそろじゃなかったっけ」
「そうだけど。……ねぇ、臭い」
あんまりと言えばあんまりなセリフに、俺は顔をしかめた。それが、お前のために努力した風邪引きの男にかける言葉なのか?
だが彼女は俺の気持ちなどおかまいなしにこちらに身を寄せてきて、俺のあごをぐいっとつかんだ。そのまま、大好きな深いキス。
「クスリ、飲んだ? 臭いよ」
唇を離した彼女は、ささやくようにそう言って、俺の手にこびりついた女子高生の血を舐めた。ぞくり、と背筋を快感が走る。この女は、意識してこんなことをしてるんだろうか。
「ねぇ、人間なんだから、無理しないでね。せっかくだからコレはもらっておくけど、ちゃんと治るまで、家で寝てよ」
無理させて君がいなくなっても、おもしろくないから。そう言って、彼女はもう一度俺にキスをした。
さすがに熱が出てくると、いくら俺でも人間だから、動くのが辛くなる。おまけに喉は痛いわ咳は出るわで、本当はその夜は寝ていたかったんだが、あいにくそろそろ彼女が食事をするサイクルが回ってくるころだった。
俺は彼女に死体を提供して、彼女はその代わりに俺の犯罪証拠を隠滅する。それが俺たちの契約だった――破るわけにはいかない、契約。
それで俺は市販の風邪薬と解熱剤を飲んで、よろよろしながら夜中の街に出た。彼女は家にいなかったが、血の匂いを嗅ぎ付ければ、どこからかやってくるはずだった。
真夜中の公園、木の陰に身をひそめて息を整えながら、俺は獲物が来るのを待った――できれば今日は、女がいい。男だと、抵抗されると今はちょっとマズいかもしれなかった。
どのくらい、待ったのか。足音が聞こえて、俺ははっと目を覚ました。解熱剤のせいか、寝ていたらしい。
あわてて小道の方を見てみると、向こうから大きな荷物をかかえた女子高生がやってくる。運動系の部活なんだろう、ショートカットの、活発そうな子だった。
俺はするりと木陰から抜け出ると、一息に女子高生との距離を詰めた。そうしながら、手にしたナイフをいいように握り直す。その子の喉を切り裂き、仕上げに心臓を一突き、それで今日の俺の役割は、果たされるはずだった。
が、女子高生は意外と素早かった。おどろきながらも咄嗟に彼女はのけぞり、俺のナイフは皮一枚を切り裂いて、空を切った。マズい、と俺は舌打ちした。俺はそう体力がある方じゃないので、一撃必殺が不文律なのだ。それに、仕留め損ねると人を呼ばれる恐れがある。
案の定、女子高生は青ざめてさっと身をひるがえし、一体コイツは陸上の全国大会にでも出場したのかと思うほどの速さで走り出した――ギャアギャア、叫びながら。
いくら住宅街からやや離れた場所にある公園とは言え、これ以上叫ばれると俺の身が危ない。こっちも青ざめて、俺は高校卒業以来こんなに懸命に走ることがあっただろうかと思いながら、女子高生を追いかけた。
幸いだったのは、俺が高校時代マジメに部活の走り込みをしていたことと、女子高生が途中で一度転んだことだろう。ほどなく俺は彼女に追いつき、その背中にナイフを突き立てた。心臓を食い破る冷たい牙に、哀れな少女は絶命した。
しばらく俺は、死体の隣で荒い息を整えていた。風邪引きのクセに無理をしたおかげで、苦しかった。だが、これで彼女も喜んでくれるだろう。俺から離れることもない。俺は少しほっとしていた。
「――何、ソレ」
ふと彼女の声がして、俺は顔を上げた。
「ああ。お前の。そろそろじゃなかったっけ」
「そうだけど。……ねぇ、臭い」
あんまりと言えばあんまりなセリフに、俺は顔をしかめた。それが、お前のために努力した風邪引きの男にかける言葉なのか?
