The widow.
2004年7月9日 長編断片 母上、とあどけない声で娘が問う。ねぇ母上、どうしてわたくしには父上がいらっしゃらないの?
娘が生まれて、六年が経つ。女王の治める国は年ごとに平和を増し、今では彼女の占める仕事はひどく少ない。それはつまり娘とこうして他愛のないお喋りをする時間が増えたということで、やはり平和はいいものだと女王はしみじみ考える。
「母上、きいてください。今日は生物の時間に、先生にほめていただきました」
春から市井の初等学校に通うようになった娘は、その日にあったことを何くれとなく――例えそれがどれほどつまらないものであったとしても――女王に報告する。女王もまた、娘の話を聞くことが好きだった。
王族の親子としてはめずらしく、娘の頭をなでてやったりしておだやかな時間を過ごすことしばし、不意に母上、と呼ばれ、女王は首をかしげてみせた。娘は女王には似ていない目の色で、じっと彼女の――母となってなお美しい――顔を見つめていた。
不思議なことに、年を経るごと、娘は伴侶として選ぶことのできなかった青年に似てゆくような気がする。どこがどう、というのではなく、ただなんとなく。
「どうしたのですか、アリス?」
奇妙に愛しい、それは娘に向けるものとは明らかにちがった感情を持てあましながら、女王は静かに先をうながした。
「どうしてわたくしには、父上がいらっしゃらないの?」
ぎくりと身体を強張らせ、女王は内心であえいだ――ああ、いつかこんな日が来ることを、知ってはいたけれど。
思い出すのは、一度として女王を名前で呼ぶことはなかった男のことだった。明確な階級の壁と、それ以上に険しく立ちはだかる罪という名の山を越えることを、彼はけして自らに許しはしなかった。臆病で善良な男は、それゆえ死んでいったのだ――たった独りで。
「――あなたの父上は」
ひとつ息をついて、娘の目をまっすぐに見すえる。
「とてもやさしい人でした」
幼い娘に伝えるためにそれ以上にふさわしい言葉を、女王は見つけだすことができなかった。
やさしい男だった。愚かな女に、嘘をつくこととそのあたたかさを教えてくれた。
ただ、と思う。どうせ嘘をつくのなら、最後まで自分の目を覆い隠した手のひらを、彼はどけるべきではなかった。
娘が生まれて、六年が経つ。女王の治める国は年ごとに平和を増し、今では彼女の占める仕事はひどく少ない。それはつまり娘とこうして他愛のないお喋りをする時間が増えたということで、やはり平和はいいものだと女王はしみじみ考える。
「母上、きいてください。今日は生物の時間に、先生にほめていただきました」
春から市井の初等学校に通うようになった娘は、その日にあったことを何くれとなく――例えそれがどれほどつまらないものであったとしても――女王に報告する。女王もまた、娘の話を聞くことが好きだった。
王族の親子としてはめずらしく、娘の頭をなでてやったりしておだやかな時間を過ごすことしばし、不意に母上、と呼ばれ、女王は首をかしげてみせた。娘は女王には似ていない目の色で、じっと彼女の――母となってなお美しい――顔を見つめていた。
不思議なことに、年を経るごと、娘は伴侶として選ぶことのできなかった青年に似てゆくような気がする。どこがどう、というのではなく、ただなんとなく。
「どうしたのですか、アリス?」
奇妙に愛しい、それは娘に向けるものとは明らかにちがった感情を持てあましながら、女王は静かに先をうながした。
「どうしてわたくしには、父上がいらっしゃらないの?」
ぎくりと身体を強張らせ、女王は内心であえいだ――ああ、いつかこんな日が来ることを、知ってはいたけれど。
思い出すのは、一度として女王を名前で呼ぶことはなかった男のことだった。明確な階級の壁と、それ以上に険しく立ちはだかる罪という名の山を越えることを、彼はけして自らに許しはしなかった。臆病で善良な男は、それゆえ死んでいったのだ――たった独りで。
「――あなたの父上は」
ひとつ息をついて、娘の目をまっすぐに見すえる。
「とてもやさしい人でした」
幼い娘に伝えるためにそれ以上にふさわしい言葉を、女王は見つけだすことができなかった。
やさしい男だった。愚かな女に、嘘をつくこととそのあたたかさを教えてくれた。
ただ、と思う。どうせ嘘をつくのなら、最後まで自分の目を覆い隠した手のひらを、彼はどけるべきではなかった。
コメント