ひとときたりとも忘れたことのないものが、二つある。
もう一度目が見えるようになるかもしれない、と告げたら、たぶん男は目の前で笑ったのだろう、ほんの少し空気がゆれた。そうですか、とごく静かな声とともに、うかがうように指先が髪に触れてくる。
戦うことが生業の、荒れてざらつきごつごつしたその指が、とても好きだった。目が見えるようになることはたしかに嬉しいけれども、見えないからこそこんなふうに他の感覚で男を知ることもできるのだ。再び光を手に入れてしまったなら、視覚に頼って男の指を忘れてしまうかもしれなかった。
手探りで男の手をとり、その形をたどると、彼はとまどったようだった。ばれていないと思い込んでいるのだろうけれど、ほとんど無意識の内にぴくりとわなないた筋肉だけは、彼女をごまかすことはできない。
「――王女」
とがめるように、男が呼ぶ。
「王女、どうかお放しを。お戯れになりませんよう…」
「あなたが先にしかけたのでしょう」
大きな手のひらを小さな両手で包んでからかいぎみに言うと、男はほとんど逃げ出してしまいそうなくらいに緊張して、お許しくださいとかすれた声でささやいた。途中でその声がくぐもったところを見ると、彼は頭を垂れたようだった。
あんまりにも男が頼りない声を出すものだから、さすがに哀れに思って手を放してやった。けれどもう遅い。もはやその手の形を、指先のぬくもりを、すべて記憶に刻み込んでしまった。
ああ、でもいくら記憶したとは言え、やはり一番初めにこの目に入れるものは、彼であってほしい。ひとつお願いがあるのです、とねだれば、やさしい男は断りはしなかった。
「わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです」
彼は異国の男だから、まして敵国の女である自分の願いなど聞き入れなくともかまわないというのに、あきらめたように我が侭を受け入れてくれる。その、承知しましたとこまったように告げる声が、好きだった。
「――人殺し!」
その男と再び相見えることがあったなら、この絶叫だけで彼を殺してやろうと思っていたのだ。けれども興奮しすぎた声帯は、かすれたみっともない声しか出してはくれなかった。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
ああ、そうとも。忘れるわけがなかった。この目で最後に見た、両親と弟と、婚約者の青年までも殺した男の顔を、一体どこの愚か者が忘れてしまうと言うのだろう。
ふるえる指先を突き付けられた男は、憎たらしいことに笑んでいた。さながら暗殺者の存在に気づかなかった周囲と、動揺する彼女を嘲るかのように。
人殺し、と再び叫んだ時、暗殺者はすでに取り押さえられ、床に這い蹲っていた。それでもなお笑う男に、いっそ吐き気がした。
目が見えないから覚えた、愛しい男の手。
最後に見たものだから覚えた、憎い男の顔。
二つが表裏一体だったなど、知らなければ幸せだった。
もう一度目が見えるようになるかもしれない、と告げたら、たぶん男は目の前で笑ったのだろう、ほんの少し空気がゆれた。そうですか、とごく静かな声とともに、うかがうように指先が髪に触れてくる。
戦うことが生業の、荒れてざらつきごつごつしたその指が、とても好きだった。目が見えるようになることはたしかに嬉しいけれども、見えないからこそこんなふうに他の感覚で男を知ることもできるのだ。再び光を手に入れてしまったなら、視覚に頼って男の指を忘れてしまうかもしれなかった。
手探りで男の手をとり、その形をたどると、彼はとまどったようだった。ばれていないと思い込んでいるのだろうけれど、ほとんど無意識の内にぴくりとわなないた筋肉だけは、彼女をごまかすことはできない。
「――王女」
とがめるように、男が呼ぶ。
「王女、どうかお放しを。お戯れになりませんよう…」
「あなたが先にしかけたのでしょう」
大きな手のひらを小さな両手で包んでからかいぎみに言うと、男はほとんど逃げ出してしまいそうなくらいに緊張して、お許しくださいとかすれた声でささやいた。途中でその声がくぐもったところを見ると、彼は頭を垂れたようだった。
あんまりにも男が頼りない声を出すものだから、さすがに哀れに思って手を放してやった。けれどもう遅い。もはやその手の形を、指先のぬくもりを、すべて記憶に刻み込んでしまった。
ああ、でもいくら記憶したとは言え、やはり一番初めにこの目に入れるものは、彼であってほしい。ひとつお願いがあるのです、とねだれば、やさしい男は断りはしなかった。
「わたくしの初めて見るものは、あなたがいいのです」
彼は異国の男だから、まして敵国の女である自分の願いなど聞き入れなくともかまわないというのに、あきらめたように我が侭を受け入れてくれる。その、承知しましたとこまったように告げる声が、好きだった。
「――人殺し!」
その男と再び相見えることがあったなら、この絶叫だけで彼を殺してやろうと思っていたのだ。けれども興奮しすぎた声帯は、かすれたみっともない声しか出してはくれなかった。
「わたくしは――忘れません。あなたが殺した、わたくしの家族を!」
ああ、そうとも。忘れるわけがなかった。この目で最後に見た、両親と弟と、婚約者の青年までも殺した男の顔を、一体どこの愚か者が忘れてしまうと言うのだろう。
ふるえる指先を突き付けられた男は、憎たらしいことに笑んでいた。さながら暗殺者の存在に気づかなかった周囲と、動揺する彼女を嘲るかのように。
人殺し、と再び叫んだ時、暗殺者はすでに取り押さえられ、床に這い蹲っていた。それでもなお笑う男に、いっそ吐き気がした。
目が見えないから覚えた、愛しい男の手。
最後に見たものだから覚えた、憎い男の顔。
二つが表裏一体だったなど、知らなければ幸せだった。
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