あなたがいなくなったら生きていけないなんて、陳腐なことは言わない。きっと次の日も地球は回って、私はいつかあなたを忘れる。

 薄情なんだな、と男は笑って、それからでもそれでも俺はかまわない、とあっさり言った。特別寂しげでもなさそうなその口調が、妙に気に障るのだと言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
「まぁ……そうね、薄情かも。でもどうして忘れていいなんて?」
 しっとりと汗ばんだ胸板に手を這わせると、その手をつかまれて爪の先にキスをされた。外から見たらまるで恋人同士のようじゃないかしらん、などと考えて、都合のいい考えに我ながらヘルガは苦笑いした――注意深く、彼からは見えないように。
「俺もたぶん忘れるから」
 それこそ薄情なと言いたかったし、実際言おうとしたのだが、にぎった手にぐっと力をこめられ、あまつさえ話は最後まで聞けよ、と釘を差されては、黙らないわけにはいかなかった。
「ヘルガ、君は友人としてとてもいい奴だし、もちろん――もちろんその、つまりこういう関係にしてもベストな相手だと思う」
「浮気な旦那の言い訳を聞いてる気分だけど、で?」
 くすくすと笑いながらしどけなく足をからませると、話が終わってもう一段落ついたら帰るつもりだったのだろう男は、明らかに狼狽した。証拠に、ぴくりと眉が動いた。男なんてものはわかりやすい生き物だと相場が決まってはいるけれど、彼は特別わかりやすい。ヘルガはよく、そう思う。
 身体を緊張させたまま、それこそ言い訳じみて彼は続けた。
「君のことは好きだ。でもたぶん――だからなんだろうが、俺は君を忘れると思う」
 男の勝手な理屈に納得したわけではないけれど、ヘルガはそれでかまわないとうなずいた。自分も忘れる。だから、彼も忘れる。それでいい。
 だけれどと、彼を追い出したひとりきりの部屋で、ふと考える。
 だけれど、私のことは忘れると言っておきながら、ダニエル、あなたはきっとあの子のことは忘れない。一人で残されたなら、あなたはきっとあの子のことを思い出すんでしょう。
 その想像は、少しだけヘルガを哀しくさせた。

 きっと忘れるなんて言いながら、私はあなたを忘れられないはずなのに、あなたはあっさり私のことだけを忘れてしまう。
 推定よりもなお強く、むしろそれが当然のように思えて、私には仕方ないのです。
 それはまるで運命のようだったと、見知らぬ顔をした女が言う。少女のカラを脱皮したいきものは、まばたきする間もなく手の届かない場所へと歩き出していた。

 こんな女は知らないと、時間という摂理を否定したい本能が泣き喚いた。だがお前は知っているだろうと、冷酷に事実を突きつける理性があった。否定することのできない、けれども受け入れることも恐ろしすぎてできないことがらが、心臓を食い破って血管を走り、さながら数十マイルを走り抜いた後のような息切れをダニエルにもたらした。
 青ざめて立ち尽くしながら、答えの知れた問いを繰り返す。この女は、誰だ――夢見るように、否、実際夢見て微笑う、かつて大切にこの手で守った少女の面影を、いまだ強く残すこの女は!
「運命だと思ってた。ずっと前から」
 つたない英語ときり、と話し相手を見つめる目を、知っていた。それだけは何年経っても変わらないのだと、理解してしまえば少女と女を重ね合わせることなど、むずかしくはない程度には。
 その英語はもっと昔からずっとうまかったんだろう? その目をもっと昔からずっとそらしてしまいたかったんだろう?
 二つの問いが頭に浮かんでしまえば、すとんと事実は胸に落ちた。
「俺は運命は信じない。俺が信じるのは――俺だ」
 知ってるだろう、と水を向けると、女はこくりとうなずいた。
「いい。わたしが、そう思ってただけだから」
 どうしてなのだろう、そんなところだけはあどけなく、かつてのままの少女を思い出させた。あのカラに閉じこもっていることはできなかったのか。できなかった。知ってはいても、思わずにはいられなかった。
 そこにいてさえくれれば、運命を信じさせてやることもできたのだけれど。
「お前は我が侭なんだよ、カタリナ」
 それも知っていた、と女はうなずいた。

 遙か先を行く彼女を引きずり、元の位置にもどすことはできないが、走って追い抜くことはできた。むしろ走ることこそが、あの日あの場所で定められたことがらなのかもしれなかった。

Lost girl.

