一途と言えば聞こえは良いが、一つのことに集中してしまうと没頭のあまり周囲がまるで見えなくなる、要は不器用なだけなのだ、と俊介はその様に親友を理解している。蛇足だが、この白皙の君に親友と呼ばれる名誉を与えられているのは唯一、八王子の水呑み百姓が出の大島健一のみである。
 さて、ここ一、二ヶ月と言うもの健一が執着している物が何なのかは世慣れた俊介からすれば一目瞭然で、勉強にさえ身が入らぬ、一寸どうかしているンじゃないのかと眉をひそめたくもなるのが、つまり小峰千恵子嬢との付き合いだ。三日と空けずに手紙を書いて、月に一度はランデブーをして、仲の良いのは結構なのだが、それはしばらくは一所に落ち着くつもりのない俺への当て付けかと喚き出したくなる。否、健一がそんな真似を考え付きもしない男だと言うのはよくわかっているのだが。
 しかし幾ら不器用と言ってもこれは酷い、と俊介は高畠華宵だか何だか、女学生の好みそうな美しい図柄の便箋を放り投げて盛大に溜息をついた。
 貴方をお慕いしています云々の手紙を貰ったことは、それは伊達で色男を気取っている訳ではないから両の指では足りない程度に経験があるが、他人宛の手紙を貰ったのはさすがに初めてのことだった――手紙の冒頭には、「大島健一様へ」とある。
 健一から「相変わらずお安くない男だな、君は」としかめ面なのか苦笑なのか判別付けかねる顔でこれを渡されたのは、今朝の話だった。
「……お安くないのは君だろう、大島」
 俊介が頭を抱えて机に突っ伏したのも、無理からぬことではあった。

 健一と俊介のどちらもが一人きりになっている時間と言うのは、実は驚く程少ない。俊介の方は同級生だの上級生だのからやれ蜜柑をやるのあの本を貸してくれだのと始終呼び出されまとわりつかれているし、健一は健一で独自にこなしている問題を教官に聞きに行ったり、上手くもない小説を同人誌にすると気勢を上げる一団に一筆提供していたりする。
 だから健一がドイツ語の辞書とノートを広げて図書館で背を丸めている所へ、ようやく級友を振り切った俊介が一寸いいかい、と話しかけたのは勿論偶然ではなかった。振り返った健一はなんだ下山か、と言う顔をして、外へ出ようと顎をしゃくった。成る程、図書館は勉学の場であって、雑談の場ではない。
 手早く片付けを終えて表に出ると、健一はちらとこちらに目配せをしてそのまま裏手の池へと向かった。鬱蒼と周囲に木々の茂るこの池は、帝大の三四郎池に対抗してか誰からともなく万葉池等と呼ばれ始めて今に至るが、これが密談を交わすに誂えた様な場所で、仮にここで今夜あの同級生にこんな悪ふざけをしてやろうと言う声が聞こえたとしても素知らぬ振りをするが礼儀とされている。
 手近な欅にもたれてふう、と息をつくと、健一は全体何の用だい、と首を傾げてみせた。もっとも、風呂敷に包んだ辞書の端が随分と薄汚れ、ぼろぼろに折れ曲がっているのを見咎めた俊介は、健一に応えるよりも先に顔をしかめて邪魔したな、と確認の様に問うたのだが。
「いや、丁度眠くて集中出来なかったんだ、良かったよ。それで未だ俺に用事を言う気にはなれないッてのかい」
 からかい気味ににやりと笑ってみせる健一はいかにも裏で何事かを画策していそうで、シャポーを脱がざるを得ない。こんなのに小作になられちゃア名主も商売上がったりだったろう、と親友の方向転換を複雑な思いと共に考えながら、俊介は懐から件の手紙を取り出した。
「昨日のこれだが、一体君はこれをどこで、どんな風に、どんなメッチェン(女の子)に貰ったんだ? 本当に俺宛だッてのを確かめたんだろうな」
「おい、俺が一体何度君への恋文を配達させられたと思ってるンだ? 一昨日の夕方頃かな、店番してたら何も言わずにさっと渡されたのさ。君が店にいる時に何度か来てた様だから、その時に思い染めたんだろうな。そりゃア緊張はしてたみたいだが、自分の書いた恋文が好いた相手に渡るのを考えたら、当たり前だろう」
 因みに、と唇を尖らせた不満そうな表情で健一は付け足した。
「所謂トテシャン(超美人)って奴だったよ。どうでもいいが、君、余り女性を哀しませる様なことはしてくれるなよ」
 それでもう話は終いだとでも言いたげな口振りに、俊介は内心、聞くに堪えない罵声を健一に浴びせた。
 手紙の少女が緊張していたことも、美人だったことも理解している癖に、彼女の想い人が己自身だと何故考え付かないのか。余りにも不器用過ぎる。しかもその手紙を俊介宛と勘違いして開封すらせずに寄越して来るに至っては、最早不器用を通り越して絶望的だった。
 ぐるぐると腹の底から吹き上げる激情に堪え切れずに、俊介は怒鳴った。
「大島、阿呆か君は! いや、阿呆だな、知ってたが阿呆だ!」
「なん――おい、人を阿呆阿呆言うな、失敬だな!」
「失敬結構、ああもう、付き合いきれんよ!」
 ばさっと手紙を健一の顔面に叩き付けるとどかどかと足音荒く俊介は万葉池を後にしたが、またも何事か喚きかけた健一の怒号が途中で途絶え、が、だかぐ、だか蛙の踏み潰された様な悲痛な呻きが耳に届いたのは全く爽快なことだった。

 その後一月ばかり、一年の大島と下山が万葉池で別れるの別れないのと痴話喧嘩をしていた、と言ういかにも眉唾、怪しげで学生らしい噂が校内を飛び交ったが、それはまた別の話。

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