海を見たことがないと、女は言う。
「どのくらい大きいのかな……水が塩辛いなんてのもちょっと想像できない」
くくくと機嫌がよさそうに小さな笑いをこぼしながら、彼女は腕をゆるりと空中へのばす。そこに海があるのだとでも言いたげなしぐさだった。彼は静かにタバコをふかしながら――情事後の一服というのはおどろくほど美味い――、ちらりと女の緩慢な動きを見やった。
酸いも甘いも噛み分けた年ごろでしかも慣れた仲だから、女はいまさら自分に、した後にキスをしろだのタバコはやめろだのということは言わない。そもそも一仕事終えた後の男という生き物に、そういうことをしろとねだる方が間違っている。この女はそれを知っている。だからいい。だからせめて、女がだらだらと続ける他愛のない話に、乗ってやる気にもなる。
「見たことあるか、海って」
「生まれは、海の傍だった。気候のいい場所だ。魚がよく釣れた」
淡々と告げると、女は初耳だ、と身をすり寄せてきた。もっと聞かせろ、と言いたいのだろう。そういえば、長年の付き合いだが故郷の話など一度もしたことがなかった。
「港がある。船が二日か三日に一隻は入ってきた……国内貿易用の商船だ」
短くなってきていたタバコを灰皿に押しつけて消し、話し続けながら彼は明かりを落とすと、毛布とキルトをめくって身体を入れた。ベッドは、女の体温であたためられていた。すかさず女の腕がのびてきて、彼の腕をからめとる。不思議なことに、と彼は言った。いつになくしゃべりすぎていると感じた。
「船は『彼女』と呼ばれていた。……出てゆく方が女だ」
「それで待ってる方の港は男か? できすぎてないかなぁ」
できすぎだが正解だ。彼は暗闇につぶやいた。
すべての女がそうだとは言わない。また、すべての男がそうだとも言わない。ただ、彼と彼女に関して言えば、かつて彼女は彼の知らないどこかへと行ってしまい、彼は待っているという自覚もないままに彼女を待った。三年間。出航した『彼女』の中にはもう二度と『彼』の元を訪れないものもあったから、この女がもどってきたことはまずまず思いがけない幸運なのだろう。
くつり、とのどを鳴らして笑うと、女はどうした、ととろとろした声音で問うてきた。もう眠いのだろう。思いの外長く考え込んでいたようだ。彼はもう寝ろ、と彼女の肩を叩いた。
港はいつでも、船を迎え入れるためにだけそこにある。
「どのくらい大きいのかな……水が塩辛いなんてのもちょっと想像できない」
くくくと機嫌がよさそうに小さな笑いをこぼしながら、彼女は腕をゆるりと空中へのばす。そこに海があるのだとでも言いたげなしぐさだった。彼は静かにタバコをふかしながら――情事後の一服というのはおどろくほど美味い――、ちらりと女の緩慢な動きを見やった。
酸いも甘いも噛み分けた年ごろでしかも慣れた仲だから、女はいまさら自分に、した後にキスをしろだのタバコはやめろだのということは言わない。そもそも一仕事終えた後の男という生き物に、そういうことをしろとねだる方が間違っている。この女はそれを知っている。だからいい。だからせめて、女がだらだらと続ける他愛のない話に、乗ってやる気にもなる。
「見たことあるか、海って」
「生まれは、海の傍だった。気候のいい場所だ。魚がよく釣れた」
淡々と告げると、女は初耳だ、と身をすり寄せてきた。もっと聞かせろ、と言いたいのだろう。そういえば、長年の付き合いだが故郷の話など一度もしたことがなかった。
「港がある。船が二日か三日に一隻は入ってきた……国内貿易用の商船だ」
短くなってきていたタバコを灰皿に押しつけて消し、話し続けながら彼は明かりを落とすと、毛布とキルトをめくって身体を入れた。ベッドは、女の体温であたためられていた。すかさず女の腕がのびてきて、彼の腕をからめとる。不思議なことに、と彼は言った。いつになくしゃべりすぎていると感じた。
「船は『彼女』と呼ばれていた。……出てゆく方が女だ」
「それで待ってる方の港は男か? できすぎてないかなぁ」
できすぎだが正解だ。彼は暗闇につぶやいた。
すべての女がそうだとは言わない。また、すべての男がそうだとも言わない。ただ、彼と彼女に関して言えば、かつて彼女は彼の知らないどこかへと行ってしまい、彼は待っているという自覚もないままに彼女を待った。三年間。出航した『彼女』の中にはもう二度と『彼』の元を訪れないものもあったから、この女がもどってきたことはまずまず思いがけない幸運なのだろう。
くつり、とのどを鳴らして笑うと、女はどうした、ととろとろした声音で問うてきた。もう眠いのだろう。思いの外長く考え込んでいたようだ。彼はもう寝ろ、と彼女の肩を叩いた。
港はいつでも、船を迎え入れるためにだけそこにある。
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