失ったものたち――それは人だったり物だったりと色々あるのだが――をこの手に取り戻したいと願うわけではない。だが、ふとした拍子に思い出すことはある。あるいはもっとも大切なものはその必要もなく、常に胸の内に住んでいる。

 なにを話していいのかよくわからずに、とっさに腕を伸ばして抱きしめた。ひとときでも力をゆるめたら、このまま腕の中の親友は月へ行ってしまいそうだったから。そんな氷河をからかうように、彼女はくすりと笑ったけれど。
「…笑うことないじゃないか」
 いささか不機嫌になって鼻を鳴らすと、ゴメン、と言いながら彼女はからかいの笑みを微笑にすりかえたようだった。氷河からは、よく見えなかった。それが少し残念だった。
「別にどこにも行かないのに、なんでそんなことするのかと思って。子どもじゃあるまいし」
 たしかにそのとおりだとは思う。子どもじゃあるまいし、馬鹿げた妄想に取り憑かれて彼女がどこかに行ってしまうと恐れるなど、そんな必要はどこにもない。けれどそれでも不安だった。
 それで、約束してもらおうと思った。どこにも行くななどとは言わないから、せめてその消息が知れるところにいてくれと。
「馬鹿だなんてことはわかってるんだけどさ」
 いっそ子どものように泣き出せたら、もっと楽になるのではないかと思った。
「僕の知らないところに行かないで。どこにも行くななんて言わないから」
 彼女は笑わなかったが、愛の告白みたい、とうれしそうに呟いた。

 目が覚めるとまだ部屋は暗く、空は白んでもいなかった。久しぶりにベッドでなど寝たのがいけなかったらしい。心の、割と浅い部分にある引き出しが、勝手に開いてしまったようだった。
 肉体がないために意識は寝ぼけることもできず、覚醒してしまった寂しさが唇を動かした。香月。唯一と頼んだ親友の名を、声も出さずに呼んでどうしてか泣き出しそうになる。
 ベッドに倒れ込んで、シーツに頭までうずまった。今日はもう、起き上がることはできなさそうだった。

 返してほしいとは言わない。けれども、あの日々を再び与えられたなら、もう二度と放すまいと思う程度には、拘泥していた。

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