だが彼女は俺の気持ちなどおかまいなしにこちらに身を寄せてきて、俺のあごをぐいっとつかんだ。そのまま、大好きな深いキス。
「クスリ、飲んだ? 臭いよ」
唇を離した彼女は、ささやくようにそう言って、俺の手にこびりついた女子高生の血を舐めた。ぞくり、と背筋を快感が走る。この女は、意識してこんなことをしてるんだろうか。
「ねぇ、人間なんだから、無理しないでね。せっかくだからコレはもらっておくけど、ちゃんと治るまで、家で寝てよ」
無理させて君がいなくなっても、おもしろくないから。そう言って、彼女はもう一度俺にキスをした。
She came to pick him up.
2004年2月14日 長編断片 彼女はその手を差し出した――細く、今は人の血にまみれて赤い、その手を。人間など少し力をこめただけでひねり潰してしまえる、その手を。
「来て」
まさか来ないなどということはないだろう?とでも言いたげに、彼女は傲慢に微笑んだ。差し出した手をくるり、とひねり、そうするとその手には、今度はナイフが乗っていた。アメリカ空軍パイロット御用達、刑事に取り上げられた俺のナイフだった。刃の部分は黒いからよくわからないが、きっと彼女の手と同じく、血にまみれているんだろう。
彼女はそのナイフをぽんっとこちらに放り投げ、窓枠に腰を下ろした。尋問室にはまだひとり、生きている刑事がいたが、彼女はちらりとそちらを見やった。その刑事は、俺にメモを残すことを許してくれた、あのオヤジだった。
「たぶん美味いと思うけど」
「食べたいな。いい?」
「お安いご用で」
俺はナイフを利き手に持ちかえてひらりと身をひるがえし、なんら対処の取れないオヤジの身体を、切り裂いた。胃の少し上辺りから、喉にかけてを逆さに一息で切り上げると、オヤジは一瞬ぎょっとしたような顔をして俺を見つめてから、ごば、と血を吹き出した。頸動脈が切れたんだと、俺はぼうっと考えた。
止めの一刺しを心臓にくれてやり、血にまみれて、俺は背後の彼女を振り返った。
「ま、こんなもんで」
「ありがと。後でキスしてね」
そして彼女はオヤジの喉に、指先を突っ込んで喰らい始めたのだった。
「来て」
まさか来ないなどということはないだろう?とでも言いたげに、彼女は傲慢に微笑んだ。差し出した手をくるり、とひねり、そうするとその手には、今度はナイフが乗っていた。アメリカ空軍パイロット御用達、刑事に取り上げられた俺のナイフだった。刃の部分は黒いからよくわからないが、きっと彼女の手と同じく、血にまみれているんだろう。
彼女はそのナイフをぽんっとこちらに放り投げ、窓枠に腰を下ろした。尋問室にはまだひとり、生きている刑事がいたが、彼女はちらりとそちらを見やった。その刑事は、俺にメモを残すことを許してくれた、あのオヤジだった。
「たぶん美味いと思うけど」
「食べたいな。いい?」
「お安いご用で」
俺はナイフを利き手に持ちかえてひらりと身をひるがえし、なんら対処の取れないオヤジの身体を、切り裂いた。胃の少し上辺りから、喉にかけてを逆さに一息で切り上げると、オヤジは一瞬ぎょっとしたような顔をして俺を見つめてから、ごば、と血を吹き出した。頸動脈が切れたんだと、俺はぼうっと考えた。
止めの一刺しを心臓にくれてやり、血にまみれて、俺は背後の彼女を振り返った。
「ま、こんなもんで」
「ありがと。後でキスしてね」
そして彼女はオヤジの喉に、指先を突っ込んで喰らい始めたのだった。
どこから足がついたのだか、わからない。誰かに見られた記憶もなかったし、仮に見られたとしても、俺か、あるいは彼女が、目撃者を屠るから、そんな存在が残るはずはなかった。死体だって彼女がきれいに、それこそはらわたのひとつ、血液の一滴残さずに味わうから、発見されるわけがない。