2004年4月20日 交点ゼロ未満
 『雪女』という妖怪がいると教えてくれたのは、母だった。そのもののけは色白の美しくも妖しい女で、妖怪などというよりはもっとずっと人間のように思えると言ったのも、母だった。

 誰かが、キッチンに立って背中を見せている。華奢な背中から、それが女なのだとダニエルにはわかっていた。だが、具体的な顔となると、さっぱり思い当たらなかった。ただ、彼女が自分とともに人生を歩む人だと言うことは、わかっていた。
 それだけわかればじゅうぶんと、特別なにかを考えることもなく、幼いころに母から聞かされた昔話を、始めていた。
 昔々、ある若者が山に猟に行って道に迷い、ひとりの雪女に出会ったこと。彼女を見たことを誰にも話さない条件で、若者が里に帰してもらったこと。ほどなくして嫁をもらった若者が、冬のある夜、うっかりと妻に昔出会った雪女の話をしてしまうこと。妻がそれを聞いて、雪女という己の正体を現し、いずこかへ去ってしまったこと。
 とても怖いと思った、と苦笑混じりにダニエルはぼやいたが、キッチンの女性は返事をしもしなかった。ただ、鍋を洗っていた手を止めて、そのくせ水道は流しっぱなしのまま、しばらくしてからそれは、と振り向いた。
「話しちゃいけないって、お母さんは言わなかった?」
「あ? ――ああ、言われた、ような…」
 奇妙な既視感がダニエルを襲った。これはなんだ。この問答は、まるで――
「ダニエル、約束は破っちゃダメ。ね?」
 昔話の、雪女のような。
 見覚えのない女がするりとダニエルの隣をすり抜けて、ドアを開け放って外へ出てゆく。あわてて追いかけたが、外は雪が降っているきり、女の後ろ姿さえも見当たらなかった。

 雪女のように消えてしまうものだとは、思いたくはなかった。だからそばにおいている。
 そういうのを結局は固執というのかもしれないと、ダニエルはふと思った。
 手を出さないで。ごくきれいなアクセントの英語でそう言って、少女は哀しそうに眉をよせた。口から出してしまった言葉を、いまさらのように後悔しているようだった。
 そもそも後悔は当然のことなのかもしれない。ヘルガと少女は、昔から――それこそ初めて顔を合わせた四年前から――ずっと仲が良かった。少女は時々ヘルガの家に遊びに来たし、ヘルガ自身、彼女の訪問を楽しみにしていた。
 小さな齟齬が生まれたのは、いつだったのだろうか。おそらく、とヘルガはぼんやり考えた。かみあわない歯車が、いつのまにか、四年という時間の間にひとつずつ増えていたのだ。そして今に至るまで、自分も少女もそれを認めようとはしなかった。そう、どちらも煮え立ったスープに口を付けて、火傷したくはなかったのだ。
「手を出すとか出さないの問題じゃない。……わかってるでしょ、カタリナ」
 見せつけるように指先で唇を撫で、ヘルガはぽつりと言った。
「そのことに関してだけなら、私はもうダンに手を出してる。ええと、そうね。出したのは彼だけど、出させたのは私よ」
 ただし、と暗く考える。
 食事をしていてもベッドの中でも、男が口にする話題は、この目の前の少女のことばかりだ。付き合った一年というもの、ずっとそのことに歯がみさせられてきた。
 けれど、彼女の方は、もっと長い間彼の背中ばかりを見ていたのだろう。半年どころの話ではなく、ひょっとしたら四年間、ずっと。そう考えると、妙に切なくなって胃の奥がきゅっと締め付けられたような気がした。

