少し休憩にしますか、と止まりがちになった鉛筆に苦笑しながら健一が言い、ほんの数ページしか読み進めることの出来なかった英文に、千恵子は赤面した。独りで勉強した方が余程効率が良いなんて、馬鹿げているにもほどがある。忙しい日々を縫う様にして勉強の面倒を見てあげようと申し出てくれた健一にも、その彼の穏やかで高潔な人柄を褒めて頷いてくれた両親にも、申し訳が立たないではないか。
 はい、と静かに鉛筆を置くと、千恵子はするりと立ち上がって部屋の襖に手をかけた。小峰さん、と物問いたげな背後からの声に、肩越しに振り返って微かに笑ってみせる。
「お茶を入れて来ます。それと、最前お隣から一寸良い最中を頂いたと母が申してましたから、それも」
「やあ、それは美味そうですね」
 膝を崩して胡坐をかき、朗らかに笑った健一を眩しく目をすがめてもう一度見つめると、少し待っててくださいね、と言い残して襖を閉めた。

 熱い茶を入れた湯飲みを二つ、中に求肥の入った上等の最中を二つ――勿論母は快くまだ家族の誰も手を付けていないこの菓子を彼に出すことを承知してくれた――、盆に載せてしずしずと運んでゆくと、健一は千恵子が読みさしで机の隅に置いていた本をぱらぱらとめくっていた。大島さん、と控えめに声をかけると、はっと顔を上げた青年は慌てた様にすみません、と本を元あった位置に戻した――勝手に読んだことを咎めるとでも思ったのだろうか、と少しおかしみを覚える。彼に見てもらって恥ずかしいものなどこの部屋には、こと今日は一つもないはずなのに。
 いいンです、と畳の上に盆を置いて、千恵子は本をそっと健一に差し出した。古びて日に焼けたそれは小川未明の童話集で、千恵子が以前中里書店で手に入れたものだった。
「未明、お好きなンですの?」
「――童話なんて女子供の読み物と馬鹿にする者もいます」
 躊躇いがちに本を受け取って、健一は自嘲する様に呟いた。けれども彼が実際にはそう考えているわけではないことは明らかで、だから千恵子は彼の欲しがっている答えを唇に載せてやった。
「言いたい方には言わせておけば良いンです。そう言う人達がどう言ったッて、素敵なものは素敵なンですから」
 そうでしょう、と真摯な声音で語りかけると、健一は一寸呆気に取られた様に目を見開いて、それからははっと軽く声を上げて笑った。清水良雄の描いた、薔薇の只中でうなだれる年老いた兵士の表紙を愛しげに指先で撫で、健一は貴女は、と千恵子を何か神々しいものでも讃えるかの様に見つめていた。
「何時でも、僕には解けない問いを解くンですね」
 それから健一は勧められた湯飲みを手にしてぐいっと茶を一口飲み、照れ隠しの様に最中に噛り付いてうん、美味いと独り言を言った。

 写本のためにとその日本を借りて行った健一が次に千恵子を訪ねた時、ふと気付いた彼の鞄の中に潜んでいた何枚もの原稿用紙――それは勿論未明の童話を写したものだったが――の中、ひっそりと忍ばせられた見覚えのない一編のそれを健一が書いたのだと千恵子が知ったのはもっとずっと後の話。

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