薬を、と細い叫びが鼓膜を震わせ、わななく白い手がよろめいて空に伸ばされた。このあばら家のどこに薬などがあると言うのか――もはや夢と現の境が、彼女の中には存在しないのだろう。あるいはその手がつかもうとしているのは、薬などではなくもっとずっと彼女にふさわしいそれなのかもしれなかった。
ばたりと、手が落ちる。女は痛い、痛い、とか細く泣き、崩れた顔を晒すことを恥じるようにそっと力ない手で覆った。
ひとしきり、女が泣き止むのを待って、ふちの欠けた急須の吸い口を、ほんの一年前までは一吸い一両、とまで謳われた唇に押し当てる。ゆるく傾けて重湯を流し込んでやると、かすかに喉がうごめいて、それを飲み込んだ。最後に残った一握りの米を炊いて作ってやったものだった。
あばら家にはもう、金になりそうなものは何もない。女が持っていた着物だの簪だのは、ひとつずつ、一年間をかけて売られ、もっと現実的なもの――たとえば食物、あるいは薬――へと姿を変えていた。日の光が表からふわふわと差し込み、それでもなお薄暗い家には、湿気た薄い布団が一組と短いろうそくが一本、そして、そしてそう、女の矜持の明確な形たるものが、そればかりは売られることもなく残されていた。
「――、」
吸い口を口から離してやると、女が呼んだ。その囁きほどのかすかな空気の振動に合わせるように答えを返すと、此岸へと今一度舞い戻った女は言葉を続けた。
「モシエ、わっちの、――わっちの、…」
舌がもつれている。
「おうぎは、どこぞに、売っちまったンだろうネ――?」
ようやくのように薄く開かれた二つの目が、あらゆる欺瞞を暴くようにざらりと辺りを――横になったままで届くだけの世界を、舐め回す。無遠慮な視線がむしろ痛々しい。もはや優雅さと名づけられるような類のものを取り繕う余裕は、女にはなかった。
女が床についてより、彼女の代わりに、と肌身離さず持ち歩いていた扇を閉じたまま、その手に押し与えてやる。女は疑り深くものろのろと扇を開き、その白地に、ほんのひとさしの紅色で梅の花が描かれているのを見ると、あぁ、と安堵のような、嘆きのようなため息をこぼした。崩れた顔が歪み、女は笑んだ。
「ホンニ、おめぇさんは、うれしがらせをしてくれるわナ、三国一の箱廻したァ、おめぇさんのことに違いあるめぇよ」
つ、と女の目尻から涙があふれ、こめかみを伝った。それをぬぐってやる間もなく、つかれた、と吐息のようなかすれた声が言い、女は目を閉じた。
やがて、乱れていた呼吸が落ち着き、細くもおだやかなそれに変わった。女は眠ったようだった。
――あぁ、と男は声にならない歓喜の音を喉から漏らした。女の崩れた顔にわずか指先ばかりで触れながら、この誇り高い女の、おそらくはもう数日後か、あるいは数時間後にさえ迫った死を思う。病ゆえに打ち捨てられた女との暮らしは無論楽ではなくむしろ辛かったが、それでもその終わりを男は恐れた。今この瞬間に、時など止まってしまえば良いと思った。
いつの間にか、戸の隙間から荒れた家に差し込む光が、宵闇に明るく輝く蝋燭や提灯の橙色になっていた。女はふと目を覚まし、正気めいた表情で男を見上げて小さく笑った。
「おめぇさんは、三つ四つの子ォじゃアあるめぇに、大の男が泣くンじゃアねえわナ」
女は扇をそっと枕元にやり、ふらふらと両手を男の頬に添えた。そうとは知らぬ間にこぼれていたらしい涙を、女の白魚のような指先がぬぐう。その力ないしぐさに、また涙が落ちた。
それはさながら夢のような、あるいは奇跡のような一瞬でさえあった。有り得たはずのない現実に、男は慄いた。女に触れることなど、かつては思いも及ばなかった。
