そうと知られることはほとんどなかったが、昔から、自分のものを盗られることが大嫌いだった。手元にあるもの、周りにあるものは自分だけが――百歩ゆずって自分の大事なひとたちだけが――触れるのを許されるのだと、固く信じていた。
 独占欲はなにもモノだけにとどまらず、人に関してもそうだった。両親、従妹、親戚。中でも一番他人に触れさせたくなかったのは、同じ日の同じ夜、同じ満月の光を浴びて生まれた親友だった。
 たぶん、自分には引け目があったのだろう。崇める神が自分たちに与えてくれた愛を、彼の分までうばいとって生まれてきてしまったという引け目が。
 その引け目はたやすく同情になり、同情は友情へ親愛へと発展を遂げ、同時に独占欲もふくらんだ。彼は自分だけを親友にして、ずっと自分のそばにいてくれればいい。そうすれば彼からうばいとった力をもって、守ってやることができるから。
 ひどい思い上がりだとわかってはいた。だが、傲慢やエゴを許されてしまう存在が、自分だった。そういうものを、彼にだけ押しつけてはいけない論理がどこにある?
 だから表面上は無邪気にじゃれあって、自分たちはいつでもお互いをひそかに切り刻んで生きている。どちらがより深く相手を切り刻んでいるかと言えば――

「僕は羽水が好きだよ。氷呼の次くらいかな」
「俺はお前が嫌いだ、蒼河」
「うわ、ひどいなぁ。二十年来の親友に向けてそういうこと言うんだ?」
「まとわりついてくるのはお前だろ。いい年してうっとおしいんだよ」
「だってかまってくれるの、羽水くらいだしさー」
「蒼河、ひとつ言っておく」
「んー?」
「お前のそういうところが、俺は嫌いなんだ」

 この薄汚い独占欲のことなど、彼は百も承知なのだろう。だから自分の大好きな笑顔で、こんなひどいことを言うにちがいない。
 それでも手元に大切なものを置いておけるのなら、自尊心くらいはたやすく代償にする覚悟があった。
 彼は独りでも生きてゆくことのできる男だと、初めから知っていた。
 自分との関係は、傍目には自分が彼を守っているとか憐れんでいるとか、あるいは彼が依存しているとか、そういうふうにしか見えなかったにちがいない。だが実際のところは逆で、守られているのは自分の方だったし、依存しているのも自分だった。彼はくだらないお芝居に、昔からずっと付き合ってくれていた。お前は他にどうしようもないんだから、しかたないな。時折そんなふうに苦笑してみせることさえあった。
 ――親友の話だ。

 一番初めに逝ったのは、妻だった。続けて従妹が逝き、男二人が残された。そして今、蒼河も月に召されようとしている。別に不満に思うわけでもないしやり残したこともないが、もう少しこの世にいたかったなぁとは思う。
 その一番の理由と言えば、やはり今傍らでぼんやり月をながめている、親友なのかもしれない。昔から優先順位の一番上に来るのは、いつだって彼、羽水――ごくまれに妻――だった。
「…なんだ、起きたのか」
「寝てばっかりだからね。夜になると目も冴えるよ」
 笑ってみせると、月明かりの中、そりゃそうかと羽水も笑った。そう言う彼の方は眠くはないのかと蒼河は少し不思議に思ったが、あるいは羽水も、昼間に寝ているのかもしれなかった。
 お互い目が冴えているのなら、少しくらいは馬鹿な話をしてもかまうまい。蒼河は上半身を起こして、会話をする体勢に入った。羽水は、止めなかった。
「月代はうまくやってる?」
「忙しいらしくて、家にも帰ってこない。俺もお前につきっきりだし、あれじゃ家の方がかわいそうだな」
「別に四六時中いなくたっていいのにさ。たまには帰れば?」
 そうすすめると、羽水はちょっと肩をすくめて、
「だってお前、昔からひとりにするとうるさいだろ」
 蒼河の頭をくしゃりと撫でた。
 なるほど、よくわかっている。甘えたがりの蒼河を正確に把握して、あまつさえ甘えさせてくれるのは、昔から羽水しかいなかった。
 その思いやりが嬉しくて、思わず蒼河は笑った。これだから、ついつい依存してしまうのだ、彼には。
 屈託のない笑顔に、羽水はひどく大きなためいきをついた。蒼河には彼が辛そうな理由が、よくわからなかった。
「……俺はさ、蒼河」
 ずいぶん経ってから、ぽつりと羽水がこぼした。
「できるならお前と一緒に逝ってやりたいんだ」
 蒼河は、ひとりじゃ生きていけないだろ。
 同じ月の光を浴びて生まれ、育った親友に理解してもらえることが、ひとりで逝かなければならない蒼河のなによりのなぐさめだった。

