Web拍手お礼再録「レトロ愛好家に44音のお題」より「あ:逢引き」
2007年7月17日 若菜萌ゆ 小金井に桜を見に行きませんか、と健一が三日と空けずに送ってくれる手紙の中で言ったのはまだ梅も咲かない頃だったが、それが届いた翌日に参ります、との返事を書き上げてしばらく経つ。気付けば空気は温み、立川より幾分春の遅い八王子でも、蕾が桃色を帯びる様になっていた。千恵子がそれに微笑んだ翌日に健一からは改めて手紙が届き、そうして週末の今日、二人は武蔵小金井の駅に降り立ったのである。
駅から玉川上水までの道すがらは、二人の様に桜見物の人々で一杯だった。花の見頃は短く、天気も良いとなれば見物客が集中するのは無理からぬことだったが、千恵子にとっては少々煩わしかった――健一と二人きり、のんびりと花見を楽しめると思ったのに。
それでも人の気も知らずに「皆、楽しそうですね」等と笑う健一が余りに伸びやかで、浅ましい己の方が恥ずかしくなってしまう程だったから千恵子もそうですね、と気分を変えることにした。愚痴を零す等勿体無い、折角ここに二人でこうしていられるのだから、そのことを楽しまなければ、と思う。
そう思い直してしまえば浮かれる人々の足取りさえも愉快で、遠目に見え始めた仄かな薄紅がより心を浮き立たせる。その心情のままに隣を行く青年の手を取りたいと千恵子は心底願ったが、生憎と彼女はそうまで世間の目を気にせずにいられる方ではなかった。
せめて、とやや痩せぎすで頬骨の目立つ横顔をじっと見つめると、さながら思いが通じたかの様に健一はつとこちらを振り向いて、困った様に苦笑いして見せた。どきり、と千恵子の心臓が不安に音を立てる。彼を困らせる程に、私の目は不躾だったのかしら。
けれども予想外にも健一はすいと腰を屈めて千恵子の耳元に口を寄せ、驚く様なことを囁いた。「もう少し静かな所に行きたい――そう思いませんか」。彼にしては大胆な台詞だ。自身もそう思ったか、目元に僅かに朱が滲んでいるのを千恵子は見逃さなかった。
「――先輩に、英学塾(現津田塾大学)に進んだ方がいらして」
健一は突然の話題にぱたぱたとあどけない疑問の瞬きを寄越したが、それでもはあ、と頷いた。
「商科大学(現一橋大学)の方と歩くと言う道があるンだそうです。ラバァズレーンって言うそうですけど――行って、みません?」
その甘やかで秘めやかな言葉に健一が頷かぬはずはなく、二人はそっと人の流れを外れ、五日市街道を商大橋で向こうに渡って女子英学塾の方へと歩いた。
「恋人達の小怪」と言う尤もらしい名前を与えられたそこは目的の桜こそ姿もまばらだったが、同時に人影も殆ど見当たらず、千恵子は少しほっとした。木漏れ日を吹き抜ける風もどことはなしに先程よりも爽やかで、人混みに当てられていたのかもしれないと思い当たる。健一が気遣う様に少し休みますかと問うたが、歩きましょうと首を振った。
「八王子はまだ咲いていなくて。来週頃になるでしょうか」
「ああ、そうですね、僕の実家の辺りなんかはまだそれよりもう少しかかりますよ。……立川に出て来るまで、花見なんぞはしたことがなかった」
桑の世話したりお蚕様の支度したりで、気付いたら散ってるンです。健一は懐かしそうに笑ってから途端にはっと真面目な顔になって、すみません、と頭を下げた。
「こんな話、つまらんでしょう。街の人に聞かせる話じゃアなかった」
「あら、いいえ、もっと聞きたいです。新鮮だし……大島さんのお家のことなンですから」
「そうですか? じゃアもう少し――」
せがむと、健一は訥々と小さな農家の春一番の仕事を語ってくれた。土筆や芹やのびるを弟妹達と摘みに行ったこと、一番下の弟を背負って桑を刈りに奥の畑まで行ったこと。それはこの穏やかで本を愛する青年とはまるで別人の少年時代である様にも思えたが、そうしたものの積み重ねが今の健一を形成しているのだと千恵子は知っていた。
けれどそれでも優しさと言う名の目隠しで覆われた向こうに透けて見える彼の苦しみを思って、千恵子は堪らずに健一の手を取った。その手は骨張って指先が荒れ、ちくちくと柔肌を引っかくささくれが彼女を切なくさせた。
きゅ、と握り締めると、健一はうろたえて小峰さん、と弱々しく千恵子を咎めた。振り払いこそしないものの遠慮がちに引き抜かれようとする手を、彼女は逃さないとばかりに両手で取った。
「――誰もいませんから」
だから、と微かな声で囁くと、健一は迷う様に視線を彷徨わせ、……そうしてようやく肩の力を抜いて、千恵子の華奢な手をそっと握った。彼の手のひらは大きく、彼女の手をすっぽりと包んで優しかった。
千恵子は不意に、もっとずっと昔、従兄とこうして手を繋いで街を歩いたことを思い出した。あの時と似ている。だがあの時よりも心臓が痛くて頬が熱い。つまりはそれそのものが彼と、健一と歩いていると言うことなのだろう。
その後は一言の会話もなかった。ただ二人は互いの呼吸さえも逃すまいと耳をそばだて、一つの身じろぎをも捉えようと全身を心地良い甘い緊張に浸した。絡めた右手と左手に、この世の全てがあった。