表で、名の知れない鳥がギャア、と喚いた。日は沈みかけ、間近な女の顔さえももはや見えないまでになっていたが、そのおだやかであった表情が途端、ねじれるように引きつったことだけは瞬間的にわかった。ヒイ、とけだもののような悲鳴を喉からあふれさせ、女は彼女に残された力のすべてで男を押し退け、突き飛ばした。
男は、無論弱った女に好きにされるほどにやわではなかった。だがそうされてやらなければならないような気がして、ささくれた畳の上をいざり、布団から離れた壁際で手足を投げ出して座り込んだ。涙はこぼれず、ただ遠い違う世界の景色を眺めるように、女の壊れゆく様を見つめた。
痛い、と女は叫んだ。幼い子どものように握り拳で布団を叩き、傍に置き放しになっていた急須を壁に投げつけた。瀬戸物の割れる音に、またヒイ、と悲鳴を上げる。
「薬を、――薬を!」
女は男をまるで目に映さず、そのくせ男の名を呼び叫んで何故いないのかと罵り、己の髪を掻き毟り、悔しさに耐えぬふうに布団を噛み、引き裂いた。投げられた枕は男の足にぶつかった。
辺りのものをひとしきり投げ尽くし、女が最後に手にしたものは白い扇だった。女は手を振り上げ、それさえも、その矜持さえも一瞬投げつけようとしたが、どうした気まぐれか、手を下ろし、探り見るように扇を頬に押し当て、はらはらと涙を流して泣いた。
男はきちんとその様子を見ていた。女は正気づいたように見えた。男は今一声、何かしらの言葉を女にかけようとした。
「姐さ、」
瞬間、女はさらばえた身体からひとかけらの力さえも使い果たし、ど、と布団にくずおれた。男はひゅ、と息を飲み、女に手を伸ばしかけたまま、しばし身動きできずにいた。女は、その扇を握り締めた手さえ、ちらとも動かない。女は彼岸へ向かったのだった。
それから男は己が手を引き戻し、静かに両手を合わせた。
ばたりと、手が落ちる。女は痛い、痛い、とか細く泣き、崩れた顔を晒すことを恥じるようにそっと力ない手で覆った。
ひとしきり、女が泣き止むのを待って、ふちの欠けた急須の吸い口を、ほんの一年前までは一吸い一両、とまで謳われた唇に押し当てる。ゆるく傾けて重湯を流し込んでやると、かすかに喉がうごめいて、それを飲み込んだ。最後に残った一握りの米を炊いて作ってやったものだった。
あばら家にはもう、金になりそうなものは何もない。女が持っていた着物だの簪だのは、ひとつずつ、一年間をかけて売られ、もっと現実的なもの――たとえば食物、あるいは薬――へと姿を変えていた。日の光が表からふわふわと差し込み、それでもなお薄暗い家には、湿気た薄い布団が一組と短いろうそくが一本、そして、そしてそう、女の矜持の明確な形たるものが、そればかりは売られることもなく残されていた。
「――、」
吸い口を口から離してやると、女が呼んだ。その囁きほどのかすかな空気の振動に合わせるように答えを返すと、此岸へと今一度舞い戻った女は言葉を続けた。
「モシエ、わっちの、――わっちの、…」
舌がもつれている。
「おうぎは、どこぞに、売っちまったンだろうネ――?」
ようやくのように薄く開かれた二つの目が、あらゆる欺瞞を暴くようにざらりと辺りを――横になったままで届くだけの世界を、舐め回す。無遠慮な視線がむしろ痛々しい。もはや優雅さと名づけられるような類のものを取り繕う余裕は、女にはなかった。
女が床についてより、彼女の代わりに、と肌身離さず持ち歩いていた扇を閉じたまま、その手に押し与えてやる。女は疑り深くものろのろと扇を開き、その白地に、ほんのひとさしの紅色で梅の花が描かれているのを見ると、あぁ、と安堵のような、嘆きのようなため息をこぼした。崩れた顔が歪み、女は笑んだ。
