祭りのための禊ぎは、いつも村の外にある小さな泉で行う。そこは清水がこんこんと湧き出ていて、木々に半ば以上を遮られたかすかな光線が忍び入り、碧にこけむした古木が存外深い水底に沈み、銀色に背びれを光らせる魚が見え隠れするという、なんとも神秘的な場所だった。
 というよりも、実際に神聖な場所だと信じられている。その泉には、ある程度以上の力を持つ者しか、立ち入りを許されていないのだ。
 当然、蒼河は立ち入りを許されている。
彼は今、その普段は束ねている長い長い銀髪を下ろし、肩まで冷えた清水に浸かっていた。今夜は望月の祭りだった。

「羽水、寒いから早く出たい」
「我慢しろよ。今日の水温はまだ高い方だぞ」
「早く出たい」
「……この、猫かぶりめ」

 近しい者にはわがままばかりを言う、ひどく強大な力を持つ親友に、羽水は舌打ちをした。しかしそのくせどこかで、彼が甘えてくることをまんざらでもなく思っている自分がいる。幼いころからのコンプレックスは、どうにも根深い。
 寒い寒いと文句を垂れる親友、蒼河のために、羽水は傍らに置いてあった杖を手にした。さくりと下草を踏んで泉の縁に近付くと、そのまま水面に足を下ろす。
 水音は、上がらなかった。
 羽水は平然とした顔で、杖を振り上げることもなく、どころか一言としてなにかを呟くこともなく、魔法の力によって泉の上に立っていた。
 蒼河が感嘆の溜息を漏らした。

「相変わらず、すごいな」

 羽水は困ったように眉を寄せると、その表情のまま肩をすくめた。

「お前ほどじゃないよ。始めるぞ、静かにしてろよ」

 そのまま優雅なしぐさで杖を水平に持ち直し、羽水はそっと瞼を下ろした――半分だけ。
 凪いだ力の流れと彼の雰囲気に、蒼河もまた自然と目を閉じた。闇に閉ざされた視界に、かすかに映る羽水の姿、彼の力そのもの。
 羽水は『静謐』なのだと思う。彼は水だ。
時に荒れ狂い、激高することもある。だがその本質は静けさだ。こうして泉の一部になってしまったかのような彼を見ていると、そう思う。
 水面に散らばっていた銀髪を、羽水が起こしたさざ波が濯ぐ。髪の一本一本、肌の毛穴まで、ひんやりと冷たい水が忍び込み、浄める。
 それはひどく居心地のよい時間だった。まるで羊水の中で眠っているかのような。半ば大人になってしまった今では忘れてしまっている、母親の腕に抱かれる心地よさだった。
 意識がバターのようにとろけ、水に混じって沈んだ。

 どのくらい眠っていたのだろう。目覚めると、すでに月が空に昇っていた。
 ぼんやりとした頭で、辺りを見回す。蒼河は泉の岸辺で、身体の上に服をかけられて眠っていたようだった。もっとも、意識を失ったのは泉の中だったような気がするのだが。
 小さな水音がして目をそちらに向けると、今しも羽水が禊ぎをしている最中だった。彼は禊ぎに、誰の手も借りないようだった。
 一族に共通の銀髪が、まるで生き物のように水面に広がる。水の精霊たちが愛おしげに、その髪にくちづけを繰り返していた。羽水は彼らに、誰よりも愛されている男だった。
 そしてまた、彼自身も、精霊たちを愛しているのだろう。彼は月には見向きもしなかった。あれほど自分たち一族が愛し、崇める満月には、まるで気付きもしない。羽水はただただ、水と戯れていた。

「羽水」

 ごく小さく呼んでみると、それでも彼は気付いて振り向いた。

「水と月だったら、どっちを愛してる?」
「決まってる」

 考えることもなく、羽水は即答した。やすらかな微笑みとともに。

「水だ」

 弱いが、頼りなくはない男だった。だから親友にしたわけではない。だが、だから親友でいられたのかもしれない。
 己に与えられたものを精一杯に守り、愛そうとあがく羽水が、蒼河はとても好きだった。

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