 彼を残して逝きたくなかったのではない。自分が独りで逝きたくなかったという、ただそれだけの話だ。
 エゴイスティックなのは昔からで、そういう自分を受け入れてくれる羽水という存在が、蒼河には必要だった。
 息苦しくて胸が詰まる。心臓が痛い。
 その痛みを押し退けようとして、さっきから氷河は何度も胸板に爪を立て、失敗していた――暗い夜の森の中、誰にも気づかれない場所で。
 彼はほどなくしてその虚しい行為をあきらめ、せめて気をまぎらわせようと、上腕から手の甲にかけてほどこした赤い模様を、じっと見つめた。左手の甲には、大きな輪の中に中くらいの輪が、その中に小さな輪が、さらにその中にはもっと小さな輪がいくつもいくつも重ねられていた。氷河はその輪が無限に続くところを想像し、その数を数え始めた。一、二、三、四、……
 太いものから細いものまで、さまざまな種類の筆で描かれた彩色は、新月の夜に、悪いものから身を守るために必要なものだ。血のような染め粉で身を飾らないのは、新月生まれのわずかな一族たちだけ――この夜ばかりは、神官長もその息子も、例外ではいられない。
 細く、音を立てずに息を吐き出しながら、しかたがないだろうと独りごちた。月のない夜は、半分ヒトの血が混じってしまった自分たちにとっては、なによりも恐ろしい。夜の冷気が毛穴から血管に入り込み、心臓に到達してイラクサのトゲのようにゆるやかに――しかし確実に、そして深く――そのもっとも大切な内臓を傷つける。抗う術がないことこそが、氷河にとっては怖かった。
 ……、百二九、百三十、百三一、…
 いつになればこの数が終わるのか、さっぱり見当もつかなかった。見当などつけたくはなかった。数を数えること以外のなにかを考え始めたら、心臓に刺さったイラクサのトゲをリアルにとらえてしまいそうだったので。
 不意に、どこか遠くから静かな鼓の音が聞こえた。とん、とん、と単調なリズムを刻む。それは心臓の鼓動と同じ拍数を打っていた。祭りが始まるのだ。けれども、まだ立ち上がりたくなかった。呼吸がうまくできずに、苦しかったのだ。
 …二百、二百一、二百二、二百三、……
 父もこんな倦怠感を味わったのだろうかと思う。そうなのだろう。だが彼にはいつでもそばに親友がいたはずだ。甘えたがりの父を叱咤する、おそらく自分の周りにいる大人の中では、一番現実主義者の彼が。
 父がそうだったのだから、自分だって待っていてもいいだろうと、氷河はぼんやり考えた。一番の親友を、もう少しここで待っていても。
 鼓の音と心臓の鼓動を聞きながら、輪の数を数え続けて待った。香月がのろのろと彼の目の前に現れた時、その数はちょうど千を数えていた。
 彼がいなくなってしまってから初めて、自分がありがとうだとかそういう類の言葉をなにひとつとして伝えていないことに気付いて、愕然とした。言わなくても彼がいろいろなことを悟ってしまうことを知っていたから、わざわざ口にしたことがなかったのだ。大体、ちょうど思春期をむかえたばかりの自分は、そういうことを言うのがおもはゆかった。
 けれど、今になって後悔している。ありがとうもさようならも、なにも言えなかったことを。