「ホンニ、おめぇさんは、うれしがらせをしてくれるわナ、三国一の箱廻したァ、おめぇさんのことに違いあるめぇよ」
つ、と女の目尻から涙があふれ、こめかみを伝った。それをぬぐってやる間もなく、つかれた、と吐息のようなかすれた声が言い、女は目を閉じた。
やがて、乱れていた呼吸が落ち着き、細くもおだやかなそれに変わった。女は眠ったようだった。
――あぁ、と男は声にならない歓喜の音を喉から漏らした。女の崩れた顔にわずか指先ばかりで触れながら、この誇り高い女の、おそらくはもう数日後か、あるいは数時間後にさえ迫った死を思う。病ゆえに打ち捨てられた女との暮らしは無論楽ではなくむしろ辛かったが、それでもその終わりを男は恐れた。今この瞬間に、時など止まってしまえば良いと思った。
いつの間にか、戸の隙間から荒れた家に差し込む光が、宵闇に明るく輝く蝋燭や提灯の橙色になっていた。女はふと目を覚まし、正気めいた表情で男を見上げて小さく笑った。
「おめぇさんは、三つ四つの子ォじゃアあるめぇに、大の男が泣くンじゃアねえわナ」
女は扇をそっと枕元にやり、ふらふらと両手を男の頬に添えた。そうとは知らぬ間にこぼれていたらしい涙を、女の白魚のような指先がぬぐう。その力ないしぐさに、また涙が落ちた。
それはさながら夢のような、あるいは奇跡のような一瞬でさえあった。有り得たはずのない現実に、男は慄いた。女に触れることなど、かつては思いも及ばなかった。
表で、名の知れない鳥がギャア、と喚いた。日は沈みかけ、間近な女の顔さえももはや見えないまでになっていたが、そのおだやかであった表情が途端、ねじれるように引きつったことだけは瞬間的にわかった。ヒイ、とけだもののような悲鳴を喉からあふれさせ、女は彼女に残された力のすべてで男を押し退け、突き飛ばした。
男は、無論弱った女に好きにされるほどにやわではなかった。だがそうされてやらなければならないような気がして、ささくれた畳の上をいざり、布団から離れた壁際で手足を投げ出して座り込んだ。涙はこぼれず、ただ遠い違う世界の景色を眺めるように、女の壊れゆく様を見つめた。
痛い、と女は叫んだ。幼い子どものように握り拳で布団を叩き、傍に置き放しになっていた急須を壁に投げつけた。瀬戸物の割れる音に、またヒイ、と悲鳴を上げる。
「薬を、――薬を!」
女は男をまるで目に映さず、そのくせ男の名を呼び叫んで何故いないのかと罵り、己の髪を掻き毟り、悔しさに耐えぬふうに布団を噛み、引き裂いた。投げられた枕は男の足にぶつかった。
辺りのものをひとしきり投げ尽くし、女が最後に手にしたものは白い扇だった。女は手を振り上げ、それさえも、その矜持さえも一瞬投げつけようとしたが、どうした気まぐれか、手を下ろし、探り見るように扇を頬に押し当て、はらはらと涙を流して泣いた。
男はきちんとその様子を見ていた。女は正気づいたように見えた。男は今一声、何かしらの言葉を女にかけようとした。
「姐さ、」
瞬間、女はさらばえた身体からひとかけらの力さえも使い果たし、ど、と布団にくずおれた。男はひゅ、と息を飲み、女に手を伸ばしかけたまま、しばし身動きできずにいた。女は、その扇を握り締めた手さえ、ちらとも動かない。女は彼岸へ向かったのだった。
それから男は己が手を引き戻し、静かに両手を合わせた。
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