 結局のところ少女は自分と瓜二つのものなのだと、ヘルガは妙に納得した。ただひとつ、二人の間に立っている、ある男を手に入れたいと望むその一点において。
 まるで鏡のように同じ思いを向ける少女を、切ないと思った。ただ、退くつもりは、ひとつもなかったのだけれど。
 彼女に会ったのは八年生の始業式だった。ホームルームのクラスに見慣れない顔がいて、先生――名前は忘れた――が転入生を紹介した。それがカタリナだった。
 あまりうまくない英語でハジメマシテ、とつぶやいた彼女の隣の席が、俺だったのだ。

 で、現在、カタリナは俺のガールフレンドである。告白した記憶もされた記憶もないが、ボールで一緒に踊ったり週末にデートしたりする関係の相手がおたがい他にいない以上、そういうことなんだろう。
 しかし俺は、カタリナが意外にモテることを知っている。キムがこの間告白して、見事に玉砕したのも知っている。カタリナは結構可愛いし、養父というのがどうも相当頭のいい人のようで、賢いのだ。
 その養父というのが意外なクセモノだと、俺はつい最近知った。大体十歳しか年の離れてない養父というのがまずおかしい。しかも養母はいない。ロリコンじゃなかろうかと、紹介された時に俺は真剣に悩んだものだ。もっとも、奴は奴でガールフレンドがいるらしいので、カタリナ狙いという線はほどなくして消えたが。
 それでも俺が時々カタリナの家に行って奴に自分を見せつけるのは、カタリナが奴に対して、異常に過保護だからだ。実は彼女は奴が好きなのではないだろうか。そういうことを邪推するくらいだ。まぁ、彼女は誰にでも優しいからしょうがない。
 ――と、そんなことを考えていると、向こうの方からカタリナが走ってきた。時計を見ると、五分遅刻していた。見る予定の映画にはじゅうぶん間に合うだろう。
 俺は物思いをやめて、ポケットに入ったマジェスタの鍵をさぐった。

 彼女が本当は誰を好きだろうが、別に関係ない。なにしろ結局のところ、カタリナは奴とはそういう仲にはなれないのだ。だから、彼女は俺がもらう。
 そういうふうに考えてしまう自分が、少し嫌いだった。
 付き合っているんだろう、と言われれば、そりゃイエスと答える。大体そうでない女と、誰がベッドをともにしたりするものか。ダニエルとて、その程度の分別くらいは持ち合わせがあった。
 だが結婚という選択肢を持ち出されるとなると、話は別だ。二十八歳、若いとは言えないが、晩婚だの生涯シングルだのがとりざたされる昨今、わざわざ面倒な道をとる必要はないはずだった――自分も、彼女も。
「馬鹿だと思ってるんでしょう、――結婚なんて言い出すようには見えなかったって?」
 ヒステリー一歩手前の状態で、なんとかダニエルをにらみつけているようにしか見えなかった、ヘルガは。彼女の口元はひくひくと、奇妙な笑みの形にゆがめられていた。
「ヘルガ、別に俺はそういう…」
「同じことじゃない!」
 悲鳴のような叫びでダニエルを牽制し、ヘルガはついに口火を切った。
「大体カタリナ、カタリナって、ベッドにいる時までそんなこと聞きたくないのよ! たまにはもっと中身のあること言えないわけ、このクソ馬鹿野郎!」
 ダニエルはぎょっとして身を引いた。そんな口汚い言葉を聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。まして吐いたのは情報部一ともうわさされる美人だ。一瞬、耳をうたがった。
 だがヘルガの方はずいぶんと冷静で、弱々しいためいきをもらすと、バッグからシボレーの鍵を出した。踵を返しながら、つぶやく。
「……帰るわ。しばらく私の前でカタリナの話はしないで」
 自身のセリフを後悔しているような口調ではあったが、彼女の背筋はぴんと伸びていた。それがせめてもの虚勢だったのかもしれない。
 ダニエルは呆然とヘルガを見送り、途方にくれた。
 自分の生活の根底がたったひとりの少女にあるということに気付いたのは、少なくともそう最近の話ではない。むしろ昔、スペインの教会で彼女に出会った時から、そうなることの予想はついていたような気がする。

