愛しているなんて陳腐な言葉では、いっそ彼女への冒涜になる。正しい言葉が見つからない。だからいつも、伝えるべきたったひとつの想いは、胸の中にだけ落ちる。

 石畳の上をもぞもぞと、名前も知らない虫が這っている。なんの気まぐれか腕さえ突き出せないような鉄格子の隙間から入り込んで、その虫はもう軽く一日はここにいる。それがわかるのは、虫が彼の視界内から出ていこうとしないからだ。
 もっとも彼は確かに虫を目に留めてはいたが、それが思考になんらかの影響を与えているかと言えば、まったくそうではなかった。彼はもっと別のことを考えていた――美しく聡明で、高貴なひと。
 遠いひとだった。どうしたらこの気持ちを伝えられるのだろう、いや伝えるべきではないのかもしれないと、何度も思った。それならば黙ってあのひとの傍にいること、あのひとの剣となり盾となること以上に、なにをすればいいのだろう。
 ――ちがう男を傍に従えて、誇り高く、いっそ傲然と微笑む彼女を見た。
 どうすれば自分はあんなふうにあのひとの背後に立てるだろうか。そのためならなんでもしようと思うが、方法がちっともわからない。
 ――俺が、俺だから。
 だから無理なのだろう。自分のなにが悪いのではない、ただ自分という存在それ故に、この願いはきっと一生叶うことがない。そう定められている。
 気づき、それでもかまわないと思った。それでもかまわない。傍にいること、剣となり盾となること叶わぬなら、せめて遠くで貴女を見守り、影にひそんで貴女に徒なすものを食い殺す獣になろう。だから、そんな俺でもいい、どんな形であれ、『俺が』必要だと言ってくれ。
 そう、願っていた。

 虫が、一体何十時間ぶりだろう、飛び立って出ていった。彼はひとり残され、ごとりと石畳の上に横になった。ベッドに入る気にはなれなかった。冷ややかな無機質の感触を肌に感じ、薄く笑う。
 おそらくは多少なりともこちらを想っていてくれたのだろう、あらゆる命の危険から、その一度うばわれ、取りもどした力でもって自分を遠ざけてくれていた、あのひとは。この身が抱える罪が露見してからは、視線のひとつ、命令のひとつもくれはしなかったけれど。
 耐えられたのに――むしろ耐えるなどという言葉でなく、それ以上に高尚な言葉にすら換えられるほど、貴女が望むのならこの身を差し出したのに。
 だが、あのひとには伝わらなかった。自分は伝えることなどできなかった。声をかけることなど、おこがましかったから。だから使い道のないこの身体は、せめてものつぐないにかつての主の命をうばって、今貴女に自分の首もろとも差し出そうとしている。
 いまさらなにかを伝えておきたいとは思わない。そもそも言葉などではこの気持ちを伝えられない。だから黙って死んでゆく――今まで黙って生きてきたように。
 目を閉じて、はるかなひとの、遠目に垣間見た美しい横顔を思った。

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