煮え立つスープの底からもがいて浮かび上がるように、意識をふと取りもどした。手足が馬鹿に冷たい。誰かかけるものを、と不機嫌にうめくが、家のメイドは気の利かない馬鹿な娘で、その程度で女主人の要望を聞き届けてくれるはずもない。仕方がない、と縫い付けられたように言うことを聞いてくれないまぶたをどうにか押し開くと、そこは数ヶ月でようやく見慣れた新居の天井ではなく、ぞっとするほどに清潔な、病院めいて白いそれだった。
 え、と困惑しながら身を起こすと、彼女が身につけていたそれは寝巻きでもお気に入りの若草色のドレスでもなく、馬鹿にしているのかと思うほどにそっけない、真っ白なドレスだった。コルセットは、とあわてて確かめると、どこの誰だかは知らないが、そこまで厚顔無恥な輩ではなかったらしい。
 ともかく今この瞬間の身の安全を確かめると、どこか天の高い場所に預けられていた記憶が、どっと降り注いできた。ここが自宅であるはずはない。だって自分は、……自分と夫は、新婚旅行中だったのだから。
 だが身を横たえていたのはホテルのものとは似ても似つかない硬いベッドで、それは独房めいたこの部屋の壁際にぴったりと寄せられていた。ドアがひとつと、窓がひとつ。どちらにも鉄格子がはめられていて、彼女は以前、錯乱した友人を見舞いに行った病院を思い出した――つ、と背筋に冷たいものが這いずる。知らない内に自分は発狂でもしていたのだろうか。
「待って、待って……わたしは正常よ! どこからどう見たって!」
 青ざめてひとり叫んだその時、かちり、とドアの鍵が外される小さな音がして、鉄格子の向こうに女の顔が覗いた。恐ろしいほどに無表情な青白い顔をした、虚ろな目の色の女だった。否定したくてたまらない病院の文字が、彼女の頭をまた過ぎる。
 女は重たげな鉄のドアを軋ませながらなんとか開き、一歩、部屋の中に足を踏み入れた。彼女が着ているものと寸分違わない白いドレスの裾がゆらりと揺れて、血の気のない爪先がちらとのぞいた。看護人の付き添いがない。結い上げられもしない長い黒髪が不気味でたまらない。彼女はひ、と喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
 女はすうと両手を広げて、ぱたぱたと二三度のまばたきをした。
「ようこそ、『研究所』へ。歓迎するよ、同胞」
 女の薄い唇からこぼれた声は、耳に心地良いアルトだった。そうしておどろくべきことに、それは理性の響きを持っていた。予想外の音に、彼女はおどろいて目を見開いた。
 もっとも、と男がするように皮肉げに唇をゆがめて、女はぱたりと両手を身体の両脇に落とした。うつむきぎみに軽く伏せられたその表情は、彼女からはよく見えなかった。
「――死んだ方がましだったけれどね」

 一の魔女、と呼ばれていた女が、誰より愛した男を目の前で失ったのだと、聞いたのはもっとずっと後のことだった。

コメント