 十六歳の誕生日の翌日、目覚めると家の中は空っぽで、その代わりテーブルの上にはまだ湯気をたてる朝食が並んでいた。いつもそこで頬杖をつきながら新聞を読んでいるはずの養い親は、もういなかった。
 そう言えば寝る前に、妙にやさしげに頭を撫でておやすみ、と言っていた。てっきり自分の目の前で消えてゆくのだと思ったのだが、当てが外れた。葉月はぼんやりとテーブルについて、もそもそと食事を始めた。
 朝食は美味しかった。焼きたてのベーコンも、茹でたての卵も、作りたてのバターをそえたパンも、なにもかも。
 馬鹿だ、と思った。彼は馬鹿だ。五年も一緒に暮らしていて、しかも養い親だと公言していたくせに、葉月の本当にほしかったものをなにひとつ理解していない。
 本当に馬鹿だ、とつぶやいて、葉月は残りの朝食をいそいで飲み込んだ。

 本当は言いたいことがあった。言わなくてはならないこともたくさんあった。けれどそういうものは全部自分はどこかに置き忘れてしまって、彼は聞きそこねたまま、月に還ってしまった。
 与えてもらったものはたくさんあるのに、与えたものはなにもない。せめて今からでも自分の言いたいことが彼にとどくように、葉月は月見草を窓辺に飾ったのだった。
 養い親の手は大きく、亡くした母の手を思わせてどこか懐かしかったが、ひんやりとして体温がなかった。考えてみれば初めて顔を合わせた当時から彼は亡霊、身体のない「もの」で、母と同じようにいつか彼が「死ん」でしまうことなど、葉月には考えつきもしなかった。

 あのねぇ葉月、とどこか気怠げに、つまりいつもとほとんど変わりのない口調で、氷河は切り出した。なんだ、と視線だけで問うと、モノ食い幽霊、などという悪評にふさわしくジャム付きパンをかじりながら、てれてれと彼は続けた。どうでもいいがいい年をした男がべったりと甘ったるいジャムを、さもうれしそうに舐める姿というのは存外神経に来るものだ。
「一週間後、誕生日じゃなかったっけ」
「そうだよ。十六歳」
 うん、それは数えてた。
 へらりと笑う氷河はいつになく間が抜けているように感じられて、葉月はちょっと眉をひそめた。いつもこの青年――実のところはすでに四十路に足を突っ込んでいる――はひどく饒舌なのに、今日に限ってなにかを遠慮しているふうだった。
 何が言いたいのさ。警戒しながらうながすと、彼はぱたぱたと数度まばたきをして、うん、と小さくうなずいた。
「なんていうかさ――そろそろ、っていうかもう結構前から? 葉月、放っておいても平気そうだし、僕もいい加減香月のトコに行こうかなぁと思って」
 そこまで一息に吐き出すと、氷河はまるでいたずらをした後の子どものように、どう思う、と葉月の様子をうかがった。
 葉月はびっくりして、しばらくまじまじと氷河の顔を凝視した。ミルクのコップを手にしたまま。
 止めることなどできないと知っていた。だが、再び親を失うことに耐えきれるのかと問われれば、どちらかといえば否を答えたかった。
 そのうちにふ、と視線を外して、氷河は微苦笑を浮かべてみせた。
「いいよ、悪かった。今のは忘れていい」
 ごちそうさま、とていねいに手を合わせて、氷河は食器を片付けにキッチンへと消えた。まさかそんなふうに逃れるとは思ってもみなかった。葉月もあわてて食器を持って、彼を追いかけた。
「氷河、今の」
「んー? だから忘れていいよ。冗談だって」
「そうじゃなくて、それってさ…」
 少し口ごもって、けれど言わなければならないとわかっていたから、吐き出した。
「僕がいいとか言うようなことじゃないよ。氷河が決めることだよ、それってさ」
 今度は氷河はこちらを凝視する番だった。彼は流しの水を出しっぱなしにしたまま、赤い目を見開いて唇だけで葉月、とつぶやいたようだった。それからどうしてか泣きそうな顔になって、大きくなったなぁ、となにか見当外れのようなセリフをこぼした。

