待ってる、と彼は言った。だからまちがいなく、彼はそこにいるはずなのだ。

 ひとときたりとも保つことのできない薄らいだ記憶の中、どうしてか彼のことだけはあざやかに色を持ち続けている。もはやつかれきって役立たずになった肉体を抜け出して、まるで少年のころのように月の照らす道を走る間、だからずっと彼のことだけを考えていた。
 ――蒼河、
 妻よりも実の妹よりも強く親友を思っているなどと言ったら馬鹿にされるだろうけれど、事実そうなのだからしかたがない。
 何故と言って、女たちは強かった。物質的な力がではない。精神的に、彼女らは自分たち二人よりもずっと強く、ひとりきりでも生きていけるような存在だった。一緒にいたのは愛しかったからだが、死してなお束縛されることを、たとえそれが夫や兄であっても、彼女らは望まないはずだった。
 彼や自分はちがう。彼は自分から力を、自分は彼から自立心を、それぞれうばいとって生まれてきてしまったから、どちらかひとりきりではうまく生きてゆくことができなかった。馴れ合って傷付け合って、それでようやく立っている。死んでしまっても、その基本的なスタンスは変わるはずもない。
 ――蒼河、
 だから、ひとりで月に還ることなどできないから、待ってると。彼はそう言ったのだった。
 ――蒼河、
 月光に流されて飛んでゆきそうな意識をつなぎとめ、全速力で光の海を駆け抜ける。遙かかなたに求める人影を見つけた時は、だからとてもうれしかった。
「……蒼河」
 ごく静かに呼ぶと、ぼんやり膝を抱えてうずくまっていたそのちっぽけな魂は、のろのろ顔を上げて何度かまばたきをした。泣き出しそうにうるんだ赤い目がとてもきれいで、彼はこの甘えたがりで本当はだれよりも臆病なこの親友を、とても愛しく思った。
 一体何年、それとも何十年ここで待っていたのか、話すことも忘れてしまったようにこちらを見つめる親友に手を差し伸べた。
「蒼河、」
 ああ、けれどダメだ。彼は単に言葉を忘れているだけだけれど、自分は彼ほどに力あるものではないから、すでに声帯が音を出さない。想いの強さだけは自信があるけれど、それがなかったなら、一瞬で月の光に流されてしまっていてもおかしくはないのだ。
「羽水――」
 かすれた小さな声で、彼が自分を呼ぶ。そうして彼は立ち上がり、差し出した手をそっと取った。
 それはまるでからからに乾いた大地に、雨が降り注ぐような感覚だった。触れた彼の手から、土が水を吸収するように、自分は彼の力を共有させてもらった。
「蒼河、行こう。今度はちゃんとついてってやるから」
 分け合った力でそう言うと、分け合った勇気で、彼はうれしそうに笑ってうなずいた。

 約束を破られたことは何度も、それこそ数え切れないけれど、すがるようにつぶやく蒼河はいつだって感情に正直だった。

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