唯一あやしまれることがあるとすれば、それはたぶん俺の匂いだろう。いつか彼女が、君は血の匂いがすると俺に微笑んだことがある。それが、敗因かもしれない。
「――クンだね。署まで来てもらっていいかな」
「どうぞ。いいですよ」
俺にはあまり執着というものがない。ドライすぎると、友人は言う。それは悪いことじゃないだろう、諦めが早いのは、世の中肝心だと俺は思う。
刑事が俺の両脇を固めて部屋から連れ出し、家賃六万/月の部屋にずかずかと上がり込む。俺はぼんやりと、階段のところでそれを見ていた。
「警部、凶器です!」
「意外と小さいな。これは君のだな?」
愛用のナイフを少しはなれたところから見せられて、俺は素直にうなずいた。そう、それは俺のだ。アメリカ空軍パイロットの、サバイバルナイフ。刃渡り十三センチとちょっと、重さは三百グラムない。使いやすいてごろなサイズで、気に入っていた。
若い刑事がそのナイフをビニール袋に放り込み、また部屋の中に消えた。警部と呼ばれた年かさの、ちょうど俺くらいの息子や娘がいてもおかしくないようなオヤジが、憐れむようにこっちを見てきた。
俺は、どうして足がついたのかとずっと不思議で、そればかりが知りたくて、オヤジに話しかけてみた。
「どうして見つかったんですか、俺」
「現場に君の髪が落ちていた」
「はぁ、そんなもんで。最近はすごいんですね」
しかし、だったら彼女も一緒に捕まっても、おかしくはなさそうだが。まぁバケモノは、警察なんかに捕まらない方法も心得てるんだろう、たぶん。
俺が間の抜けたことを言ったからだろう、オヤジは気味悪そうに顔をしかめて、それきり俺の方を見ようとはしなかった。こっちも考え事をしたかったので、ちょうどいい。俺は目を閉じて、ヘマをしたのは一昨日の夜だったのか、それとも二週間前だったのかを思い出すことにした。
しばらくすると部屋の捜査も終わったのか、俺はパトカーに乗せられることになった。さっきのオヤジが、また憐れむように見てくる。頭のおかしい若いの、とでも思われてるんだろうか。なかなか人情がある。きっと胸を捌いたらゾクゾク来るに違いない。彼女も美味そうに食ってくれるだろう。
そこでふと思い出したが、俺という狩人がいなくなったら、彼女は一体どうするのだろう。絶妙なサイクルで死体を提供してやる男も、その後に大好きな深い深いキスをくれてやる男も、ましてや帰ってから血の匂いにまみれて抱いてやる男もいなくなる。
彼女が途方に暮れる姿がちらりと頭をかすめて、俺はオヤジに声をかけた。
「友達が心配すると悪いんで。書き置きしてもいいですか」
「友達?」
「はぁ。なんか、よく俺のところに来るんで」
オヤジが許してくれたので、俺は手錠をはめられた不自由な姿勢のまま、彼女にメモを残した。
『肉まんの金はタンスの上から二段目。帰りは遅くなるだろうから、好きなもんなんとかして食ってて。』
気まぐれなバケモノのことだ、どうせ一週間くらいしても俺が戻らなきゃ、またなんとかして人を食って行くに違いない。――俺のことなんか、きれいさっぱり忘れて。
そう考えると、少しだけ辛かった。
唯一あやしまれることがあるとすれば、それはたぶん俺の匂いだろう。いつか彼女が、君は血の匂いがすると俺に微笑んだことがある。それが、敗因かもしれない。
「――クンだね。署まで来てもらっていいかな」
「どうぞ。いいですよ」
俺にはあまり執着というものがない。ドライすぎると、友人は言う。それは悪いことじゃないだろう、諦めが早いのは、世の中肝心だと俺は思う。
刑事が俺の両脇を固めて部屋から連れ出し、家賃六万/月の部屋にずかずかと上がり込む。俺はぼんやりと、階段のところでそれを見ていた。
「警部、凶器です!」