 七日目の朝に気付いたらいなくなっていた養い親は、教訓めいたしろものをなにひとつとして葉月に残さなかった――言葉では。彼が残したものはたったひとつ、生前の母を思わせる、冷たくて大きな手の感触だけだった。
 失ったものたち――それは人だったり物だったりと色々あるのだが――をこの手に取り戻したいと願うわけではない。だが、ふとした拍子に思い出すことはある。あるいはもっとも大切なものはその必要もなく、常に胸の内に住んでいる。

 なにを話していいのかよくわからずに、とっさに腕を伸ばして抱きしめた。ひとときでも力をゆるめたら、このまま腕の中の親友は月へ行ってしまいそうだったから。そんな氷河をからかうように、彼女はくすりと笑ったけれど。
「…笑うことないじゃないか」
 いささか不機嫌になって鼻を鳴らすと、ゴメン、と言いながら彼女はからかいの笑みを微笑にすりかえたようだった。氷河からは、よく見えなかった。それが少し残念だった。
「別にどこにも行かないのに、なんでそんなことするのかと思って。子どもじゃあるまいし」
 たしかにそのとおりだとは思う。子どもじゃあるまいし、馬鹿げた妄想に取り憑かれて彼女がどこかに行ってしまうと恐れるなど、そんな必要はどこにもない。けれどそれでも不安だった。
 それで、約束してもらおうと思った。どこにも行くななどとは言わないから、せめてその消息が知れるところにいてくれと。
「馬鹿だなんてことはわかってるんだけどさ」
 いっそ子どものように泣き出せたら、もっと楽になるのではないかと思った。
「僕の知らないところに行かないで。どこにも行くななんて言わないから」
 彼女は笑わなかったが、愛の告白みたい、とうれしそうに呟いた。

 目が覚めるとまだ部屋は暗く、空は白んでもいなかった。久しぶりにベッドでなど寝たのがいけなかったらしい。心の、割と浅い部分にある引き出しが、勝手に開いてしまったようだった。
 肉体がないために意識は寝ぼけることもできず、覚醒してしまった寂しさが唇を動かした。香月。唯一と頼んだ親友の名を、声も出さずに呼んでどうしてか泣き出しそうになる。
 ベッドに倒れ込んで、シーツに頭までうずまった。今日はもう、起き上がることはできなさそうだった。

 返してほしいとは言わない。けれども、あの日々を再び与えられたなら、もう二度と放すまいと思う程度には、拘泥していた。
 結婚する前からつくづく思っていたのだが、自分の兄と夫は実に仲がいい。それは単に幼なじみだからというのではなく、なんというか、実の妹や妻にさえ足を踏み入れることのできない絆のようなモノを感じる。同日同時に生まれ、寸分違わぬ月光をその身体に浴びたせいなのかもしれない。
 兄が婿入りした関係で親しく付き合うようになった義姉は、不機嫌そうに八尾をゆらめかせて言ったものだ。いわく、ムカつく、と。

 たしかに義姉がムカつくと評したのは、正しい感情なのかもしれない。自分を訪ねてきたはずの兄を横取りし、やめろと言われたにもかかわらずまとわりついて、まんまとカードゲームをやり始めた夫を見ていると、氷呼はそう思う。
 なんというか、夫は甘え上手なのだろう。しかも、そうして良い相手と良くない相手とをきちんと見分け、きわめて巧妙に猫をかぶる。甘えてはマズい相手の前で猫をかぶっていることはもちろんだが、兄や自分の前でも本性をちらりとしか見せていないような気がするから嫌になる。
 それにしたって、兄ももういい加減、二十年以上の付き合いである。断る術も身に付けていいころだろうに、彼にしても、自分の甘やかしを享受しているように思えてしかたがない。自分たち兄妹など指一本で相手にできるであろう夫が、へらへらと甘えてくることに複雑な優越感を抱いているのかもしれなかった。長年のコンプレックスは、執念深い。
 まったくもう、とためいきをついて、氷呼は洗濯物を干しに庭に出た。もどってくるころには、二人の勝負が終わっていることを願って。