 マンハッタン島を抜ける途中で、うっかりスピード違反でニューヨーク市警に止められた。夜中の一時すぎ、こんな時間くらいは職務怠慢をしても誰も文句を言うまいとは思ったが、疲れきっていてそんなことを言う余裕もなかった。小言の途中で船を漕ぎそうになったダニエルを、中年の警官はもういいから行けと哀れんでくれた――ただし、事故を起こしたらただじゃおかないぞと脅しをかけて。
 なんだかもう色々と考えるのがめんどくさくて、適当にセダンを家の前に停めると――目をつむって車庫入れをしたのかというほど、ひん曲がって停まっていた――、ダニエルはのろのろと家に入り、そのままソファに身を横たえた。人の気配がしない家は、ひどく冷え切っていて身震いがした。
「……くそ」
 身体は早く休みたいと叫んでいたが、あいにくと脳味噌の方が許してくれそうにない。朝早くから軍事・政治用語の入り交じる書類を何カ国語にも翻訳させられて、今もまだ目の前をアルファベットやらハングルやら漢字が踊っているようだ。苛々と立ち上がって、キャビネットからジンのビンを出した。
 まったく、生活管理をしてくれる人間がいないものだから、また自分の生活は昔に逆戻りしている。午前様の帰宅、アルコールを摂取しての短い睡眠、コーヒーだけの朝食。あの少女が――カタリナがいないだけでこうも狂ってしまう自分自身に、ダニエルは苦笑した。
 ハイスクールの卒業旅行にオーストラリアとは結構な話だが、楽しく過ごしているのだろうか。つい二日前に留守電が入っていたのを覚えているが、眠くて眠くてあまりマジメに聞いていた記憶がない。しかも操作を間違えて消去してしまったものだから、もう一度聞くこともできない。
 カタリナがもどってくるまであと四日、いや、すでに日付が変わっているから、三日か。そんなことを考えながら、そのままソファで眠りに落ちた。

 面倒を見るよりもむしろ見られている割合の方が大きいことは自覚している。ただ、もはやそれが骨子になっている。この生活に骨を埋めてしまうつもりはないが、できることなら終わりが遠い未来のことであればいいと思っている。
 そう願ってしまうほどに、少女のいる生活はおだやかだった。
 相手の中に占める自分の面積はさして広くもないのに、自分の中に占める相手の面積ばかりがどんどん大きくなっている。脳細胞を侵食するこの毒を、なんとかしなくてはならないことを知っているが、特効薬が見当たらない。手遅れになりつつある身体を抱えて、何故わたしだけが、と叫んでいる。

 目の前に己と同い年の、それも女の同僚がいて、単なる友人では済ませることのできない関係を持っているということに、この男は気付いていないのではないかと思う。もしくは気付いてはいても、気が回せないほどに鈍いか。
 ダニエル、つまり彼に関して言えば後者の方が有り得そうな気がして、ヘルガはこっそりためいきをついた。が、それにも気付かないまま、ダニエルは話を続けていた――今年で十七歳になる、彼の養子の話だ。そんなわけだから、適当に相槌を打ちながら、ヘルガの脳味噌は違うことを考えていた。
 先に惚れた方が負け、とはよく言うが、まったくもってその通りだと思う。大体、先か後かどころの話ではなく、相手の方はこちらに惚れてもいないのだ。タチが悪い。
「ヘルガ? 具合でも悪いのか」
 さすがにぼんやりしすぎていたのを見とがめられたのか、ごく思いやりのある声音でダニエルがそう言った。下からこちらを見上げてくるまなざしが、どうにも不安そうだった。
 これだから、嫌いだ。やさしくされて舞い上がりそうになる自分も、妙な博愛精神でもってやさしくしてくる男も。……なにより、刻一刻と感情を侵食する、特効薬のないこの病が。
 台本を無くしたままステージに立つ女優の気分で、ヘルガはうっすらと笑った。
「飲みすぎたのかもね。送ってくれる、ダニー坊や?」
 誰が坊やだ、とぶすくれた顔――それこそが坊やの証拠だろうに――でつぶやきはしたものの、ショットグラスの中身をすばやく飲み干すと勘定を回してくれとバーテンダーに頼んだ。それからちょっと肩をすくめながらこちらを向いて、
「タクシー代は高く付くぞ」
 ひどく魅力的なウインクをよこした。

