「レトロ愛好家に44音のお題」より「う:麗しの君」
2007年9月5日 若菜萌ゆ 中学に上がってから意気投合した少年は名を下山俊介と言って、余り自分のことを話したがらない類の男だったが、実家は中野の米問屋であるらしい。羽振りも良く、頭も回るとあって、付き合い始めてから健一が彼に助けられた回数は片手の指では足りない程だ。
更に言えば、これが大層な美少年である。同性でも一寸目を惹かれる位の整った顔立ちで、卸し立ての制服をきりりと着、窓際で物憂げに本なぞ読んでいる姿を見ては、上級生達が「麗しの君」と半ば冗談、半ば本気で呼んだりもする。
ところが親しく話す様になって健一が知った俊介という少年は、全く夢を見ている先輩方に申し訳ないと、彼自身は何らの関係もないにも関わらず平謝りしたくなる様な男であった。
まず、人をからかうことにかける情熱は並々ならぬ物がある。入学三日目にして地理のうらなり教師に教卓の下で蛙を踏み殺させてキャッと悲鳴を上げさせたのは、実はこの少年だったし(うらなりは散々犯人は名乗り出るようにと憤慨していたが、級の全員が素知らぬ顔だった)、何かと威張り散らす教練の退役将校にひまし油入りの饅頭を食わせて翌日の教練を自習に追い込んだのも彼だった(当然、誰もがこの英雄を称えた)。
また誰の血を引いた物か、齢十三にしてとんでもない好色である。制服姿の女学生、それも明らかに年上のがこっそりと彼に手紙を渡しているのを見ただとか、果ては中野の方で着物姿の粋な女性と立ち話をしているのを見ただとか、色めいた噂には事欠かない。
挙句、口が悪い。そもそも健一が俊介と知り合った切欠と言うのが、彼がそのよく回る口でもって散々に健一の訛りをこき下ろしたと言う、傍から見ればどうしてそれで友人等になれたのだかさっぱり掴めない物だった。
「なア君、そう、そこの君だ、大島君だろう。どこの出だい、先の音読は馬鹿に訛りが酷かったぜ――あれじゃア今後困るンじゃないのか」
失礼極まりないその発言を、健一は努めて無視して一心に鞄に教科書だのノートだのを詰め続けたが、それでもかっと頬に上った血ばかりは誤魔化しようがなかった。これだから嫌なのだ、国語の時間等と言う物は――殊に音読は。
まして、相手が下山俊介である。入学早々学年一、否、学校一の有名人として燦然(さんぜん)たる輝きを放つこの少年は、無論頭も回る方だったから健一とて多少の憧れを持っていた。それが初めて話しかけられたと思えば、訛りが酷いの今後困るのと、大した言い様である。幻滅もいい所だった。
オイ大島君、と更にかけられた声を遮る様にがたりと勢いよく席から立ち上がり、殊更に冷静を装って健一は言った。
「ご忠告痛み入るよ、下山君。それじゃア、また明日」
こんな時ばかり影を潜めた自身の訛りに内心悪態を吐きながら、健一は教室を後にした。だがしつこく俊介は健一の名を呼んで、あまつさえ廊下まで追いかけて来る。それでも健一は無視するがいいのだ、それが一番だと、ずんずんと歩を進めた。
健一は生来気の長い方である。実家で下の妹が三日と空けず近在の餓鬼大将と大喧嘩をしでかしても、下の弟が毎晩同じ布団の中で寝小便をしても一度たりとて怒りに任せて怒鳴り付けたことはなかったが、上級生の教室前で俊介に腕を掴まれた瞬間、健一の頭の中で何かが切れる音がした。
「――てめエなんかい言われねェでもわアってるっつッてンだろォがよオ、ほっぽっとけ!」
そのまま腕を振り払い、何事かと向けられる数え切れない程の視線には気付かなかった振りをし、走って下駄箱へと向かった。からかいの相手がようやく馬脚を現したことに満足したと見えて、案の定、俊介は追っては来なかった。