 いい加減にしろ、と兄の怒鳴り声が聞こえて、氷呼はふと手を止めた。日ごろ激高することのめったにない兄が怒っている。ということは、夫が彼の機嫌を損ねたのだろう。まったく、あの人は不用意だから。
 案の定、兄はしばらくすると表に出てきて、ずかずかとこちらに歩いてきた。耳の内側、血管の透けて見えるところが赤く染まっていた。照れているのではなく、怒っているのだろう、たぶん。
 その後をあわてて夫が追いかけてくる。氷呼のすぐ近くで二人は立ち止まり、しばしぎゃあぎゃあと言い争いをしていたが、哀しいかな、やはりその内兄の方が根負けして、二人は仲直りしたようだった。

 数日後になって、どうしてケンカをしたのかと兄に聞いてみた。
「ああ、うん。アイツが手札何枚かごまかしててな」
 それで怒ったんだけど、言いくるめられた。
 苦笑いを浮かべる割に、兄はそう悔しそうでもなかった。正直なところ、彼は言いくるめられることに喜びさえ覚えているように見えた。

 甘ったれのアホ夫と甘やかしのバカ兄にムカついて、氷呼は尻尾をひとつ、不機嫌そうにゆすった。
 運命だとか、そういうものを信じているわけではない。が、絆というものがあるのだとすれば、それは信じる。
自分と羽水を同じ世界につなぎとめているものは、間違いなく『絆』だったから。

 川の様子を見に行く、と言う羽水に、どうせ暇だったのでついてきたのが間違いだった。下流から上流へと延々三時間も歩いて、挙げ句彼はまだ水の中に入って精霊と話をしたり、薬草を摘んだりしている。三月とは言え、まだ水遊びをするには早いと思うのだが。
 くぁ、と蒼河はあくびをこぼした。だらしなく一枚岩の上に寝そべって、九本ある尻尾の毛玉取りをしていたのだが、やめた。あまりに暇だったので始めたことだったが、やっている間に虚しくなってきたのだ。
「暇だー、羽水」
 耐えきれずにわめくと、親友はうるさそうに振り返って、
「お前は堪え性がないんだろ」
 と冷たく言った。それでもようやく水の中から出てくる辺り、彼はひどく幼なじみに甘いということに気付いていない。蒼河はひそかにほくそえんだ。が、そういう腹黒い面は器用に押し隠し、どうでもいいような、だが実のところ昨日からずっと頭の中にあった質問を、羽水に投げてみる。
「なぁ、運命って信じる?」
「ハァ? …蒼河、熱があるなら戻れよ。まだ俺は仕事が終わってないんだからな」
「いや別に熱はないけどさ。そもそも僕はあんまり風邪引かないから」
 別に自慢のつもりではなかったのだが、羽水は肩をすくめた。
「健康までお前に取られなくて感謝してるよ」
「そう、だから僕が言いたいのはそこなんだけどさ。僕ら、生まれが同じだろう。なんでこんなに違うかな――色々と」
 嫌味ではなかったのだが、どうしてもこの話題を持ち出すと、嫌味っぽくなる。それは蒼河自身もわかっていたし、羽水もまたきちんと蒼河の立場、そして彼自身の立場を理解していた。それで、二人が言い争いになることは、ごくめずらしかった。
 羽水はさぁな、と言いながらも、蒼河の方をまっすぐに見つめていた。口元が少し笑っているようだった。
「あえて言うなら絆とか、そういうのじゃないのか。だってこれで俺がお前くらい強かったりとか、お前が俺くらい弱かったら、絶対俺らトモダチじゃないだろうし」
 絆、と口の中で数度繰り返して、蒼河は首をかしげた。
「運命、じゃなくて?」
 帰るぞ、と甘やかしの羽水があごをしゃくったので、蒼河は岩から地面に飛び降りた。水際を歩く青年が、振り返ってニヤリと笑った。
「月神様に決められたからお前に付き合ってるわけじゃない」