立川の駅に着いたのはまだ明るい頃合だったから、千恵子は送りますと言う健一を丁寧に断って代わりにこう言った。
「また、あの道にご一緒しましょう、ね?」
健一が顔を赤らめてけれども勢い良く頷いたのは、言うまでもないことだった。
駅から玉川上水までの道すがらは、二人の様に桜見物の人々で一杯だった。花の見頃は短く、天気も良いとなれば見物客が集中するのは無理からぬことだったが、千恵子にとっては少々煩わしかった――健一と二人きり、のんびりと花見を楽しめると思ったのに。
それでも人の気も知らずに「皆、楽しそうですね」等と笑う健一が余りに伸びやかで、浅ましい己の方が恥ずかしくなってしまう程だったから千恵子もそうですね、と気分を変えることにした。愚痴を零す等勿体無い、折角ここに二人でこうしていられるのだから、そのことを楽しまなければ、と思う。
そう思い直してしまえば浮かれる人々の足取りさえも愉快で、遠目に見え始めた仄かな薄紅がより心を浮き立たせる。その心情のままに隣を行く青年の手を取りたいと千恵子は心底願ったが、生憎と彼女はそうまで世間の目を気にせずにいられる方ではなかった。
せめて、とやや痩せぎすで頬骨の目立つ横顔をじっと見つめると、さながら思いが通じたかの様に健一はつとこちらを振り向いて、困った様に苦笑いして見せた。どきり、と千恵子の心臓が不安に音を立てる。彼を困らせる程に、私の目は不躾だったのかしら。
けれども予想外にも健一はすいと腰を屈めて千恵子の耳元に口を寄せ、驚く様なことを囁いた。「もう少し静かな所に行きたい――そう思いませんか」。彼にしては大胆な台詞だ。自身もそう思ったか、目元に僅かに朱が滲んでいるのを千恵子は見逃さなかった。
「――先輩に、英学塾(現津田塾大学)に進んだ方がいらして」
健一は突然の話題にぱたぱたとあどけない疑問の瞬きを寄越したが、それでもはあ、と頷いた。
「商科大学(現一橋大学)の方と歩くと言う道があるンだそうです。ラバァズレーンって言うそうですけど――行って、みません?」
その甘やかで秘めやかな言葉に健一が頷かぬはずはなく、二人はそっと人の流れを外れ、五日市街道を商大橋で向こうに渡って女子英学塾の方へと歩いた。
「恋人達の小怪」と言う尤もらしい名前を与えられたそこは目的の桜こそ姿もまばらだったが、同時に人影も殆ど見当たらず、千恵子は少しほっとした。木漏れ日を吹き抜ける風もどことはなしに先程よりも爽やかで、人混みに当てられていたのかもしれないと思い当たる。健一が気遣う様に少し休みますかと問うたが、歩きましょうと首を振った。
「八王子はまだ咲いていなくて。来週頃になるでしょうか」
「ああ、そうですね、僕の実家の辺りなんかはまだそれよりもう少しかかりますよ。……立川に出て来るまで、花見なんぞはしたことがなかった」
桑の世話したりお蚕様の支度したりで、気付いたら散ってるンです。健一は懐かしそうに笑ってから途端にはっと真面目な顔になって、すみません、と頭を下げた。
「こんな話、つまらんでしょう。街の人に聞かせる話じゃアなかった」
「あら、いいえ、もっと聞きたいです。新鮮だし……大島さんのお家のことなンですから」
「そうですか? じゃアもう少し――」
せがむと、健一は訥々と小さな農家の春一番の仕事を語ってくれた。土筆や芹やのびるを弟妹達と摘みに行ったこと、一番下の弟を背負って桑を刈りに奥の畑まで行ったこと。それはこの穏やかで本を愛する青年とはまるで別人の少年時代である様にも思えたが、そうしたものの積み重ねが今の健一を形成しているのだと千恵子は知っていた。
けれどそれでも優しさと言う名の目隠しで覆われた向こうに透けて見える彼の苦しみを思って、千恵子は堪らずに健一の手を取った。その手は骨張って指先が荒れ、ちくちくと柔肌を引っかくささくれが彼女を切なくさせた。
きゅ、と握り締めると、健一はうろたえて小峰さん、と弱々しく千恵子を咎めた。振り払いこそしないものの遠慮がちに引き抜かれようとする手を、彼女は逃さないとばかりに両手で取った。
「――誰もいませんから」
だから、と微かな声で囁くと、健一は迷う様に視線を彷徨わせ、……そうしてようやく肩の力を抜いて、千恵子の華奢な手をそっと握った。彼の手のひらは大きく、彼女の手をすっぽりと包んで優しかった。
千恵子は不意に、もっとずっと昔、従兄とこうして手を繋いで街を歩いたことを思い出した。あの時と似ている。だがあの時よりも心臓が痛くて頬が熱い。つまりはそれそのものが彼と、健一と歩いていると言うことなのだろう。
その後は一言の会話もなかった。ただ二人は互いの呼吸さえも逃すまいと耳をそばだて、一つの身じろぎをも捉えようと全身を心地良い甘い緊張に浸した。絡めた右手と左手に、この世の全てがあった。
立川の駅に着いたのはまだ明るい頃合だったから、千恵子は送りますと言う健一を丁寧に断って代わりにこう言った。
「また、あの道にご一緒しましょう、ね?」
健一が顔を赤らめてけれども勢い良く頷いたのは、言うまでもないことだった。
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