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きみにしか聞こえない。
2006年10月12日 交点ゼロ未満 ああほら静かにして、虫の声がするわよ、とリサが微笑んで言い、ダニエルとニコラス――父――はきょとんと顔を見合わせた。月のきれいな秋の夜長、涼やかな風が吹き込むようにと窓はいっぱいに開けてあったが、そんなものはかけらも聞こえなかった。
「マム、何の話? 何も聞こえないよ」
ダニエルはすげなく言い放ったが、父の方は妻のなんというか、激しい気性を知っていたのでもう少し慎重だった。
「僕らには聞こえないんだが、どうなんだろう。遠くで鳴いているのかもしれない」
リサは不満そうに何事か言い返そうとしたが、ニコラスの加勢を得た息子はちょっと調子に乗って、大体、としてはならない口答えをした。
「『虫の声』ってなんだよ。虫が歌うなんて鳥じゃあるまいしさ、おかしいよ。どうかしてんじゃないの、マム」
まずいと思ったのかニコラスはあわててダニエルの口をふさごうとしたが、「ダニー!」とリサが怒り狂う方が早かった。
ヒロイ家の絶対権力者に、哀れな臣民がひれ伏して「ごめんなさい、もう言いません」と悔し涙を流したのは、ニコラスの制止も空しくリサがダニエルの頭をぽかりと一発やった後のことだった。
「――でもマムは正しかったんだ」
ふふふと笑う青年は子どもめいて靴を脱ぎ捨てた素足を冷たい芝生で遊ばせていて、暗がりの中、そのギャップがカタリナの心臓をとくんと少しだけ早くさせた。こんなふうに思うのは、きっと満月が煌々として空高くに上っているせいだ。こんな夜には誰だって、ちょっとはおかしくなる。
正しかったって、と小首をかしげてみせると、いつになく上機嫌のダニエルは日本人には、とけれど少し寂しそうに言った。
「虫は――虫ったって、蚊とか蜂とか、ああいうのじゃない――『歌っ』てるように聞こえるらしいんだ。りーんりーんとか、ちんちろちんちろとか」
その虫の「声」だけぎこちのない日本語のアクセントで言ってみせると、ダニエルは芝生の中にどさりと身をうずもれさせた。青草の倒れた、えぐいような香りがした。
「ウエストポイントに入ってから、何かの本で読んだ。日本語が母語だと虫の『声』が聞こえて、それ以外の言葉が母語だと雑音にしか聞こえないか、何も聞こえないって」
「おもしろいね。初めて知った」
うん、とやさしい声でダニエルは言って、そっと目を閉じた。
彼の横に何の気なしに寝転がることができなさそうで、カタリナは少し迷ってからほんのわずか、横たえられたダニエルの細い身体の方へと、彼よりももっと細く華奢な自分の身体を寄せた。吐息のようにも感じられる、人の持つぬくみに似た気配が彼に一番近いところから伝わった。
そうしてずいぶんと時間が経ってから、ぽつりとダニエルがでも知る前より俺は寂しくなったよ、と小さくこぼした。
「俺には、マムと同じものは絶対に聞こえないんだってわかって」
ふさわしい言葉を見つけられず、カタリナは途方に暮れた。痛いほどの夜の静寂が――あるいは静寂と思えるものが――耳を打つ。
不意にどうしてもダニエルに触れたくなって、泣き出しそうになりながら目を閉じたままの彼の指先に自分の指先をからめ、カタリナはわけもわからず言った。
「――大丈夫、私にも聞こえないから」
少女の手を、青年は振り払わなかった。
「うん、」
ほころぶようにうっすらと開かれたダークブラウンのまなざしが、月の光でもっと甘い、不思議な琥珀色に見えた。
「そうだな。お前にも聞こえないな、きっと」
ニュージャージーの夜は、ただ静かだった。
「マム、何の話? 何も聞こえないよ」
ダニエルはすげなく言い放ったが、父の方は妻のなんというか、激しい気性を知っていたのでもう少し慎重だった。
「僕らには聞こえないんだが、どうなんだろう。遠くで鳴いているのかもしれない」
リサは不満そうに何事か言い返そうとしたが、ニコラスの加勢を得た息子はちょっと調子に乗って、大体、としてはならない口答えをした。
「『虫の声』ってなんだよ。虫が歌うなんて鳥じゃあるまいしさ、おかしいよ。どうかしてんじゃないの、マム」
まずいと思ったのかニコラスはあわててダニエルの口をふさごうとしたが、「ダニー!」とリサが怒り狂う方が早かった。
ヒロイ家の絶対権力者に、哀れな臣民がひれ伏して「ごめんなさい、もう言いません」と悔し涙を流したのは、ニコラスの制止も空しくリサがダニエルの頭をぽかりと一発やった後のことだった。
「――でもマムは正しかったんだ」
ふふふと笑う青年は子どもめいて靴を脱ぎ捨てた素足を冷たい芝生で遊ばせていて、暗がりの中、そのギャップがカタリナの心臓をとくんと少しだけ早くさせた。こんなふうに思うのは、きっと満月が煌々として空高くに上っているせいだ。こんな夜には誰だって、ちょっとはおかしくなる。
正しかったって、と小首をかしげてみせると、いつになく上機嫌のダニエルは日本人には、とけれど少し寂しそうに言った。
「虫は――虫ったって、蚊とか蜂とか、ああいうのじゃない――『歌っ』てるように聞こえるらしいんだ。りーんりーんとか、ちんちろちんちろとか」
その虫の「声」だけぎこちのない日本語のアクセントで言ってみせると、ダニエルは芝生の中にどさりと身をうずもれさせた。青草の倒れた、えぐいような香りがした。
「ウエストポイントに入ってから、何かの本で読んだ。日本語が母語だと虫の『声』が聞こえて、それ以外の言葉が母語だと雑音にしか聞こえないか、何も聞こえないって」
「おもしろいね。初めて知った」
うん、とやさしい声でダニエルは言って、そっと目を閉じた。
彼の横に何の気なしに寝転がることができなさそうで、カタリナは少し迷ってからほんのわずか、横たえられたダニエルの細い身体の方へと、彼よりももっと細く華奢な自分の身体を寄せた。吐息のようにも感じられる、人の持つぬくみに似た気配が彼に一番近いところから伝わった。
そうしてずいぶんと時間が経ってから、ぽつりとダニエルがでも知る前より俺は寂しくなったよ、と小さくこぼした。
「俺には、マムと同じものは絶対に聞こえないんだってわかって」
ふさわしい言葉を見つけられず、カタリナは途方に暮れた。痛いほどの夜の静寂が――あるいは静寂と思えるものが――耳を打つ。
不意にどうしてもダニエルに触れたくなって、泣き出しそうになりながら目を閉じたままの彼の指先に自分の指先をからめ、カタリナはわけもわからず言った。
「――大丈夫、私にも聞こえないから」
少女の手を、青年は振り払わなかった。
「うん、」
ほころぶようにうっすらと開かれたダークブラウンのまなざしが、月の光でもっと甘い、不思議な琥珀色に見えた。
「そうだな。お前にも聞こえないな、きっと」
ニュージャージーの夜は、ただ静かだった。
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