 まったく道理に合わない。世の中、物事はギブアンドテイクだと教えられて育ったのに、これではまったく自分の方が与えっぱなしだ。
 それでも気まぐれな熱が時折は自分のとなりにあるのなら、この理不尽さにも少しは目をつむらなくてはならないのかもしれないと、男が帰った後のベッドでそう考えた。
 好きで好きでどうしようもない、その感情だけで胸が熱くてどうにかなってしまいそうなほどに想いを寄せた男が、ごくきまじめに正面に立っていた。カタリナ、と彼が自分を呼んだような気がした。
 ここはどこなのだろう。なんだかとてもふわふわとしていて、気分が良かった。
 けれどもすぐに、そんなことはどうでもよくなってしまった。なぜといって、彼がそっとこちらの頬にふれてきて、その唇を寄せてきたからだった。
 いつも辛辣な批判だとか、あるいは口汚いののしりだとかをこぼす彼の唇は、近くでこうして見てみると薄く、血色があまり良くなかった。いつも健康に悪い生活をしているからなのかもしれないと、ふと思った。
 ごく当然のように彼のキスを受け入れて、彼女は幸せに浸っていた。

 ――はっと目を覚まし、自分が部屋のベッドで寝ていたことに気づいたカタリナは、なんだ夢かと肩を落としたすぐあとに、なんて夢を見るのだろうと赤面した。昨夜の夢が、欲求不満の少年でもあるまいに、あまりに即物的なものだったので。
 うぅ、とうめきながら、シーツに顔をこすりつける。そうしながら、それでもカタリナは思った。あんな出来事が、本当にあればいいのにと。
 自分はこの男にとって、一体なんなのだろうと思うようになった。一年ほど前にぽつんと胸に沸いたその疑問は、今も消えることなくカタリナの頭をぐるぐると回っている。
 ダニエルにとってのカタリナ。
それはおそらくカタリナにとってのダニエルとはまったくちがうものであるはずで、だからこそ彼自身に問うてみることなど、できるはずがなかった。けれども自答できるような種類の問題でもなく、彼女はすでに、消化不良を起こして久しい。

 スペインに帰ったらどうだと、ダニエルが言った。それはごく日常会話の一端であるかのようなもの言いで、実際彼はマンハッタンに向けて自動車を走らせているところだった。
 助手席にすわっていたカタリナは目をみひらいて、ダニエルに彼女のショックを伝えてきた。それは哀しみではなかったが、絶望ではあるようだった。
「……どうして」
 ようようカタリナがつぶやいた言葉と言えば、『Why?』というためらいがちなそれだった。だがおそらく彼女はこう言いたかったのだろう――「どうしていまさら、そんなひどいことを言うの?」。そのくらいは、鈍いダニエルにもわかっていた。
「お前の国籍はスペインだろ。この辺りで、帰国したらどうかと思ってな」
 ストリートの脇に自動車を停めて、ダニエルはカタリナの方を向いた。こういう話は、運転しながらするようなたぐいのものではない。それこそ事故を起こしてしまいそうだった。
「長くアメリカにいすぎてる、カタリナ」
 ごく真剣そうな男の顔を真っ正面からとらえながら、カタリナは考えていた。どうしてこんな時ばかり、この男は自分を名前で呼ぶのだろうと。せめてニーニャと、普段どおりに呼んでくれたなら、こちらもあのぎこちのない英語でかえすことができただろうに。
 長年自身に課してきた鎖をひきちぎることは、そうむずかしくはなくむしろたやすかった。意識しないうちに、唇からは流暢な英語がこぼれていた。
「スペインに帰るところなんてない。そんなの知ってるでしょ? それに、ならどうして私をひろったの? どうして養子にしたの?」
 突然まくしたて、癇癪を起こしたカタリナを、ダニエルはぽかんとみつめていた――彼は彼女が英語をすでに会得していることなど、知らなかったので。
 その態度がますます頭に来て、とうとうカタリナは絶叫した。
「ダニエルはいつも、私のことなんて知ろうともしない。じゃあ、私はダニエルのなんなの?」
 一生涯心に秘めて、なんとか自答しようとしていた問いを吐き出すと、もはやカタリナはこの場にいることなどできなかった。
 しんと静まりかえった自動車から、ダニエルが引き止めることもできないほどショックを受けているのをいいことに、カタリナは抜け出した。マンハッタンはまだこの場から遠く、川向こうの景色がにじんで見えた。