「意外と小さいな。これは君のだな?」
愛用のナイフを少しはなれたところから見せられて、俺は素直にうなずいた。そう、それは俺のだ。アメリカ空軍パイロットの、サバイバルナイフ。刃渡り十三センチとちょっと、重さは三百グラムない。使いやすいてごろなサイズで、気に入っていた。
若い刑事がそのナイフをビニール袋に放り込み、また部屋の中に消えた。警部と呼ばれた年かさの、ちょうど俺くらいの息子や娘がいてもおかしくないようなオヤジが、憐れむようにこっちを見てきた。
俺は、どうして足がついたのかとずっと不思議で、そればかりが知りたくて、オヤジに話しかけてみた。
「どうして見つかったんですか、俺」
「現場に君の髪が落ちていた」
「はぁ、そんなもんで。最近はすごいんですね」
しかし、だったら彼女も一緒に捕まっても、おかしくはなさそうだが。まぁバケモノは、警察なんかに捕まらない方法も心得てるんだろう、たぶん。
俺が間の抜けたことを言ったからだろう、オヤジは気味悪そうに顔をしかめて、それきり俺の方を見ようとはしなかった。こっちも考え事をしたかったので、ちょうどいい。俺は目を閉じて、ヘマをしたのは一昨日の夜だったのか、それとも二週間前だったのかを思い出すことにした。
しばらくすると部屋の捜査も終わったのか、俺はパトカーに乗せられることになった。さっきのオヤジが、また憐れむように見てくる。頭のおかしい若いの、とでも思われてるんだろうか。なかなか人情がある。きっと胸を捌いたらゾクゾク来るに違いない。彼女も美味そうに食ってくれるだろう。
そこでふと思い出したが、俺という狩人がいなくなったら、彼女は一体どうするのだろう。絶妙なサイクルで死体を提供してやる男も、その後に大好きな深い深いキスをくれてやる男も、ましてや帰ってから血の匂いにまみれて抱いてやる男もいなくなる。
彼女が途方に暮れる姿がちらりと頭をかすめて、俺はオヤジに声をかけた。
「友達が心配すると悪いんで。書き置きしてもいいですか」
「友達?」
「はぁ。なんか、よく俺のところに来るんで」
オヤジが許してくれたので、俺は手錠をはめられた不自由な姿勢のまま、彼女にメモを残した。
『肉まんの金はタンスの上から二段目。帰りは遅くなるだろうから、好きなもんなんとかして食ってて。』
気まぐれなバケモノのことだ、どうせ一週間くらいしても俺が戻らなきゃ、またなんとかして人を食って行くに違いない。――俺のことなんか、きれいさっぱり忘れて。
そう考えると、少しだけ辛かった。
昨日OLの腹に頭をつっこんで血を啜った女は、今は俺の隣で肉まんを食っている。別にこういうものを食べなくてもバケモノは生きていけるらしいが、彼女は肉まんが大好きだ。そしてその味にいちいち注文をつける。
最近のお気に入りは近所でオバさんが屋台を引いて売っている、一個300円の、肉まんにしてはなかなかの高級品だ。彼女は、グルメだ。
湯気の立つ、赤ん坊の頬のようにやわらかい薄皮を、その部分だけ芸術的な器用さで剥ぎ取って、大好物である『世間ずれしてない若者の心臓』を食う時のように厳かな表情で、彼女はそっと舌の上に乗せた。血の気の薄い顔にぱっと朱をのぼらせるようなところを見ると、彼女はこの肉まんがとても好きなのだということが俺にもわかる。
ほとんど打ち震えるように歓喜に満ちて薄皮を嚥下すると、彼女は昨夜俺の唇を破った牙を突き立てて、肉まんを食いちぎった。
「ホントに美味しそうに食べるねぇ、うれしいよ」
「うふん。大好物とそっくりな味がするんですよー」
オバさんと妙に愛想のいい会話を交わす彼女は、誰がどう見たってバケモノには見えないだろう。実際、俺だって勘違いしそうになる。となりにいるこの女は、実はただの同級生なんじゃなかろうかと――
