兄がとても怖い顔をして、水面を睨み付けていることが、よくあった。
それは大抵親友とどこかに出かけた後だったり、彼と政について話をした後だったり、あるいは村の若者たちが参加する、狩りや何かの祭りの後だったりした。
 一度だけ、問うたことがある。そんな怖い顔をして、一体何があったのかと。

「何も。……何もなかったよ、氷呼。少なくとも俺にはね」

 そんな時は、兄は真夜中を過ぎるまで、家に戻っては来なかった。

 兄には親友がいて、その人は九つの尾と果てないほどの力を持つ、類い希なほどに月に愛された人だった。霧生本家の、跡取り息子。兄や自分の一家では、逆立ちしても敵わないほどの上位一族だった。
 それでもその人はいい人で、ちっとも偉ぶらず、誰にでも親切だった。少し自信家で、いつでも快活、ユーモアもある素敵な青年。
 恋をしたのはいつだったか、もう覚えていない。

 彼はまだ少年のころから、よく家に遊びに来ていた。兄と仲が良かったのだ。
 彼らは同じ年の、同じ月の、同じ満月の日に生まれた。双子のようにこの世に生を受けて、寸分違わぬ月光を受けた、半ば兄弟のようなものだった。
けれども二人はまた、どこまでも異質でもあった。一方は扱い切れぬほどの力を持ち、一方は子どもほどの力しか持たなかった。そして兄は、後者だった。
 兄は親友を家族と同じように愛していたのだと思う。そしてだからこそ、憎んでもいた。どうあがいても、兄には手の届かない場所にいる青年だったのだ、彼は。

 だからだろうか、彼と互いに恋をして、睦言を交わし、夜を過ごし、結婚を決めた。そのことを兄に告げると、すでに家を継いでいた兄は、ぽつりと呟いたのだ。やめておけ、と。

「アイツの家とじゃ、釣り合わない」

 日頃から身分というものをまったく意識していない兄が相手だっただけに、その言葉はとても意外だった。
 けれども同時に、やはりと納得できる部分もあった。
 兄にはいつでも、コンプレックスだったのだ。釣り合わない家柄が、釣り合わない力が、……親友に並び立てないことが。

「俺が付き合いをしなきゃいけなくなるからじゃない。九尾だとか八尾だとかがごろごろしてる場所に嫁に行って、苦労するのはお前だ、氷呼」

 そしてそうなった時、自分はお前を守ってやれないと、自嘲気味に兄は言った。水のない魚は、哀れ以外の何物でもなかった。

「蒼河を信頼してる。でも俺は……今まで以上に見せつけられるのか? 俺が守れない妹を、アイツがまるで息をするみたいに簡単に守るところを?」

 吐き出すように嘆いて、兄は立ち上がった。
 雨が降り出していて、川が増水していた。その様子を見てくると、兄は力無く、玄関脇に立てかけてあった杖を手に取り、家を出た。

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