息苦しくて胸が詰まる。心臓が痛い。
 その痛みを押し退けようとして、さっきから氷河は何度も胸板に爪を立て、失敗していた――暗い夜の森の中、誰にも気づかれない場所で。
 彼はほどなくしてその虚しい行為をあきらめ、せめて気をまぎらわせようと、上腕から手の甲にかけてほどこした赤い模様を、じっと見つめた。左手の甲には、大きな輪の中に中くらいの輪が、その中に小さな輪が、さらにその中にはもっと小さな輪がいくつもいくつも重ねられていた。氷河はその輪が無限に続くところを想像し、その数を数え始めた。一、二、三、四、……
 太いものから細いものまで、さまざまな種類の筆で描かれた彩色は、新月の夜に、悪いものから身を守るために必要なものだ。血のような染め粉で身を飾らないのは、新月生まれのわずかな一族たちだけ――この夜ばかりは、神官長もその息子も、例外ではいられない。
 細く、音を立てずに息を吐き出しながら、しかたがないだろうと独りごちた。月のない夜は、半分ヒトの血が混じってしまった自分たちにとっては、なによりも恐ろしい。夜の冷気が毛穴から血管に入り込み、心臓に到達してイラクサのトゲのようにゆるやかに――しかし確実に、そして深く――そのもっとも大切な内臓を傷つける。抗う術がないことこそが、氷河にとっては怖かった。
 ……、百二九、百三十、百三一、…
 いつになればこの数が終わるのか、さっぱり見当もつかなかった。見当などつけたくはなかった。数を数えること以外のなにかを考え始めたら、心臓に刺さったイラクサのトゲをリアルにとらえてしまいそうだったので。
 不意に、どこか遠くから静かな鼓の音が聞こえた。とん、とん、と単調なリズムを刻む。それは心臓の鼓動と同じ拍数を打っていた。祭りが始まるのだ。けれども、まだ立ち上がりたくなかった。呼吸がうまくできずに、苦しかったのだ。
 …二百、二百一、二百二、二百三、……
 父もこんな倦怠感を味わったのだろうかと思う。そうなのだろう。だが彼にはいつでもそばに親友がいたはずだ。甘えたがりの父を叱咤する、おそらく自分の周りにいる大人の中では、一番現実主義者の彼が。
 父がそうだったのだから、自分だって待っていてもいいだろうと、氷河はぼんやり考えた。一番の親友を、もう少しここで待っていても。
 鼓の音と心臓の鼓動を聞きながら、輪の数を数え続けて待った。香月がのろのろと彼の目の前に現れた時、その数はちょうど千を数えていた。

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