告別の日。

2004年7月20日 長編断片
 当たり前の一言を、言うことができなかった。

 アンタには世話になったから、とますます無表情かつ無口になった男は言って、風が吹けばそれだけで散ってしまいそうにはかない白い花を一輪差し出した。どうして、と思わずこぼせば、俺は城下で買い物ができないから知人にもらってきたのだと、的はずれな答えを返された。
 戦場に行くのだと聞いている。親征を決断した女王に、何もさせてはもらえないと知っていながらついてゆくのだと。
 ああ、ではこの男は、死ぬつもりなのだ。戦場という混乱した場所で、誰の目にも触れないまま、その首を女王に差し出そうとしている。――彼女がそれを望んでいないと、知っていながら。
「どうして……死のうとするんですか」
 わずかにそよぐ風にさえふるえる花を手に取らないまま、彼女はひたと男を見すえてそう問うた。見上げるほどではないにせよ、彼女にしてみればずいぶんと長身でたくましい男だ。
 そう、おそらく女王もこの視点で彼を見つめるのだろう。本来今ここにいて、この花を受け取らなければならないのは女王ではないかと思うのだが――男も、また女王も、それを自らに許しはしないはずだ。
「俺は、必要とされてないようだから。奴隷でも罪人でもなんでも、あの方が望むなら俺はなるが、」
 そういうことではなく、本当に必要とされていないようだから。ひとつの仕事も与えず、かといって人でなしと罵倒するでもない女王を、男は薄く笑ってそう評した。
 それはちがうと言いたかった。だって、知っていた。女王が遠目に男を見るだけで、どれほどうれしそうな――しかし同時に苦しそうな――顔をするかを、傍仕えの侍女だからこそ。あの貴い人に、あんな表情をさせる相手は、この男ひとりしかいないと言うのに。それだけで、彼は価値がある。
 ああ、だけれど彼の決意はゆらぐまい。もはや彼は死人の目をしている。彼女はあえぐように息をついて、男の手にふれないように白い花を受け取った。
「……どうぞ陛下をお守りください」
 深々と一礼すると、目の前の男はどこかうろたえたようだった。

 生きて帰ってくださいねとは言えなかった。そんな残酷なことを彼に言えるわけがない。何故と言って、彼の居場所は、ここにはないのだから。

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