Innocent Days.

2003年9月15日
 力が無いということがどういうことなのか、氷河にはよくわからなかった。力は生まれた時から彼の傍にあるもので、すべてのものは少し頼み事をすれば、たやすく願いを叶えてくれた。そうではない自分など、彼には想像もつかなかった。

 いつのことだっただろうか。自分はまだ少年で、ようやく妹が生まれたばかりだったように思う。
 その日は従妹の誕生日で、祭りの日だった。その準備に追われる叔母の手伝いをしようと思い、少し早めに家を出た。
 なんの気紛れを起こしたのだか、よく覚えていない。とにかく自分は村を出て、どうしてか川へ行ったのだ。そうしてそこで、叔父の羽水に会った。
 彼は川の水面を、じっと怖い顔で睨み付けていた。娘の誕生日だと言うのに。
 叔父さんと声をかけると、羽水ははっと顔を上げ、氷河を見つけてぎこちなく微笑んだ。

「なんでもないよ。…行こうか、夕月に怒られるな、あんまり遅いと」

 そう言いながら、羽水は子どもの手を取って歩き出した。
 村から川までは、存外遠い。しかも流れは精錬で、それ故に人間の狩人なども、時折訪れる場所だった。
 運が悪かっただけなのだろう。帰り道、人間の狩人、それも銀狐族の美しい尾や毛皮を狙う、そんな連中に出会ってしまったのは。
 先にそれに気付いたのは氷河の方で、羽水に注意を促すと、彼は眉をひそめてこう言った。

「ここでじっとしてろ。人を呼ぶんじゃないぞ、今日は祭りなんだから、流血沙汰は御法度だ」

 氷河を押し退けて羽水は草藪をかき分け、狩人たちの背後に回り、すっくと立ち上がって彼らに声をかけた。村になんの用がある、と。
 狩人は返答などしなかった。彼らは弓をつがえ、放ち、魔法の言葉を唱え、電撃を呼び出した。
 さっと身を翻し、村と氷河とは反対の方向へ、羽水は走り去った。狩人が一斉に追いかける。
 氷河はそれを、草むらの中で見つめていた。

「氷河、氷河……そこにいるのか?」

 ずいぶんと長い時間が経ってから、疲れたような羽水の声が聞こえて、氷河は立ち上がった。見回すと、少し向こうの方の木の陰に、叔父がうずくまっていた。
叔父さん、と声をかけると、羽水は振り向いて、弱々しく微笑んだ。霧生の跡取り息子に怪我がなくて良かったと、彼はぽつりと呟いた。

「悪いな、夕月を呼んできてほしいんだ。夕月だけだぞ、他には言っちゃダメだ」

 とにかく叔母を呼んでこいと言われて、氷河は村に向かって走り出した。ボロ雑巾のようにぐったりとして、肩から血を流した叔父の姿が、目の奥の方でぐるぐると回っていた。
 何故彼は、あんなにも怪我をしているのだろう。たった一言その辺にいる精霊たちに、守ってほしいと頼めばいいだけなのに。
 夕月に事の次第を伝えると、彼女は血相を変えて家を飛び出し、一分後にはすでに羽水の元にいた。

「馬鹿か、お前は!」
「その言いぐさはないだろ、仮にも霧生の跡取りを守ったんだぞ、俺は!」

 遅れて氷河がその場に辿り着いた時には、そこでは盛大に夫婦喧嘩が繰り広げられていた。

「それでお前が死んだら、どうするつもりだったんだ? 無責任、鈍感、……馬鹿野郎」

 唐突に夕月の声が小さくなって、しばらくその場はしんとなった。
 顔を出すわけにもいかず、かといって様子のわからない氷河は、一体二人はどうしたのかと、子どもながらにやきもきした。

「お前は水がなければ能無しなんだぞ、わかってるのか…?」

 震えた小さな夕月の声が聞こえて、氷河は唐突に理解した。
 叔父は精霊に頼まなかったのではない。頼めなかったのだ。彼にはその力がなかった。

 力を持つが故の無知とその残酷さを、氷河はその日知った。

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