おめぇの見送りなんかい行けねぇよ、と父は言い、母は黙って戸口の所で握り飯の弁当を持たせてくれた。一番上の弟でさえ尋常の四年生、一番下は矢張り弟で、未だやっと手を引いてやって歩ける様になったばかり。そんな二人を入れて合計四人の弟妹達は、朝から桑を刈りに行けと、鎌と籠を持たされて何処かへやられていた。彼らは皆長兄に懐いていて、これからあにさんは遠い所へ行って暮らすのだ等と聞かせたら揃って泣き喚くに違いなかったから、それはきっと両親の思いやりだったのだろう。
 君は賢い子だ、もっと勉強しなさい、と言って学費の負担を申し出てくれた未だ若い教師の、ペン胼胝の出来た手を握ってただ街の駅への長い長い道程を歩く。これは俺んとこのでぇじな上のおとこしだ、来年からは畑の仕事をさせる、と顔を真っ赤にして怒鳴る父に、どうか中学に行かしてやって下さいと土間に土下座をしさえしたあの強情な面影は今はなく、ちらりと隣を行く彼を見上げても、村の他の大人達とは一線を画した、静かに理知的な痩せた顔があるばかりだった。
 せんせえよぅ、と風呂敷包みの握り飯を妙に意識しながら声をかけると、うん、と教師はこちらを向いた。彼は、少し微笑んでいるようにも見えたが、もしもそうなのだとすればそれは苦しそうな笑顔だった。
「俺んち、ど貧乏です。せんせえに借りた金も、いつ返せるか、返せないかもわかんねぇ」
 相槌を打つでもなしに、ただ教師は黙って耳を傾けていた。
「――それでいいんかな? 俺、せんせえに金借りて、弟と妹と働かして中学行って、でもきっと高校は行けねぇ」
 学費が幾らなのかも教師の月給が幾らなのかも知らなかった。だけれどそれでもようやく一人前になりかけた男手が百姓家から一人減ることが家族にとって酷い負担になることは間違いなく、去年街から嫁を貰った教師の生活が切迫することもどうやら子どもの浅慮ではないように思えた。
 賢いと褒められることは嬉しかった。もっと勉強したいと思ったのも事実だった。だが降って沸いた学費負担の申し出に狂喜した後に見えた生活と言う名の現実は、尋常を出たばかりの少年の目にまざまざと映し出されて希望を苛んでいた。
 彼の一歩後ろで、下げた風呂敷包みを手が白くなる程に握り締めた子どもを、教師はあの苦しげな微笑みと共に見つめた。あたかも、そうした生真面目な性格がもたらす葛藤は予想していたとでも言いたげに。
「――僕の家は、日野で梨を育てていてね」
 師範学校時代に矯正でもしたのだろうか、教師の喋る言葉はいつも村では聞き慣れない、山の手の言葉だった。ただ、僅かばかりそこに残る泥臭いアクセントを、子ども達は殊の外笑い、それでいながら好いていたけれども。
「僕の中学の学費は、矢っ張り家では出なかったから、親戚が出してくれた。両親も君の父上の様に嫌がった」
 でも、と教師は不意に微笑みを顔から消した。
「そうやって学校に行ったから、今僕は君を中学にやってあげることも出来るし、両親に仕送りも出来る」
 僕が言えるのはそれぎりだよ、と教師は言い、またあの苦しそうな微笑みを顔に呼び戻して、昼餉にしようかと道の脇の大きな石に腰を下ろした。並んで石の上に腰掛け、風呂敷と竹の皮に包まれた大きくて不細工で塩の味しかしない握り飯を喉の奥に押し込む――ゆっくり咀嚼すること等出来そうになかった。そうしてしまえば泣いてしまいそうだった。おとこしは泣くもんじゃねえ、と父は言ったのだ。
 せんせえよぅ、と正月にしか見たことのなかった白米だけの握り飯を哀しく思いながら言った。
「俺、高師に行く。そいで、せんせえになって皆んなに仕送りしてやりてぇ」
 ぼろりとどうしようもなく零れた涙と一緒に最後の飯粒を飲み込んだ健一に、教師はうん、とだけ言いながら、水筒の水を差し出した。

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