Lost girl.

2004年4月20日 交点ゼロ未満
 『雪女』という妖怪がいると教えてくれたのは、母だった。そのもののけは色白の美しくも妖しい女で、妖怪などというよりはもっとずっと人間のように思えると言ったのも、母だった。

 誰かが、キッチンに立って背中を見せている。華奢な背中から、それが女なのだとダニエルにはわかっていた。だが、具体的な顔となると、さっぱり思い当たらなかった。ただ、彼女が自分とともに人生を歩む人だと言うことは、わかっていた。
 それだけわかればじゅうぶんと、特別なにかを考えることもなく、幼いころに母から聞かされた昔話を、始めていた。
 昔々、ある若者が山に猟に行って道に迷い、ひとりの雪女に出会ったこと。彼女を見たことを誰にも話さない条件で、若者が里に帰してもらったこと。ほどなくして嫁をもらった若者が、冬のある夜、うっかりと妻に昔出会った雪女の話をしてしまうこと。妻がそれを聞いて、雪女という己の正体を現し、いずこかへ去ってしまったこと。
 とても怖いと思った、と苦笑混じりにダニエルはぼやいたが、キッチンの女性は返事をしもしなかった。ただ、鍋を洗っていた手を止めて、そのくせ水道は流しっぱなしのまま、しばらくしてからそれは、と振り向いた。
「話しちゃいけないって、お母さんは言わなかった?」
「あ? ――ああ、言われた、ような…」
 奇妙な既視感がダニエルを襲った。これはなんだ。この問答は、まるで――
「ダニエル、約束は破っちゃダメ。ね?」
 昔話の、雪女のような。
 見覚えのない女がするりとダニエルの隣をすり抜けて、ドアを開け放って外へ出てゆく。あわてて追いかけたが、外は雪が降っているきり、女の後ろ姿さえも見当たらなかった。

 雪女のように消えてしまうものだとは、思いたくはなかった。だからそばにおいている。
 そういうのを結局は固執というのかもしれないと、ダニエルはふと思った。

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