――首をしめようと手を伸ばし、そうしてそこで背後から呼びかけられて、だからというわけでもないのだが振り返って笑った。そこにいた人が、とても――ひょっとしたら妹よりも――大切な人だったからだ。
「やぁ……おはよ」
 軽く手を上げて言うと、彼女はきゅっと眉をひそめたようだった。

 「結局、なにがしたいの?」
 わざわざ妹の前から引きずってきて、だれも近付かない、けれども自分たちにとってはほとんど庭同然の森の中、香月はそう氷河を問い質した。きつく釣り上がった目尻と言い、弾劾するようなその口調と言い、まるで彼女は正義の女神のようだ――そんなことを、ぼんやりと考える。
 そんなことをしていたから、とっさに質問に答えることができなかった。あぁ、とかうん、とか胡乱な返事をして、それであわてて「――なんだって?」と問い返すと、香月はますます眉をひそめた。というより、今や顔をしかめている。それでも、彼女は気のいい、親切な女だった。
「だから、なにがしたいの? ひょっとして寝ぼけてる?」
「いや、寝ぼけてはないけど、」
 のろのろと視線を地面や木々のあちこちに這わせながら、ぽつぽつと答える。
 すると香月は、これは腰を落ち着けて聞き出さなければ無理だと思ったのだろうか、あっさりとその場に腰を下ろして、それから氷河を手招きしてみせた。どうやら隣に来いと言いたいらしい。彼は割合素直に、彼女のごく近くにぺたりと座った。
 しばらく二人とも、なにも言わなかった。氷河はあいかわらずぼんやりして草の上の小さな虫だの時々ひるがえる小鳥の姿だとかをながめていたし、その様子がパフォーマンスにすぎないと知っている香月はあえてなにも言おうとはしなかったからだ。だが、とうとう氷河がこぼした。
「手がさ」
「手? 氷河の?」
「うん、僕の。――きれいすぎるなぁと思って」
 ちらりと香月が覗いた青年の手は、たしかに爪の先まで清潔そうに見えたが、もちろん彼が物理的なことを言っているわけではないことは百も承知の上だった。ただ、習慣というやつだ。
「汚した方がいいっていうんじゃなくて、なんていうかな、汚してみたい…って言うかさ。ほら、そうすれば僕も――」
 相槌をもとめない独白はしばらく続き、ようやく氷河の口が止まった時には、すでに香月は彼の話をまともには聞いていなかった。この馬鹿な男には一言くれてやるだけでいい。それをきちんと知っていた。
「氷河はじゅうぶん汚いから、安心していいと思うけど?」
 そんなことを考える時点で腹黒い、と笑うと、彼は目をわずかに見開いて、それからとてもうれしそうに笑った。

 きれいな枠にはめられて身動きの取れない親友を、彼女だけがきちんと見ていてくれたことを、初めから知っていた。

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