 四年前にスペインの教会で出会った時から、自分の祖国はアメリカだと決めていた。例え市民になれなくともかまわない。ダニエルの暮らす国こそが、カタリナにとっての祖国だった。
 四年前から噛み合っていなかった歯車を、今更はめこもうとしても無駄なのだと、理解できている。だがそれでも愚かな修理工の真似をしてしまうのは、きっと彼に振り返ってほしいからなのだろう。

 月がきれいだったので庭に出て、芝生の上にごろりと転がっていたら、足下から声が聞こえた。聞き慣れた男の声は、近ごろとみに落ちつきを増してきたように思える。
「ニーニャ、風邪引くぞ」
 英語の聞き取りももうほとんど支障なくできるというのに、彼はいまだによくスペイン語で話しかけてくる。それは気遣いなのだろうが、なんとはなしに年齢を認められていないような気がして、嫌だった。
 もう、十八になるのに。
 ためいきをついて、彼女は起き上がった。彼のスペイン語に応えて、つっかえがちな英語を口にしている自分も、たいがい馬鹿だと想いながら。
「引かない。ダニエルの方が、寒い」
 それでも養父の言いつけには素直に従って、彼女はさっさと家の中に入った。テレビの前で、小さな扇風機がくるくると回っていた。
 彼は、と振り返ってみると、まさしく庭から上がってくるところだった。片手にはビールのビンを持って、してみるとシャワーから上がったばかりなのだろう。
「暑いな、クソッ」
 ぶつぶつとぼやきながらすれ違った彼の目に自分が映っていなかったことを、彼女は知っていた。

悪夢。

2004年1月13日 交点ゼロ未満
 ぎし、と世界が軋んで音を立て、終いにどろどろに溶解した黒いコールタールに変わった。まとわりつく重たいそれが、いっそ視界をふさいでくれたならまだしも救いはあったのに。

 下ろしたばかりのデビュタントドレスはもう、なんの魅力もなかった。部屋のドアを乱暴に閉めて、真っ白なドレスを引き裂かんばかりの勢いで脱ぎ、丸めてベッドに放り投げる。きれいに結い上げられた髪のピンをむしり取ると、不意に静けさが耳についた。
 ぼんやりと立ち竦んで、鏡をみつめる。
――ここに映っている、痩せこけた下着姿の少女は誰だ?
 三年前からちっとも成長していないように思える。あの日から自分は身長も伸びていないし、腕や足は骨張っていてみっともない。子どものままだ。
 到底かなわないのだ、あのきれいでやさしい女性には。彼女は三年前から大人で、彼の隣に立っていて、姉とか母親みたいなものだった。今日のドレスを見つくろって、髪を結ってくれたのも彼女だ。

 わかっている。そんなことはわかっている。
でも、夢くらい見せてくれてもいいと思う。それがだめならば、せめて悪夢を回避する権利くらいは与えてほしかった。
 唇を震える手でそっと押さえて、ぽたりと涙をこぼした。

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