ある原風景がある。そこへ帰るつもりは、ひとつもない。
 あるひとがいる。そのひとの元へ、いつでも帰りたい。

 思春期を抜けるよりも早く使わなくなってしまった言葉を、二十歳を前にしてなお忘れていないというのは、ある種の僥倖なのだろう。それとも養父の教育のたまものだろうか。そういえば、日ごろ使わないものも多いだろうに、彼は一度習得した言語を二度と忘れはしなかった。
 ただ、彼女にかぎって言えば、いっそ忘れてしまいたいと思ったことは何度もあった。生まれた国の言葉を忘れることで育った国の青年に寄り添えるのならば、支払うべき代価は安価とすら思えた。
 だけれど養父は言うのだ。故国の言葉を忘れてはならないと。それは保険であり、武器なのだからと。
「それを忘れないかぎり、お前には帰る場所があるんだ」
 ――帰るつもりなどないと言えば、ずっと、いつか本当の家族になるそのもっと先の日までも、ここに住まわせてくれるのか。ここを『帰る場所』にさせてくれるのか。故国を忘れさせてくれるのか。
 ああ、認めよう。たしかに彼女は愛していた。遠く海をはさんだ向こうの国、両親が眠るあの場所を。初めて青年と出会った場所を。今でもそこにある風景をありありと思い出せるのが、その証拠だ。
 だがだからといって、『愛している』は『帰りたい』とイコールではない。なぜなら帰りたい場所を見つけてしまった。あなたの傍に。
 かつて話していた言葉を忘れれば、あの原風景も消え去るのだろうか。それとも原風景を消してしまえば、言葉も忘れられるのだろうか。どちらが先ともとれない疑問は、結局答えを見つけることができない。だから彼女は、忘れさせてと願いながら、今日も思う。
 帰るつもりはひとつもない。あなたの元へ帰りたいから。

 忘れたい、忘れさせてと拘泥することこそを、人は望郷と呼ぶのかもしれないけれど。

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