あんな口の悪い、ついでに性格も悪い奴のどこが「麗しの君」だと帰る道々、地獄の鬼も裸足で逃げ出さんばかりの形相で息巻いた健一が、件の貴公子といかにして友人となったかは、また別の話。
更に言えば、これが大層な美少年である。同性でも一寸目を惹かれる位の整った顔立ちで、卸し立ての制服をきりりと着、窓際で物憂げに本なぞ読んでいる姿を見ては、上級生達が「麗しの君」と半ば冗談、半ば本気で呼んだりもする。
ところが親しく話す様になって健一が知った俊介という少年は、全く夢を見ている先輩方に申し訳ないと、彼自身は何らの関係もないにも関わらず平謝りしたくなる様な男であった。
まず、人をからかうことにかける情熱は並々ならぬ物がある。入学三日目にして地理のうらなり教師に教卓の下で蛙を踏み殺させてキャッと悲鳴を上げさせたのは、実はこの少年だったし(うらなりは散々犯人は名乗り出るようにと憤慨していたが、級の全員が素知らぬ顔だった)、何かと威張り散らす教練の退役将校にひまし油入りの饅頭を食わせて翌日の教練を自習に追い込んだのも彼だった(当然、誰もがこの英雄を称えた)。
また誰の血を引いた物か、齢十三にしてとんでもない好色である。制服姿の女学生、それも明らかに年上のがこっそりと彼に手紙を渡しているのを見ただとか、果ては中野の方で着物姿の粋な女性と立ち話をしているのを見ただとか、色めいた噂には事欠かない。
挙句、口が悪い。そもそも健一が俊介と知り合った切欠と言うのが、彼がそのよく回る口でもって散々に健一の訛りをこき下ろしたと言う、傍から見ればどうしてそれで友人等になれたのだかさっぱり掴めない物だった。
「なア君、そう、そこの君だ、大島君だろう。どこの出だい、先の音読は馬鹿に訛りが酷かったぜ――あれじゃア今後困るンじゃないのか」
失礼極まりないその発言を、健一は努めて無視して一心に鞄に教科書だのノートだのを詰め続けたが、それでもかっと頬に上った血ばかりは誤魔化しようがなかった。これだから嫌なのだ、国語の時間等と言う物は――殊に音読は。
まして、相手が下山俊介である。入学早々学年一、否、学校一の有名人として燦然(さんぜん)たる輝きを放つこの少年は、無論頭も回る方だったから健一とて多少の憧れを持っていた。それが初めて話しかけられたと思えば、訛りが酷いの今後困るのと、大した言い様である。幻滅もいい所だった。
オイ大島君、と更にかけられた声を遮る様にがたりと勢いよく席から立ち上がり、殊更に冷静を装って健一は言った。
「ご忠告痛み入るよ、下山君。それじゃア、また明日」
こんな時ばかり影を潜めた自身の訛りに内心悪態を吐きながら、健一は教室を後にした。だがしつこく俊介は健一の名を呼んで、あまつさえ廊下まで追いかけて来る。それでも健一は無視するがいいのだ、それが一番だと、ずんずんと歩を進めた。
健一は生来気の長い方である。実家で下の妹が三日と空けず近在の餓鬼大将と大喧嘩をしでかしても、下の弟が毎晩同じ布団の中で寝小便をしても一度たりとて怒りに任せて怒鳴り付けたことはなかったが、上級生の教室前で俊介に腕を掴まれた瞬間、健一の頭の中で何かが切れる音がした。
「――てめエなんかい言われねェでもわアってるっつッてンだろォがよオ、ほっぽっとけ!」
そのまま腕を振り払い、何事かと向けられる数え切れない程の視線には気付かなかった振りをし、走って下駄箱へと向かった。からかいの相手がようやく馬脚を現したことに満足したと見えて、案の定、俊介は追っては来なかった。
あんな口の悪い、ついでに性格も悪い奴のどこが「麗しの君」だと帰る道々、地獄の鬼も裸足で逃げ出さんばかりの形相で息巻いた健一が、件の貴公子といかにして友人となったかは、また別の話。
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