 複雑な力関係と家柄を全部無視して我が侭に付き合ってくれる羽水と彼に甘える自分に、なにがしかの説明を付けるとするならば、それはやはり『絆』になるのだろうと、蒼河は妙に納得したものだった。
 最近、とみに従兄のことを思い出すようになった。それは昔彼が担っていた役職を、そのまま自分が引き継いだせいなのかもしれない。あるいはまた会いに来ると言った彼が、さっぱり訪ねてこないせいなのかもしれない。どのみち月代が思うことといえば、ひとつきりだった。
 ――自分は、彼ほどに強くあることはできない。

 髪が汗に濡れて、べっとりと額に張り付いていた。幾重にもまとわりついた装飾品や日ごろ着慣れない祭典用の衣装が、ひどく重い。月代は荒い息を整えながら、ひときわ体力をうばう原因である杖を地面に置いた。これから急いで禊ぎを済ませ、今度は一族全員の前で、次代の神官長として祈らなくてはならないのだ。
 つくづく、あの従兄はよくもこんなつまらない、しかし重大かつ疲れる仕事を平然とこなしていたと思う。九尾の、とか、満月の、とか言われていただけあって、やはり彼は特別だったのだ。
 ためいきをついて父の待つ泉へと踵を返しかけた――が、そこでふと、月代を呼び止める声があった。
「…そうか、月代ももうそういう年だっけな」
 従兄だ。
 それがわかっていたから、呼吸をなだめてからゆっくりと振り返った。何故といって、汗みずくで肩で息をしているようなみっともない姿を、彼に見せたくはなかったので。
「また来るって言った割に、ずいぶん遅いんじゃないか」
 そう皮肉ると、彼は苦笑したようだった。
「なかなか機会がなくてね。今度来る時は、葉月を――君の甥なんだけどさ、連れてこようと思ってたし」
「こんにちは、おじさん」
 ひょこりと従兄の影から、小柄な影が姿を見せた。それは子どもだった――年のころなら十四か十五、しかしその割に、いまだ二次性徴らしきものの見られない。
 従兄が、その子どもは姉の遺産なのだと教えてくれた。葉月・K・ガイアス。一族に共通の銀髪と獣の耳、そして尻尾を兼ね備えてはいるが、そこだけは父親の血なのだろう、金の目をした子どもだった。

 なにを話したのだか、よく覚えていない。ただ少しして、従兄が子どもを、お祖父さんに会っておいでと言って外に送り出した。それが父のことをしめしているのだと思い当たるのに、月代は少しかかった。
 従兄はしげしげと、まだ装飾品や豪奢な衣装で飾られたままの月代をながめ、懐かしそうに笑った。
「さっきの舞い、なかなかよかったよ」
「……氷河に言われたくないな。傷付く」
「どうしてさ」
 従兄は首をかしげた。ああ、彼には理解することなど一生――いや、もう人生を終えているから、死んでもなお、か――できないのだろう。何故といって、彼はあらゆる人々を、比べることもおこがましいまでに引き離していたのだから。
 答えを返すこともなく、月代は一度は置いた杖を再び手にし、従兄にそっと手渡した。
「踊ってくれないか。俺か……姉さんのためでもいいから」
 彼は少しとまどったようだった。月に祈ることを赦されない亡霊の身では、いまさら舞うこともできないと言わんばかりに。
 だが結局のところ、従兄はどこまでも一族の一員でしかなく、……彼はうやうやしく杖を取り、すぅっと呼吸をととのえると、舞った。

 月光がさんさんと降り注ぐ。木々の合間を縫って、新月前のくせに、異常なほどに輝いて亡霊を照らし出す。
 やはり彼ほど強く、月に愛されることはできない。死してなお愛し子と呼びかけられる彼を、月代はうらやましいと思った。

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