女王がまだ少女だった時分から、同い年のごく親しい侍女として女王に仕えてきた彼女にしてみても、今回の命令はどうにも酔狂としか思えなかった。でなくばとうとう道を踏み外してしまったかのどちらかだ。
 だって、馬鹿げている。家族を殺し、自分を敵国へ拉致した張本人である男を、たとえ公の場で忠誠を誓ったからと言って、信用して自室に入れる許可を与えるなど。

 そんなことをつらつらと、しかも男の方を盗み見ながら考えていたせいだろう、手が滑ってカップを落としてしまった。いくら床は長毛のじゅうたんだからと言っても、繊細な造りの瀬戸物は落下の衝撃に、たやすく割れてしまった。
 あ、と小さくこぼれた悲鳴と、それからカップの割れた音を聞いたのだろう、ぼんやりと窓辺で庭園をながめていた男は、さっと振り向いた。心配そうに彼は歩み寄ってきたが、あわてて床にしゃがみこんだ彼女は、そのことには気づいていなかった。
 まったく、どうしていつもならしないようなミスをしてしまったのか。しかもこのカップは、たしか女王のお気に入りではなかったか。あとで女王に謝っておかなければ。そっと手首をつかまれたのは、その時だった。
 陶器の破片にふれかけた手を止められて、おどろいて顔を上げてみるとそこには男がいた。ごく近く、近すぎると思えるほどの距離に。
 ひくりとのどが引きつって、カップを落とした時よりもずっと大きな悲鳴を上げようとしたが、それより一瞬早く男がぽつりとつぶやいた。
「手に傷がつく。アンタはさわらない方がいい」
 そうしてそっけない言葉とは裏腹にやさしく彼女の手を押し退けて、常日ごろは剣や、あるいは銃を持つのだろう無骨な指先でカップのかけらを拾い始める。ひとつひとつ、ていねいに。
 呆然と男を見つめながら、なんなのだ、と彼女は自問を繰り返していた。この男は、なんなのだ。敵ではなかったのか、彼女の主たる女王を害する、許し難い存在ではなかったのか。
 ああ、だが。この宮廷に来てからというもの、この男はずっとこんな先入観のままに見られ、ひょっとして傷ついているのではあるまいか。そういえば以前よりもずっと、口を閉ざしているように思う――まだ彼の罪が明らかになる前は、何度か女王の傍で笑った顔も見たはずなのに。
 かわいそうな男だと思い、そうしてでは何故彼はここにいるのだろうと不思議に思った。疎まれるばかりの、祖国でさえない国に、何故。
 問いかけることはできないままに、彼女はそっと目を伏せた。

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