遠い国にいる男からの手紙を、彼女はとっさに視線から外した。
 帰りたい。それは、許されないことだ。

 たくさんのダイレクトメールにまぎれて、その日彼女の家のポストには、一通の封書が入っていた。表書きにはたしかに彼女の住所と名前、そしてAir-Mailの文字が見える。そこまで来れば彼女には、もはや裏側を見なくとも差出人の予想がついた。今は仕事で遠い国に行っている、同僚の男からの手紙だ。
 いつもは手軽にEメールで済ませるくせに、めずらしいこともあるものだと妙に感心して、彼女はその手紙をバッグにつっこんだ。この場で開封している暇はない。今朝は少しばかり、忙しいのだ。
 シボレーのエンジンを吹かし、マンハッタン島に渡ってオフィスにすべりこみ、早朝のミーティングを終えてようやくデスクにつく。そのころには少し時間もできていて、彼女はようやくバッグの中の手紙を思い出した。周囲を見回し、今日はそれほど忙しくもなさそうだということを確認してから、ペーパーナイフでていねいに封を切る。
 てっきり数枚にわたる文章を予測していた彼女は、しかし推測を裏切られることとなった。封筒の中には小さな紙切れが、一枚ひらりと入っていたきりだった。なにか嫌な予感がする。彼女は眉をひそめて、その紙切れをつまみあげた。
 ――帰りたい。
 署名もなく、他に伝えるべきことなどなにひとつとして持ち合わせていないかのように、ただ紙にはそれきりが書かれていた。帰りたい、おそらく唯一の願いが。
 不意にめまいを感じ、彼女は額を押さえた。帰りたい、そんなことは国から離れれば、誰でも願うことだ。だがこと男に関して言えば、今までそんな泣き言を一度も聞いたことがなかった。
 なにかがあったというのだろうか。だけれども、
「どうにもならないわよ……」
 自分にはなにひとつとしてできることがない。男を呼び戻すことも、帰りたい、ここは辛いと嘆く心を抱きしめてやることも。
 ただ、たったひとつこの国から男にしてやれることと言えば。
 きゅ、と唇をかみしめて、彼女はペン立てから万年筆を取り上げ、デスクの引き出しから封筒と上質な便せんを出した。署名もなにもなく、男のように、ただ伝えたい言葉だけをひとつ、そこに記す。
 ――泣かないで、待ってるから。

 無力な自分が、ひどく歯痒かった。

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