馬鹿げた、話だ。
お目当ての肉まんを胃におさめ、帰り道で彼女はキスをねだってきた。今日食ったのは人の血じゃなくて、肉まんのはずだったんだが。
美人とキスするのは悪いもんじゃない。幸い人通りも少なかったので、俺はまるで恋人にそうするように彼女を抱き寄せて、深くキスをしてやった。
「あのねぇ」
薄い唇の端から牙をのぞかせて、甘えたように彼女は笑った。
「あのオバさん、大好き。きっと殺したら楽しいだろうし、血も美味しいよ」
「別に殺してもいいけど。あの年頃ならめんどくさくなさそうだし」
「ダメ」
どうして、と再びキスをしながら問うと、くすぐったそうに彼女は身をよじった。少し俺から距離を取って、ぺろりと唇を、毒々しいほど赤い舌が舐める。
その舌なめずりはとても幸せそうで、俺はやっぱりあのオバさんを彼女のために殺してやるべきなんじゃないかと、止められたクセに考えた。
「だって、オバさんの肉まんが食べれなくなるでしょ。それって君がいなくなるのと同じくらい、私にとっては痛いことなの」
「ふぅん。利害の一致、ってヤツ?」
「そ。世の中、そういうのばっかりだったらシンプルなのになぁ」
ああでも、いつかあのオバさんが肉まんを作れなくなる日が来たら、その時は俺が殺してやろう。彼女の言うとおり、それはきっととても楽しいだろうし、オバさんの血は美味いに違いないから。
最近のお気に入りは近所でオバさんが屋台を引いて売っている、一個300円の、肉まんにしてはなかなかの高級品だ。彼女は、グルメだ。
湯気の立つ、赤ん坊の頬のようにやわらかい薄皮を、その部分だけ芸術的な器用さで剥ぎ取って、大好物である『世間ずれしてない若者の心臓』を食う時のように厳かな表情で、彼女はそっと舌の上に乗せた。血の気の薄い顔にぱっと朱をのぼらせるようなところを見ると、彼女はこの肉まんがとても好きなのだということが俺にもわかる。
ほとんど打ち震えるように歓喜に満ちて薄皮を嚥下すると、彼女は昨夜俺の唇を破った牙を突き立てて、肉まんを食いちぎった。
「ホントに美味しそうに食べるねぇ、うれしいよ」
「うふん。大好物とそっくりな味がするんですよー」
オバさんと妙に愛想のいい会話を交わす彼女は、誰がどう見たってバケモノには見えないだろう。実際、俺だって勘違いしそうになる。となりにいるこの女は、実はただの同級生なんじゃなかろうかと――
馬鹿げた、話だ。
お目当ての肉まんを胃におさめ、帰り道で彼女はキスをねだってきた。今日食ったのは人の血じゃなくて、肉まんのはずだったんだが。
美人とキスするのは悪いもんじゃない。幸い人通りも少なかったので、俺はまるで恋人にそうするように彼女を抱き寄せて、深くキスをしてやった。
「あのねぇ」
薄い唇の端から牙をのぞかせて、甘えたように彼女は笑った。
「あのオバさん、大好き。きっと殺したら楽しいだろうし、血も美味しいよ」
「別に殺してもいいけど。あの年頃ならめんどくさくなさそうだし」
「ダメ」
どうして、と再びキスをしながら問うと、くすぐったそうに彼女は身をよじった。少し俺から距離を取って、ぺろりと唇を、毒々しいほど赤い舌が舐める。
その舌なめずりはとても幸せそうで、俺はやっぱりあのオバさんを彼女のために殺してやるべきなんじゃないかと、止められたクセに考えた。
「だって、オバさんの肉まんが食べれなくなるでしょ。それって君がいなくなるのと同じくらい、私にとっては痛いことなの」
「ふぅん。利害の一致、ってヤツ?」
「そ。世の中、そういうのばっかりだったらシンプルなのになぁ」
ああでも、いつかあのオバさんが肉まんを作れなくなる日が来たら、その時は俺が殺してやろう。彼女の言うとおり、それはきっととても楽しいだろうし、オバさんの血は美味いに違いないから。