膝を抱えてうずくまっている。抱きしめてくれる腕がない。
 おかあさん。

 暑くもなく涼しくもない、風の止んだなまぬるい日は、決まって馬鹿みたいな妙な夢を見る。記憶にも残っていない、子どものころのことだ。
 両親の離婚はひどくあっさりしていて、子ども心にもそんなに適当でいいのだろうかと思ったことがある。ただ、後々なんとなく理解はできた――二人は互いがきらいになったわけではなく、単にどうしてもゆずれない意見の相違があっただけなのだと。
 それでも母は生まれた国へと帰り、父は彼を可愛がってはくれたものの元から仕事への情熱が偏りぎみな人で、……つまるところ、子どもはひとりきりで残された。広い家にひとりきりで。
 幸い、と言えるのかどうかはわからないが、ともかく一年ほど後には養母が家にやってきたし、彼女は前の妻の置き土産にきちんと愛情を注いでくれた。だけれども、部屋のすみに膝を抱えてうずくまり、母の腕を求めてなにもない空間を見つめ続けた子どもには、あいにくとその愛情は遅すぎた。

 行為の後のわずかな眠りの最中にうなされる男を起こす度に、馬鹿な夢を見たと言う。なんの夢かと問うても答えてはくれない。ただあいまいに笑って、馬鹿な夢、とだけ繰り返す。
 まったく関係のない会話の中で一度だけ、冗談めかして欠乏症なのかも、と彼が言ったことがある。ビタミンが不足しているとか睡眠が不足しているとかいうのを話題にするのと同じレベルで、彼は愛情が不足している、とこぼした。
 冗談を真実と受け止めて、さらにそれを自分の中で憐れみという感情に昇華させるまで、それほど時間はかからなかった。その理由はわからない。ただ、ラベルを貼るのなら、『情愛』というそれが一番ふさわしいような気がしていた。
「今は不足してないでしょ?」
 そう微笑んで抱きしめたその日から、案の定男はうなされることがなくなった。代わりにまるで嬰児のように丸まって、一番手近なぬくもりにすがりつくようにして眠る。
 おかあさん、とわずか切なげに寝言をささやいた彼に、彼女はだいじょうぶ、と答え、寝ぼけた腕でそっと子どもを抱きしめた。

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